研究報告

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 縄文土器文様解読関係 

中期縄文土器の文様構造
清瀬市域出土土器の文様解読─


未刊行 2013年9月校了
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・清瀬市域における中期縄文土器の文様構造解明の最終報告版。

 記号学・言語学・社会学・心理学の視点を導入して文様構造を解明。縄文人の空間概念・時間概念の成立過程とそのあり方をとらえた研究報告。


縄文中期の土器文様解読
─勝坂Ⅱ式~加曽利EⅣ式─

未刊行 『掘り出された聖文』 抜粋
2005年3月校了

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 文様解読1

  文様解読2

  文様解読3
・東京都清瀬市野塩地域に所在する野塩外山遺跡ならびに野塩前原遺跡群出土の土器群を対象とした、縄文時代中期勝坂式後半から加曽利E式期にわたる土器文様の解読。

 発掘調査時点の全記録を収録した『掘り出された聖文』(未刊行)の最終段階としておこなった、文様解読にかかわる論考部分を抜粋。
 4500年前以降、500年間にわたり、空堀川流域の1㎞四方に満たぬ狭いエリアで出土した土器群。その同一集団が数世代にわたり作りつづけたとも思えるほどの土器群を研究対象とすることで、途切れない鮮明な文様の系統変化を把握することができた。
 一つの土器面に、モチーフに変化をつけて分割して画面展開する文様。そこにはモチーフの生成から確定、ないしは終息へ至るような表現も用いられている。土器文様は、文様の描出意識をとどめた、いわば意識の化石。文様構造の多角的分析により、縄文世界の意識を探求した書き下ろしの研究報告。
古代関係

『日本書紀』編年再考
『日本書紀』 修正年紀─

未刊行 2012年12月校了
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 本文

  本表

・『日本書紀』の年代観に、編纂当時にさかのぼる根本的な誤認の生じていたことが判明。太子(ひつぎのみこ)の意味を問い直し、立太子を皇位継承時点とする論理により『日本書紀』の真の年代観を追及。

 『日本書紀』編纂者の誤認追求より記事年を糺し、歴代天皇の皇位期間、ならびに仏教公伝の「戊午」干支年、允恭天皇即位前の空位期間、神功皇后の摂政期間、武内宿禰の生存期間等々、『日本書紀』の記述にかかわる真なる年代が導き出された。古墳の年代、ならびに古代の考古学的な遺構・遺物の実年代での照合を可能にする編年を提示。

『日本書紀』
編纂誤認修正年表

未刊行 2013年5月25日校了
PDF形式
・『日本書紀』における、編年観の矛盾を解き明かすための一連の作業工程の完結編。上欄の論考から導き出された、書紀編纂段階の皇位年の誤認位置を明示し、欽明紀以前の時系列を論理的に修正した年表。

 作業趣旨…『日本書紀』の編纂段階にあっては、膨大な伝承資料が用いられている。それらは、国内にとどまらず、任那・百済・新羅など国外にもわたり、またそれら資料の性格も、筆記による記録のほか、語部や民間伝承など口承によるものも数多く取り入れられている。書紀編纂者は、編纂当時の皇位継承の観念を絶対的基準とし、これら雑多な伝承記録を整理統合して年次毎に事跡を配列すると云う、途方もない事業に取り掛かっている。書紀の編年観に構造的な矛盾があるとすれば、その整理統合の段階の観念にこそ問題が生じていることになる。
 そこで注視したのは、伝承という世界に当然起こり得る誤認が、事跡を伝える年号記憶の取り扱い上で起き、それが書紀編纂者の編年観の誤認と重層し、複雑に絡み合っているのではないかという想定。後者は編纂者の観念上の誤認を見い出せば一律に修正箇所を判読できる可能性があるが、前者に関しては、皇位年・年齢年に加え、先代からの皇統化した延長皇位年、あるいは延長した年齢年、さらにはある事跡からの経過年など考えられ、そうであれば個別の事情が絡むために一律には解決できない。つまり、後者に関しては一つひとつの事例観察が欠かせぬことになる。
 そうしたことで、これら作業には、いわば書紀編纂者の一員に列するかのような意識を醸成し、書紀編纂段階に立ち戻る観察法が必要となった。そのため、先入観を排除するために現今の研究成果を一切遮断し、そのことについては今後の研究にゆだねることとした。
 「書紀編纂者らは、どこで、どのように誤認したか」
 伝承上起こり得る普遍的な誤認の情景を多角的に想定し、皇位年を糺すことで、伝承の根にある真実を読み取ることができるか。それが一連の作業の最終テーマである。

信濃善光寺成立の実像


出典 未刊行 『天保八年伊勢西国道中記覚』 抜粋
2010年3月校了
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・善光寺成立にかかわる秦巨勢大夫の正体を追い、そこから聖徳太子と善光寺の関係を解明、また本田善光の記憶の真実を求め、善光寺成立の歴史事実を時代背景から究明。

 清瀬に遺された江戸時代の「天保八年伊勢西国道中名所覚」なる古文書から、全工程の当時の情景を復元(『天保八年伊勢西国道中名所覚』未刊行)。 その作業過程で必要となった、信濃善光寺成立の歴史背景を追求した論考部分を抜粋。

野塩遺跡群の歴史的位置付け
悲田処推定地としての野塩西原遺跡再考


出典 『清瀬市野塩地域遺跡群発掘調査報告書』 抜粋
2015年9月30日発行
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・悲田処候補地である野塩西原遺跡周辺の発掘調査の蓄積より判明してきた、柳瀬川東部流域の諸相。

 発掘調査の成果、遺跡の分布景観、文献史からみた武蔵国の動向。異なる視点を総合することで見えてきた、柳瀬川南岸ルートの存在。そこに所在地の確定されていない淳和院勅使田との関係が問われ、悲田処と皇后正子内親王、さらには慈覚大師円仁との関係も映し出されてきている。 
その他 

下宿内山遺跡出土の砥石

出典 『清瀬市郷土博物館年報 平成元年度』 所収
1990年3月発行
PDF形式
 
・21万㎡に及ぶ下宿内山遺跡(東京都清瀬市)から出土した砥石の論考。

 砥石出土遺構の分析から砥石制作時の加工痕による形態を判別(砥石の種類)。文献資料から、砥石の産地、ならびに時代背景、流通経路を追求(砥石の歴史)。明治前半期の全国砥石産地を掲載。新たに群馬県甘楽郡南牧村砥沢の写真資料を追加。 
発掘調査報告書関係

野塩前原遺跡群発掘調査報告書

遺跡発掘調査報告書PDF版
2003年11月発行
PDF形式

 本文


 図版

・東京都清瀬市の野塩地区に所在する縄文中期集落遺跡発掘調査報告書のPDF版。
 遺跡名…野塩前原遺跡、野塩前原東遺跡(一次から三次)   
 時期…縄文時代中期(勝坂式期後半~加曾利E式期末)
 内容…隣接する4地点における集落域と墓域の調査記録。
     墓域は加曾利EⅢ式期に発生し、住居跡が併存。
     埋葬形態は伏甕・甕棺。

 

野塩地域遺跡群発掘調査報告書

遺跡発掘調査報告書PDF版
20153年9月発行

PDF形式

 本文

 図版



 
・東京都清瀬市の野塩地区に所在する古代集落発掘調査報告書のPDF版。
 遺跡名…野塩第4~9地点遺跡   
 時期…平安時代
 内容…野塩第4地点遺跡…平安時代の2軒の住居跡。鉄製馬具出土。
    野塩第5地点遺跡…平安時代の拡張のみられる1軒の住居跡。
    野塩第6地点遺跡…平安時代の3期の拡張のみられる、鍛冶跡と染織
             工房の痕跡をとどめる1軒の住居跡。
    野塩第7地点遺跡…奈良・平安時代の製糸工房を含む4軒の住居跡。
    野塩第8地点遺跡…縄文前期十三菩提式期の土坑と縄文中期の2軒の
             住居跡。
             奈良・平安時代の3棟の掘立柱建物跡と、2軒の
             住居跡。建て替えのなされた2棟の掘立柱建物
             跡には、柱穴の配置と痕跡から転用材の存在を検証。
    野塩第9地点遺跡…縄文時代中期の1基の土壙墓。
             平安時代の吹き放ちの掘立柱建物跡と灰小屋とし
             て再利用された痕跡をとどめる1軒の住居跡。
             なお、本地点は悲田処候補地の一つである野塩
             西原遺跡の東に隣接する区域。
              
 
   

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