万葉集解読への発想の軌跡

学芸員 内田祐治




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万葉集解読への予備的段階NEW

「異(け)の音幻論」
 『音幻論』、これは文豪幸田露伴によるもので、戦後間もない昭和22年に出版された書名である。
 わたしがこの奇妙な題名の研究を知ったのは、縄文土器の文様解読の過程で、そこに現れてきた空間認識にかかわる概念を、古語という日本の古層に流れる意識を掘り起こし、そこからさかのぼり検証しようと試みていたときであった。
 言葉の発音に秘められた意識。
 その単音を深く探ることにより、感嘆、鳴き声や音を模した擬音などから興された物や状態、外来の音、省略された音など、さまざまな姿が映し出され、あるものは古形の存在から祖形をたどることもできる
。それらには、言葉に表すための膨大なイマージュが 累積されていて、それを紐解くことで、古き人々が物や現象をどうとらえていたかという認識を明らかにすることができる。
 万葉歌の研究は実際にそうしたものであるが、そこからより古い時代の認識をイマージュとして引き出すことができるように、わたしには思えた。多くの研究者は、発音の構造から日本語の源流の研究へ向かったなかで、幸田露伴氏と白川静氏はその意味を掘り下げ、古層の認識形態を体系化しようと試みた数少ない研究者だと。
 縄文の土器文様の意味世界、それはそうした視点から狭き門を探し求めなければ入り込むことはできない。人が物や現象を認識する世界は、イマージュの卓越する世界であるから、長い歴史の上にすでに出来上がった現代的な認識法は何の役にも立たぬように思える。現代社会とは別な何かがあることを受け入れ、でき得る限り古層の意識に添わせつつ、注意深くその門を探し出さねばならない。
 そうした意識が、秋の訪れとともに強まってきたから、数ヶ月中断していた音幻の世界を夜中にまた彷徨いだした。
 スポーツと同じで、数ヶ月も離れていると、極端に感覚が鈍る。しかし、何年もつづけてきたことであるから、そこそこ元の状態へもどるのに一週間ほどで済んだ。
 数ヶ月前、土器文様と同じく、古語のそれぞれの単音に、認識にかかわる心像と概念の関係が潜んでいるらしいことをとらえていた。一方は便宜的に「語源形」、他方はそのままに「概念形」などとして整理しはじめているが、ここ2日ばかりはkeの意味の追求に入っている。
 古語の用例には漢字を用いているから、毛、気、占、異、消、日、木、笥、食、褻、来。それらには古代の特殊仮名遣があり甲類と乙類に分けられが、じつはこの単音が表記上は異なる数種の漢字に置き換えられ、それぞれに漢字としての意味が求められていることで「ke」という同音でありながら個々の漢字ごとに意味巾が構築されていることになる。発音が同じなのに意味が異なる状況。「hashi」が橋、端、箸という具合に。それが、「か」「き」「く」など単音の段階から起きているである。漢字がなければ、意味を分けるためには当然他の発音を付けて意味を広げるはずなのに、漢字を用いることで、同一の単音の意味が微妙な複雑さをもって広げられているのである。そのことから日本語の豊かな表現が、表記としての漢字が導入され、それに支えられてきたことが見通されてくる(Web雑記No.17A参照)
 さて「ke」だが、古形に「カ」をもつものも多く、また呉音など外来種がある場にはそれらを別々にまとめ意味群を作っておき、残りを調べていく。
 こうしていくと、段々漢字に求められていくいろいろなイマージュが見えてくる。「毛」など、より強く直接に物や状態を表す語もあれば、「異」のように抽象的な意味を従える語のあることが気になってくるのだが、とくに「異」は通常と違うこと、という意味をもつことが注意される。つまり、その意味に比較の意識が働いているのであり、通常がどのようなものかはさておき、そこに認識上の基準が作られているのである。これは明らかに概念化されたイマージュをもつ語として理解されてくる。
 「か()」「き()」「く()」「け()」「こ(此・処)」の意味の基底に、聖処を指し示し、遠くから近くへ現れるもの、内なる領域から外へ現れ出でるものという、強いイマージュが流れていることを白川静氏が指摘しているが、「け()」もそのイマージュによって包まれ、通常とは違う現れ方で認識されるものの概念によって語を成立させていることが映し出されてくる。この抽象的ではあるが、他へ通有される意味にこそ、言葉が激しく分化する以前に存在した、より古層に近づく認識のあり方が読みとれてくる。
 したがって、この意味を理解した上で他の言葉を紐解くと、単音を組み合わせた単語の意味が豊かに解されてくることになるのだが、それはその意味の記憶をとどめてあらわされた万葉歌を追うことにより、さらに具体的に入り込んでいくことができる。
 「異」が用いられているものには季節のうつろいを詠んだ歌が多い。その情景描写をたどっていくと、花の色、鳥の鳴き声、馬のいななきなどから季節の変化を感じとっているのであるが、それらが「異」で表されていることからは、生命の根源たる気が遠くの彼の聖なる処から現れ来たり、またそこへ消え去るイマージュのなかでの認識が映し出されてくる。「異」の象形体は三つ指の人格神的な表現で、類似形は心像(認識上の概念に対する心像)を強めて描かれた縄文中期の土器文様にも見いだされる。
 「異(ke)」、このたったひとつの音に概念化された限りない認識が込められている。それは言葉を構成する原初的単位であるからで、その強められた認識は字形のあらわ異形の神霊の姿として表出されていたのかも知れない。
 このごろ、明け方まで間のある寝床の中で、そんな世界を彷徨っている。  
07.9.21より 



まだ誰も知らない万葉集のこと
 ここ何日か、明け方の時間が充実している。そのため、web雑記の執筆から遠ざかることとなり、記事を楽しみにしているであろう南房総の仲間に迷惑を掛けている。
 どうやら、わたしはその仲間の専属ライターのようになってきているから、今回のweb雑記執筆が間延びしている状況をちゃんと話しておかなければならないように思う。本当は、まだ誰にも話したくはないのだが、そのわたしがゾクゾクしはじめている事を今日は話そう。
 
 如何に分からぬ事でも、時間をかけ、小さな反復から大きな反復へ観察を連ねていくと、あるとき突如として事象に連鎖が起ききはじめ、そこから深い理解が生み出されてくる。
 実は12月に入り、数年に一度しかないような、そうした時期へ入っているらしいのである。
 わたしが縄文土器の文様の意味解読へ挑みはじめたのは、もう10年以上も前のこと。その過程で原始の認識に一歩でも近づこうと、漢字の源流に存在する字形に表わされた意味やわが国の古語にとどめられた認識世界を探ってきた。そして、その最終段階が、古語の一音ごとに表わされる究極ともいえるイマージュの抽出で、その体系に現れた根源的な認識構造から、すでに行っている土器文様をもう一度問い直し、「真」にそこに表わされた野生の思考を傍証していこうという企てである。
 ところが、日課の早朝に行っている岩波の古語辞典の分析作業が2順目を終え、本格的にまとめ上げる3順目へ入ろうとした今月のはじめ、ある訓の読み込まれた万葉集の一首が気になり出した。
 万葉集を調べていたのは、漢字の文字形の分析を終えて古語の分析へ入る間に、手っ取り早く歌の表現から古代人の認識にかかわる発想法を学ぼうと、主に久松潜一氏による『万葉秀歌』をテキストに観察していたのだが、それはもう5年前のことになる。
 それ以前、『古事記』『日本書紀』『今昔物語』『出雲国風土記』『常陸風土記』などのなかに、「夜の鹿猟」「竹製の櫛の聖性」「蛇や泉の聖性」など、縄文時代をイマージュさせる事象の伝承されていることが断片的に抽出されてきていたから、そうした事象収集のような軽い気持ちで『万葉集』へ入り込んだのであるが、実際は途轍もなく興味をそそられるものとなった。
 ところが当時はまだ、現代語訳的な、男女間の掛け合いほどの矮小化された感覚の中だけでしかとらえられてはいなかった。
 そして今月。5年ぶりにその『万葉集』へ戻ってきた。
 どうしたことであろう。そこでは、以前にも触れていたそれぞれの歌が、格段に異なる状態で心象に訴えてくるのである。その違いは、わたしの内なる精神作用の変化。つまり歌意から連想されるものの豊富さとなって現れ出してきたのである。
 わたしはその5年間に白川静氏の『字訓』の分析を一応終え、岩波古語辞典と対比する中から、一音に秘められた原初の意味を追えるほどになってきていたから、以前とは比べものにならぬほどの観察眼が高められてきていたらしい。それらを通して学んできた事象が、伊藤博校注の角川の『万葉集』のなかで、歌意の奥に当然として表わされていた古代の精神を輝かせはじめたのである。
 わたしは万葉集の専門家ではない。したがって、いろいろと現代の万葉集の解釈論を調べてみた。ところがどうもわたしの感覚を満足させる研究者が現れない。それどころか、それほどに現代的な感覚、言い換えれば個人主義的な男女の問題として、現代社会に引き寄せた感覚で解釈していいのであろうかというものさえある。
 その多くは、万葉集の歌意を現代社会の中で紐解く研究者が多いから、言葉の意味幅を極端に狭めたままに、歌に読み込まれた直接的な眼前の描写解釈を強め、すべてが個人主義を謳歌する現代の男女の、切なくも一途な恋愛感情を吐露する歌に見紛うほどの解釈を焼き付けている。
 わたしにはどうも納得がいかない。
 過去の研究者は、それほどではないとしても、明確に神との関係を表わしたことが読み取れる歌においても、その歌人個人の趣向として捉える場合が多い。勿論、歌の作行きを競ってもいるのであるからそれは当然なのだが、だがはたして『万葉集』編纂への発意をそうした状況に置いてよいものであろうか。
 わたしは幾つかの歌の中に、人称、また男女の性別等、人が明示されていないにもかかわらず、男女の仲の比喩として考えることで恋愛歌として解釈されている歌をみている。これらは解釈する方が、歌の性格を男女間の掛け合いと認識し、その先入観の下に男女の直接的な関係へ無理やりに置き換えているように思う。
 こうした研究者は、現代社会という自己の存在する新しい時代から万葉歌を解釈しようとしている。わたしもそこからは出ることは出来ない。しかし、それら研究者と違うのは、観察視点を縄文時代の土器文様、それを意識の表現形態と位置付けた構造分析の成果をもって、逆に古きから見通す視点より興してきているということである。
 そうした精神状態のままに、今月から幾つかの歌を分析しはじめたのであるが、次々と衣にでも包まれていたかのような神霊との関係が、それぞれの歌意から現れてきた。とくに注意されるのは、過去の研究者が「秀歌」などとして選出した歌から落とされた、いわば意味の抽象化した真意を解し難い、あるいは歌としては平板と思える歌に、そうした関係が強く表わされているという皮肉な結果さえ見通されてきた。
 こうした、視点から見渡していけば、現状の認識を超えるさらに壮大な世界が見渡されてくるということなのであるが、中でも、次の二首の歌の存在の意味に気づいたことが、今後の研究の基点になることは確かだ。
 
天皇の御製歌
 25 み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 
   雪は降りける 間なくぞ 
雨は降りける
   その雪の 時なきがごと その雨の
   間なき
がごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し
   その山道を

或る本の歌
 26 み吉野の 耳我の山に 時じくぞ
   雪は降るといふ 間なくぞ 
雨は降るといふ
   その雪の 時じきがごと その雨の
   間なきがごと
 隈もおちず 思ひつつぞ来し
   その山道を

右は句々相換れり。これに因りて重ね載す。
   
 25は、天武天皇が壬申の乱の直前の天智10(671)10月の吉野入りを回想した歌といわれ、26は同じでありながら「いふ」と変化し、25の歌を明らかに伝え聞くものとして知りながら重ねて掲載しているのである。
 なぜ、そのような重複を知りつつも、また一方が伝聞で表わされたものと明瞭に分かるにもかかわらず『万葉集』に掲載しなければならなかったのか。
 このことから途轍もない発想が現れてきたのである。
 『万葉集』は単なる歌集ではない。「室寿(むろほぎ)」と同じく、この歌集の編纂をもって律令の制を為す人々の意識を「言祝ぎ(ことほぎ)」安泰を祈り、神に鎮め奉る祝詞としたのではないかという壮大な想定である。
 それはさらに、一方で「風土記」という地誌を編纂させて土地土地の鎮魂(たましずめ)を行い、他方で「万葉集」をもって人身に害を為すものを鎮め、律令の安泰を祈ろうとする姿を映し出してくる。
 もし、そうであるなら、伝聞形式をことさら掲載した意識に、神の領域に位する天皇が読まれた御歌を語り継ぐ情景がことのほか浮き立ってくるわけで、また一つひとつの歌に、男女の仲ではあっても、そこに宿る魂をもって神との関係を寿ぐ意識の表れていることが読み解かれてくることになる。
 恋する人を想い、瓶を埋め、竹玉をもって待つ娘。そこには現代からでは直接に見通せぬ、人と神が織り成す壮大な世界観が潜んでいると思う。そうした想いが今、確信に近づきつつある。縄文の土器文様から見通してきた、わたしの異常なる精神世界の中で。  
20
07.12.27より

 
 
万葉集解読開始のこと
 前回の夢の分析で、わたしの精神が、すでに驕りのない万葉集解読モードへ入っているらしいことが理解されてきた。そうしたこともあって、今日の午前3時過ぎの寝起きの意識は、万葉集の先頭に上げられている歌意の解読を求めていた。ついにはじまったのである。
 
 角川日本古典文庫の伊藤博校注『万葉集』の上巻を紐解く。すでに枕詞のかかり方から事物に対する古代的連想イマージュを習得しようと590番まで来ているものを引きもどし、1番へ視点を定める。
 
   籠()もよ み籠()持ち 
   掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち
   この岡(をか)
 菜摘(なつ)ます子()
   家告()らせ 名告()らさね
   そらみつ 大和(やまと)の国は
   おしなべて 我れこそ居()
   しきなべて 我れこそ居()
   我れこそば 告()らめ 家をも名をも

 
 この歌は21代雄略天皇の御歌とされている。
 先にも述べたように、わたしは枕詞を先行して調べていたから、何度かこの歌を読み返した後、一番先にそのことを考えてみた。それは
   そらみつ ─ 大和
 この「そらみつ」という「大和」にかかる枕詞の意味は、注では神の霊威の満ち拡がる意、とされているが。古語の単音節にイマージュされる究極の意味を求めてきたわたしには、それは以下のような音節構造に解析される。
   原文…虚見津(虚空見つ、天満つ=そらみつ)
   私見…衣+接尾語ら+霊+津
・「そらみつ」のソ
 「そら」は現代表記に置換すれば「空」であるが、単音節に分解した場合ソは二種ある古代特殊仮名遣いのうちに甲類に属すことから、それには、私見では「袖=ソデ、裾=スソ、(麻=ソ)」と同根とする神衣(かむみそ)のイマージュが源泉に潜んでいることが想定されてきている。
・「そらみつ」のラ
 ラは接尾語のラで、状態を表わす語とすれば、空=ソラは神衣に包まれた状態をイマージュするものとなる。つまり翡翠色をしたためた神の霊衣に包まれた世界。
・「そらみつ」のミ
 ミは古代特殊仮名遣いの
 うちに甲類。そのミには「霊=ミ」が潜む。
・「そらみつ」のツ
 ツは難解で、もっとも悩まされたものであったが、それには「津=ツ」の意味が根底に構築されていることを導き出した。舟のとまる港の意であるが、そこには神聖なる領域のイマージュが存在していて、舟はその領域を留連(ツたよふ)のである。ちなみにこうした解釈からすると「塚=ツか」は「津彼」と解され「津…神聖な領域性、彼…遠いものを指し示す」から俗界とは隔てられた神聖な遠き領域という意味が浮かび上がってくる。したがって私見では、ツには一つの神聖なる領域単位がイマージュされていて、その間を移動、あるいは繋ぎ止める意味も存在しているように推察されている。
 以上の単音節の意味を再構築すると、大和にかかる「そらみつ」という枕詞から、神の霊衣に包まれる神聖な領域という意味を探り出すことが出来る。
 さて、その大和の国において、読み手の天皇が
   籠()もよ み籠()持ち 
   掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち
   この岡(をか)
菜摘(なつ)ます子()
と、カゴとヘラ持ち、菜を摘む娘子を目にしているのである。
 この情景は草摘みにほかならない。草摘みは魂振りとして、離れている思う人のためになす予祝的行為で、たぶんに儀礼的な色彩を帯びる。籠、掘串をそれぞれ連唱するが
   籠→美籠 掘串→美掘串
 と、後の句に「美」を冠して変化させている。これを通常は、それにつづく感動の助詞モヨとともに、美しさの強調のように解するが、そのミは、単音節の私見では先の「そらみつ」のミに同じく古代特殊仮名遣いの甲類で「霊」の意が構築されている。美しさは神霊の表わすところによって感得されるという概念が潜まれているようで、そのことからすると、草摘みの娘子を見つつある中で、籠と掘串にその神霊の宿りを深く感じ出すとすれば、それをもつ娘子自体に聖性を感じていることがうかがわれてくる。とすれば
   家告()らせ 名告()らさね
 家が何処にあるのか、名を言ってください、という意味は、娘子を通し、そこに現れた神霊の所在を問うていることになる。だから、それにつづいて、天皇自らが直に所在を明かし、言問いしていることになる。つまり天皇、その存在自体が霊体であるからこそ、この場に同格の情景の現れていることが想像されてくる。
   大和(やまと)の国は おしなべて 
   我れこそ居()れ しきなべて 
   我れこそ居()れ 我れこそば 
   告()らめ 家をも名をも

 大和の国はすべて私が治めている。広くゆきわたって私が治めている。私こそ家をも名のるから、娘子も家をも名をも言って下さい。(久松潜一『万葉秀歌()』講談社学術文庫)
 菜摘む娘子と天皇、その上記のような関係からは、両者の間に神霊同士の鏡に映し出されたような状態がわたしにはイマージュされてくる。
 それを傍証するのは名の告知である。
 天皇自らがわたしの家や名を先に告げようとしているのであるが、縄文の土器文様から興してきたわたしの野性の思考の認識にあっては、これは重大な意味をもつ。その世界観においては、名は生体と同一とみなされ、名を邪霊に知られることは死をも意味する。つまり、名は軽々しく他者へ告げられるものとは考えていないわけで、そうしたことからすると、天皇自らが名を告知しようという相手は並大抵のものではないということになる。しかも、すでに大和(やまと)の国を治めるものであることを明かしているのである。
 このことから菜を摘む娘子に天皇と同格の霊性の存在していることが想定できるわけで、さらに大和の国を治めるものが、その所在と名を尋ねなければならぬものとすれば、天皇がその地へ降臨する以前から居たものということになる。勿論他からの移入者ということも考えられるが、娘子の菜摘む情景からは、地霊との強い結びつきが想定されてくるので、新たな移入者と見ることはためらわれる。
 菜を摘む娘子を象徴として、地霊との交わりを歌い籠めるとすれば、まさに相手が天皇の問いかけに答えることにより、その霊性を認められたことになる。その意味の広がりは「万葉歌」の歌をもって寿(ことほ)ぐ、という前々回のweb雑記にしたためた性格を想定すれば、先頭に置かれた、この歌のもつ壮大な意味もまた、見通されてくることになる。
 これが、縄文の土器文様から追ってきた思考による、わたしの解釈である。今年のweb雑記は、この一文にて綴じる。新しき年、今はそれが待ち遠しい。   07.12.30より

 
万葉集第三歌の謎
 暮れから泊りがけで親戚への挨拶回りをしていたが、わたしの意識は完全に万葉集解読モードに入っていたから、荷物を詰めた背負いのバックに久松潜一氏の『万葉秀歌()』講談社学術文庫と伊藤博校注『万葉集上巻』角川日本古典文庫、それに『岩波古語辞典』をしのばせていたわけで、その間万葉集第三歌のことが頭から離れることはなかった。
 そのように、この歌意の広がりにミステリアスな感情を抱くほどだから、何度も、何度も第三歌を原文で読み返していたのだが、本に掲載されている歌意や解説、注など、今までに解釈されている事項と対比すると、なにかギクシャクする違和感があり、それが一層この歌をヴェールに包み込んでいる。
 ここには、相当な解読されていない意味の広がり、それは現代的な感覚が遮蔽して意味解釈を断続させることで、とらえ切れない千五百年以上前の未知なる意識世界が潜んでいることを予測させ、縄文の土器文様から興されたわたしの意識はそこから離れられなくなっていたのである。
 イマージュの積み重ね、そこから全貌が見通されてきたのが3日の明け方、検証にはいりほぼ私見として表わせるようになったのが4日の明け方。だから、うまく伝えられるかは分からないが、自分の気持ちを整理するためにも、ここで第三歌の分析を書き表してみようと思い立った。

3番
 天皇宇智野(うちの)に遊猟(みかり)したまふ時、
 中皇命(なかつすめらみこと)の間人連老(はしひ
 とのむらじおゆ)をして献(たてまつ)らしめたま
 ふ歌

 八隅(やすみ)しし わが大君の 朝(あした)には
 とり撫
()でたまひ 夕(ゆうべ)には 
 い縁
()り立たしし み執()らしの 
 梓
(あづさ)の弓の かな弭(はず)の 音すなり  朝猟(かり)に 今立たすらし 夕猟(かり)に 
 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 
 かな弭
(はず)の 音すなり  

 歌意
 欽明天皇が宇智の野でみ狩をされたとき、間人皇后が間人連老に献らしめた歌
 四方を治めていられるわが天皇が朝にはとって愛撫され、夕には寄せかけられていた、終始お持ちになる梓の弓の金弭にあたる音がきこえてくるよ。それによると、朝夕のみ狩に今御出発になるところであろう、終始お持ちになっている梓の弓の長い弭の音がしているよ。久松潜一『万葉秀歌()』講談社学術文庫より

 以上が久松潜一氏の書き下しと解釈だが、それを基本とし、私見を述べていくことにする。
八隅(やすみ)しし…四方を治めていられる
 四方を表わす「八隅」。「八」は古くからの聖数で、それをもって表わすものには、おのずから空間に関する概念の潜んでいることが見通されてくる。
 縄文の世界観から追ってきたわたしは、次のようなことが重視されている。それは、空間認識に関しては、平面観以前に上下方向の天─地からなる側面観が先行しているということである。つまり、川や山などがおりなす複雑な地形をもつわが国では、それらがたやすく方向基準となるために平面観が希薄となり、むしろ垂直方向へ多大な関心が向けられ、天─地に左─右観を導入した空間の概念化が先行しているらしいのである。
 わが国の場合、東西南北という方位による平面観は、大陸からの『周礼』等の導入以前には希薄であったことが、わたしには掌握されてきている。
 その、縄文という、土器文様解読の研究過程で行ってきた古語に表わされる空間認識からすると、「八隅」には下のような概念の構図が引けることになる。


 土器文様の共有イマージュ

 四方円は人の入り込めぬ神霊域=隠(なばり)。古き人々の意識には、人界は、その神霊域に囲まれた下方左右の神霊域をつなぐわずかな「地()」に求められている。
 空は、空≒反りとして上方へ狭まる空間(右図上方黒塗り表記の空間)としてイマージュされ、そこには左右に二分された領域の狭まりを意識して、地の下にも谷や、断崖で実見される左右に分割する底のイマージュが存在。
 左右の彼方。そこにも狭まる空間を意識し、せりあがり山をなす大地と垂れ下がる天の領域という、上下に二分された領域の狭まりを意識している。
 土器文様、そして古語から導き出された古層の空間認識を透し見たとき、「八隅」は、まさに上─下観へ左─右観を導入した神霊域と人域を映し出す中に、神霊域へ近づく、人が認識できる空間の狭まりとして四方向を二分した状態(上図右、中央八分の黒三角部分)の認識が導き出されてくる。八が聖数として、無限数としても感得できる充足した状態がそこに出現していることになる。
 そこで違和感を感じるのは訳文の
   四方を治めていられるわが天皇が
という太字部分の解釈である。
 古事記、日本書紀から明らかなように、天皇は神の系統を継ぐものではあっても、一神教の絶対主のような性格は有していない。それは第一歌で解読したように(web雑記N0117)、地霊に対して、所在と名を問うていることが明かしているように、天皇の系譜は現人神(あらひとがみ)として、人に与えられた領域という神々の中での住み分けをもつわけであるから、「四方を治めていられる」では他の神々に対してあまりに強すぎる表現ではないかと思えるのである。
 これ以上は通常の解釈では入り込めぬから、「八隅しし」を単音節に分解する。
 ここで少し単音節の解説をしておく。単音節、例えば「あ─a」「か─ka」「さ─sa
のように、語を構成する要素とみなされる単音節にも、意味の、いわば大樹の根となるような根源的な意味が構築されているという考え方で、「赤」であれば「a+ka」、それぞれの単音節の意味が二色会わされ、漢字の会意表現のような構造で意味の拡張をはかり来ていることが想定される。つまり大局として、動物の発生音的な「あ」「う」など母音単音節の感動詞を原初とし、他の単音節を拡張し、さらに二音の会意的な合成を基本として語彙を増殖させ、次なる語彙同士の連結をもって爆発的な語彙の創出が為されてきたように思えるのである。
 となれば、その指向に、根源となる抽象的で広大な意味幅をもつものから、より具体的で限定された意味幅への流れが構築されているわけで、基底に原初となる単音節に表わされていた意味が宿っていることを無視することは出来なくなる。
 したがって、そうした観点から言葉の構成を見通してみようというのがわたしの考える単音節法なのである。勿論、漠然とではあるが、こうした方法は研究者間では無意味に思われている節がある。なぜかといえば、意味内容が広大なイマージュの世界へ入り込み、抽象性が増して追えなくなるからで、多くの研究者は現代という社会の中で、具体性を持つものとして解していかなければという錯覚に陥っているからのように思う。
 ところが、入り込めば入り込むほど、掘り下げれば掘り下げるほどに意味が抽象化し、互いの意味がリンクし出してくる状態こそが、言葉の根源に近づく野生の思考世界であることを認識しなければならない。まさにそれはイマージュの世界観なのであるから。わたしは、そのことを万葉集の世界を中心に置き、現代と対極にある縄文土器に表わされた文様世界という、逆方向からの追求から知ったのである。したがって、いままで引き出してきた単音節法をもちいて、一語から興す意味が万葉集の解読に通じなければ、意識の表現において、等質と位置づけた土器の文様要素の解読、その『掘り出された聖文』で明かした研究成果もまた、すべてわたしの作り出した幻影として消え去ることになる。
 単音節法によって抽出した体系を示すには、まだ数年かかる。しかし、これを読む方々は、その意味を少しでも汲み取り、この万葉集第三歌の意味を一緒に探って欲しい。
 前説が長くなったが、これまで単音節法に触れていなかったのでご容赦願いたい。以下、歌意の分析に入る。
・「八隅しし」のヤ
 ヤに対して、もっともつよく作用している造字的イマージュは「八・矢()」である。もう感の良い人はお分かりであろう。「八・矢」はすでに先の概念図を使えばたやすく説明できる。
 補足すると、概念は、複数の事例から変化項を離脱させ、もっとも強く共有されるイマージュで構成されるものであるから、抽象的なものとなる。その利点は構図的思考を呼び起こすから、数千年の時を隔てても、図形的な解釈をともない、われわれ現代人の思考へもっとも近しい状態を作り出していることになる。
 「八」の語源に空間の狭まる形状がイマージュされているとすれば、「矢」の形状はその象徴となりえる姿を顕現させていることになる。その先端の尖る「A」形の姿が投影されるものには、例えば木、山など、神霊の存在が意識されているわけだが、それは平地に忽然と姿を現している大和盆地の三輪山をはじめ、北の耳成(みみなし)山、東の香具山、西の畝傍(うねび)山、それらの形状的なイマージュをも包み、上がって下る峠、嶺、谷、断崖などさまざまな切り立つ地形をも呼び起こしている。なお、その縄文的表現は先に示した図の下段である。
・「八隅しし」のスとミ
 スは「巣」。流動的なものが定着するイマージュが底流にある。ミは古代特殊仮名遣いの甲類であるから、そこに「霊」の意が興されており、そのことから「隅」には人の領域の狭まるところに感得される神霊の住まう処がイマージュされてくる。
 そうして考えてくると、「八隅」には山、峠、嶺、谷、断崖などによって感得される神霊の住まう聖域へ向けた意識が投影されてくることになる。
・「八隅しし」のシシ
 シシは自然現象を五感で感じ取る「為()」、それは「知る」というイマージュへ連鎖するが、それに退いて控えて感情を表わすとされる基本助動詞の「し」を従えるとすれば、「治めていられる」というでは違和感が生じてくることになる。
   神霊域へ入り込む八隅の領域をお知りになるわが天皇が
というほどのことになり、神霊域を犯すことの無きよう、聖地へ注意を向ける意識が間接的に読み取れてくることになる。
 次の歌意。

  朝(あした)には とり撫()でたまひ 
  夕(ゆうべ)には い縁()り立たしし 

  み執らしの 梓の弓の かな弭の  音すなり 
  朝
(ゆう)(かり)に 今立たすらし
 
 夕(ゆう)(かり)に 今立たすらし

  み執らしの 梓の弓の かな弭の  音すなり

 ここではを詠み込み、二句対の表現法をとるが、ここに深い謎が秘められている。同じ漢字を用いながら、読みを異にしているのである。

   あした() ─ ゆうべ()
   あ さ() ─ ゆ う()

 時の表わし方を図化すると、以下のようになる。

 ユフベ→ヨヒ→ヨナカ→アカツキ→アシタ
  ||                ||
 ユ フ  ←  ヒ ル  ←  ア サ

 ユフベ=ユフ、アシタ=アサはそれぞれに同じ時間帯を表わす。しかし、これらの言葉には、基点となる意識の発動に違いが生じており、上段は夜から、下段は昼から興す感覚を有しているのである。この微妙な表現を使い分ける意識のあり方にこそ、比類なき野生の思考を保ちつづけてきたわが国の特異性が映し出されているようにも思えてくるのである。
 となると、そこには闇─明に象徴される無意識─意識のような精神世界へ向けられる関係の潜んでいることが想定されてくる。だからなのであるが、本来ならば具体的な事物である「梓の弓」が先頭へ置かれなければ意味が明確にならぬのに、それが文節を隔てた下の句で明らかにされるという不可思議な構造をとっているのである。
 ちなみに言い換えた姿をお見せしよう。

 梓の弓 
(あした)には とり撫()でたまひ
 夕
(ゆうべ)には い縁()り立たしし 
 み執らしの かな弭の 音すなり


 意味が執りやすくなること必定である。これは技巧ではない。「朝・夕」には、「梓弓」を超える、さらに具体的で大きな意味が存在していると解さねばならぬことになる。
 それを念頭におき、さらに先へ進む。情景は闇の訪れる夜を通す、そのはじまりと終わり。そしてそこに表わされる、「とり撫()でたまひ」と「い縁()り立たしし」。
・「とり撫()でたまひ」「い縁()り立たしし」
 これらは、後に明らかにされる「梓弓」のことであるから通常の解釈では
  朝にはとって愛撫され、夕には寄せかけられて
  いた

ということなる。
 「撫で」は愛撫のようには思えない。
 「梓弓(あづさゆみ)」は、本来梓巫女(あづさみこ)の用いる呪術具で、死霊・生霊を呼び出し、口寄せする場で弾じられるもの。延喜式斎宮寮の「斎宮の忌詞」では「撫(なづ)」と称するのは「打つ」ことにほかならない。
 つまり天皇自らが、陽の登る、まだ暗がりの残る中で梓弓をとられ、弦を弾じられる、というのであるから、闇を通してきた陽の蘇生にかかわる儀礼的な色彩を帯びる情景が映し出されてくる。
 そのことを確実なものと感じさせるのが、次に詠まれている、回想的な夜のはじめの「い縁()り立たしし」。
 ここで多少気になるのが、その回想的に構成している点で、二句対の歌の流れからすると、この部分のアシタとユウベを逆にした方が
   ユウベ→アシタ・アサ→ユウ
として歌全体の時間的な流れが正当になる。技巧的な問題は分からぬが、歌人の自然な意識がそれを逆転させたとするなら、朝の天皇の儀礼にこそ、この歌の中心が築かれていることになる。つまり、朝の梓弓を用いる天皇の儀礼を重視し、そこから夜のはじめを回想することで弓の呪力を補完表現し、それから二句対の後半部の狩りに用いる呪力を見通すという構造が現れてくることになる。
 さて、「い縁()り立たしし」。これも
  (夕には)寄せかけられていた
では、なんとも朝と夜を対比して表現せずともよいほどの意味に落ち込む。ここは、単音節から興さなければならぬほどに、通常では手係りを見失う。
・「い縁()り立たしし」のイ
 イにもっとも強く流れ込んでいるのは「斎()」のイマージュで、神聖であること、タブーであることを意味する。他に胆嚢(たんのう)の古名の「胆()」があるが、これはどうもその異常なる食味から誘発される動物に宿る神霊の残滓として、「斎」の意味に通じているらしく、また「寝()」も「斎」の宿る状態として人や動物に感得されているらしいことから、もっとも強いイマージュとして「斎」が推し量れてきている。
・「い縁()り立たしし」のヨ・リ
 このヨは古代特殊仮名遣いの乙類で「寄・り」「依・り、拠・り」として、空間的に引き付けられる、集まるのほか、心理的には従う、味方するというイマージュが興されている。
・「い縁()り立たしし」のタ()
 「立ち」は雲や霧がたちのぼる意で、自然界の現象が上方へ向って動きを示し、確実にはっきりと目に見える状態を表わすとされる。
 最後のシシは従前に述べているので略すが、以上のことから見通せば、闇の訪れ、その訪れの原意は「音づれ」であるが、その闇の音づれとともに、梓弓に神聖なるものが依り集まり、立ち上る情景が想起されてくる。つまり弦の音を発する機能に着目し、そこに確かなる神霊の 訪れ=音づれ=依り付き をイマージュして「立たしし」と表わす情景が映し出されてくる。
 わたしは、アシタとユフベの記述情景に、当初よりわずかばかりの違和感を覚えていた。
 それはアシタの情景が「とり撫()でたまひ」として、天皇の行為を強く表わしているのに対し、ユフベのそれは「い縁()り立たしし」と、いかにも自然のままに流れる穏やかさが描き出されているようで、このことに、ユフベの情景はアシタのように天皇の儀礼を詠むものではないのか?と疑問をもったのである。
 そのことから、さらに具体的な情景が引き出されてきた。それを物語的に再構築すると以下のようなイマージュとなる。
 ユフベ。神霊の居まします「隠(なばり)」の聖域。闇の訪れとともに、人界を取り囲む八隅の結界が弱まり、神霊がなだれ込む。天皇の父母、祖父母…それら死霊。離れた地に暮らす親類縁者…それら生霊。地霊、穀霊…それら神霊。それらが聖なる梓弓に夜霧のごとくに立ち現れ依り付く。
 アシタ。闇が退き、八隅の、薄らいでいた結界が強まる。現人神(あらひとがみ)として人界の統率者としての天皇が、その現れていた闇をもって陽の蘇生を起こす。梓の弓に依り立つ死霊、生霊、神霊。弦を打ち、それらを解き放つ。…情景1
 次に進む。書き下しと歌意を併記する。
   み執()らしの 梓(あづさ)の弓の 
   かな弭(はず)の 音すなり

 終始お持ちになる梓の弓の金弭にあたる音がきこえてくるよ。
・「み執()らしの」のミ
 これは、接頭語の「御」で神・天皇・宮廷のものを表わすとされているが、前文からの意味では弓に宿る霊性を感得しているのであるから、それを充分にしっかりと手中に収めるという意味が表わされていることになる。勿論、ミは古代特殊仮名遣いの甲類、したがって根底にイマージュされているのは「霊()」である。
 次に問題となるのは、「かな弭(はず)の」である。弭は弓の両端の弦を掛けるところの部分名称。
 これは、多くの研究者が迷い、原文の「奈加弭(なかはず)」を「中弭」と解しては本来の弭位置的に合わぬから、「奈加」を「加奈」の誤記と考え、金属製の「金弭」のことであろうとしたり、また「奈加」を「なが()」と詠んでも差し支えはないから「長弭」として理解したりと、定まってはいない。
 だがわたしはそのままに「奈加()弭」で意味が通ずると思えている。
 なぜなら、弦を掛けた状態の弓本体は、弦の張力で弭間を引き縮めて屈曲することで、下位の本弭と上位の末弭が直接に弦で結びとめられることになるからで、つまり「中弭」とは弦のことを指し示す表わし方と理解する。しかもそれに掛ける他方の矢元を「矢弭」というからには、その矢弭を掛ける弓側の弦の位置にも、言わば弦弭というようなイマージュの興されていることが想定できる。
 であるから「音すなり」。その弦の不可思議なる揺れ動きに神霊の音づれを予感し、その弦から発せられる唸りに、梓巫女も霊の厳粛な声を聴くのである。
 しかし歌意は情景1から起こされている。梓巫女の口寄せの場合、特定された時間に口寄せするものではないであろうから、寄せる行為を重視し、弓を打つのであろうが、その口寄せが終われば同じ行為をもって解き放ちをしていたことは当然考えられてくる。
 そうしたことから推測していくと、ここでの場合は、闇の訪れによる自然に梓弓に依り付くものとして梓巫女とは異なり、寄せる行為を必要とせず、むしろ解き放ちの行為を重視していることが見通されてくる。
 次、二対句の後半の解釈にへ移る。以下、書き下しと歌意を併記。

 朝猟(かり)に 今立たすらし 夕猟(かり)
 今立たすらし み執らしの 梓の弓の 
 かな弭(はず)の 音すなり  

 それによると、朝夕のみ狩に今御出発になるところであろう、終始お持ちになっている梓の弓の長い弭の音がしているよ。

 この情景は、先述したとおり夜から興されたアシタとユフベに対する、昼から興されたアサとユフの感覚であるから、場面が大きく転換されていることになる。
 まず問題となるのは狩りの性格である。前部にこれほどの意味が潜んでいたのであるから、単なる遊びや、朝晩の食料を得るための狩りでは意味を為さない。となれば、吉凶の神意を獲物によってうかがう「祈狩(うけいがり)」としての性格が現れてくる。
 なぜ、狩りで占いが成立するのか。現代的に考えれば、ダーツなどをして、当たらなかったから今日は運が悪いだろう、というほどの意味にとらえられがちだが、事実はもっと深い。
 この観念はアイヌ民族にこそ、現代にまで引き継がれている。その世界では、動物は神がそれぞれの毛皮をまとって顕現した姿として映し出されており、猟師が矢で動物を射止めたとしても、鏡に映し出して意識を見るように、その動物の姿をして地上に現れた神が猟師の性格を見抜き、よいやつだと判断するから矢を受け取ってくれたと解するのである。そうしたことであるから、その神を村へ案内し、捧げものをしてもてなせば、またやって来て下さるという崇高な観念をもつ。
 この狩りにそうした観念を投影することにより、この歌意は途方もなく大きな意味をもちはじめる。
 夜の時間帯に近い、朝と夕の狩り。それは動物の活発に活動する夜に連なる時間帯をもって、動物に宿る、あるいは姿を変えた神霊を求め、吉凶をうかがい知る行為。梓弓の弦の音は、梓巫女の口寄せのごとくに、動物≒神霊の呼び寄せにほかならない。
 以上で、ほほ9割以上の解釈が出来ているものと思うが、最後に先頭に置かれた
 天皇宇智野(うちの)に遊猟(みかり)したまふ時
の、天皇が狩場とした「宇智野」という地名を考えて見ることにする。地名は、無意味に付けられぬであろうとの推量のもと、語源を探ることで狩場の性格が現れてくるように直感されたのである。
・「宇智野」のウ・チ・ノ
 野は、広い平地。山裾の傾斜地を意味するから、地形を表わしたものとしてそのままに受け取れる。問題となるのはウ・チである。
 「宇智」は「内」の意に解せるが、単音節ではウの意味に「居()・坐()」がもっとも強く現れており、またチは折口信夫説に「霊()」があるところから、神霊の座す領域に対するイマージュが浮かび上がってくる。この「内」の古形は「空(うつ)」であるが、これも「居・坐()津」と解せることから、神聖なものが座す領域ということになる。
 こうしたことから考えると天皇が「祈狩(うけいがり)」をする場の地名が「宇智野」と呼称されていることに、この歌の興された、全体の歌意が包み込まれていくことになる。
 以上、わたしには寸分の違和感もなくとらえられてきた。それは大局において間違いのないことを傍証していよう。いま、単音節法を用い、誰も入り込めなかった世界へ入った。万葉集の第三歌、そのクラシックの譜面に描き出された情景、その広大な精神の世界が今ここに現れたことになる。  
2008.01.07
より