掘り出された聖文 5
─縄文時代中期遺跡発掘調査の記録─






目次詳細
 

第三章 野塩前原遺跡発掘調査の記録

  ・秘話

  ・ふれあう魂

  ・ふたたび

  ・試掘調査

  ・秘密の森

  ・発掘開始

  ・現れた住居跡の輪郭

  ・発掘の方法

  ・小さな訪問者        以下の項目へ

  ・発想の輝き

  ・床が現れるまで

  ・炉端の情景

  ・床に残された痕跡

  ・構造解明への補足

  ・2号住居跡へ

  ・頼もしき男たち

  ・記憶の共有          以下の項目へ

  ・廃棄現象を追う

  ・住居構造を追う

  ・縄文的建築法の残存

  ・復元された遺跡の姿

  ・「廃棄」幻視

  ・地下の迷宮

  ・調査終結


第三章 野塩前原遺跡発掘調査の記録

秘話

一九九五年秋

 野塩外山遺跡の発掘を終え、報告書の作成に一年の月日が過ぎ去った。

 いまは本来の郷土博物館学芸員としての仕事にもどり、十一月一日からの「野塩外山遺跡展」へ向けての準備に奔走していた。

 その間、見学者へ、発掘された野塩外山遺跡の縄文世界をどのように伝えたらよいものかと、悩む日々がつづいていた。

 展示では、見学者にとり、視覚的な世界しか作りだせない。土器を掘り出すときの感触も、それを発見するときの喜びも、伝えることは難しい。

 出土品以外の制作物は、発掘状況の写真パネル、各住居跡の復元模型、それに生活の状態を技術的な面から観察してもらうための、製作工程を踏まえた狩猟・採集の道具へとおよんでいた。

 そのころ、つよく思いはじめていたことがある。

「何かが足りない、これでは駄目だ!

 いくら模型やパネルを増やしても、伝えられないものがある」

 悩んだあげく、町はずれの、線路沿いから一本裏へまわり込んだ小路にある、いつもの店の奥まった席に腰掛けていた。

「どうも展示がうまくいかないんだ」

「なに言ってんのよ、好きなことやってるくせに」

 あたしなんか、月の支払いで大変なんだから、と言いたげに、お客に出すおしぼりを巻いている。

 いつも早くきて、十時ごろには退散する。なぜかというと、客一人で店を独占し、ほろ酔いになったころにお客が入ってくる。そうすると、営業など、できそうにない私でも、人見知りの足かせがほどけ、大方は見知らぬ人とも楽しく話せるのである。もちろん、その道の達人の迎さんが入ってのことであるが……

 そんなわけで、まだ一人の時間がしばらくつづく。

 この時間が大切なのである。案の定、おしぼりを巻くのを手伝いながら、脳細胞の発光は、側頭葉後半部から大脳辺縁系、そして視野系へと次々結ばれ、ある視覚的な記憶がよみがえってきた。

「展示には限界があるんだ!

 それに携わった人が、見学者に常時解説できればいいのだが。

 そうだ、見学者の一番知りたいことは、過去の事実だけではないはず。どうやって、それが解き明かされるのか、という製作工程にも似た発掘作業の過程だ。

 いつぞや、職員旅行で山梨に行ったことがある。

 物産会館の一角がガラス張りで、宝石の加工工程が、実際に人の作業するなかで見学できた。

見学者は興味津々のおももちで、それぞれに、

ああやって磨いてるのね

ほらすごいねぇ、こんなにいく人もかかってできるんだねぇ

などと言いながら、それに見入っていた。

 発掘は、現場説明会などで公開されるが、後の遺跡の解明にかかわる整理作業を見学してもらうことは、ほとんどない。

 いっそのこと、遺物の箱に埋もれて整理作業しているところをガラス張りにして、常時外から見てもらえればいい」

「それは楽しいわね。

 私も手伝いに行こうかしら。

 博物館は見るだけだからね。よっぽど興味がなくちゃ行かないわよね」

 誰もがいだくであろう、ごく一般的な感想を言われ。いやこの場合の心持ちは「ぶつけられ」である。反論ができない。

 それからいく日かして、追加制作していたイラストで整理作業の工程を表したパネルも完成し、ついに制作しようか、しまいか悩みつづけていた空白のパネルを前にすることとなった。

 外は月のない闇夜、博物館には藤岡さんという夜間警備の人が一階の受付にいるだけ。

 二階の学芸員室の中で、床におかれた、コンパネ二枚を縦につなげた長さ三メートル、幅六十センチの大形パネル。

 最後の決断。だが怖い! 怖いのである。

 間違えば、ひんしゅくをかい、野塩外山遺跡自体を見学者から遠ざけてしまうかもしれない。再び言いしれない怖さが襲う。

 この遺跡の展示では、土器の文様をとおして、縄文人の意識にまで入り込まねばならない。それには象徴となる北米インディアン、ホピ族の深遠な人類創造神話を描いた絵を登場させなければならない。

 なぜ、これほどまでにこだわり、恐れていたのか?

 それは、数年前から社会を揺るがしはじめたオウム真理教の活動にあった。

 選挙活動にはじまり、さまざまなトラブルを引き起こしながら、この年、一九九五年春、誰もが知る上九一色村の教祖逮捕事件があったのである。

 前章で述べてきた、ユング、ノイマンらの心理学からのさまざまな研究は、一緒に発掘現場をともにしてきた仲間には、土器文様を知るために重要であることは共有されていた。しかし、一歩外へ出て、大学時代からの親友である考古学仲間、そして高校時代からの考古学の恩師でさえも、酒を酌み交わす開放的な席で、

「土器の文様の意味がわかるかもしれない。心理学者……〆」

 心理学の「ri」の発音が出る直前で顔色が変わり、「そんなことは、わかるわけはない」

 拒絶!

 話題は変わり、左隅にとり残される。全開になりかけたこれまできた想いは、一瞬にして闇の中に消え込む。

 いたたまれぬ。大きな声で叫びたい。

 早々に仲間と別れ、ぽつねんと夜更けの町を歩き出し、さびれた裏通りのドアノブに手を掛ける。

 もう察しているらしい。こういうときには、いつもと違い、物静かに、カウンターにグラスを二つ置き、ビールをついでくれる。

「きょうね、いいことあったんだよ、パチンコ出ちゃってさぁ、ガァハハハハ」

 こんなときいつも助けてくれたのが迎さんだ。

 今夜もこの一言で、閉じていた心の扉がひらき出す。

「もういい、誰にも話さん。

 大学を卒業して北海道行ってから、いつも一人で仕事してきたんだ。

 現場が与えてくれた問題意識に間違いがあろうはずがない! もし、間違えがあれば、正してくれるのはいつものとおり一つひとつの掘り出された資料だ、人ではない! 

 ひとりよがりの夜が更けていく……

 ホピ族の神話を描きはじめて三日目の夜。いつもの二人が博物館にいる。十時近くなり警備の藤岡さんが上がってくる。

「ほう、できあがりましたね」

 昭和六十年十一月の開館以来、私の仕事をいつも、ゆったりと、そして冷静に判断してくれている藤岡さんがこう言ってくれた。

「ほう、インディアンの神話ですか。縄文土器の文様も、これほど芸術的だから、なにかあるねぇ、こうした神話が……

 うれしかった。

 展示の準備のために机にならべられていた土器の横で、この明暗鮮やかに彩られた絵とそれを見くらべながら、人類創造をイメージしてくれているのである。

 すべての迷いが断ち切られた。

ふれあう魂

 一年間にわたるテーマ展示、「野塩外山遺跡展」が十一月にはじまった。

 それ以後、遅れていた展示解説書の作成に全勢力をつぎ込んでいた。明けても、暮れても。

 その甲斐あって、年が明け、三月に入ったころには解説書を完成させることができた。さて題名は、という段になったとき、『縄文の世界』としか頭に浮かばなかった。

 それは、高校時代に読みふけった、故藤森栄一氏の数多くの著書のなかにも確かに存在する。しかし、この内容であれば、先生に許していただけるであろうと、高校時代にお会いできた日の穏やかな姿を懐古し、それと決めた。

 展示で意を尽くせない分、この百十一ページの解説書が介助してくれるはず。千部を数万の低予算で製作したことにより、無料配布も実現できたが、もちろん第一号は迎さんと藤岡さんの手へわたった。

 こうして、発掘から展示までの長い道のりは一応の完結を迎えた。

 実を言うとその間、展示に拒否反応を起こされた見学者から、つまらぬ展示だと言われたことがある。だが、展示解説ができあがり、それ自体が展示室で閲覧できるようになったことで、展示趣旨は確実に見学者へ伝わりだしたようである。そして、学芸員室に私を訪ねてくる人も現れはじめた。

一九九六年梅雨

 降りしきる雨は、けやき道りをシルバーグレイにかえていた。

 そんなある日、大変なことが起きた。

 事務所で私の居場所を聞き出し、突如として六尺以上もある大柄な外国人が入ってきたのである。そして後ろには小柄な日本人の奥さんらしい方も見える。

○△×□………」 

 わからない!

●▲★■………

 英語だ!

 だが、苦手なのだ外国語は。古文書なら意味は解せるのに。逃げ出したい思いが渦巻く。

 やがて、奥さんが彼の意を訳しはじめてくれた。

 彼の名はDaniel Wolf。会話の中にIndianTraditionalなどの単語が聞き取れる。

 長い一方的な会話がつづくなかで、わかる単語を拾い集め、極限の想像を試みる。その瞬間

「あぁぁぁぁ!来てしまった。本物のアメリカインディアンの子孫が!」 心のなかでつぶやく。

 やがて、奥さんが手短に話しはじめた。

 やはり、正真正銘のホピ族の子孫である。彼は言う、

  なぜ、あの絵を展示しているのか? 

  それは趣味的に飾っているのか?

 恐ろしい現実!彼の会話の長さと、奥さんの訳の短さとからすれば、彼の想いが如何に強烈であったかがうかがえる。しかし、こんな微妙で複雑な問題を、私は、しかも英語で話しきることなど、できなかった。

 断片的には奥さんに訳していただいたが、一時間近くもいて釈然としないまま帰られたことは、彼の後ろ姿で確かなことであった。

二ヶ月ほどたったある日、一通の封書が届いた。

 送り主もよく確認しないままに開封すると、壺と鉢の、淡いイラストの描かれたきれいな便せんに、力強い米語の文章が書き連ねられている。

DEAR UCHIDA-SAN

I'M SORRY IT HAS TAKEN SO LONG TO WRITE TO YOU.

WE WANT TO THANK YOU SPEAK WITH……

  …… MY WIFE,YOKO, SHOWED YOUR BOOK TO HER STUDENTS AND THEY REALLY LIKED IT AND WOUlD LIKE TO JOIN US WHEN WE DO OUT TOGETHER SINSERELY.

 それは、意を尽くせなかったウルフ氏からの、私に合わせた簡便な文章でつづられた礼状であった。

 あのとき手渡した解説書が、後に訳され、ホピ族の創造神話を展示した趣旨が彼へ届いたのである。

 シルバーグレイの雨雲の一部が切れ、夕空が顔を出すなか、自転車は家路を急ぐ。もちろん、妻と子に早く話したいのだ。

 紺色の布製バックのなかで、大切なウルフ氏からの手紙が踊る……

 

ふたたび

一九九九年秋 

 北米の、赤き大地のオオカミの子孫との出会いから三年の歳月が流れた。

 その間、開発にともなう試し掘りはつづいていたが、本調査へ移行するものはなく、博物館での学芸員としての仕事に専心していた。

 昭和五十年代に録音された、九十分テープ九十八巻に及ぶ古老の聞き取りテープの文章化。それを受けて、清瀬の近代史をテーマとした展示を開催し、古老の人生を通して見た清瀬の近代史にかかわる解説書も作成していた。

 こうした中で夏が終わろうとしていた九月、野塩地区で二千平方メートルを超える開発計画がもちあがった。

 場所は、西武池袋線沿いの清瀬駅と秋津駅のほぼ中間点南側。現況は雑木林。

 一九七九年に、野塩外山遺跡と同時期の住居跡一基を緊急発掘した場所から、北へ百メートルほど入った地点なので、土地勘はある。

 これは大仕事になるかもしれないと思いつつ、いつものように現地へ向かう。

 志木街道から、西武池袋線方向へとり付けられた小道へ入る。

 閑静な住宅地の途切れたところから、二間幅のL字形に曲がる道を隔て、空堀川へつづく傾斜地が形成されているが、この区域が開発予定地の雑木林である。

 下草が生い茂り、閉塞した雑木林。

 その光景は「くずはき」と言われてきた、雑木林からの落ち葉による堆肥作りを忘れ去った現代農業の落とし子のように、手入れもなされず、蜘蛛の巣をいただきながらひっそりと存在していた。

 下草で中へ入り込むことができない。けもの道のような線路へ下る土道の周囲で遺物を探す。

 楢の木であろうか、その根方の土の盛り上がった箇所に、土器の小片をいくつか見つけ出した。型式は縄文時代中期の勝坂式である。

 鉄道でふさがれてはいるが、この道は傾斜地の下に所在していた、かつての湧き水へとつづいていたはずである。

 必ず何かある。

 そうした想いを強めながら、雑木林が鉄路で分断された三角に狭まる東側へ回り込んでみた。

 南側の境界線は東半分が住宅の塀で仕切られており、東端の数メートルが畑地に接している。

 その畑地を目指し、塀づたいに身を寄せながら歩いていく。入り込めはしない雑木林の中をチラチラと見ながら、畑地の縁へ出る。

 さほど息苦しかったわけではないが、蜘蛛の巣がいやで、枝を拾って振り回しながら進んできたが、ここまでくると、まぁなんという風景であろう。

 広々とした畑が二百メートル以上もスカーッとつづき、その広さは四万平方メートルは下るまい。

 などと小さな開放感にひたっていると、足下にはもうすでに土器が見え隠れしていた。こんどは、じっくりと目線を移動させていくと、農作業で邪魔にされた礫や土器が雑木林側の一角にまとめられている。

 近寄り、腰をかがめて見てみると、土器は粘土紐に刻みをもつ勝坂式や形をした文様をもつ加曽利E式。また、礫の多くは焼破礫と呼ばれる、被熱して割れたものであった。

「この隣接する畑で、これだけの遺物や焼破礫があるのだから……

 その思いと同時に、意識のなかで本調査への現実味が強められていった。

 

試掘調査

 開発者側との調整はつづけられていたが、この段階では、試掘調査の結果待ちの状況であった。

十月四日

 この時期、天気は安定していた。

 雨の中や、雪の中でも調査しなければならないことはあるが、こうして天気の心配がないだけでも助かる。微妙なときは、六時ごろから外を見たり天気予報を聞いたり。

 博物館にいれば学芸員ではあるものの、職員としてはひらの一般事務。それが発掘がある期間は先生で、実際の仕事は土木作業員兼現場監督。その切り替えがよくできるものだとあるとき気付き、自分で感心したことがある。だが、すべては二十五歳ごろに出来上がっていたようだ。

 北海道の爾志郡乙部町に所在する栄浜遺跡の整理にいたころ、すでに二十二歳で六人、二十三歳で三十人を、それも一まわりも、三まわりも年の離れた方々を一人でまとめ上げなければならなかったのである。

 一番なのは、発掘調査という仕事が好きだから、よりよく仕事をやり遂げなければと思っていたこと。そうしたなかで、二十五歳ころからはどのような状況下でも変わりなく、目的へ向かい集中することができるようになっていたのである。

 ということで、上々の青空のもと、パワーショベルのエンジンが始動し、試掘調査が開始された。

 開発計画の図面に記載された、ぐるりと巡る道路部分が調査対象となる区域である。

 トランシットと呼ばれる測量機械で、図面上に書かれた道路予定位置が、木杭とともに実際の地面に設定されていく。木杭間にはナイロン製のテープがわたされ、パワーショベルによる掘削位置が確定されていく。 

 ガッガッガッガガガガガガッガッガッヴー

パワーショベルが設定されたトレンチ(試掘溝)のなかに並行におかれた。ドアを開け、花井さんが降りてくる。

 この人、実は野塩外山遺跡の試掘のさい、はじめの表土剥ぎをしてくれていたオペレーター、略してオペさんなのである。体形はやせているのだが、腕が太く、たまげたことに足の平が関取級なのである。

 北海道の石狩出身だが、若いころに名古屋、東京と移り、自称発掘を専門とするオペの第一号だ。

 腕の太さはオペの熟達度をあらわしていると思えるが、驚かされるのは地面をセンチの厚さで水平に掻く技術である。そして何よりも土質の変化をおさえ、またバケットが稼動するアームの距離範囲の中で、出土する小さな遺物を識別できるのである。

 考古学的作業においては、通常のオペとは作業スピードが%、考古学的な精度にいたっては300%以上は抜きん出ていよう。

「内田先生、こことあそこの立ち木がよけられないので、南へ多少迂回することになりますけど、ぎりぎりまで掘りますか?」

 事前のチェックを、私へかならず入れてくれるのである。

「お願いします。

 さっき入れたボーリングでは五十セン(センチ)ぐらいで暗褐色土が出ますから、その上で止めてください。江戸時代以前からの雑木林なので、ローム層の上に、縄文時代の暗褐色土の地表が残されているようなんです」

 こうして掘り進むうちに、数ヶ所からおびただしい量の土器片が出土しはじめた。型式は現場確認のときに採集されていたものと同じ、四千五百年ほど前の縄文時代中期に属する勝坂式と加曽利E式である。

 いずれも腐植土からの出土ではあるが、その部分をジョレンで丁寧に掻き広げると、暗褐色土の面に黒褐色土の広がりのあることが確認できた。

 さらにその輪郭を掻き出していくと、弧を描いている。もはや竪穴式住居跡に間違いはない。

 パワーショベルによる表土層の除去は、南側の台地縁を西から東へ向けて進行し、やがて北へ直角に折れ曲がり斜面の下方へ。

 あいからわず、木の根に悩まされての作業がつづくが、この東側トレンチまでに、四ヶ所ほどの遺物の集中する箇所と、それにともなう住居跡と思われる遺構を確認した。

 さらにトレンチは、鉄道沿いに北西へ斜めに折れ曲がり、調査区内の最も低まった部分へと向かう。

 この区域では土器片や打製石斧など、遺物は多いのだが、以前のように分布に集中は見られず、パラパラと散っている状態。

 斜面の下方であるため、住居跡などの遺構は発見されないものの、土層自体の保存状態は良好で、黒色の現表土層(腐食土)と暗褐色土(縄文時代以降の表土層)が、いずれも厚みを増しながら堆積している。

 そのことからすると、現在の地表の傾斜角度は四度であるが、縄文時代にはさらに一、二度は急な斜面の形成されていたことが知られる。そして、ここから発見された遺物の多くが、斜面沿いに上方から流れ出たものである可能性が強まった。

 やがてパワーショベルは、その向きをくの字に変え、最後の西側トレンチへ入る。

いつものようにパワーショベル前方に立ち、平爪のバケットで掻かれていく土層に目を凝らしているのだが、遺物はいっこうに出土しない。

 南へ向け堀り上がっていくと、腐植土の下に堆積していた暗褐色土は厚さを狭め、黄褐色の関東ローム層が直接姿を現しはじめる。

 依然として遺物の出土は見られない。

秘密の森 

 試掘調査は四日から九日までつづけられた。その最終日。

 パワーショベルの前方に立ち、オペの花井さんへ向け腕で作った「×」サインを送る。

「昼にしましょう」

 ブルーシートの上に座り込み、みなで昼食をとる。

 弁当を食べ終わり、天気のよさに誘われて寝転がる。両の手を頭の後ろにまわし組み、手枕をつくって空を見上げる。

 こうして、仰向けになって見ると、青空にのびる木々はそびえ立つように高く、枝葉が下から上へ折り重なり、見事だ。

 ときおり吹く風は柔らかく、梢の枝葉をゆらす。

「風の音がいつもと違う」

 そう思い、耳をすませていると、

   さわっ さわさわさわ………

 葉は依然として、サップグリーンの夏色を深めた色であるが、確かに数日前とは違う。水の吸い上げが鈍くなったためか、わずかではあるが、カサカサとした乾いた葉音が感じとれる。

「そう言えば、もう半月もすれば紅葉。それが終わるころ、ここで本調査へ入っているはずだ」

 などと、さきのことを想い描いているうちに、何となく縄文時代の地表が残されている北側トレンチを確認しなければ、という気持ちが起こる。

 北側トレンチでは遺構が検出されていないが、もし本調査に入った時点で下から遺構が確認されれば、日程をかなり延長しなければならない。判断を誤れば、開発者側とのトラブルを引き起こす原因にもなりかねないのである。

 西側トレンチを下りながら、視線は掘り出された土層を追っている。

 所どころに、不定形の黒褐色土の広がりは現れているが、いずれもボソボソとした土質で、一見して木の根による攪乱であることがわかる。

「西側トレンチには遺構らしきものは無いな。本調査の主体は台地縁の南側と東側のトレンチか」

 と、胸のうちで独り言を言いながら北側トレンチへ曲がり込んでびっくり。

 掘削したトレンチが、雑木林の散歩道のような風景を作り出し、そこへ天頂ちかくから斜めに入る真昼の陽射しが、木々のてっぺんから北側へ光彩を放っているのである。それも、木漏れ日を抱き込む遠近さまざまな光の帯を。

 その道は南へ曲げられている。見通せる奥まったところは立木が障壁となり、森の深みにいるような錯覚を起こす。

 わずかな風の訪れ、ゆらめく光の中の陰。

 いまUnicorn(一角獣)が現れたとしても、驚くような光景ではない。

 もし、私が幼い女の子であれば、ビック・ベンの大時計が打ちならす鐘の音とともに、ジェインとマイケルが迷い込んだ秘密のすきま。そこに現れた一角獣、ライオン、赤ずきんが集う現実の森として、生涯記憶に残すであろう。

 PL・トラヴァースの『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』に登場する、この秘密のすきまは、新年を告げる午前0時の十二の鐘間にひそんでいる。一つ目の鐘は古い年が死ぬとき。そして、十二番目の最後の鐘は、新年の生まれるときである。

 その中へ、私も足を踏み入れたようである。ゆっくりと、そしてゆっくりと、死していた森の復活。

 後にこの光景は幻影だったのではないか、と思うことがある。なぜなら、それは最終日の、それも数十分間しか確認できなかったからである。

 樹木の配置と高さ、トレンチの位置と幅、地形の傾斜角度、太陽の位置、さまざまな原因が働き合ってされなければ出現しない、奇跡とも言える光景であったように思えるのである。

 宅地化が急速に進む清瀬市。その一角に誰からも取り残され、閉塞していた雑木林。

 開発による消滅を前に、下草を刈りながらの試掘調査が、雑木林を蘇生させ、わずかな輝きの時を与えたのであろう。

 

発掘開始

 試掘調査の結果により、本格的な発掘調査の必要性は確認されていた。

 開発側との調整は滞りなく進行していたが、問題は雑木林の伐採であった。開発者側の住宅建設の工期との兼ね合いから、発掘調査の終了は翌年の二月末に限られていた。

 十一月一日から調査に入れたとしても、年末年始をまたぐために正味三ヶ月半。野塩外山遺跡を調査した夏と違い、季節は冬。作業効率が悪くなる季節である。そのなかで雪にやられれば、一週間近くは現場作業が停止することも覚悟しておかなければならない。

 したがって、開発者側が事前におこなう伐採期間の伸長により、発掘調査が大きく左右されることになるのである。

 こうして秘密の森もまた、短期間に消滅する運命を背負わされていた。

 発掘はロマンばかりではない。私がまだ若い時分、札幌医大の研究室で遺物整理をしていたおり、故峰山巌先生が次のような話をしてくださった。

「発電所を建設するための発掘調査のときは大変だったよ。

 当時、地元は反対派と賛成派が喧喧囂囂の騒ぎだ。遺跡が破壊されることで発掘調査の団長を引き受けたが、落ち着いて発掘ができない。

 と言うのはだな、両方の話をよく聞いてみると、反対派は遺跡があれば保存で工事を取りやめると思い、賛成派は遺跡があっても発掘調査が終了すれば建設できると思っている。

 発掘調査という学問的に中立の場が、どちらにも都合のいいように解釈されたのだ。その騒動に巻き込まれ、大切な調査さえも滞る始末。

 だから、私は調査団を解散した。純粋に調査できるまで両方と話し合ったのだよ。

 内田君、発掘というものはこうしたことが起こるんだよ」

 秘密の森を、地元の子らに残したい気持ちは強いが、現実はそうはいかない。発掘は一連の開発の流れの中に位置づけられているのである。

 その後、伐採の完了を待ち、本調査の期間は十一月十五日から翌年の二月末日までに定められた。

 そのことが決定してからすぐ、近隣の住民への発掘調査の周知へと向かった。手にした刷り物と『縄文の世界』を門扉に付けられたベルを押しながら配布して回った。

 ところが様子がおかしい。

 数軒目でその意味がわかった。伐採委託を受けた業者が、期間に追われるあまり、手荒い方法で秘密の森の木々を引き倒したらしい。その騒音と振動に驚いた住民は、われわれが遺跡調査のためにまねいたものと誤解していたのである。大規模な伐採までは開発者側の仕事なのである。

 かつての峰山先生の言葉が重く、わが身にのしかかってきた。

 それと知ってから、発掘調査においても重機械を使用するため、その期間と方法など、騒音振動に関する詳細な説明を加えながらの戸別訪問がつづいた。

 近隣住民の理解がえられなければ、ロマンを駆り立てる発掘調査といえども、トラブルメーカーになりかねないのである。

十一月十五日

 その日はきた。

 自転車を入口の仮設トイレ脇に置き、現場を見渡す。

 不思議の森は切り株を残して消え去り、北側の線路へ向かい急傾斜している地面だけが広がっている。東側奥に青屋根のプレハブの仮設事務所が建ち、その横に外流しが付けられているが、もう何人かきているらしい。

「ああ、上田さん、おはようございます。

 大変だけどよろしくお願いします」

 この人は、第一章で登場した野塩外山遺跡で気球をあげてくださったパイロット。

 事務所へ入ると、机を現場側の窓へ動かしている人がいる。

「おはようございます」

「どうも、先生おはようございます。

 机はここでよろしいですか?」

「自分でやりますからいいですよ」

 達磨大師の風貌をもつ須田さんも、相変わらず元気いっぱいだ。

 あれから五年。知った顔、知らぬ顔。続々と参加者が集まりはじめた。そのなか、私の補助として調査員格で指名していた、美術大学出身の田村君が手製の革袋を肩に掛けてやってきた。

 彼も相変わらずの風体だ。

「野塩外山遺跡ではお世話になりました。今度もよろしくお願いします」

 そして、中山君。

「元気だった? またよろしく」

「よろしくお願いします」

 彼は五年の間に、トータルステイションシステムによる光波測量など、高度な測量技術をマスターしていた。

 やがて、ざわめきの中で調査開始の時間を迎えた。

 須田さんが立ち上がり、諸注意を伝える。

「えぇ、これから寒さが増しますが、怪我のないように。

 どんなに小さなことでも、不注意は大きな怪我をまねきます。それぞれに気を抜かないで作業にあたってください。

 発掘が初めての方も多いようですが、先生はじめ、担当調査員の指示を仰ぐように」

 その後遺跡の概略の説明にはいる。それを要約すると次のような内容であった。

 遺跡名は野塩前原遺跡。時代は四千五百年ほど前の縄文時代中期。遺跡内容は集落跡。

 調査区内の地形は、北へ傾斜して空堀川へつづく台地縁辺部で、試掘調査の結果からは南側の平坦部に住居跡の点在が確認されている。

 台地奥へ南方百メートルほど離れた地点から、昭和五十四年に中期の住居跡が発見されており、また周囲の畑地に土器が散布していることから、この一帯に大規模な集落の存在していたことが予想される。

 空堀川流域には湧水が多く、かつては線路を超えた斜面の下にも見られたが、この縄文集落もその泉を中心に形成されていたように思える。

「この場所は、雑木林として維持されてきたところなので、保存状態もよく、かなりの量の遺物が出土するのではないかと考えています。

 それらがどのように残されているのか、ということが重要になってきますので、むやみやたらに掘らず、出土する遺物を残しながら注意深く掘り進んでください。

 まず、調査する区画の設定から、パワーショベルを使った表土層の取り除きに入りますので、各調査員の指示にしたがい作業に取りかかってください。

 くり返しますが、怪我のないように。以上」

「じゃぁ上田さん、中山君と調査区の設定お願いします。

 花井さんは、西側の斜面の下に枝が散乱しているので、先にユンボ(パワーショベル)で端へ寄せてくれませんか」

 前掛けをつけた奥さん方が、何人か入口の外で立ち話をしているのが目に入った。

「須田さん、すいませんが一緒にきてください」

 試掘調査で出土した遺物の入った箱をひとつ抱え出し、遠目から、

「おはようございます。

 いろいろとご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いします」

「この前の博物館の人ね」

「はいっ」

「いただいた本、まだ少ししか読んでないけど、清瀬であんなものが出てたなんて知らなかったわ。すごいわねぇ。ここからも出るの?」

「箱の中の土器が、ここの試し掘りで出たものなんです。

 四千五百年ほど前の、あの本と同じ時代のものなんです」

 よかった、『縄文の世界』読んでくれていたのだと、心の中でつぶやき、安堵。また、解説書に助けられた。

 一通りの説明を終えた後に、

「この方が現場の管理者です」

「須田と申します。

 なにか問題がありましたら、すぐにご連絡ください。

 重機が入りましてうるさくなりますが、運転手には充分気をつけて作業するように申し伝えておりますので……

「住居跡が出ると思いますので、いずれ見学会を予定していますのでよろしくお願いします」

「あら、たのしみだわねぇ

 いいもの出して、見せてちょうだいね」

「はい、わかりました。

 ではすいませんでした、作業に戻りますので」

 事務所へ向かいながら、はずむ小声で、

「あぁ、よかった。これで心配なくなった。須田さんもありがとね」

 

現れた住居跡の輪郭

次の日

 前日の作業は、調査区の設定から南側トレンチの表土層の除去まで進行していた。

 上田、中山、本荘、望月らの測量班は、基準点の移設に入った。

 基準点の移設とは、国土地理院による日本国の地図を作製するための座標位置。つまり経度、緯度、標高を定めた国の基準点から、発掘調査のために仮設置した太い木杭の上に打ち込まれた釘へ、各数値を測り込んでくる作業である。

 こうして現場内に仮の基準点が設けられ、そこから順次遺構・遺物の位置ならびに標高が計測されていくのである。

 したがって、もし世界地図を顕微鏡的に拡大できたとしたら、仮に1号住居跡から出土した5という土器であれば、世界全図日本全図東京都全図清瀬市全図野塩前原遺跡全測図1号住居跡遺物出土状態図中のNo.5という具合に探し出せ、同時に標高をしることもできるわけである。

 さて、現場内の作業員は野塩外山遺跡でも登場したジョレンを使い、遺構の詳細な確認作業をつづけている。

 試掘調査で確認されていた、住居跡と思われる円形の黒褐色土の広がりが、次々と現れはじめた。(プロローグ「埋もれた歴史」参照)

 南側から東側のトレンチの遺構確認がほぼ終了した段階で、次なる遺構の掘り下げをイメージしながら、黒褐色土の広がりを見回っていた。

 そのとき、とんでもないことが頭に浮かんできた。

「そうだ、いずれ子供たちのためにパソコン版の発掘ソフトを作るのだから、デジタルカメラで数歩おきに撮影していけば、ボタンの切り替えで歩くように写真を動かせるな!」

 野塩外山遺跡の発掘から五年の間にパソコンとデジタルカメラが導入されていたのである。

 私の年齢では、パソコンはやや乗り遅れの苦手とする年代であったが、幸いにも野塩外山遺跡終了以後、東野豊秋君に操作を習いつつ、共同で「仮想博物館」と名付けた一大ソフトを開発するまでにこぎつけていた。

 考古学でのパソコンの導入は、数値的な処理を主体に進んできていた。しかし、当時はメモリーと言われる記憶媒体の容量や処理スピードの問題から、画像処理的な発想が乏しかったのである。

 ところが、博物館を通してみると、目で見える画像を主体としたソフトでなければ、子供たちへの情報提供もおぼつかない。そこで、画像や3Dによる立体表現の処理方法、またソフト上での見せ方の手法等々、数年の内にかなり高度な操作法を身につけるほどになっていた。

 こうしたなかで、もっともありがたかったのは、文章はもとより、写真、ビデオ、音、あらゆる記録媒体を、各種ソフトを駆使してパソコン上に統合させることができたこと、そしてなによりもその発想法を習得できたことである。

 つまり、このときのように、素材の重要性に敏感になり、それをどのように組み上げ、完成させたらよいかという一連の作業イメージが、短時間に描けるようになっていたのである。

 こうした発想は、調査者として大切なことで、後にデジタルカメラをもちいた遺物出土状態の写真実測、そして土器の文様を展開させた独自の写真実測法の考案へとつながっていく。

発掘の方法

 数日後、南から東側トレンチにかけての遺構確認が終了。

 検出された黒褐色土の広がりの状態から、住居跡のほか、2m×0.8mていどの細長い平面形をした落とし穴、またこぶし大の礫が群集する集石と思われる遺構の存在していることもわかってきた。

 この段階で、各遺構に名称が付されたが、それらは1号住居跡、5号集石などのように、想定される遺構の性格ごとに番号を付けたものであった。

 ただ、これらの番号は、調査が進行していくなかで消滅するものや、名称変更しなければならないものも現れる。そのため、最終的に報告書へ掲載するときには、混乱をさけて調査段階での名称を変更し、統一することも多い。

 今回の発掘調査報告書は四年後の二〇〇三年十一月に完成するが、そこに掲載された名称と、この調査時点の名称では、変更したものがあることに注意されたい。

 なお、ここでは調査時点での、そのままの名称を用いていくことにする。

 数字のみ住居跡  括弧つき土坑(落とし穴)

 さて、いよいよ掘り下げに入る。そして、このときの手配りは以下のようなものであった。

  ・1号住居跡

遺構確認の段階から多量の遺物が出土。

確認された黒褐色土の広がりがヒョウタン形をしており、北側へ別遺構が重なるか、あるいは柄鏡形住居跡のように張り出しの存在が考慮されたため、ベルトの設定ととも土層面における切り合いの確認を指示。

担当は中山・田中(照晃)ほか。

  ・2号住居跡

北側に無数の木の根が入り込んでいるため、その除去を指示。 

担当は本荘・望月ほか。

  ・1号、2号土坑

落とし穴と思われ、いずれも埋まり込む土の状態から近代以降の構築と思われる。

土層を観察するため、半面の掘り下げを指示。

担当は菊永・飯塚ほか。

  ・集石群

直径が1メートルに満たない小規模な集石の群集である。

掘り下げを指示。

担当、板倉・盛口ほか。

  ・北側トレンチ

縄文時代の表土層が残存しているため、その掘り下げと遺構確認を指示。

担当、田辺、鈴木ほか。

 そして、田村が、主に東側区域とそこで作業をしている初心者の指導にあたった。

 さて、1号住居跡ではベルトの設定が終了し、北側の区画では掘り下げがはじめられている。

 私は、北側の黒褐色土のヒョウタン形をしたくびれ部で、重なりなのか、張り出しなのか、その正体の究明に入る。

 くびれの外側から、移植ゴテで薄掻きしながら土質を確認していく。やがて、くびれの末端に達したとき、

「違う土だ。

 遠目では同じように見えていたが、目が慣れたんだ。南側の土は黒色味が強く、ローム粒子の混入も見られない」

 このことから、ヒョウタン形は遺構どうしの切り合いによるもので、その南側のほうが後から堀り込まれた新しい時期のものであることが判明。

 しかし、遺構自体の正確な輪郭となると、重なり合っている部分に後から掘り返された形跡が見られ、そこで相互の土層が混じり合あっているので判然としない。それに加え、遺物もかなり出土しはじめているので、それを残しながら範囲を確認していくことは困難。

 そのため、南北のほかに、東西方向へもベルトを追加設定し、その断面の土層状況から切り合いを観察し、遺構範囲を特定していくことにする。

「中山君、南側へ東西ベルトを一本設定してくれないか、線引いておいたから。長くしてね」

 ここで長くと指示したのは、実際の住居跡の範囲が黒褐色土の外側へかなり広がることを予想したからである。

 通常、遺構確認の段階では、住居跡の厳密な輪郭はとらえ難い。それは、住居跡の縁に、壁の崩壊土等を含む黄褐色をしたローム系の土が堆積しているためで、そこでは平面的な観察を充分しても、基盤のローム層との識別はむずかしい。

 したがって、住居跡の輪郭は、当初確認された黒褐色土のかなり外側を巡っている場合が一般的で、それを予想して「長く」と指示したのである。

「ベルトの釘に水糸(測量用の黄色いナイロン製の糸で、水平を確認するために用いる)を張ったら、掘り下げてかまわないから」

 そう言い残し、現場内を見回りにいく。

 東どなりの2号住居跡では、住居跡埋没後に堀り込まれた小規模な集石がいくつか確認されているが、張りの強い無数の木の根にはばまれ、鉈、鋸、植木鋏を使い分け、切断をくり返しながら取り去らなければ肝心の調査が進められない状態におちいっていた。

「大変だけど、頑張って!」

 望月君と本荘君に声をかける。

 彼らはよく働く。現場へ出ると無駄口をたたかず、体がよく動く。若いうちは口の方がよく動くものだが、と感心するのである。

 いま、鉈で大きな根株と格闘しているのは望月君。いつもタオルで鉢巻きをしている彼は、さほどしゃべる方ではないが、がっしりとした体型に野太い腕をもっている。

 一方、新田次郎の小説に登場するような黒ずくめのロッククライマー風なのが本荘君で、彼は報道カメラマンとして働いた後、世界各国を放浪した経歴の持ち主で、機敏さ、そして精悍さを持ち合わせている。

 私が、彼に指示を出すとする。彼はいつも私の正面に立ち、しっかりと目を合わせて答える。

「はいっ、わかりました」

「あのぉ」

と言うときは、目線を若干はずし、

○×した方がよいのではないかと思うのですが?」

 指示をしっかりと受け止め、彼は自分の意見もはっきりと伝えてくる。

 若者とはこういうものだ、と思えるほどに、意識の鮮度が抜群なのである。

 彼ら二人は、一番大変なところへ率先して入ってくれる頼もしい若者なのである。

 現場の人物紹介のようになってきたが、さらに東側へ歩いていくと、田村君が発掘未経験の女性陣を指導して、集石の掘り下げにあたっている。

 直径 60120 cmで深さ 20 30cmの円形の掘込みに、拳ほどの大きさの円礫が詰まっているのだが、検出された四つのうち、二つは小さな焼破礫が散っているにすぎなかった。

 ここでの作業は、すでに掘り下げを終えようとしているが、その次なる工程は、

 ↓礫の出土状態平面図作成

 半割(片側の掘り下げ)

 土層(セクション)図作成(埋まり具合を知るため)

 完掘(全体の掘り出し)

 遺構平面図の作成

 遺構断面(エレベーション)図作成

 遺構内外の地点別標高計測(レベリング)

と作業展開していくが、その間に写真撮影、遺物の標高計測と取り上げが適時行われていくはずである。

 板倉さん、盛口さんをはじめ発掘の未経験者は、これから田村君の指示のもと、その工程の一つひとつの作業を経験していくことになる。

 発掘現場に未経験者がいれば、どこかの片隅で、言わばこうした実践的な新任研修が調査員の指導のもとに行われているのである。

 前知識は無くてもよい、すべては各人の、それを行おうとする意識の高さが問題なのである。経験的に言えば、よく質問してくる者ほど成長が早い。なぜならば、強い興味、関心が多くの疑問となって自らのうちに秘められているからである。

 J.J.Rousseau(フランスの作家)は「エミール」のなかで、子供にとっての最もよき指導者は、最も平凡な父親であり母親である、と語る。

 平凡とは言えそうにない田村君だが、兄のように指導している姿は、頼もしくもある。

 掘り出し作業に割り込ませてもらい、集石の状態を観察する。

 土はしっかりとしている。最近の農作業にともなう礫の処理ではない。ほとんどの礫が被熱しており、土には焼土や炭化物の粒子が微量に含まれている。土器の小片も含まれているが、それらは勝坂式の後葉から加曽利E式にかけてのものである。

 ひととおりの観察を終えて立ち上がりながら、いずれ住居跡との関係が問われてくることを予感。

「じゃぁ田村君、掘り上がったら平面図のとり方を教えてあげて」 

 ふり返って東側トレンチに入ると、飯塚君と菊永君が1号土坑の半割(土層等の状態を観察するため、遺構の半分を掘り出す作業)を終えようとしている。

   2号土坑         1号土坑半割

 この遺構は、その平面形状から落とし穴と思われていた。深さ二メートルを超える底へ降り立つと、半割した土層面には、黒色土をまじえるボソボソとしたローム層が中央へ盛り上がりを見せて堆積している。

 土質からは近代以降のものであること、また堆積状態からは人の手で埋め戻されていることは一目瞭然である。


 その後、2号、5号土坑も同種の落とし穴であることが判明。

 これらはいずれも、雑木林が畑地として開発された明治時代はじめごろのもので、野塩外山遺跡でも検出されていたものである。ここでは、北側の谷筋を上がって来ては台地上の畑を荒らし回る、イノシシやタヌキなどを捕獲するための落とし穴とみられる(第二章「板碑の発見」)。

「田村くーん。

 掘り上がったんで、こっちを先にセクションポイント設定して水糸張ってくれないかな。土層図は後で俺がとるから」

 このときの田村君の作業工程を手短に述べると、彼は

1号土坑から若干離れた位置に三脚に据えられたレベルを水平にセットする。

 菊永くんは、箱尺(スタッフ)と呼ばれる三段つなぎの角柱状のメジャーを持って基準点の杭上に、それを伸ばしてまっすぐ立てる。

 田村君は、単眼の双眼鏡のようなレベルをのぞき込み、中にある十字のスタジア線(レンズ内に設定された基準線)の水平位置を見通して箱尺の目盛りを読む。基準点が標高55.000m、読み込んだ数値が1.452mだとすると、そのふたつの数値を足した56.452mが田村君がのぞいている機械の設定標高になる。これを「機械高」とか「眼高」と呼んでいる。

 菊永くんが走ってもどってきた。

 そこで、ピンポールという赤白に塗り分けられた1メートルほどの二本の鉄棒を、土層面を通るような位置で土坑の両側へ垂直に立て、その間に水糸を渡す。

 その一方のピンポールに箱尺をまっすぐ添わせながら、

「田村君読んで」

1.401 5.1mm下げ」 

 任意に固定した箱尺の底面は、機械高の56.452から1.401を引いた数値。いままさに標高55.051mを示している。あと5.1mm引けば、切りのいい55.000mとなる。

 そこで田村君が5.1mm下と指示したのである。

 5.1mmをイメージしながら微妙に下げていく……

「ハイ! そこです」

 箱尺を動かさぬようにして、その底面へ水糸を引き上げて固定。

 そして、もう一方のピンポールでそれをくり返す。張られた水糸は世界基準の標高55.000mの水平線を作り出したわけである。

 ピンポールの位置は、後に全体の測量図へ入れられるはずであるが、この一方の位置をゼロとして、例えば 35cm行ったところで下へ21cm 41cm で下へ29cm 、というように測りながら、各土層ラインの要所要所が点表記され、鉛筆の線で結ばれていくのである。

 それを終えると土層説明にはいる。詳細に各土層の特徴が観察され、その所見が加えられていく。例えば、

Z層 暗褐色土 1 2mm程度のローム粒子を均等に含み、焼土・炭化物の微粒子をわずかにまじえる。
堅く、しまりがある。壁崩壊後に、外部から自然流入した土層と思われ、多量の遺物を包含。

などと、方眼紙の余白に特徴が記録されていく。土層は、以上のような手順で図面化を終える。

 集石とこの土坑で見てきたように、一つの遺構の調査であっても、完了するまでには数多くの工程があり、それだけに時間もかかる。

 1号土坑を後にして北側トレンチへ入る。ここで検出されている遺構は、 12号土坑のみである。

 この土坑は、遺構確認の段階で1号土坑と同様な形状をしていたことから、落とし穴であることは想定されていた。しかし、埋没土の土質がしまりをもつ暗褐色土であることから、縄文時代のものである可能性も強い。

 掘り下げに入るのは、まだ先のことであるが、日にちを早め、そのときの様子を見ることにする。

「幅が狭いからセクション(土層図)は横でとる、だから手前側を掘り下げて。

 落とし穴だから遺物は出ないかもしれないが、それだけに小さな土器片でも重要になるから、注意して掘って」 

 やがて半分の掘り出しが終了したという報告を受け、見に行く。

 開口部の幅は83cm 、底部の幅は40cm 、中に入るとやっとしゃがめるていどだ。深さは142cm

 埋まり込む土層を確認していくと、上部は暗褐色土で覆われ、その下にロームブロックをまじえる暗褐色土が堆積している。

 特徴的なのは、側壁が狭まる中段付近の壁際にブロックを含むローム系の土が堆積し、それが底部にも薄く見られること。

 土層の堆積状態は以上であるが、次に状況証拠を見ていく。

 埋没土の主体は暗褐色土であるが、この土は縄文時代の地表土と同一であること。

 下半の暗褐色土にロームブロックが混在しているが、その量は非常に少なく、構築時に掘削されたロームとの混合とは思えないこと。

 土層の堆積状態に人為的な埋め戻しによる盛り上がり、あるいは片側からの傾斜等が見られず、外部からの表土層の流入による自然堆積の様相がうかがえること。

 これらのことから以下のような埋没過程が復元された。


 全体の埋没土の堆積状態から、この落とし穴は開口したままで放棄されていたらしい。

 使用中からとも思えるが、側壁のローム層の乾燥にともない、クラック(ひび割れ)が生じ、ぽろぽろと砂状のロームが落下して底部に堆積。

 放棄された時点より、外部からの暗褐色をした地表土の流入は激しさを増すが、それと同時に乾燥した側壁上部の崩壊も進行。

 こうして暗褐色土に、砂状やブロック状のロームが混入しはじめるが、最も多く堆積したのは壁づたいに落下したロームで、壁際に単独のローム層が継続して形成される。

 遺構のなかほどまで埋没した段階で、空間が狭まり、ロームの保水力が向上したことにより、壁崩壊が減退。外部からの暗褐色土にロームの混在する割合が減少。

 なお、中ほどに見られる側壁の段差は、下方へ崩落したロームの量に等しく、埋没の過程で生じた壁崩壊にともなうものと見て間違いはない。

 以上であるが、この状況と明治時代の落とし穴である1号・2号土坑の比較から、重要な問題が派生した。

 埋め戻されなかったものと、埋め戻されたもの。

 構築時に掘り上げられた土は、明治のものは一様に埋め戻されているが、縄文のものではそれが見られず、当時の地表は残されているものの、周囲に掘り置かれたようなロームブロックやロームのまとまりがまったく認められないのである。

 つまり、畑を荒らすものを防御する場合と違い、食料獲得という積極的な狩の手段としての場合は、動物に悟られぬように細心の注意をはらい、掘り上げた土の処理を近くに積み置いていない可能性が出てきたのである。

 残念ながら、時期は中期の土器を包含する付近の土層の位置関係から、縄文時代の中期以前と言うだけで特定はできなかったが、こうした落とし穴が盛んに用いらたのは早期の後葉から前期にかける時期である。

 それ以後、猟法としては衰退し、防御的な性格が強められていくが、その間の事情を想定すれば簡便な罠猟の発達、例えば赤エイの尾やトリカブトなどの毒の使用法の確立による仕掛け弓などへ、猟法の主体が移行しているのではないかと、わたしは考えている。

 早期とすれば、この遺跡から南へ二百メートルほど離れた地点に野火止野塩という早期の遺跡がひかえている。この付近一帯は、そこをベースキャンプとする人々の猟場ということも考えられてくるのだが、この落とし穴からは、そうした縄文人が、けもの道に人の気配を残さぬよう、足跡さえも消し去っていた姿が浮かび上がってくる。

 数日後、土層図と残された半面の掘り下げが完了し、長さ223cmの落とし穴の全貌が明らかにされた。

 底の中央には二本の杭を立てた穴が残されている。

 この杭にかんしては、落ちた獣を突き刺すように先端を尖らせたものか、あるいは当て身として気絶させるていどのものか、研究者の見方が分かれるところである。

 私は後者をとっている。

 落とし穴の代表的な形態に、底の幅をV字形に狭めたものがある。もちろん人が掘るのであるから足の幅ていどは平らなのであるが、その機能を考えたとき、落ち殺しにしていないことは明らかである。

 獣が、カムフラージュの枝葉を踏み抜いて落ちる。胴は挟まり猪などは足が底につかない。鹿とて長い四つ足が一直線となり身動きがとれないはずである。

 生け捕り。

 猟場の見回りの周期がどれほどであったかは、わからない、しかし殺してしまえば腐敗は早まり、鳥の餌食にもなる。極限で生かしておけば、発見したときに撲殺し、あるいは身動きしないほどに衰弱していれば、そのままの状態で集落まで運び込むこともできる。

 こうしたことを考えた場合、落ちたと同時に刺殺することの意味は薄らぐ。杭の先は尖らせてはいない。

 だからこそ、杭を固定する穴を 42cmもの深さに、しっかりと設置しているのである。

 先に穴の深さを提示すべきであったが、みなさんはどう思われるか。

 考古学は、昨今の新聞記事で見る限り、発見することである。しかし、それが学問であるということは、わからぬ杭一本にも論理展開による考証が必要なのである。

 話は横道にそれるが、三内丸山遺跡の巨大な物見塔。

 それは巨大な柱から連想されたものだが、一遍上人の生涯をあらわした絵巻には、舞台の上に、念仏踊りで激しく入り乱れる人波が描かれている場面がある。

 先の大きな柱の意味は、高さか、重さか。

 たとえ低くとも、重量を支えるものとすれば太さに意味を見いだすことはできる。しかし、テレビ番組では、高さをほこるやぐらの柱を赤と黒の螺旋模様に彩色した3Dで、視聴者の前に提示していた。

 しかし、従来の考古学では縄文時代の意識にまで入り込む研究はなされていない。赤と黒という色彩の問題にかんしては他学からの借用にすぎない。

 また、櫓の構造にかんしても、桜町遺跡での発見以前のこの時期には、まだ木組みに用いるほぞ組の技術すら鉄器の登場する弥生時代からで、縄文時代にはないとされていたのである。

 そういうことを思うと、センセーショナルではないが、調べ、想像し、考えを尽くす中からの発見がいかに大切なものであるかが見えてくる。



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   執筆・編集
       清瀬市郷土博物館
        学芸員 内田祐治

 制作    2005年3月
 
 歴史読本
【幕末編】
多摩の江戸時代の名主が書き残した「日記」や
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