掘り出された聖文 2
─縄文時代中期遺跡発掘調査の記録─






目次詳細
 第一章 野塩外山遺跡発掘調査の記録
 


  ・石棒の発見          

  ・男根崇拝

  ・大事件

  ・不思議な文様

  ・折り重なった土器

  ・重なり合った住居跡の秘密

  ・土器の作られ方

  ・改築された住居跡

  ・蛇体で飾られた土器

  ・何を食べていたか      以下の項目へ

  ・掘り返された住居跡

  ・埋没土器の謎

  ・床を覆う炭化物の正体

  ・熱気球から

  ・最後に発見された住居跡

  ・最後のとき

石棒の発見

 2号住居跡の東隣りでは、3号住居跡の調査が開始されている。

 ここでは誰もが遺物の多さに驚かされている。

 土器は2号住居跡と同じ型式の勝坂式であるが、住居跡の中央を若干掘り下げただけで、つづけざまに縦割り二分の一ていどの甕形土器と鉢形土器の大形破片が現れている。

 やがてベルトで仕切られた四区画に配置された作業員も、出土する遺物で足場の確保が困難となり、窮屈な姿勢で作業をつづけている。

 上層の遺物が掘り出された段階で、写真撮影に入る。 発掘調査での写真撮影は、全景と部分の連けいが基本。掘り下げるにしたがい、遺物の出土する状態は変化するが、その全体像を住居外の高い位置から定点観測のように記録し、一方で住居内に立ち入り、詳細な部分写真を撮る。必要に応じて遺物の高低差が重要であれば横から、また平面的な位置関係が重要であれば上からと、同一の被写体を多方向から記録するのである。

 通常、三ヶ月ていどの調査では千を越えるカット数を必要とし、使用するフィルムも白黒、カラー、スライドと使い分ける。したがって、撮影に連携がとれていなければ、とくに部分写真の場合はどの位置を、どの方向から記録したかに混乱が生じやすくなる。

 このように、さまざまな状態を映像で記録していく場合、数多く撮ったからといって漏れがないとは限らない。むしろバシャバシャと撮るほうが、何を撮ったかも忘れ、重複したり、未撮影が出たりと繁雑になる。

 写真台帳に記録したからと安心しても、遺物が密集していれば、アップで撮った写真がどの遺物に該当するかわからなくなることもある。ましてや平面図での遺物の記録法が点表記をとっているとすれば、皆目見当がつかないであろう。

 そこで大切になるのが、全体を記録した写真である。これがあれば、時間はかかっても割り出しはできる。

 撮影する被写体間に連携をつくりだし、つねに全体から部分へ、撮影上の流れを意識することが大切になってくる。記録するのであるから、一カットといえども、その出土状態に対する的確な判断が問われてくることは言うまでもない。

 発掘が終了すれば遺跡は消滅する。調査にたずさわる者はそのことを考え、生に近い状態で残しえるのは映像記録をおいてほかにはないことを充分認識しておかなければならない。

 そうしたことで、私は、今でも撮影にかかわる分野を他者へ任せることができないでいる。任せることが調査者の責任において、こわいのである。しかし、この臆病さゆえに、災いを回避し、映像記録に一貫性をもたせることができていると信じている。

 一眼レフのカメラをビデオカメラに持ち換える。当時新鋭の3CCDのビデオカメラである。

 ムービーは、いつも頭の中でその動きをシミュレーションしなければ撮影に入れない。

 一、二度深く深呼吸し、吸いあがった息を止めてから録画ボタンを押す。手振れ防止機能がまだ普及していなかったのである。

 ファインダーに横位置からの遺物の出土状態が映し出される。右目にファインダーをとおしたモノトーンの世界、そして左目には実景、二様の織りなす被写体が脳に結ばれてゆく。

 実景を凝視する左視覚の働きを強め、東壁側の低い位置にカメラを移動。そして、徐々にモノトーンを凝視する右視覚を強め、遺物群が、ある一定の傾斜をもって住居跡の中心部へ流れ込む全容を記録していく。

 遠景の撮影を終え、いくどかシミュレーションをくり返してから近距離の撮影に入る。

 土器片がファインダーの三分の二ほども占める位置では、縄文式土器独特の造形がくっきりとモノトーンで右の視覚に入ってくる。

 文様の放つ圧倒的な存在感。

 撮影をつづけながら、土器に描かれる文様の意味が気になりだす。

 一通りの撮影を終えた段階で作業員を呼び集め、カメラの背後に一列にしゃがませる。

「どうです、すごいでしょう。

こうして見るとよくわかると思いますが、遺物が住居跡の縁から中央へ向けて傾斜しています。

 最初に中央から発見された甕形土器と鉢形土器は、これらのさらに上から出土しているので、下の遣物群が埋まり込んでから廃棄された新しい時期の遺物であることは確かです。耕作で上方が壊されていることを考えると、まだかなりの量の遺物群のあったことが予想されます。

 掘られていない下にも遺物群があるはずですから、住居跡が埋まるにしたがい、三段階ていどの遺物廃棄があったように思われます。

 土器片の量は多いのですが、すべて散らばっているので、破片を集めて廃棄していたようですが、中央から出土した甕形と鉢形の土器、それに南側へ若干離れて伏せた状態で出土した鉢形土器は、いずれもそのままの形を残し、明らかに人の手で捨て込まれていることはおわかりいただけると思います。

 なお、中央の甕形土器は横倒しの上半面が欠損していますが、これは耕作によって破壊されたもので、もとは完全に近い状態で廃棄されていたようです」

 そこへ、測量機材をたずさえた三人の作業員がやってきた。

「じゃ、皆さんは測量が済むまで4号住居跡の掘り下げにまわってください」

 それ以後、3号住居跡では遺物の出土状態を記録する作業が進められる。

 この作業は、遺物の位置を立体的に記録していくものであるが、ここでは平板測量という方法で二十分の一の平面図を作成し、それに記された個々の遺物に対して、レベルという測量機械で標高を計測していく。

 当時、すでにレーザーによって瞬時に距離や標高を読みとり、そのデータをもとにコンピューターで作図するシステムも使われはじめていた。しかし、その方法では遺物が点で表記されるため、大きさや、土器の表裏、文様による位置関係の情報が記録できない。

 そのため、出土状態を重視しようとする野塩外山遺跡では、調査期間は短くとも旧来の測量方法をとることにしていたのである。

 作図は線の綺麗さを見込み、漫画家の中山君に測量方法を教えていたのであるが、作業速度の遅さはともかくも抜群の描写力で、とくに驚かされたのは目測の正確さであった。

 出土遺物の形状を表記する測図では、集合する遺物に対して最小の基準点を設定して測り込み、その点配置におけるバランスを参照しつつ目視で個々の遺物の輪郭を作図していくのであるが、これには相当の鍛錬がいる。

 彼は、漫画という描画作業の中で、目視で対象物の間隔を見極める高度な計測技術を養っていたことになる。

 長年の現場経験のなかで、他人には負けないぞ、と思っていた私の自信は、彼の作図スピードが増すにつれて崩れ去っていった。

 二日後、上層から出土した遺物の作図と取上げが終了。ふたたび掘り下げが開始される。

 下層からは、相変わらず土器片や打製石斧が出土していたが、南側でワラビ状の珍しい文様の描かれた甕形土器が出土しているのに気づいた。

 近寄ると、胴から下は失われていたが、文様を上にして押し開いたような状態で出土している。

 装飾が特異で、遠目からもワラビ状の文様がしっかりと判別できるほどに、モチーフの設定がしっかりしている。縦に貼り付けた区画の粘土紐で、いくつかの画面が構成されているらしく、その中心にワラビ形のモチーフを登場させているのだが、それが何ともある種の具体性をもって感じとれてくるのである。

 とはいえ、この時点では変わった文様の土器だな、と思うほどのことで、後に縄文土器に付けられた文様の謎を解き明かす鍵になるなどということは、まったく意識されていない。

 この問題は後に譲るとして、そろそろ関東ローム層を踏み固めた床もあらわれはじめている。

 作業は床面と壁の掘り出しの段階に入り、遺物の出土も見られなくなっているので、いっとき持ち場を離れ、4号住居跡の掘り下げ状況を確認しにいくことにする。

 4号住居跡でも、すでに形をとどめる土器が出土しはじめている。

 住居外をひとまわりして、おおよその状況を確認し、台地に固定されていた目を、ふうっと頭ごと持ち上げると、乾燥しきった現場に、夏セミの威圧するような羽音が響き、逃避したいような気持ちになる。

 そこへ、セミも驚くような大きな声が飛んでくる。

「なにか出てきた!」

 大急ぎで戻ると、東南側の壁下から、四十センチ以上はあろうかという土器の口が掘り出されている。

 まだ下の部分が土に埋まり込んだままなので、土器の大きな輪が出てきたように錯覚し、すわ大発見とばかりに若い作業員をかり立てていたのである。

 この土器は非常にもろく、竹べらを使っても、強くあてがえば傷ついてしまいそうなのである。慎重に掘り出し作業をつづけると、底の一部が現れはじめる。

 大きな鉢形土器である。

 住居跡の内側方向へ傾斜していることから、住居跡が鍋底形に埋没したころに東南側の壁上から廃棄されたものであることは明らかで、しかも土器の北側の縁に、クルミ大の黒耀石の母岩が、乗せられたような状態で出土している。

 もちろん、この位置関係は鉢形土器が埋没してから偶然に黒耀石が入り込んだ結果で、問題なのは黒耀石の母岩自体の出土にある。

 表面を観察すると、すべての面に剥片をたたき出した痕跡が残されているが、これは石核と呼ばれるもので、石器製作に使われたものであることに疑う余地はない。 打ち割られたほうの剥片に比べて、このような母岩の出土する例はまれで、2号住居跡から発見された接合する剥片と考え合わせ、近くに石器製作場の存在していた可能性が強まる。

 崩れそうな鉢形土器をようやく掘り上げ、人心地つく。そのまま振り返り、後ろで小さくなって壁面の掘り出しをしている猪口さんの手元を見て仰天。

「なんだそれは!」

「大きな石が出たんです」

 猪口さんを押しのけ、一抱えもあろうかという巨大な円柱形の石肌に触ると、まぎれもなく人の手でたたき出されたものに相違ない。

「うーん、石棒だ!」

 一同、その行動に触発されたように周囲を取り巻き、竹べらで、今まさに掘り出されんとする石柱の先端を凝視している。

 現れたのは、男根を模した石棒の、その膨らみをもつ亀頭の部分。先端と側面の周囲には浅い溝が彫り込まれている。

 基部を欠損し、床面の数センチ上から出土しているので、住居廃絶後の間もない時期に廃棄されたものとみられる。


 石棒

 石棒は縄文時代中期以降の遺跡から出土しているが、そのはじめのころは大形で、時期が新しくなるほど小形化して装飾性に富んでくる。大きさは二メートルから三十センチに満たぬものまであり、清瀬周辺では埼玉県所沢市の膳棚遺跡・畦の前遺跡・赤城遺跡のほか、東京都東久留米市の自由学園内遺跡・自由学園南遺跡などからも出土している。

 石棒は、一般的に男根崇拝を背景として作られたとされ、いまでも「金精さま」と呼ばれ、子宝を祈願する信仰対象としている地域もみられるが、これは日本だけのことではなく、世界各国の神話のなかにも登場し、太古の人々の意識を探るうえで重要なことがらとなっている。

 そこで、この問題を探り、男根崇拝をとおして野塩外山遺跡の縄文人の意識がどのようなものであったかを考えてみたい。

男根崇拝

 この問題に立ち入るためには、現在われわれがもつ意識や価値観が、永遠不変のものではないということ、そしてそれが遠い過去からの変遷のうえに築かれていることを認識しなければならない。

 たとえば歴史上では、万物の創世を記した古代神話、未開民族の宗教儀式、戦国武将の出陣における加持祈祷など、現代人にはどれひとつとっても理解できないほどの不可解さが渦巻いている。同じ人間の考え方でありながら、そこには異星人とでもコンタクトしているかのような別次元の意識が存在しているのである。

 こうした問題を追求したのが、C・G・ユングやE・ノイマンたちである。

 よく母体から生まれでた子どもの発達過程のなかに、海から陸へ、という数億年の生物進化が凝縮されていると言われるが、子供の意識の発達のなかにも、人類創成期からの過程が焼き付けられているのではないかと考えられている。

 この世に生まれでた子どもは、母親の腕の中で楽園に過ごすかのように、両親の存在すらも意識されない時を過ごす。

 やがて自我の芽生えとともに、自らと一体化していた母親から離れることへの不安が意識されだす。そして後、母親の行動をも左右するかのように、意に添わぬことへ、つまり母への反逆がはじまるが、そうした段階では母親のなかに潜在する男性性が強められ、その叱咤により子どもの自我は一時的に封じ込められる。

 だがそれもつかの間、再び頭をもたげ出す自我。そのいくどものくり返しの中から、やがて強靱な自我を勝ちとり、家族という集団の中での自己の存在、また母親という女性性と父親という男性性の存在を認識するという。

 意識ということからみれば、こうした子どに見られる発達段階に等しい過程を、人類が歩んできたことは当然のようにも思われ、そのことが神話における創造世界のなかに綴り込まれているようなのである。

 人類の認識は、行動する環境世界からの刺激により深められたが、そこには人間が生まれながらにもつ、遺伝的なある種のイメージに導かれた経験の蓄積があると考えられている。

 民族の創世を記した各国の神話には、天と地や自然と民族の創造、死と再生などの共通したテーマが見られ、そこに登場する神格化された蛇や鳥、女神や英雄には、国や民族を越えた、ある種の類似したイメージが存在している。

 その類似は、幼児期の色彩感覚、あるいは逆さ文字を書く物を鏡像的に反転させてイメージする感覚、音を見ること、また色を聞くことができる感覚、成長とともに失われていくそうした感覚が端的にある段階の心理状態をあらわすように、これらは人間の本来もっているメカニズムの所産ではなかったのかと考えられているのである。

 このことは単に神話の問題にとどまらず、近代以降諸学を牽引することとなった言語学においては、各国の言葉の相違を研究する段階から類似性を研究する段階へ入り、飛躍的な発展をとげた。そこでは、クロマニヨン人の時代の言語の一部が復元され、太古における世界共通語ともいうべきものの存在も明らかにされようとしている。

 さて、込み入った話をしたが、ここで確認しておきたかったのは、社会が現代のように複雑化する以前、それは等質な環境世界が多くの民族に共有されていた時代でもあるが、そこでは、ものの考え方や見方も、民族の枠を超えて共有されるところが多かったということである。

 つまり野塩外山遺跡から出土した石棒も、男根崇拝ということからすれば、その意識のあり方に世界各国の民族に共有された意識があるのではないか、ということなのである。

 私たちは誰でも、「男根」といえば、女性性に対する男性性の象徴としての強いイメージを抱く。もちろん、男根は受精のシンボルとして豊饒の象徴でもあるわけだが、男根崇拝の原初的な意識のなかでは、われわれが思うほど男女の区別が明確になされているわけではない。

 神話に登場する最初の神々には男女両性を備えていたとするものが多く、エーゲ海のキプロス島やアフリカ北部のカルタゴなどでは、ひげや男根をつけた女神が崇拝されていたといわれ、わが国でも北海道の著保内野遺跡から出土した縄文時代の土偶は、女性がほとんどを占めるなかにあって胸の豊かな表現は無く、そのひげ面から男性ではないかと激論がかわされているものもある。

 女性と男性の区別が明確になされるようになるには、単なる労働分担としてではなく、それが社会意識として高め上げられ、また精神世界においても明確な位置づけがなされていなければならない。

 そのことについて、『母権論』を著したスイスの法学者J・J・バッハオーフェンは、『原宗教と古代のシンボル』のなかで次のように述べている。

 母は息子より先にある。女性的なものが先頭に立ち、力という男性的な姿はやっとその後から、二番手として現れる。女性は既にあるものであり、男性は生成するものである。はじめから存在しているのは大地、すなわち母性的な土壌である。

 はじめのころには男性性が女性性に従属したものとして現れ、女性はすでに存在しているのであるから不死なるものとして、またそこから造られた男性は死すべき身をもって生まれてくるのであり、常に新しい男性と結合するのは同一の原母である、と論じている。

 男根は豊饒や蘇生の祭祀に登場し、偉大なる女性性である太母に捧げられる性力としての性格をもつ。

 季節の移り変わりのなかで、植物は枯れ、多くの動物も活動を休止するが、それらが巡りくる春に蘇生するためには、大地である太母に捧げるべき活力ある男根が必要だったのである。

    
 大母神 ヴィレントルフのヴィナス  
          オーストリア 約2万年前

ヘルメス標柱  紀元前5世紀 ギリシア壺絵

 ギリシア神話に登場するゼウスとマイアの子ヘルメスは、ゼウスの伝令として活躍するが、彼は生まれて半日でゆりかごからはい出し、亀をつかまえて甲羅に六本の糸を張り、音を出して遊んでいたと言われ、それほどに早熟な神であった。

 その有り余るほどの活力ゆえか、初期のギリシアのヘルメス像は勃起した男根をもつ石柱として表され、伝令としての役割以外に豊饒としての性格をもっていたと考えられている。

 このように、男根は活力を意味し、それが単に男性性のみをあらわしたものではなく、太母に従属するものとして自然界の回生の象徴であったと考えたとき、野塩外山遺跡に居住していた縄文人の姿もまた、おばろげに見えてきたような気がするのである。

大事件

 3号住居跡から発見された石棒は、清瀬周辺の遺跡から出土しているものでは最大級の大きさを誇る。

 基部は欠損しているが、一番太い円柱部分の周囲は四十八センチもあり、驚くことに、その円柱の断面に認められる直径の誤差は三ミリ以下にとどまり、真円に近い状態に作りだされている。

 石棒を作るには、たたき出すという単純な技法が使われているが、それを真円にするためには水平・垂直を見抜く、大工の棟梁にも似た鍛錬された目が要求されていたはずである。

 そうしたことを考えたとき、制作者はどうやってこの感覚を養うことができたのだろうか、という疑問がわきあがる。

 たとえば狩猟を思い描く。弓矢を使う狩猟では、獲物との距離、矢が到達するための弓を引く力加減、そして弧を描く矢の軌跡を想定した角度を、瞬時に合成させて判断していたはずである。

 そうした日常経験の蓄積のなかから、水平と垂直に対する高度な感覚が養われていたことは充分考えられる。

 われわれの感覚からすれば、縄文人は偉大なる生活者であるとともに、また偉大なる芸術家でもあったと言えるのではなかろうか。

 石棒には、時代的な変遷はあるのだが、一時期につくられたものを比較すれば、さほど変化はない。3号住居跡から出土したもののように、勝坂式期であれば、大小の差はあっても形態的には類似し、写実的な装飾が凝らされる後代のものとは明らかな違いを見せている。

 石棒の製造には、集団のなかで技術の秀でた者がかかわっていたようにも思えるが、ある種の専業的集団のいたことも想像される。

 しかし、どちらにしても、それらからは職業的な芸術家や大衆芸術家のように、個人として人々ヘアビールしようとする意識を感じとることはできない。

 そこにあるのは芸術家の個人的な意識ではなく、伝統的な様式のなかから生み出された象徴としての性格であり、だからこそ、それらが民族を視野に置いた場合の真に文化的な所産であるとも言える。

 石棒によって現された男根崇拝が、異なる文化間でも容易に理解しえる象徴性をもっていることからすれば、そこには集団や、民族の枠を超えた意識が凝縮されているはずである。

 石棒が発見されてから数日、こんな調子で頭のなかは寝ても覚めても男根崇拝のことばかり。昼休みともなれば、わけのわからぬ講釈三昧。他人に話すどころの騒ぎではなく、ほとんど自問自答の世界。そうしたなかで取り上げの日がやってきた。

「うわあ、重たい!」

 少し髪の薄くなった猪口さんが横から顔を出し、

「どれどれ、私ももう年ですけど、子宝の御利益を授かるとしますかね」

と、一同の見守るなかで外から手を差しのべている。

「はぁー、これは立派だ!」

 その姿を見るなり、これこそ言葉のいらない、まさに時代や民族を超えた造物だ、などと心のなかでつぶやく。

「石捧は、先端が磨かれたようになっているものもあるから、縄文人も同じように御利益にあずかろうと触っていたのかもしれないな。ハハハ……

と言いながら、テンバコという遺物収納用のプラスチック製の箱に納め、事務所へ運び込む。

 それから数時間後、あたりは見る見る暗くなり、土を掘る手をそのままに空を見上げると、厚い黒雲が覆うなかを銀黒色のあやしげな雲が飛びかい、秩父の彼方から落雷の音が聞こえはじめた。

「降ってきそうだから、測量機材を事務所へ運んで!」

 言うが早いか、ポツリ、ポツリと前触れの雨が頬にあたったと思った次の瞬間、縄のような太さの雨が矢のように降ってきた。あちこちで悲鳴が上がり、いっせいに事務所へ走り出す。

 雨の勢いはすさまじく、乾燥した大地に土煙りがあがり、ほこり臭いにおいがたちこめる。

 雷鳴は数を増しながら近づく。

 狭い事務所のなかからはじき出された数人が、日陰をつくるために屋根から張り降ろした青いビニールシートの下に寄り集まる。

 フラッシュ!  バリバリバリ!

稲妻とともに天をつん裂く轟音。石棒の崇りじゃ!

「猪口さんが触ったから、石棒の神様が怒ったんだ!」

 頭上のビニールシートは家庭用のプールのように雨水をため、張り裂けんばかりに垂れ下がる。支柱をずらし雨水を一気に落とすと、あたりは沼のようなありさま。

 雨あしは依然として強いのだが、秩父から起きた雷鳴は上空を通り過ぎ、東京湾方面へ遠のいた気配。

「地元の古老は、秩父の雷は東京湾に出てから戻ってくると言ってたよ」

 などと、冗談めかして話していると、

 バリ、ドドドドド!

「ありゃー、本当の話だったんだ」

 やがて薄まる黒雲のなかから黄金色を強めた青空がのぞき、石棒の精霊は彼方の高みへと姿を消したようだ。

 時計を見ると、すでに五時ちかく。このとき以来、発掘が終わるまで雨らしい雨は降らず、里芋の葉が枯れ果てるほどの酷暑がつづくことになる。

 「さあ、今日の作業は終わりにします。現場の機材をかたづけてください」

 3号住居跡に立ち戻ると、雨で洗われたワラビ形の文様をもつ土器が、周囲を圧倒する存在感をもって目に映し出される。それは、語るべきエネルギーを秘めているような、何とも不思議な文様なのである。

不思議な文様

 3号住居跡の調査は、ベルトの撤去が終了し、炉の掘り出しに入っている。

 炉は住居跡の中央やや北寄りに設けられており、口に装飾的な大形突起をもつ甕形土器が埋め込まれている。

 竹べらでの慎重な掘り出し作業がつづく。

「縦に亀裂が入ってるんだ。取り上げたら縛るから、ビニール紐持ってきて」

 亀裂をまたいで、両手でしめ付けるように取り上げた土器は、胴にくびれをもつ、勝坂式でも新しいころの特徴をそなえた立派な土器である。

 振動を与えぬよう注意して床におき、適当な箇所に紐をかけながら一気に縛りつけて固定。

 ひと息ついて文様をながめると、屈折した口の縁に、単純な三つ又の文様と櫛歯状に彫り込まれた縦の条線が交互に巡っている。

 突起とそれに向かい合う位置には、粘土紐を貼り付けた蛇の尻尾のような巻き込み文があり、そこからカエルの卵に似た貼付文が垂れ下がる。文様構成は単純であるが、しかし不思議な文様世界が描き出されている。

 作業を補助してくれていた家本さんが、

「この文様は何ですか?」

 こうした質問は、実に困るのである。

「うーん、縄文時代の文様には写真のような具象的に描かれたものは見られない。たとえば木があったとしたら、われわれは写実的に描くが、そうした感覚はなかったようだ。

 絵画を見ても、西洋では中世の宗教画は写実的だし、古代ギリシアの彫刻だってそうだけれど、日本の場合は違う。

 幕末に渡辺華山が鏡絵などと言って、写実的な絵を描いているけど、それは西洋の遠近法が入ってからのことで、ちょうど葛飾北斎の生きていたころに入ってきたもの。それまでは北斎の描いた永代橋がよくあらわしているように、橋には人が身動きできないほどいるのに、川には小船がゆったりしていて、いかにもアンバランスだ。

 これは風景を表すときでも、見たままでなく、その特徴を強く印象づけるための変形、つまりデフォルメがなされている。大和絵でも役者絵でも同じで、それが個々の描写方法として様式化している。

 ところが驚くことに、あんなにデフォルメされた役者絵を見て、江戸時代の庶民は、これは誰それだ、あれは何という役者だと平気で識別し、おまけにこの絵はへただ、なんていうことさえ言っている。

 われわれにしたら同じように見えるし、写実とはかけ離れていて識別できやしない。

 だけどそこには、歌舞伎の演目の手振りやそのときの衣装の柄がたくみに描かれていて、当時の人は、その絵を見るなりすべての役者の動きや言葉さえもイメージできていた。

 イメージを高めるためにデフォルメがなされ、それが様式を生みだしている。能や歌舞伎の衣装で三角の柄と言えば、安珍・清姫の娘道成寺の蛇に化身した役者がま

とう柄。これは蛇の鱗を表しているが、役者絵にそれが描かれていれば、見る人はすぐに娘道成寺の役者をとおして悲しい女の性をイメージする。

 現代でもわれわれは、中村歌右衛門の、くねくねと、ゆれ流れるような踊りのなかに、見事に描き出された情念の世界を見ることができる。芸とはすごいものだと感心させられると同時に、その脳裏に焼き付けられたイメージは、絵に表された着物の柄ひとつ見ただけでもよみがえってくる。

 こうしたことは、絵画世界を見ればよくわかる。精神性を求めようとすれば写実世界から抜け出し、時間や空間を凝縮したり、また部分を肥大化させたりと、その意識により写実世界をコントロールしていかなければならない。そしてそこには、抽象という、ある意味で超写実世界が表されることになる。

 だから縄文時代の文様も、実態としては表し難い精神世界を描出したものと考えれば、当時にあっては写実の技法などは表現力の乏しいものとして意識されず、むしろ抽象化こそ、その世界を具体的に表す手法として強く意識されていたことが考えられてくる」

「じゃあ、前に出土したワラビ形の文様をつけた土器にも、これと同じ三つ又の文様が描かれていましたけど、さっきの歌舞伎のヘビの文様のように何かの動物をあらわしているんですか?」

「実際にはわからない。ただ、未開民族にはアニミズムという宗教観があって、あらゆるものに霊の存在を信じ、自然界のすべてのものが連鎖しているという考え方がある。

 これはすべての宗教の根底をなしていると言われ、ある民族では、集落の近くにある古木の霊と自分の霊が同一で、それが枯れれば自分も死んでしまうと考えている人もいる。

 そして、死んでしまっても霊は生きつづけ、違った形で蘇生するという。

 だから彼らにとって、木はわれわれの思い描く木ではなく、大地、水、そして人間や動物とも命を分かち合うものとして考えられ、生命の象徴ともなりえるわけで、それを描くときも、意識は木の形ではなくて、そのもっているエネルギーのほうへ向いていた。だから抽象化が必要だったのではないかと思う。

 ただ、象徴にはある種の強いエネルギーをもつものが具象的に表される場合もある。

 神話では蛇や猪や鼠は、そのもっている多産の能力から豊饒のシンボルになっているし、男根だってそうだ。

 なかでも蛇は冬眠して出てくるから、地上世界と地下世界を行き来できる神聖な動物と考えられていたし、あのゼウスの伝令であるヘルメスも蛇身の杖をもっている。

蛇杖をもつヘルメス 『十二の扉』1678

 アイヌの文様にも三つ又文はあるが、それは神聖な海の神としてのシャチを簡略化し、その背びれを表したもので、この三つ又にもそうした神聖な動物の形が下敷きにされているのかもしれない。

 だけど、もしそんなことがあっても、ただ動物の形だけを表しているんじゃなく、精神的な深い意味があったはずだ」

 このようなことを話しているうちに、「簡略化」という言葉が妙にひっかかってきた。

 そう言えば、ワラビ形の文様は抽象文といっても場面展開はありそうだし、全体に複雑に描かれている。だが、この炉に埋め込まれていた土器は単純な文様のくり返しだ。

「土器の文様表現にも、意識の具象化と簡略化があるのかな……

 この、なかば自問自答から転がり出た漠然とした思いつきが、文様を解明しようとする糸口となった。

 抽象文様といっても、勝坂式の後半期の土器のそれは、仏教美術に登場する単一文様のくり返しは少なく、ダイナミックな渦巻文が刻々と変化する何かを表すように連鎖し、粘土紐の貼り付けによる連続した楕円や三角の区画文も、よく見るとそのなかに埋め込まれている文様要素は変化させている。

 こうした変化させる描出法が一般的なのに、この炉に使われている土器は違う。単純な文様要素が、交互にくり返されているだけだ。これは文様イメージを集約させることで、単一の形におき換えて表現しているのではないだろうか?

 だとすれば、単純に表された文様にこそ、勝坂式の文様を解明する基本形がひそんでいるかもしれない。

 集約化した文様を、それ以上分解できない最小単位()と考え、それに表されるイメージを基準として他の複雑な文様を分析していけば、その意味を探ることができるのではないか、という基礎的な方法論が、かすかに見えてきたのである。

 このことを契機に、土器の文様から縄文人の意識世界へ入ることを正気で考えはじめていた。

 前代未聞だが、絵合わせのような分類をくり返して研究したとしても、結果は知れている。われわれが分類しようとする感覚を、少しでも当時の人々へ同調させるものとしなければ、こちら側の一方的な解釈で終わってしまう。それには縄文人がもちえていたイメージをなんとかして探りだし、われわれもそれを共有しながら分類していかなければならないはずだと。自問自答は、何度もくり返された。

 

折り重なった土器

 3号住居跡は、棟をもつ六本柱の住居跡で、傾いた柱を支えるための補助柱が存在していたことが判明。

 3号住居跡

 調査は前半の山場を迎え、主力が4号住居跡へ移っている。

 この住居跡は、遺構の確認作業により5号住居跡とヒョウタン形に重なり合う住居跡であることはわかっていたが、浅見調査員だけは、重なる中央部に見られる黒褐色土の輪郭に不自然さを感じ、三軒らしいという感触を抱いていた。

 掘り下げが開始されてまもなく、その見解の正しかったことが証明され、その観察眼に驚かされることになった。

 いつもタオルで鉢巻きしている彼は、週に一、二度助っ人として調査に協力してくれていたが、耕作による畝間の溝の攪乱土を先に除去し、その断面に現れた堆積土の状態を丹念に観察することで、三軒の可能性を導き出していたのである。

 数日前のことである、作業の終わりしなに、汚れたタオルで泥を払いながら、

「内田さん、4号と5号は三軒重なっているみたいですね」

「二軒じゃないのか?」 

「中央に小さいのが一軒ありそうですよ。切り合いを書いときましたから後で確認してください」

 そう言い残して、彼は帰っていった。

 翌日、朝一番でメモ書きの位置を観察すると、確かにもう一軒分の切り合いが存在していた。

 切り合いとは、土層の断絶しているところのことで、

例えば、洋菓子のバウムクーヘンを切って縞模様が横になるように置く。その上をスプーンで掻き取り、窪みにイチゴを埋め込み、中央から裁断する。

 その断面を観察すると、イチゴの輪郭に沿って横縞が途切れる状態が作り出され、イチゴが後から入れられたことは明らかである。つまりイチゴがバームクーヘンを切っているのである。

 この日、浅見さんが頼んでくれていたもう一人の助っ人、田村君がきた。美術大学を出たという彼は、自分で作った革のサンダルに革袋をかついで登場した。

 彼に、浅見さんの担当していた区域の攪乱土の除去を頼んでいたが、彼もまた隠されていたもう一軒の住居跡を見きわめたのである。

 作業進行の組み立てと映像の記録に奔走していたなかで、彼らの存在が頼もしく思えた瞬間である。

 さて、4号住居跡の作業は順調に進み、床の掘り出しから、土層図の作成を終え、ベルトの取り除きの段階へ移っている。

 上層から形を保つ土器が出土していたにもかかわらず、中層以下からは遺物の発見が少なく、誰しも、この住居跡からはまとまった遺物はないものと確信していた。その矢先、ベルトの除去作業をつづけていた田中さんから声がかかった。

 田中さんは、年齢は猪口さんより少し若いが、昭和四十九年にルバング島で発見された小野田少尉にどこか風貌が似ている。それは作業における持久力、スピード、指揮力が抜群で、一時たりとも、だらだらとした気配さえ感じさせぬところからくるものであろう。

「すいませんが、ちょっと見てくれませんかね。大きな土器が埋まり込んでいますが、いかが致しましょう」

 重なり合う住居跡の埋まり具合を、三軒通しで観察するため、いつもより太めに残していたベルトのなかから、土の重みでおしつぶされることもなく、横倒しの状態で土器が出土していたのである。

「土層は記録したので、ベルトは取り去っても構いませんから。完全に掘り出してみてください」

 人員を増やすと、一気にベルトに隠されていた土器群の全貌が明らかとなった。それは五個体もの土器が、住居跡の中央へ向け、一列に埋没している姿であった。

 土器は、すべて床面より数センチ高い位置から出土している。住居が放棄され、埋没がはじまったころに一括廃棄されたものであることに間違いはない。

「みんな、ちょっと集まってください」

「バケツに水を入れて持ってきて。ブラシも三、四本」

「わぁ、すげえ」

 作業員は入り乱れ、誰とはなくブラシをつかんで土器の表面にへばり付いた土を洗い流しはじめる。

「ちょっと見て見て、この土器すごい文様がついてる」

「まだ下にも土器がつづいてるぞ!」

 一時して、あるていど土器の状態が明らかになったところで、解説に入る。

「これは住居跡が埋まりはじめたころに、一括して捨てられた土器群です。

 完形の土器が一つひとつが重なることなく、わずかな空間を開けて横倒しの状態で出土していることから、ごちゃまぜに捨てたと見るよりは、個々に意識しながら置いていったと思われます。あるいは当初は立っていたのかもしれません。

 ある研究者は、廃絶した住居跡が生命を終えた土器を葬るような、〈もの送りの場〉としてあつかわれているのではないかと言っていますが、この土器の出土した状態はまさに、壊れたから捨てた、という単純な状況ではなさそうです。住居跡のなかまで入り込み、次々と一列においているのです。

 もし、違う時期に捨てられたのであれば、これほど整って出土することはないでしょう。

 あるものは上から、あるものは下から出土するはずですし、ただ捨てる目的だけで違う家の人が持ち込んだとすれば散らばって出土することでしょう。

 どう見ても行動を同じくする人が、丁寧においていったとしか思えません。

 縄文人の行動を探ることは非常にむずかしいことですが、このような状況は、それを知るための最良の事例です。

 土器の流れが住居跡の南端から中央へ延びていることからすれば、案外、南に存在している1号住居の住人が一直線に歩いてきて捨てたようにも思えます。もっとも、それを確定するには、まだ掘っていない1号住居跡を調査して遺物の比較検討をしなければなりませんが」

 このような状態で出土する遺物群をとらえ、土器を廃棄する行為が季節に関係して起きている、とする研究者がいる。

 貝塚の調査で、土器の一括廃棄された上に貝層が堆積している事例の多いことから、貝の採集時期である春以前の段階に土器の廃棄がおこなわれ、それは新しい土器の製作・補給にともなう古い土器の廃棄である、とする説。

 しかし、こうした説を限定的に考えてはいけない。これは貝類の採集を専業的におこなう集団のあり方のようにも思え、すべての集落において、土器の補給と廃棄が一年のサイクルのなかで生じているように錯覚してはならない。

 少なくとも、4号住居跡のように数個体が一括して廃棄される事例以外にも、2号住居跡や3号住居跡では、一個体ずつ単独廃棄されているのである。

 また、当時の土器のセットのなかには鉢形土器が含まれるが、4号住居跡の土器群のなかにはそれが認められず、土器の製作と入れ換えに、すべての古い土器を廃棄していたようにとらえてはいけない。出土状態をつぶさに観察していくと、継続的に思えるもの、また突発的と思えるものなど、廃棄現象を引き起こしている原因は多様で、個々に複雑な状況の加わっていることが想定されるのである。

 この問題は後の整理作業の段階へ引き継がれ、そこでもさまざまな問題が生じることになった。

 出土した五個体の土器をよく観察すると、完全な形を保つものとそうでないもの、また煤が付着し、使用された形跡が顕著なものと、そうでないものが確認され、廃棄に至る原因は一様ではないようなのだ。

 この問題については、後の整理段階で次のようなやりとりが交わされた。

「この土器は何か変なんだ。

 中に土が詰まり、つぶれないで出土していたのに、大きな亀裂が縦に四本も入っている。

 埋まっている間に割れたのでないなら、使用中に起きた亀裂。だが、こんな亀裂が使用中に入っていたらすぐにバラバラに壊れてしまう。

 縦に入っている亀裂の入り方もおかしい。ぶつけても力は一点に集中するはずだから、普通は細かく割れたところや、作るときに弱くなっている粘土紐を重ね合わせた部分に打撃が伝わり、横方向への亀裂がともなうはずなのに、どれも縦に真一文字だ」

 亀裂を眼で追うことで、ある情景がよみがえってきた。それは灯油窯でいくどもおこなっていた、土鈴や複製土器・陶器などの焼成の情景である。突如ひらめいた。

「ヒケキズだ!

 〈冷割れ〉とも呼ばれるが、これは土器を焼きあげている最中に、熱が一定に回らず、急激な温度変化を起こし、粘土がその収縮に耐えられなくなって均等割れしたものだ。

 実際に使用した二次被熱や煤の痕跡は見られない。底面も摩耗してはいない。

 これが事実だとすればえらい発見だ。使用による破損土器と、製作時に焼成破損した土器、それに3号住居跡の鉢形土器に見られる、無傷のまま使用可能な状態で単独廃棄されている土器。いったい何が起きているのだ」

 復元を終え、整理室の壁側にならべられている土器を見渡す。

「4号住居跡の、この土器もおかしい。

 胴から下の土器だが、これもつぶれることなく完全な状態で出土している。使用された形跡はあまり認められないが、口の割れた土器を胴の粘土紐の接合部分でうまく割り、下半部だけを容器として使っていたのではないだろうか?

 よく口だけや底だけの土器が出土するが、炉に使われている土器のように再利用することもあるのだから、当然壊れていなければ、下だけを使うことだってあるはずだ」

 その後、8号住居跡からも焼成段階で破損したと思われる土器が検出され、土器の焼成と古い土器の廃棄が一連の流れとして起きている事例が増してきた。そして、この場合の土器廃棄は、用済みになったものと焼成破損したものが複合する姿であった。

 しかし、これは複数の個体が廃棄される場合のことで、このほかにも使用中の破損による個別廃棄が適時おこなわれ、加えて使用中の破損を原因としない、何らかの個別廃棄、例えば宗教的な儀式に使われたものがそのままの状態で放棄されるような、特殊な事情によるものも存在しているように思われた。

 このとき、〈宗教的な儀式〉という自らが発した言葉から、ある大切な記憶の封印が解かれた。

「そうだ、思い出した。もう十五年も前のことだ。

 昭和五十四年に、ここの遺跡から三百五十メートルほど離れた同じ時期の野塩前原遺跡で、住居跡を一軒だけ発掘調査したことがある。

 その住居跡からはまだ使える状態で、土製の耳飾りが二点、土器片を利用した綱のおもりが置かれたような状態で六点折り重なって発見された。

 そのとき考えていたのは、完全な形で出土してくるもののなかには、死など、所有者を失うことで廃棄されたものがあるんじゃないか、ということだったが、そんなことも当然ありえることだ」

「それからすると、打製石斧の場合は刃が後退していて、消耗して使えなくなったものばかりです。それも何本も集めて一括廃棄した事例はほとんど見られませんでした。

 土器と石器では廃棄する意識が違うんですかね?」

「2号住居跡では、下層に土器が少ないのに、打製や磨製の石斧類は多かった。その状況はこう考えられるかも知れない。

 2号住居跡では、一部で柱が抜き去られていることが確認されているから、それを新築する住居に転用していたとすれば、解体から他所への新築という流れが考えられる。そうした期間には、木を切ったり、竪穴を掘ったりと、石斧の使用頻度が一番高まっていたことが想像される。

 つまり、下層から出土した石斧類は、そうした状況のなかで破損したり摩耗して使えなくなったものを次々と個別廃棄していったものではないだろうか?」

「石器類は土器と違って機能が重視されていたでしょうから、破損したら新しいものが作られ、すぐに捨てられていたんですよ。

 だって土器は作るのに手間がかかりますけど、打製石斧なんか、いつでも川へ行って手ごろな石を調達して作れるわけですから。

 だから、廃棄するといっても、土器のように精神的なものが介在していないんじゃないですか」

「私もそう思うが、すべてそれで片付けてしまうわけにはいかない。

 オーストラリアのシドニーから北東へ三千キロほど離れた南太平洋のバンクス諸島の神話では、カットという主神がいて、その母は岩だと言う。

はじめの世界には夜がなかった。

カットはトーレス海峡の彼方にいるという闇の神の正体を見極めるため、豚をともないカヌーで旅立つ。

やがて、雄鶏と鳥たちを連れ、カットは兄弟のもとへ帰り着く。彼は寝ることを教え、それが死ではないことをさとす。

太陽は沈みはじめ、はじめての闇がおとずれる。

カットは夜明けを待ちきれず、黒耀石のナイフで東の空を切り裂く。

鳥たちは声高に啼きはじめ、天空の裂け目から太陽が昇りはじめる。

 黒耀石は黒い天然ガラスだが、その黒い色は赤とならんで神聖なものとされている。

 黒のもつ意味もあるが、赤は古事記にも頻繁に登場していて、剣のにぎりに塗った赤が邪気を払うとか、赤い土は祭器をつくり出す呪力のあるもので、床に撒けば人を呪縛することができるとも言われている。

 赤と黒は対偶色だから、黒にもそのような意識があったようで、出土している鉢形土器にも、炭を混ぜた黒漆を塗りつけ、その上から赤いべニガラで渦巻き文を描いた破片もある。

 そういうものが鉢形土器に多いということは、〈盛る〉という器種の性格とともに、それ自体に色による呪力を付加させていたのではなかろうか。

 それと同じように、黒耀石はキラキラ光るし、縄文人がなにか精神的なものを感じていたということは充分考えられる。

 他の遺跡では石鏃が何十本も穴に納められていたり、また、石斧が墓から出土する事例もあるから、一見消耗した石器を捨てただけに思える状態でも、そこになにか精神的なものがあるかもしれない。出土状態を細かく分析していかなければならないことは確かだ」

 こうして、整理段階でも多くの問題が派生していたのである。

 さて、時間を戻し、現場では土器が五個体も一度に出土したことから大騒ぎである。

 発掘することを許可してくださったおばあちゃんも、農作業のあい間に見学にきてくださった。

 後ろ手を組み、土器を見ているが、その手に握りしめられた小さなカメラがチラッと見えた。

「おばあちゃん、写真撮りますか?」

 撮っていいものやら聞きあぐねていた姿に、大正であろうか、その育った時代の、記憶に生きる母と同じ優しさが何となく感じられた。

「はぁーっ、まさかこんなものが出るなんてねぇ。あたしなんか、いっつもここ耕してたんだけどねぇ・。

 それ記念に撮っときたいから、家からカメラ持ってきたんだけど、撮ってくださいませんかねぇ」

「おばあちゃん、せっかくだから中に入って一緒に撮ってあげますよ」

 という具合で、ここに縄文人が暮らしていたのだ、ということは、地元の方々にも強く印象づけられていくことになった。

 

重なり合った住居跡の秘密

 五個体の土器の発見は、発掘に従事する者たちに新鮮な感動を与えている。事象をとらえていく眼を養い、掘りながら考えていくことのすばらしさを、誰もが体験しはじめていたのである。

 4号住居跡の調査は終盤を迎え、住居跡の中央やや北寄りから、床を掘り窪めただけの炉が発見され、壁沿いからは3号住居跡と同じ六本の主柱穴が検出されている。その配置からすれば、南側に出入り口を設けた棟のある上屋構造が想定される。

 住居跡の平面形を記録するため、平板測量が実施されている。

 計測地点の方向と距離を明らかにするために立てられる、十センチごとに赤白で塗り分けられた高さ二メートルのポールが、壁際を左から右へ、止まっては進み、移動をくり返している。

 ポールが一点にとまると、その位置が、彼方の水平にセットされた平板上のアリダードという機械から覗かれる。これで図上にポールの方向が定められるのである。

 次に、平板下の杭に打たれた基準点の釘から、ポールまでメジャーが引かれ、その間の距離が計測される。その計測値は二十分の一に縮尺され、先に定めた方向へ向け、平板上に張られたケント紙上に点記される。

 そして、計測場所を移動して作業をくり返し、えられた点間を線でつなぎ、住居跡の輪郭が図面化されていくのである。

 住居跡のかたわらで、遺構の状態をフィールドノートに記録していると、

「この家には何人ぐらいの人が住んでいたのかしら?」

 ポールを握る山川さんが質問してきた。彼女は演劇を習っているという作業員。

「この住居跡は楕円形をした五メートル×四メートルほどの標準的な家だが、このくらいの大きさだと四、五人だったと思うよ。

 関東ローム層みたいな酸性の強い土では、骨が三百年ぐらいで溶けてしまうと言われ、発掘しても人骨は失われているから正確にはわからない。もっとも家の中に人骨が残されること自体が特異なことだが。

 石灰岩地帯や貝塚のように、土がアルカリ性のところでは骨がよく保存され、千葉県の姥山貝塚や加曾利貝塚では竪穴住居で暮らしていた人が、そのままの状態で発見されている。

 姥山貝塚の例では五、六歳の子どもと成人男女が二人ずつ、あわせて五体発見され、南側の入り口付近に横たわる子どもの上に二人の男性が、そして左右に女性が一人ずつが倒れ込んでいた。

 このことから、一軒に二世代以上が居住していたことがわかったのだが、さて死因は何だったのか?

 いろいろな事情が考えられているが、子どもを中にして倒れ込んでいるのが、なんとも痛ましいような。

 子どもをいつくしむ心や恋愛感情は、千年以上前でも現代でもそんなに変わるものではない。

 『今昔物語集』や『発心集』にも、そうした問題がたくさん描かれている。『藪の中』を下敷きにした黒澤明監督の『羅生門』は千年も前の人々を描き出しているが、大正四年の「帝国文学」に発表された芥川龍之介の小説にも同名の作品がある、これは平安時代の『今昔物語集』をベースにしている。

 芥川も黒沢も、この平安時代の世界を、いわばそれぞれの手法で現代訳して伝えていることになるわけだが、それにしても、われわれは千年も隔たる物語に共感し、感動している。こう考えてみると、社会事象の根底をなす人間としての感情の部分は、時代を超えて共有できるはずだ。

 発掘にはシナリオがない。だが、掘り出される遺構の一つひとつには、縄文時代といえどもわれわれに共有できる問題は数多く含まれていることになる。

 だからこそ、調査者が数千年も前のものだと線引きし、距離をおいて眺めていてはいけない。近しい気持ちで注意深く観察し、連鎖する事象のなかからその意味を求めていかなければならないが、さて4号住居跡に暮らしていた縄文人も、子どもを抱えて一生懸命生き抜いていたのであろうか」

 なかば自問自答の押し売りを切り上げ、北隣りの5a号住居跡へ移る。

 ここでは西側の上層から、大きな甕形土器がおしつぶれた状態で姿を現そうとしている。

 型式は加曾利ET式。それまでに発見されていた勝坂式土器に後続する時期のもので、四千四百年ほど前の土器である。上半部にふくらみをもつ独特な形に、渦巻きを組み入れたナイフのような文様が粘土紐の貼り付で描かれている。

「大きな土器が出ましたね」

「みごとでしょう」

 雷を呼び起こした石棒事件の張本人が、自慢げに言う。

 よく見ると、その北側の床近くから小鉢様の土器も出土している。ここでも、住居跡が埋没していくなかで遺物廃棄がくり返されている。

 しばらくして、東側の上層からも二個体の土器が発見される。かなり欠損しているが、出土位置からみて西側の甕形土器と同じころに廃棄されたものと思われる。

 それ以後、5a号住居跡では目立った遺物は検出されず、住居跡の規模が小さいためか遺物の出土量は少ない。

 黙々と掘りつづける作業員。

 手薄な壁ぎわへ入り、移植ゴテで土を掻き取っていると、床が現れる直前で土の色が黒く変化。

 壁ぎわにはそれまで、壁の崩壊や掘削土の流入によるロームをまじえた黄褐色の土が堆積していたのであるから、それが黒色へ変化していく状況は誰にも明瞭に判別できたことであろう。

 眼を凝らし、黒い色の正体を観察。

 それはミリメートル単位の大小の粒子。大きめなものを移植ゴテで掻く。サクリとした感触。

「炭化物だ!最下層に炭化物を多量に含む土が堆積している」

 胸のうちでつぶやく。

 こうした場合の多くは焼失家屋なのである。

「焼けた柱が炭になって残っているかもしれないから、気をつけてください。

 もし出てきたら、傷めないように、そのまま残しながら掘り進んでください」

 保存状態がよければ、火事場の現場検証のように、上屋がどちら側へ崩れたか、また出火場所はどの辺りかなど、さまざまな事象を解明していくことができる。土器も生活していた状態のままで残されている可能性がでてきた。

 掘り進む。

 しかし、状態がどうもおかしい。

 いくら掘り広げても、上屋に使われるような炭化した構造材を発見できない。炭であれば、骨と違い数千年経過しても形は残るはずだが、それがまったく見当たらない。

「おかしいな。炭化物は小さなものばかりだ。

 柱穴の中まで炭化物が入り込んでいるから、燃える状態が、住居の廃絶原因、または廃絶直後の状態には間違いないのだが。

 住居を放棄したときに主要な構造材をすべて外へ運び出し、屋根を葺いていた茅などの草本類だけを焼いて処分したのか?」

 後にその答えがでた。何を調べてわかったかというと、その証拠は柱穴のなかに残されていたのである。  焼失家屋であれば、狭く、深い柱穴内では酸素を失うことで炭化した木材が一部でも残るはずだが、それがどの柱穴にも見当たらない。しかも、柱穴の縁に、柱の抜き取りにともなう掘り込みが確認されたのである。

 床面を覆っていた炭化物は、住居の焼失を意味するものではなく、解体にともなう屋根材の焼却処分という可能性が強まった。

 その後、炭化物が比較的厚く堆積していた南側の壁直下から焼土塊が検出され、東側でも床面に焼土化した部分が確認されたのである。多分、この二ケ所が焼却の中心ではなかったかと思われる。

 数ケ所で炭化物のサンプル採集をおこない、いよいよ炉の精査に入る。

 炉の位置は、中央の北に寄せる一般的な住居跡と違い、東寄りに設定されている。そうすると、空間を広くとる西側に出入り口がつくられていたことになるのだが、この状態も南側や東側へ入口を設定することが通例であることと比較して、珍しいことである。

 しかし、その理由はすぐに理解できた。

 この住居跡には勝坂式期には見られなかった、「周溝」と呼ばれる溝が壁沿いに巡らされている。これは壁の崩壊を防ぐための土留めとして、木皮などを埋め込んだ跡と考えられているが、北側に構築されている5b号住居跡にもそれが認められ、双方の溝が重なり合う所で5a号の溝が5b号の溝を切って直進していることが確認された。つまり、炭化物の見られた5a号のほうが新しい段階の住居跡であることが判明したのである。

 したがって、重なり合う三軒の住居跡の新旧関係は、新しい段階へ4号5b号5a号。

 しかも、各住居跡を南北に貫いて設定した、ベルト断面での土層観察から、5a号は完全埋没していた4号ならびに5b号を、掘り返して構築していたことが検証されたのである。

 これらのことから、南側と北側には、古い住居跡を覆いつくしていた軟弱な埋没土が形成されていたことになり、出入り口を東側あるいは西側に設定しなければならず、以下の記述は根拠が弱まるが、北風を受けやすい東側を避けて西に入口を設定した、という結論が導き出された。

 ところが、このことがとんでもない問題を引き起こした。

 ではなぜ周囲に空間があるのに、わざわざ古い住居跡が存在している軟弱な地盤を選び、家を建てたのか?

 昼の休憩時間の雑談、作業終了後の住居跡を囲んでの議論。想像たくましく、いろいろな意見が出された。それらをまとめると、以下のようになる。

一、関東ローム層の堅い地盤を掘るより、埋没していた古い住居跡を掘り返して再利用するほうが、労力を かけずにすんだから。

二、集落内のあちこちに立ち木が存在し、住居を設定する土地空間が限定されていたから。

三、住居集団ごとに土地が区割りされており、その場が踏襲されていたから。

四、偶然そうなった。

 ここで、それぞれの説について、討議型式で説明していく。表記上『』は立案者。「」は質問者。

《一の説について》

『ふかふかした腐食土はいいとしても、その下の堅い関東ローム層を掘るのは大変な労力だ。われわれがエンピ(大形スコップ)で掘っても重労働なのに、ましてや石の土掘り具なんだから。

 それにエンピを使うから投げ上げることもできるが、それができないのだから、いちいちモッコのようなものや蔓で編んだカゴに土を入れて運ばなければならない』「それだったら、変則的に重ねないで、そのまま古い住居跡を丸ごと掘り出して使ったほうが壁も軟弱にならずにいいんじゃないかな?」

『そうなんだよ。だけど、草が生えたりしていて全部埋まっていて、掘り出すときの位置の確認がはっきりできなかったんじゃないかな?

 5a号の場合、出入り口を設けるために南側の壁を5b号にそろえようとしたのに、もっと古い時期に埋まっていた4号の存在に気づかずにあやふやな位置になってしまった、とは考えられないかな。

 それで、結果的に出入り口を地盤のしっかりしている西側へ設定することになり、それに連動して出入り口付近の空間を広く取るため、炉が東寄りになったと考えたんだ。

 5a号は小さい住居跡だけど、最初から小さい家を建てようとしていたり、または木材の調達に左右されて、そのまま古い住居跡の全部を使わないことだってあったと思うし。

 ただ君の言うとおり、全部重ねていないのだから壁は軟弱だ。でも、こうした住居跡があるということは、それを防ぐ土留めの技術があったのではなかろうか』

(土留めに関しては、その後の1a号住居跡、また五年後の野塩前原遺跡8号住居跡の調査において、その存在が知られることになる)

「でも両端の4号と5b号の関係はどう見る?ほんの一部重なっているだけだ。5b号の住人は家を建てるときに4号の存在に気づかないというか、意識していなかったようだ」

その後もいくらか応答がつづく。

《二の説について》

『よく縄文時代中期の集落は、千葉県船橋市の高根木戸貝塚のように、台地の縁へ馬蹄形に家が配置されていて、その中央に広場があるけれど、集落のできはじめのときには、すべての立ち木を伐採していたのかなぁ。



 馬蹄形集落 千葉県高根木戸貝塚

 もしそうだとすると、北海道の開拓団のように大変な労力が費やされていたことになる。

 だけど、家を建てる周辺など、必要な最小限の場所だけ伐採していたとすれば、すでに家が存在していたところには立ち木のない空間があったはずだ。もし、新しく木が生えていたとしても、周囲の木より小さなものだったろうから、そういうところを選んでいたんじゃないかな。

 千葉県松戸市の貝の花貝塚も馬蹄形の集落だけれど、ここでは、はじめから馬蹄形になっていたのではなくて、西半分が中期につくられた家屋群、東半分が後期のものだ。

 立ち木だって台地上のすべてのものを最初から切り倒していないとすれば、家々の前に広場的な空間がつくられていたとしても、点在する住居間やその背後には立ち木が残されていたことは充分考えられる。

 だから、立ち木で区画された空間のなかに家が建てられていくのではないか、ということなんだ』

「でも、実際に区割りがそんなにはっきりしているのかなぁ、まったく離れた場所に建てられる家もある」

『それは、一軒に居住する者が分かれた場合に、新たな場所の設定が予想されてくる』

「ちょっとまって。変だよ。家をつくるときには大量の木材が必要になるはずだから、普通考えられてるように一時期に五、六軒の家が存在していたとするなら、集落のつくりはじめの段階でおおかたの木は伐採されているはずだよ。

 しかも、重なり合う三軒の関係には必ず古い住居跡が埋没してから新しい家が建てられるという、そこに住んでいない空白の時が存在している。決して継続はしていない。

 それをどう考えるのかな?

 集落内であちこち動いて、古い住居跡が埋没したころにまた戻ってくるなんて変だよ。

 労力を省くんだったらそのまま住みつづけてればいいし、ことさら埋まるまで待って掘り返して使うこともない。立ち木のない空間があればなおさらだ。

 誰かが死んだら住居を廃絶して、そこの場所は住居跡が埋まるまで使ってはいけない、なんていう宗教観でもあったら別だけど」

『実はそこなんだよ』

「えー」

《三の説について》

『宗教観があったかどうかは別にして、こんなことも考えられると思うんだ。

 縄文時代の、とくに中期には膨大な数の遺跡が発見されていて、この武蔵野台地でも勝坂式から加曾利E式期には、川沿いに、密集という言葉で表現することが適切なほどに存在している。

 よくインディアンの生活領域に比較されるけれど、このあり方は狩猟採集の社会では異常なことだ。

 研究者のなかには、このことが定住とは言いながら、頻繁な移動の表れとして考えている人もいるが、まさにそのとおりじゃないかと思うんだ。

 というのは、勝坂式から加曾利E式土器の使われていた二、三百年の間でも、ほば一世代にあたる三十年に一度ぐらいは、河川沿いに集落を移動させているのではないだろうか?

 自給自足の江戸時代でも、雑木林を管理しているからこそ、何々村という固定された場所で生活を維持していくことができる。

 そこでの木材の消費量を考えたとき、日々使われる燃料やいろいろな普請による量は相当なもので、雑木林を管理し、その再生がはかられていなければ、自給自足の根幹を失うことにもなりかねない。

 縄文時代でも、そのことは同じだ。しかし、伐採した後に植林する意識が芽生えていなければ、仮に三十年という時間経過を仮定したとき、集落周辺の樹木破壊はかなり進んでいたはず。そして、それがきわまれば動植物にも影響を与え、身近なところでは食糧資源の獲得さえもままならなくなる。

 つまり、地力の弱い土地で耕地を移しかえていく焼き畑農耕のように、〈待つ〉ことで、衰えた森林資源の再生をはかっていたのではないだろうか。それも自らの集落を移動させることで……

「そう考えれば、再び戻ってきたときにはもとの家は自然埋没しているはずだから、そこを掘り返して家を建てることだってありえる。労力は省けるし……なるほど」

『そこで問題となるのが土地に対する占有の意識だ。すべての住居跡が重なって発見されるわけではないから。そこに何かがあるはずだ。

 初期の段階ほど空間はあったはずだが、ことさら重ねるのには、もとの場所の占有意識があったとは考えられないだろうか?

 もちろん、今日的な土地に対する所有意識ではないのだが。

 このまえの姥山貝塚や加曾利貝塚の話ではないが、一軒の住居の構成人員が二、三世代にわたっていたとしたら……

「ああそうか。ここの遺跡で少年期を過ごし、移った遺跡で成年期を、そして戻ってきたときは老人だ。

 その老人の記憶には、父や母と暮らしたここでの家の記憶があったということか。

 それが占有の意識というわけか!」

『おいおい、先に結論付けちゃうなよ。

 そこで一軒の住居集団、まぁ家族かな。そのなかに、過去を記憶している老人がいなければ占有の意識は薄らぎ、任意の場所に家を建てたのかもしれない。

 関東ロームは確かに堅いが、先端の尖ったもので突いていけば力はいるがブロック状に崩せるし、大きな塊は手持ちでも外へ出せるから、埋没した住居跡の土よりも運び出しには手間がかかっていないように感じられるんだ。だから埋没住居跡の再利用が労力だけの問題ではないように思える。』

(この段階では、誰しも住居跡の掘削工具は、一般的に言われていた棒の先端に打製石斧を装着した土掘り具を考えていた。しかし、その後の7号住居跡の調査で、先端を尖らせた棒状工具の使われていることが判明。しかも、整理段階での9号住居跡の再検証からは、床面に残された掘削痕の切り合いと、そこに入り込む土質の異なりをもって、埋没住居跡を再利用する、掘り返しの住居跡の存在を割り出せることが確認された。

 なお工具痕に関しては、六年後の野塩前原東遺跡二次調査において、6号ピット、および墓である5号、9号土坑で詳細な観察がなされ、遺構掘削の全般にわたり、先端を尖らせた棒状工具を使用していることが検証されることになる)

 しばらく沈黙がつづいた後。

「重なってはいないけど、3号住居跡のように住居跡の埋没していく過程にしたがい、継続して土器が廃棄されている場合も多いよね。

 これは住居を放棄しても近くに住んでいるから継続して捨ててるんじゃないの。本当に移動してたのかな?」

『いつも疑問に思っているのは、土器を捨てた跡に蓋をするように土を埋めた形跡なんて、まず見られない。それなのに4号住居跡のように、一括廃棄されたり単独廃棄された土器が、その状態を保ちながら残されている。

 当たり前に考えれば、子どもが集落内を飛びまわって遊んでいたとしたら、立ち入って土器を壊すことだって当然ありえるだろうし、遊びの道具として使っちゃうことだってあったと思う。

 ここの遺跡の縄文時代のある日をイメージしてもらおう。

 集落のなかに廃絶した住居跡の窪みがちらほらあり、自分の住んでいる家の横にもそれがある

 その窪みには捨てられた土器がいつも顔をのぞかせていて、ある所には大形土器が数個体も群集して風にさらされている。

 近くにはいつもとかわらぬ縄文人の生活があり、子どもたちがはしゃぎまわる。女や男が集まり獲物や採集物を分配し、ある者は調理したりもしている。

 だが、それらの窪みは、遺物を捨てるとき以外、存在していないかのように無視されている。

 いや違う。

 こうした場合は強烈に意識されてと言ったほうがいい。まるで禁足地のようにだ。

 こんなことがあるのだろうか?

 むしろ住居跡に捨てられた土器が埋没するまで、どこかへ移動して無人だったと考えたほうがいいように思える。

 だから綿々と土器が捨て込まれているように思えるが、実際には時期差がかなりあり、移動して戻ってきたときに完全埋没している住居跡もあれば、窪みとして残されている場合もある。そして、占有意識が薄まりそのままにされている窪みには、土器がふたたび捨て込まれていく』

「でも、柱を抜き取った住居跡があるということは、そんなに遠くの移動ではなくて、すぐ近くで家のつくり替えがなされていたことを意味してるんじゃないかなぁ」

『結論は出ないが、埋没している住居跡を掘り返して家を建てたり、一括廃棄された多量の土器がそのままの状態を保って埋まり込むには、かなりの時間経過を考えなければならない。

 それには、集落の移動ということも考えながら究明していかなければならない。

 もしかすると、主要な土器の大量焼成と大量廃棄が、集落の移動によって誘発され、その焼成に住居の解体材が使われていることだってありえる。

 そう考えると、5a号住居跡に見られる廃絶直後の、茅などの屋根材を燃やしたような形跡も、そうした事例としてもおかしくはない。

 われわれが複製土器を焼き上げるときだって、古畳を利用して、そのい草で包み焼くようにすると割れにくくてよく焼き上がる。それを考えれば、住居解体時の草屋根の廃物利用は最良の条件をもっていることになる。

 ここの遺跡は、遺構の保存状態がいいから、個々の事象を細かく観察していけば、そこから何かを読み取ることができるかもしれない。

 調査期間は短いが、頑張ろう」

 事象の観察から生み出された考え方はたくさんある。しかし、どれを取り挙げても、一つの考え方で、すべてを解決できるものではない。
 
 研究者たちは、そのような問題を解決しようと努力し、事象を類型化することで縄文人の行動のパターン化を試みるのであるが、初期的な事象の分類には成功したとしても、つぎの段階に入った途端、異なる次元の闇の中で手がかりを失い、何もわからなくなることが多い。

 それは問題の深まりとともに、その時代の社会性や人間性が問われてくるからで、現代社会において普遍的であるはずの分類基準が、いともたやすく通用しなくなるのである。

 さらにわかりやすく次のようなことを考えてみる。

現代人の引っ越しの理由である。

 分類基準を作ろうとすれば、大まかに職業的な理由、経済的な理由、環境的な理由などが頭に浮かぶ。

 それで作られたアンケート用紙を分類し、集計値を出して優先順位を割り出し、作業は終了する。しかし実際の個々人にとっては、不安や期待を乗り越えて決断するまでの、一つの事象で割り切ることのできない、複雑に組み合う判断基準がひそんでいたはずである。

 つまり、職業的な理由を原因としていたが、移転地の環境を重視して引っ越しを決断したとか、あるいは経済的な理由を原因としていたが、転職できることで決断したとか、それぞれ決断するまでに、理由とすることのできる複数の判断が存在していよう。

 われわれは今、それらの人々の、家の間取りていどのことしかわからない状況のなかから、その理由を探らなければならない。

 だからこそ、掘り出された事象から派生する一つひとつの疑問を、いきつくところまで想定しておかなければならない。そして、事象のつながりを注意深く見きわめながら、消去法をもってそれらを再構成していかなければならないと考えていたのである。事象を見極める前に分類を先行させては、過去の意識にまでは入り込めぬであろうから。

 手前から4号・5a号・5b号住居

土器の作られ方

 4号と5a・b号住居跡の調査は、最終段階の測量を残すのみとなり、調査の主体は東側の7号住居跡の掘り下げに移っている。

 この住居跡は、西側部分がパワーショベルで大きく破壊されており、作業はその部分の撹乱土の除去からはじめられている。

 破壊は西壁の大部分をえぐり取り、床面下まで達し、残存していたのは壁下に巡らされていた周溝だけ。

 ところがその周溝から三、四十センチ内側へ入り込む所からも、同じように巡る周溝が発見された。どうも二軒の住居跡が重なっているようなのである。

 その状況を掘り広げながら確認していると、破壊されていない南東側を掘り進んでいた猪口さんから声がかかった。

 「何か丸いものが出てきましたよ」

 ベルト越しに指し示す所をのぞき込むと、一部ではあるが、しかし頑強に土にもぐり込む球形の土器が見てとれた。

 小型土器が横倒れた状態で埋まり込んでいるらしい。現れているのは球形をした胴部の一部に違いない。

 完形かもしれない。

「ちょっと待ってて、いまビデオ持ってくるから」

 大急ぎで事務所からビデオ機材をかかえてきて、東側の離れた位置にすえ、ズームアップしてファインダーの中央に土器がくるようセット。

 気を静めて、再度位置確認し、録画ボタンを押す。

 小走りに猪口さんの左手へ入り込み、小声で、

「じゃお願いします」

 竹ベラを使う手つきも軽やかで、土器に直接ヘラを当てぬように土を掘り取っていく。

 土器はまだほんの少ししか現れてはいないが、包み込んでいる土にヘラを差し入れると、見事なまでに文様を写し取った土が、ぽろっと剥がれる。

 その振動が伝わっても、器面はぴくりとも動かない。

「土にしっかりとくい込んでいる。

 無傷かもしれない……

 ゴムまりのような曲面はさらに下方へ入り込んでいるが、その一方は弧を描きながら立ち上がり、浅く埋もれていた口縁部が現れる。

「おおっ、口が残ってる!」

 周囲を先に掘り下げ、ヘラで土を刺し剥がしながら刷毛で土をはらうと、渦巻きの立体的な文様が現れる。

 夏セミがひと鳴きするうちに、口の部分はどんどん弧を描いて下方へ入り込んでいく。

 反対側の猪口さんは、かなり掘り込んでいる様子。

「その辺で底が出てきませんか」

「何か……、つづいているようですよ」

「つづいてる?」

 別な土器がかぶっているのかと作業場所を交代してもらうと、猪口さんが、

「ほう、りっぱな口がでてきましたねぇ」

 それを言い終えぬ間に、

「台がついてますよ、台が!

 それも円形の透かし彫りが入れられている。

 はぁ、たまげたねぇ」

「台だったんですか!」

 底と目された位置より、五センチも離れた位置に台の縁が見えてきたのである。

 知らぬ間に近寄っていた巨漢の森田君が、

「すげぇ」

 遠目に見ていた岩淵君も、

「みんな、きて見ろよ。こんなの博物館だって見たことないよ」

 排土越しにやってきた山川さんが、それを一目見るなり、

「なんだこりゃ!」

 この間、ビデオは土器を映し込みながら、忘れ去られたように、静かに、しかも冷静に、すべての音を記録しつづけていたのである。

 このときのビデオはありがたかった。そのお陰で、いまでも発掘に参加したことのない人々に、その感動を伝えることができるのである。

 一時して、誰言うとなく、水を入れたバケツとブラシが運ばれてきた。

 清らかな姿に洗い出された土器。

 その口には粘土紐による渦巻きの文様が、そして胴には縄目の上に弧を描く不可思議な文様が引かれていた。

 兵庫県の出身で洋裁を習っていたという家本さんが、

想う気持ちを言葉に換えた。

「綺麗な土器ね、どうやって作ったのかしら?」

 「清瀬周辺には、柳瀬川の北側に段丘崖があって、そこでは数十万年も前からの地層が露出している。

 地元の人に〈アカバケ〉とか〈アカバッケ〉と呼ばれていたんだが、それは国分寺から小金井辺りの崖下に〈はけの道〉と言われるところがあるが、それと同じように崖をさす〈ハケ〉と関東ローム層をさす赤土の〈アカ〉を合成した呼び名らしい。

 少々変わった名で呼ばれるその崖には、清瀬がまだ海だった時代に堆積した粘土層がある。こうしたところから、縄文人は土器をつくる粘土を採集していたらしい。

 いまは、コンクリートの壁で見ることはできないが、崖の前に立つと、おもしろいことがわかる。それは、壮大な大地のドラマだ。

 一番上には、地表を形成する木の葉などが腐ってできた腐食土の層があり、その下には富士山の噴火で飛んできた、関東ローム層という黄褐色の火山灰が厚く堆積し、その上面が一万年前にあたる。  

 つまりこの関東ローム層の上面を境に、上は火山活動が休止した縄文時代、下はまだ火山活動が頻繁だった旧石器時代ということになる。

 ローム層にはいくつかの段階があって、上から下へ立川ローム層から武蔵野ローム層へとつづいているが、これらは古富士火山の噴出物が西風に乗って運ばれてきたもので、当然火山砂なんかの重たい噴出物はすぐに落ちてしまうが、灰は軽いから清瀬辺りにもたくさん飛んできたわけなんだ。

 もちろん、一回や二回の噴火じゃなくて何万年というなかで堆積したものだが、この堆積層をよく見ていくと、その間に黒色味をもつ層がいくつか挟まっている。

 これは噴火活動が停滞していた時期に、植物が繁茂していたことを表す腐植土の層。

 ところがこの厚いローム層の下には砂利の層が延々とつづいていて、大きな礫を含む層や砂の層、それに粘土の層が厚さを変えながら何層も堆積している。

 実はこれらの砂利層が堆積していた時期は、清瀬が海の中に沈んでいた時代なんだ。

 いく度となくやってきた氷河期と間氷期のくり返しのなかで、清瀬は陸になったり海になったり。平均すると海になっていた方が多かったんだが、十万年以上前の海岸線が、三浦半島の北側から清瀬をつなぐ線上にあったなんていっても誰も信じてくれないかもしれないが、この崖に堆積している礫層は、それを物語っているんだ。

 もっとすごい話もある。多摩川だって、そのころは青梅から狭山丘陵の北側へ流れている。それが南へ南へと移動して、いまの位置になった。だから関東平野はそれによって造られた扇状地で、君の立っているこの下にも、多摩川が南へ移動しながら奥多摩の山々から運び出した岩くずが礫層となって厚く堆積している。

 だが、地球規模の氷河期と間氷期のくり返しによる海進と海退の影響で、清瀬は波打ちぎわになったり、岸から離れたりしているから、堆積物に違いが生じた。

 つまり波打ちぎわのときには川によって運び出された重い礫が堆積し、岸から離れたときには礫より軽い砂が吐き出されて推積した、しかも火山灰が降りつづいていたから、遠浅な静かな海だった時代には火山灰が沈殿して粘土が形成されたというわけだ。

 その崖には、武蔵野台地が形成されて行く、妙なる大地の営みが記されていたということだ。

 そして旧石器人はいつしか、この粘土という大地の恵みの存在に気づき、土器をつくることを知り、縄文人と呼ばれるようになる。それから五千年以上経過した野塩外山人も、遠い祖先の技術を大切に継承しながら土器を作りつづけていたということだ」

「土のなかにそんな物語があるのですか」

「ちなみに、所沢市では地下二百十メートルまでボーリング調査をしているが、その一番下のシルトといわれる細かい砂の層からは巻き貝などの貝類の化石が発見されている。

 ところがこの層はいまから二百万年前の海底に稚積したもの。

 そのころにはアフリカの大地にアウストラロピテクスという直立歩行しだした人類の祖先が生息している。

 こうして考えてみれば、歴史の教科書のはじめのページは、なんて身近なものだと思うだろう。ここで縄文時代を発掘しているわけだから、教科書の一行の記述にどれだけのことが凝縮されているかわかってもらえたと思うが……

 二百十メートルもの土層の深さの感覚、つまり人類の進化からいえば、縄文時代はわれわれの父親ぐらいに身近な時代ということになる。

 それで、農家の人は、農作業で関東ローム層の上面まで耕しているから、いつも一、二万年前までの土と触れあっていることになる」

「すごいわぁ」

「縄文人は、こうした崖などから粘土を採集していたようだが、そのまま使ってはいない。というのは、粘土の粘り気にはバクテリアがかかわっていて、よく練って寝かせておかないとバクテリアが繁殖せずに粘り気がでない。

 しかも、あまり純粋な粘土もよくない」

「でも、陶器に使う粘土はきめが細かいのではないですか?」

「確かにそうだ。〈すいひ〉といって、水ごししたきめの細かい上澄みの粘土を使っているが、縄文土器を作るときにはそれが災いする。なぜだと思う?」

「わかったわ、粘土がやわらかすぎて大きなものが作れないのかしら」

「いや、ろくろは使うが、かなりやわらかな粘土でもタコ壺のような大きなものを作っている。

 本当の理由は野焼きにある。

 窯で焼くのではないから、常に熱の急激な変化が起きている。だから、均一な粘土では耐えられない。

 そこで縄文土器は、わざわざ粘土にロームや黒土なんかを混ぜて生地をあらくし、そうすることで熱の変化にたえるようにしている」

「でもそんなにあらくしたら、焼いても水が漏れちゃうのでは」

「ところが、いまでも土鍋を使うときに米のとぎ汁を煮立たせてから使えなんていうように……

「そうそう、母も言ってますよ」

「あくが目に詰まり、水気が浸み出なくなるし割れにくくもなる。

 そう考えると、お母さんの知恵は縄文時代以来のものということになる。実に年季の入った知恵だ。

 土器を作っていくときでも知恵がある。土器の割れ口を細かく観察するとわかるんだが、まず、底になる円盤をつくる。それから粘土紐を巻き上げたり、輪積みにしていくわけだが、はじめての人はたいてい先入観にとらわれているから、几帳面に実に細い紐を作り、それをいく重にも苦労して重ねて形を作ろうとする。

 しかし、縄文人はそんなに細くはしていない。粘土塊の端を手で握りながら、親指と人差し指でOKサインを出したときの指の間ほどの太い紐を作り下げていく。



 土器の製作過程 右上から左下へ 

 あるていどの長さになったところで、今度は粘土紐を端から手で挟みつけながら厚さ一センチ五ミリぐらいの帯に仕立て、それを巻き上げていくわけだ。

 帯を巻き上げるときには、帯幅の三分の一ほどを重ね合わせていく。

 それも、上へ向けてすぼめていくときには順ぐりに内側へ重ね合わせ、外側へ開くときには外側へ重ね合わせていく。そして、粘土を重ねた部分の段は、低い方へ撫で上げたり、撫で下げたりして、ならしていく。

 例えば内側へ重ねた場合は、外側は上に、内側は下へ撫でつけて、器面を均一な厚さに整える。

 火炎土器や水煙土器のように口部分に大きなデコレーションの見られる土器では、あるていど胴の部分を乾燥させておかないと粘土自体の重みでたわみが生じて崩れてしまう。かといって、あまりに乾燥させ過ぎては、重ねる粘土が硬化して継ぎ足せなくなる。

 重みで崩れようとするものと、それをつなぎ止めようとするもの。そこでは、まさに重力と粘土のもつ粘り気の間で、ギリギリのせめぎ合いがくり広げられている。

 火炎土器や水煙土器には、まさにそれを乗り越えたからこその、見事なまでの緊張感が作り出されている。

   火焔土器(複製)       水煙土器(複製)

 こうして形ができてから文様付けに入るわけだが、それも粘土があまりやわらかだと奇麗にはいかない。回転させる縄に粘土がこびりついたり、また線描きの部分もささくれだってだめだ。

 ものには、なんでもそうだが、〈ころ合い〉というものがあって、それが文様付けの場合には、堅からず、やわらからず、の曖昧な生乾きの状態のときだ。

 もっとも、〈ころ合い〉というのは、職人さんや、明治生まれの人には常に意識されていた大切な心構えだが、いまの時代では死語となってしまったのかな。もったいない。

 今年ノーベル賞を受賞した大江健三郎さんの曖昧な日本人なんていう表現も、まさに〈ころ合い〉を見定めるための曖昧模糊とした状態で、もはや超現実主義に陥ってしまった現代社会が置き去りにした、縄文時代以前からの大切な感覚なのかもしれないな。

 さて、昼にしてください」

 こうして休憩時間にもつれ込んだ土器の話は、幕引きを迎えた。

改築された住居跡

 台の付いた土器が発見されてから数日後、相変わらずの炎天下のなかで、床面を出す作業がつづけられている。

 世間では干ばつの被害もではじめ、どこそこでは給水制限がはじまった、などという話題も身近なものになってきた。

 やぐらの上から遺跡全体の写真撮影をしていると、尾崎豊に心酔し、ソロシンガーになろうと四国の八幡浜市から単身上京してきた牧野君が、若き日の石原裕次郎のような風体でやってきた。

 やぐらを見上げ、

「炉が出てきたので見てください」

 カメラ三台を肩に下げ、やぐらを慎重に降りる。こうしたときにいつも思うことがある。

「あやまちは、やすきところで起こるもの」という、高校時代の現代国語かなにかの一節。

 たまに、作業に集中しているときに声を掛けられるのが、煩わしくなることもあるが、たいしたことはないだろうと油断していると、大切な事実をつかみそこねていることがある。それを整理段階に入ってから気が付いて悔やんでみても、すでにどうしようもないことになる。

 7号住居跡につくと、住居跡の中央北寄りに土器を埋め込んだ炉が掘り出されている。

 

 歩み寄って見ると、床から出ている部分に粘土紐の張り付けによる「」字状の文様が展開している。

 典型的な加曾利E式土器である。

 5a号住居跡でも観察されたように、出入り口ヘ向く南側の縁に、高熱による白灰色の変色部分が見られる。これは、その位置から焚き付けの粗朶木が頻繁にくべられていたことを傍証する痕跡。

 横に河原石が一つ残されているが、これが石組みの残存であるかは即断できない。

 炉のひととおりの観察を終え、あたりを見渡すと、壁沿いとその内側に幅十五センチほどの二筋の周溝が巡り、それぞれの周溝に対応するように柱穴が四本ずつ検出されている。この住居跡は加曾利E式期の二軒の重複する住居跡であることに間違いはない。

 ここで問題となったのが、重なるに至った原因だ。つまり新旧の住居跡が、継続した増改築なのか、それとも因果関係をもたない、埋没していた住居跡を掘り返した新築なのか、ということである。

 二軒の住居跡の新旧については、ベルトでの土層観察から、外側に周溝の巡る住居跡のほうが拡張された新しい段階の住居跡であることは判明していたが、注意されるのは、この新しい段階においても、旧住居の炉と北壁がそのままの状態で造り替えられていないことである。

 このことは、新しい住居の設計が旧住居の炉を基準としてなされていたことを意味し、新住居建設当初より、旧住居北側の空間を踏襲する意図のあったことが明らかにされた。したがってこの場合の拡張は、旧住居に継続するものとして、増改築という答えが導きだされた。

 さらに整理段階に入り、この判断を決定付ける考え方が出た。

 犯罪捜査でもそうであるが、遺留品があっても、そのもつ意味が解読されなければ事件を傍証していく証拠にはなりえない。

 この7号住居跡の場合、その証拠となった遺留品は、竪穴を構築したさいに床面に残された、無数の掘削痕。情況証拠は、新旧住居跡で床面の設定位置が同じであること、それに加えて掘削痕を埋めている土がローム系の土で占められていること。

 後者にかんしては、各住居跡についての観察から、Aローム系とB暗褐色土系という二者の存在が明らかにされているが、7号の状態を分析する前提として、ABの成因から追求をはじめる。

 まず、住居をつくるために竪穴の掘り下げがおこなわれる。表土層を掘り下げると堅い関東ローム層があらわれる。先端のとがった棒で、突き崩しながら作業をつづけるのであろうが、やがて床面を造りだすために平坦な面を掘り広げていく。

 そこには突き崩しの掘削痕が穴となって残されるが、人が歩き回るうちに掘り残しの細かいロームが入り込み、穴はすぐに埋まり込む。これがAの成因。

 ところが、埋没している住居跡を掘り返した場合はどうであろう。

 旧住居跡には暗褐色土が埋まり込んでいる。それを延々と掘りつづけ、やがて旧住居跡の床面が現れる。そこには、すでに古い段階の掘削痕が残されているが、またもや新しい掘削にともなう穴が掘り込まれていく。

 しかし、その掘削痕に入り込む土は以前のようなロームではなく、掘り進んだときに出た暗褐色土。これがBの成因。

 そして埋没している住居跡を掘り返した場合の掘削痕には、新しいものが古いものを切り込む状況もつくり出されるわけである。

 床面に残される掘削痕の存在は、現場段階でも別な視点から注意されていた。

 というのは、7号住居跡でもそうであったが、床面に認められる無数の穴を、竹櫛でていねいに掘り出すと、まるで先端を尖らせた棒で突いたような形状になっている。

 そこで状態のよいものを集めれば、掘削に使用した工具の推定ができるのではないかと考えていた。

 このようなことで、床面に残されている掘削痕の状態については、一応各種の記録を作成していたが、率直に言って、それがまさか、これほどの検証能力をもっていたとは夢にも想ってはいなかった。

 結論が遅くなったが、7号住居跡の場合は、掘削痕にすべてAのローム系の土が充足しているものばかりで、暗褐色土の介入は認められなかった。

 このことにより、住居が解体された時点で、炉と北側の空間をそのままにして、時を置かずに東西と南側の三方を拡張して住居を造りなおしたという結論にいきついた。

 そして、旧住居跡の四本の主柱のうち、二本に、抜き取りによる顕著な痕跡が認められたことから、旧住居の部材の多くが、新住居の構造材などに再利用されていたことも推測できたのである。

 こうして、7号住居跡の重なりについては判明したのだが、今度は、ほぼ同時並行で進められていた調査区西側の6号住居跡で問題が起きた。

 この住居跡は、7号住居跡より古い勝坂式期の住居跡で、上部が手掘りによるゴボウの収穫のさいに入れられた溝で破壊されていた。具体的には、直径五メートル前後の楕円形の住居跡に、幅四十センチの溝が東西方向に八本も入っていた。

 当初は一軒の住居跡と思われていたが、床面を掘り上げた段階で確認された主柱穴は九本。北端の一本を除いてすべて対で存在していた。つまり、基本となる主柱の配置を五本組とした、重複する住居跡であることが判明した。


 6号住居調査進行状況  右から左へ

 この柱配置からでは7号住居跡のように大規模な拡張は認められないが、ここでもふたたび、建て替えか埋没住居跡の掘り返しか、という問題に直面した。

 炉には底部を欠損する大形な鉢形土器が埋め込まれ、一般的な甕形土器の口縁部を用いるものとの違いを見せていたが、この問題は住居の構造とは別次元なのでいったん除外しておく。

 その特徴をまとめると、以下のようになる。

  A…竪穴の大幅な変更がなされていない。

  B…炉位置の変更がなされていない。

  C…北端の主柱穴以外の四本が、二本ずつ対で検出さ   れている。

  D…支柱が七ヶ所から検出されている。

 このことからさまざまなことがわかってきた。

 ACの状況は、新しい住居の建設にあたり旧住居の踏襲が強く意識されていたことを表すものとして、また新設された四本の主柱穴がすべて旧柱穴に隣接していることは、旧住居が放棄された時点での柱の抜き取りにより、柱穴内の上部が破損し、再利用するには強度が保てなくなっていたからではないかとも思えた。

 そして、新設した住居の上屋構造は、柱穴配置が踏襲されていることからほぼ同じ形態に再築されていたことがわかり、また柱配置が若干広げられているにもかかわらず、壁の拡張が認められないことからは、壁に存在していたはずの土留め施設にいっさい手が加えられない状態で、新しい住居の建設が進行していたことが類推された。

 Aの炉位置の変更がなされていないことを考え合わせ、ここまでの推察により6号住居跡の重なりは、7号住居跡とは性格を異にする、拡張を目的としない改築である可能性が強まった。

 では、その要因は何だったのか。謎を解く鍵はCの支柱のもつ意味にひそんでいた。

 主柱には、その上に梁が渡されていたはずだが、それを想定しながら支柱の配置を見ていくことで、意外な事実を知ることができたのである。その状況を大まかに復元すると次のようになる。              
 東端の主柱が根腐れを起こし、沈み込みながら東側へ傾き出した。そして、それをくい止めるため、東端と北端の主柱間に渡した梁下へ、つっかえ棒の支柱を入れ込み、沈下を阻止。

 しかし、傾きはなおも進行し、それを止めるために東端と南東端の主柱に添え柱的な支柱を設置していた、ということになる。

 つまり、旧住居には主柱の根腐れに起因して上屋の傾きが生じ、支柱を使ったさまざまな処置がなされていたことになる。そして、このことが改築を余儀なくさせた原因でもあったわけである。

 さて、この6号住居跡までに確認された事例分析により、われわれが単に重複住居としているなかにも、

・埋没している旧住居跡を再利用した新築

・旧住居の上屋をすべて取り壊してしまう改築

・規模を大きくする増改築

・構造材の劣化による部分的な修築

などのあったことが説き明かされたのである。

 重複する住居跡、そこには拡張や構造材の劣化など、個々の事情が覆い隠されていた。

 

蛇体で飾られた土器

 重複住居の問題が先行したので、ここで6号住居跡の掘り下げに、時間をもどす。

 連日の猛者は盆休みが明けてもつづいていた。トウモロコシの葉は直射する日光に耐え切れず、焼けただれ、まさに終戦記念日を象徴するかのような光景をつくりだしている。

 6号住居跡では、耕作にともなう溝に入り込んだ撹乱土の除去作業がつづけられていたが、南側に掘られた溝跡の側面から、奇跡的に破壊をまぬがれていた甕形土器が姿を現しはじめる。

 もう五センチ南へずれていたら、耕作機械に巻き込まれて破壊されていたはずである。

 その土器を見て、驚く。


 粘土紐を貼り付けた刻みをもつ渦巻き文が、器面を豪放に巡り、そのあいだに三つ又や蜂の巣状の刺突が間断なく描き込まれ、何とも不思議な文様世界が展開している。しかも、口にはウサギの片耳のような突起が付けられていて、それが逆さまに出土しているから奇妙奇天烈。

 この土器は胴下半が発見されないことから、耕作により下半がもぎ取られたさいに、掘り起こされて逆転したように思える。

 暑い。

 作業に集中する意識が途切れると、どっと、暑さが込み上げてくる。乾燥しきった白灰色の土色がまぶしい。

 壁面や土層観察のために残したベルト、床面、いたるところに亀裂が生じていたが、日課となった水まきだけではそれをくい止めることができないほど陽射しは強い。 

 蛇のようにうねるホースから出る水。しぶきに映し出される虹。灰色の土が瞬く間に黒暗暗とした土色を醸し出しうるおう。視線に虹の残映を包み込みながら掘り進む。暑さは遠のいている。

 やがて、逆転した土器から西へ一メートルほど離れたところまで掘り広げたとき、移植ゴテから小さな衝撃が伝わった。大形な土器片の感触をえて、竹ベラに持ちかえ、衝撃位置を小刻みに探る。

 ほどなくして現れた土器は、下半部を欠いた横倒しの土器。しかも、ミカンを段重ねしたようなふくらみをもつ甕形土器。直立した無文の口縁部に、細撚りの縄を回転させた縄目文をもつ胴部。

 一部を出したところで、若い作業員に掘り出しを頼み、カメラ撮影の準備にとりかかった。

 出土していた二個体の土器を、どのように撮影しようかと思案しながら機材を背負って戻って来る。

 作業員の後ろに回り込み、さらに考えつづけていると、慎重に土を取り除いていた作業員の手が止まった気配。振り向きざまに、

 「ヘビだ、ヘビがついてる!」

     

 この作業員、アルバイトで怪獣や恐竜の模型をつくっていたというから、それを掘り出したときの驚きも人一倍だったことであろう。

 それはさておき、その粘土紐を張り付けた蛇のような意匠は、粘土紐へ上下から交互に刺突を加える手法で、あたかも小刻みにうねるような蛇身を作り出している。 その蛇身は、それぞれの胴のくびれに沿い二様にからみ付き、下方の蛇は鎌首をもたげて迫り上がり、上方の蛇はとぐろを巻き、口の上に作られた突起の部分で外敵を威嚇するような姿勢をとっている。

 蛇の表現。それは勝坂式土器の意匠によく登場するが、それに対する強い意識は、先に述べた男根崇拝とともに日本だけのものではない。

 ここで、各国の古代民族のなかに共有されている蛇のイメージを中心に、文様の描出意識とは何かを考えてみることにする。

左より、世界蛇(オーストラリア) トトメス1世と聖蛇(エジプト) 蛇女神像(ギリシア)

左より、人頭蛇身の神(中国) 玄武(朝鮮) 世界蛇ナガ・アナンタ(インド) 蛇と神官(メキシコ)

 紀元前三千年のイラク南部の古代都市ウルとウルクでは、蛇の頭をもつ母神が大地・奈落・冥界の女主人として、またエジプトの神像の頭部にもエネルギーと力の象徴として、蛇が描き出されている。

 このほかにも、アメリカのホピ・インディアンでは創造のエネルギーと思慕の情の象徴として、またオーストラリアの原住民アボリジニの神話では蛇体から宇宙がつくられたことが語られている。

 さらに、古代インドではナガという蛇が神々と仏陀の保護者として登場し、中国、朝鮮では蛇が湿気を好み冬眠することから、陰陽思想の暗く女性的世界である陰を象徴する玄武として表されている。

 このように蛇は、イラク・エジプト・インドなど、切りがないほどに世界の神話に登場している。もちろんギリシャ神話にも登場し、男根崇拝の項でも紹介した伝令の神であるヘルメスも蛇との関係をもっている。

 ゼウスの末の子として巨人アトラスの娘マイヤとの間に生まれたヘルメスは、生まれて半日もたたぬうちにベッドからはいだし、亀をつかまえて甲羅に糸を張り、竪琴を作ったと言われる。

 やがてヘルメスはアポロンの飼っていた牝牛五十頭を盗み出し、その罪を問われるが、このときヘルメスの奏でる竪琴の美しい音色に魅了されたアポロンは、ゼウスの仲介により罪を許し、自らのもつ杖と交換に竪琴を手に入れる。

 このことでアポロンは音楽と歌の守護神となり、九人のミューズ(知的活動をつかさどる女神)がつかえるのであるが、一方のヘルメスはこのときのゼウスの導きによりオリンポスで神々の伝令となるわけである。

 さて、こうしてヘルメスは地下界や天上界を行き来できる伝令となるわけだが、この神話世界を表した当時の壷絵に、ヘルメスと蛇のかかわりを描写しているものも見られる。

 初期のヘルメス像には、勃起した男根をもつ石柱の側面に、からみ合った蛇が、また時代の下ったものでも、ヘルメスのもつ杖にからみ合った蛇が描かれている。

 アポロンからさずかった杖に蛇がひそみ、その杖により他界を行き来できる力が与えられていたとすれば、ギリシア神話においては、蛇に、地下界や天上界を行き来できる神というイメージが投影されていることになる。

 ここで、さらにアイヌ民族の事例を挙げ、蛇に投影されたイメージを追っていくことにする。

 アイヌの信仰する神々のなかには、キナシュトカムイという青大将の神がいて、次のような語りが伝えられている。舞台は北海道日高の沙流川。

 ある日、平取コタンのハヨピラという山城に、ポンオキクルミというアイヌの人文神がいた。彼が叙情歌に夢中になっていると、そこへ青大将の神が現れて彼を凝視した。

 いくばくかの時が過ぎる。

 舌をペろりペろりと出しながら、青大将の神は語  りはじめる。

「ポンオキクルミ。ポンオキクルミよ。

 お前はなんと呑気なことをしているのだ!

 今、平取のコタンを災いが包まんとしている。疱瘡神どもが川尻まで迫り来ているのだ。

 ポンオキクルミよ、わしは、お前の父、オキクルミにも同じことを告げたことがある。

 早く、早く守りの神、チクベニカムイを造り立てよ。そしてお前は、ぼろぼろの着物を着た老人になりすまし、川尻へ行け。

 そこで疱瘡神に出会ったら、こう告げるのだ。わしの懐へ入るがよい。そうしたら通してやると」

 ポンオキクルミは、青大将の神の言われたとおりに守り神を立て、川尻へ向かった。

 そこで隠れ待つポンオキクルミ。

 疱瘡神がその邪悪さをもって近づいてくる。

 ポンオキクルミが語りかける言葉に、そんなことはたわいないことと懐へ入り込む疱瘡神。

 ところが、ここぞ、とばかりに神力をもって絞めつけたので、痘瘡神どもは皆殺しにされてしまっ  た。

 平取コタンは、この青大将の神により救われたので、今でもこの神に祈りを捧げていると伝えられる。

 つまり、アイヌの神話に登場する蛇も、ヘルメスのように伝達者として位置づけられているのである。

 このように、各国の民族に共有されていた蛇に対しての意識は、そのもつ繁殖力の強さから男根とともに豊饒のシンボルとして、また地下での冬眠と地上での活動を交互にくり返すことから、他界を行き来できる神として、暗黒世界の超越的象徴となり、蘇生復活のシンボルともなっているのである。

 心理学者E・ノイマンは、古代エジプトのシンボルでもある、自らの尾を咬む円をなす蛇、ウロボロスについて、次のように語る。

 錬金術のウロボロス

 蛇は自らを殺し、自らとつがい、自らを孕ませる。蛇は男でありながら女であり、孕ませる者でありな  がら孕む者であり、呑み込みかつ生み出し、能動的でありながら受動的であり、上でありながら下である。

『意識の起源史』紀伊國屋書店より

 蛇に対する意識の根源をなすものは、円を描いて自己回転するもの、つまり形としてとらえた場合の円には、他の形と区分されるべき完全性が内包されているというのである。

 さて、こうした意識はわれわれにとっては虚構の世界に過ぎぬように思われ、なかなか理解しがたい。だが、心象の世界と割り切ってみればその世界が理解しやすくなるようにも思え、唐突だが、芸術表現をとおしてそのような意識を考えてみることにする。

 美術館へ足をはこび、抽象絵画を鑑賞する。こうしたことは誰もが経験する。そうした中で、一枚の絵に目がとまった。

 キャンバスには様々な対立し合う幾何学的な文様世界が描かれている。

  絢 宇治山哲平 

 その豊かな色彩の中に円がひそむ。

 ある時は大きく、あるときは小さく、暗く、明るく。

 四角、三角との対立の中で、円もまた内なる変化を求めつづける。

 「絢」。色糸のあやなす美しい模様を意味する題の付いた宇治山哲平氏の油彩画である。

 昭和三十九年、イラン、シリア、エジプトを旅した作家の絵画世界は大きく変貌したという。現代美術を代表する一人でもある氏の作品群を見つづける土方定一氏は、この作品について次のようなコメントを残している。

 たとえば、この「絢」に展開される抽象世界は、緊密な叙情性をもった感受性によって、オリエント地方の風土、そこに残された古代芸術から抽出された記号的形態と色彩を、直接うけついでいる。

『原色現代日本の美術-現代の洋画-』より

 明治四十三年、大分に生まれた作家に、オリエントの旅は、どれほどの意識を蘇えらさせたのであろうか。土方氏をして、「直接うけついでいる」と評させたものは何なのか?

 円は時空を超え、対立のなかから、ある種の緊張を生み出す。それは絵画であれば画面上で統合され、描写された世界の存在感を高める。

 こうした抽象絵画には、それを描いた画家の根源的な意識のなかからもたらされる世界が展開しているわけだが、その感覚には、神話世界を生み出した古代民族にも共有されるものがある、ということなのではないだろうか。

 神話は天地と人間の創造からはじまり、そのもっとも大なるテーマは「死」である。

 神々には永遠の「命」が存在する。しかし、それによってつくりだされた人間には寿命が与えられる。

 死によりすべてが失われてしまう。優しさも、親しみも、愛情も。そして残された者には悲しみが降りそそぐ。

 古代民族は神話におけるさまざまな創造をとおして、永遠なるもののなかで死に対立する生を考えることにより、「死」に対する意識を克服してきたのである。E・ノイマンはこの問題と対峙し、深淵なる円の意味から次の言葉を導き出した。

 変容と再生が自然のシンボル体系から自らを解放しようとしていることである。

 このことは結局、すでに明らかにしたように、逆説的な諸シンボルの総合によって成し遂げられる。

 すなわち死者は生きており、男根を失った者が授精し、埋葬されたものが昇天し、過ぎ去るものが永遠となり、人間が神となり、神と人間は一つである。

 これらの表現はみな人類にとって中心的な一つの内容のまわりを、すなわち「完全なる存在」・完全なる魂・になるという目標のまわりを巡っている。

              『意識の起源史』より

 蛇や男根は、この対立する事象の間を取り持ち、人間と自然界の蘇生と復活にかかわる重要な意味をもつものとして、古代民族に共有されているのである。

 6号住居跡から出土した土器に付加されていた蛇の意匠は、縄文人が偶然に土器の文様に取り入れたものではない。

 それは3号住居跡から出土した石棒とともに、縄文人のもちえていた意識がどのようなものであったか、ということを探るうえで重要な発見となった。

 そして、この蛇をもつ土器が、縄文という時代に、神話的な意識世界のあったことを暗示しているように思えてきたのである。


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   執筆・編集
       清瀬市郷土博物館
        学芸員 内田祐治

 制作    2005年3月
 
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