掘り出された聖文 8
─縄文時代中期遺跡発掘調査の記録─





目次詳細
 
 第三章 野塩前原遺跡発掘調査の記録   


   ・縄文的建築法の残存  

  ・復元された遺跡の姿

  ・「廃棄」幻視

  ・地下の迷宮

  ・調査終結

縄文的建築法の残存

 ここで屋根構造についての話が出てきたので、本論から離れ、それについての解説をしておくことにする。

 こうした、縄文時代中期にみられる屋根構造の基本原理は、わが国の原風景を醸し出す農家建築の屋根構造として継承されてきている。

    郷 蔵          古民家

 アイヌ民族のコタン()と屋根構造
               
『アイヌ民族誌』より

 上段の写真は、右が清瀬市の野塩地区に、昭和五十年代半ばまで維持されていた江戸時代後期に建てられた古民家。左は清瀬市の下清戸地区に、これも昭和五十年代半ばまで存在していた郷蔵。この郷蔵と呼ばれる建物は、天災に対処するため、江戸時代後期に稗や粟を蓄える備蓄庫として建てられたものである。

 自然木と草をもちいる日本家屋の建築法は、その素材の類似性から狩猟を重視してきた北方アイヌ民族にも共通している。

 これらの家と縄文時代の家の大きな違いは、前者が平地式であるのに対し、後者は竪穴を掘る半地下式の構造をしている点にある。

 つまり、地表の位置を基準にすれば、縄文家屋は竪穴の深さの分だけ床からの高さが取れるわけで、屋根だけを地上に造り出せば室内の高さは充分にとれる。しかし、竪穴をもたず、地上に床を設定するアイヌ民族の家屋、そして湿気を嫌い床を地上より数十センチ上げた位置に床を設定する日本建築では、縄文家屋のように屋根だけでは室内でしゃがんで暮らさなければならない。そこで柱を外周にめぐらせ、屋根を上げることで室内の高さを保つことになる。

 建物が二間×三間の、中世から近世にみられる農民の小規模な住まいであれば、外側に一間ごとに柱を立てれば、室内に柱は必要ないが、馬屋となると話は別で、馬の轡から延びた縄が梁などにつながれるため、馬が暴れると建物が崩壊する危険もある。そこで二間×三間といえども室内にも一間ずつ二本の柱を組み入れている。

 建物の歴史は、人間の意識の発達とは別に、このように技術という具体的な状態で継承できるため、歴史の流れに沿いさまざまに分派しながら高められてきている。

 しかし、そうしたなかにあっても、古い時代に機能的な構造をもつ技術も生み出されており、例えば雨を受けて流す草屋根の、下から上へ徐々に葺き重ねていく工法は、材質の異なる板、瓦、銅板でも基本は同じ工法がとられている。

 このことは、時が移り変わっても、どこかにそうした技術が現代へと継承されていることを物語るが、そうした視点から、あらためて建築史のなかで縄文的な屋根構造の流れを見ていこうと思う。

 さて、古代では農民層の家は縄文時代以来の竪穴式住居。ただし、平面形は方形となり北側や東側に竈が作られるようになっている。
 

          寝殿造り
 これに対し、上層階級では寝殿造り(上写真)と言われる床を上げた建物が一般的であったが、この建物は寺院などの巨大建築は別として、地面に柱を入れ込む掘立柱で、屋根は瓦葺や板葺、棟にのみ瓦をあげたものが地方の国衙や郡衙(地方の役所)では一般的であったようだ。

 それらは大形であるが、基本構造は二間×三間の母屋と呼ばれる中心となる建物に、一間分の庇をまわりに付属させることで、目的に応じて段階的に大形化していくもので、母屋内部の柱を除き、他はすべて一間ごとに柱を立てて強度を高めているのが特徴である。

 この場合注意されるのは、庇を表と裏に二面まで付属した屋根は切妻の形状であるが、四方に四面付属した場合は入母屋となる。

 中世になると都市に住む住民も多くなる。これらの人々は掘立柱ではあるが、板葺きの切妻の住居が一般的であった。一方農民の家は草葺きの寄棟で、二間×三間の土間、あるいは土間にころがし根太と呼ばれる丸太を置き、簡易な床を造りだす建物となり、縄文風の竪穴をもつ建物は、作業小屋として残される。

 しかし、ここで重要なのは、こうした平地式となった農民家屋の屋根組みにも、瓦や板葺きの寝殿造りからの屋根構造からではなく、明らかに縄文的な構造からの流れをくむ寄棟が使われていることである。

 切妻の垂木が平行に配置されるのに対し、寄棟の基本形は垂木の放射状の配置で、先のアイヌ民族の写真左下の家屋もこの造りなのである。

 こうしてみてくると、古代以来の神社建築は切妻。縄文時代からつづくものではないと言わざるを得ない。

 建築史では、この間の事情を南方系〈切妻形〉、北方〈寄棟形〉として、系統の異なりとみている。

 また、一方ではこの時期の上層階級の建物は、一大変革をとげている。それは独立した接客空間の発達によるもので、寝殿造りにおける母屋と庇部の段差をなくし、梁から天井が釣られる構造になる。しかも、屋根の重みはこの梁で支えられ、室内の柱を抜くことも可能となった。

 この書院造りの完成により、左右対称であった建物は、自由にその形を変化させることができるように発展したのである。

 近世に至ると、農民の住まいは、床を上げて板張りにすることが一般的となった。

 なかでも、村方三役と言われる、名主、組頭、百姓代は、農家建築でもいち早く柱を礎石の上に乗せる上層階級の手法を取り入れている。もちろん不安定な石の上に柱を置くわけであるから、梁や桁組もしっかりしていなければならないわけで、各所に書院造りの技法が取り入れられていくことになる。

 一方下層農民は依然として中世以来の二間×三間ほどの掘立柱の寄棟に住まい、縄文からの竪穴をともなう建物も作業小屋としてその伝統が維持されている。

 近代に入ると農民の家屋全般に変動が起きる。

 その原因は現金収入の道が開けたことによるもので、工業化のなかで生糸の生産、また機織りと、労働の対価が金銭に置き換えられ、女子といえども機に足がとどくようになれば機子として住み込みで賃稼ぎができたのである。年頃となれば預けられた家から嫁じたくをととのえてもらい、嫁に行くこともできた。

 こうした現金収入により、以前は礎石をもつ家など限られていたものが、急速に一般化したのである。

 柱は礎石で受けるほか、明治になると玉石を配置した上に角材をねかせ、その上で柱を受ける台まわしと呼ばれる方法も頻繁に行われるようになる。これは土間まわりの壁下にもちいられることが多い。

 こうしたなかで、縄文以来の掘立柱は消え去ることになる。

 やがて、大正時代に入り洋風建築が普及しだし、関東大震災、第二次世界大戦と歴史は移り変わり、その被害の大きさの分だけ洋風建築の普及が加速。屋根に残された縄文からつづく構造の名残も、昭和の終焉とともに消え去り、復元家屋に痕跡をとどめる。

 
 復元された遺跡の姿

 この表題に負けてしまいそうなほど、発掘調査をしても疑問と推測ばかりが山積みされ、確信をもって語ることのできる事象は少ない。

 それは、たとえば親子の関係であっても、離れて数十年たったある日、突然ある情景を想い出し「時分も同じことをしている」と気づき、その共有されていた意識の不思議さに頬をゆるめることもある。

 子が親の気持ちを知るのに、それだけの長い期間がかかっているのであるから、と言うわけではないが、発掘により、さまざまな資料が発見されたといっても、一度失われてしまった時点から、その行動や意識を知ろうとすれば、はるかな困難がともなう。

 では、われわれはどのようにしたら少しでもこうした世界へ踏み込むことができるのであろうか?

 先の親子の関係を考えてみると、それは同じ状況に身を置いたときに記憶が呼び戻されていることになる。もとより、われわれにはそうした記憶はないのであるが、よりよく考えていくためには、発掘現場という側からだけでなく、そこで知り得たことから復元した遺跡、つまりその仮想現実のなかに身を置き、われわれの感性を頼りに問題点を抽出してみることも必要だと思うにいたったのである。

 ここでは、民族学者が野生に暮らす民族の調査に訪れる設定で、今までの事例分析から得られた想定を綾織りし、時間経過のなかで遺跡全体の様相を組み立てて行くことにする。

 なお、調査範囲が限定されているため、遺跡全体の中での一区域の動きにすぎないことを前置きし、遺跡全体測量図と住居間土器廃棄段階想定図をポケットにしのばせ、調査旅行へ出立することにする。

T期

 野塩前原遺跡の台地縁の一区画に住居が出現するのは四千五百年ほど前の縄文時代中期、土器の型式年代では勝坂V式と呼ばれる時期である。

 台地の縁ぎわの地形に沿うように、二軒の棟をもつ家が建ち並んでいる。

 西(1号住居跡)と、東(8号住居跡1期)の家の間には、人が並んでゆったり通れるほどの距離がおかれている。

 彼らの生活に欠かすことのできない水場は、北側の斜面に自生する雑木の林を百メートルほど縫い下りた所に湧き出る泉、ここから土器や革袋に水を入れて集落へ運び上げているらしい。

 この道を少し下ると川へ出るが、雨の多い季節を除けば水量は多くはなさそうである。川床には台地の基盤をなす武蔵野礫層が露出し、彼らにとっては打製石斧をつくるための石材や、日常の焼け石を用いる煮沸のための石材調達場でもあるはず。

 川縁をさらに北へ七百メートル進むと、水量の多い川へ合流し、川水の淀む大きな淵がある。鹿や猪など動物の集まるぬた場として、格好の猟場ともなっていそうだ。

 集落にもどり、西の家(1号住居跡)へ入り込んでみる。

 入り口は、雨の進入を防ぐ庇が造り出されているのですぐわかる。

 五十センチほどの梯子を下り、薄暗い室内へ入ると、十二畳半くらいの広さであろうか、そのやや奥まった所に川原石で囲む土器をすえた炉がつくられている。

 火を絶やさぬようにしたものか、二、三本の細い粗朶木が入口に近い側の土器を利用した炉縁へ掛けられ、チロチロと静かな炎をあげている。

 その揺らぐ明かりに映し出された室内には、直径二十センチほどの五本の柱が立ち並んでいる。壁は、ぐるり見渡すまでもなく、土を掘り下げた部分に、崩れを防ぐための網代のような編み物があてられていて、その上には梁に斜め掛けされた放射状に立て並ぶ垂木に、横木が蔓留めされ、その骨組みの上に草が葺かれている。

 奥まった処に立ち、入口をながめると、暗さの中に西欧の宗教絵画のような透明感をもって、外の世界が閉じこめられている。

 ここに住む人々は見えない、しかし、こうした内なる世界と外なる世界の対比にも、あるいは昼と夜や生と死を投影するような意識をもちえているのであろうか?

 そうしたことを想いつつ、外へ出る。

 東の家(8号住居跡1期)へ向かうわずかな時間、外側から見る屋根の外観は決して立派なものではない。

 われわれの目にしてきた農家建築の屋根は、整いをもつ重厚なものであるが、それは屋根職人のふるう、反りのある独特なハサミによる刈り込みから生まれる。

 和鋏のルーツは中国から渡来した古墳時代。屋根職人の用いる中間支点の構造をもつハサミの渡来は七、八世紀。いずれにせよ金属器の使用から遙かにへだたるこの時代に、今日の遺跡公園に見られる整然と刈り込まれた屋根は見られない。

 とはいえ、草屋根に落ちる雨は下へ伝い落ちる。その下から草束を敷きつめ、上へずらしながら段重ねしていく手法で水滴を流す手法を、いつ発明したのであろうか?

 さらに屋根に近づいてみると、屋根材の朽ち果てた部分に土が垣間見える。どうやら草葺きの間に竪穴を掘削した土を挟み込み、室内の保温力を高めているらしい。

 東の家(8号住居跡1期)は、広さ十四畳ほどで西の家(1号住居跡)より一まわり大きいが、入口の方向や室内の構造は同じである。

 二十年近くが経過し、再度この村を訪れてみると、二軒の家は見た目にも老朽化していることがわかる。

 屋根は所々草束を入れ込んで補修されてはいたが、ねじれながらの沈み込みが起きているようである。

 まず、西の家(1号住居跡)の中へ入ってみる。

 あれだけ整然としていた室内には、東と西の梁下を通る二本の架構組が加えられ、もはや当初の柱は宙ぶらりんの状態で柱の意味をなしていない。今はこの二本の架構で梁を受け、すべての屋根の重量が支えられている。

 入口右手の柱の根元には、ぐらつきを留める三方からのつっかえ棒の残骸が確認できるが、すでに根腐れが進行し役に立たなくなっている。

 それに引き換え、梁や垂木の上部には煤が垂れ下がり、充分な乾燥がなされていることがわかり、いぶされた黒さの中に強靱さが感じとれる。梁は新しい住居への転用も可能な状態にある。

 いったん外へ出て、今度は東の家(8号住居跡1期)へ入る。

 この家も掘立柱の耐用年数を過ぎ、屋根を支える柱の弱体化は極まっている。西の家と同じく架構組を三箇所もほどこして屋根の沈下を防いでいるが、すでに東側の屋根全体が五十センチも内側へ倒れ込んでおり、東側の垂木に室内の中央から斜めのつっかえ棒もあてがわれてはいるが、もう限界にきているように見受けられる。

 

U期

 数年後に村を訪れると、今まであった家は取り壊され、新たな円錐形の屋根の家が東西へ離れた位置に出現していた。

 西の家(A号住居跡1期)は小さい。真東に向いた入口から中をのぞくと七畳ほどの広さである。

 梯子を下りたところで一瞬とまどう。

 外から見た屋根形が円錐形なので、柱配置が四本と思い込んでいたのであるが、変な位置に柱が立っているのである。

 目が暗さに慣れたところでよく観察してみると、南東側へ柱を山形に配置した五本柱だったのである。

 通常五本柱であれば棟をもつはずであるが、小さいためか梁の頂部が一点に交わる円錐形の屋根を造り出していて、山形の右梁から入口上の庇が出されていたのである。そのため、入口の下に立つと炉が右手の奥まったところに見えている。

 柱や梁材は、前に使われていたものに比べて細い。

 この家の住人がどの住居から移ってきたかはわからないが、季節を待ち、充分な労力を投入して造られた家とは思えない。移り住む動機に、何か突発的な事情があったのであろうか。

 炉に歩み寄る。四方に突起をもつ土器が埋め込まれている。

 土器の型式は明らかに加曽利E・式。最初の家が出現してから数十年が経過し、ここに新築された住居の炉には新しい時代の土器が使われている。

 文様は、粘土紐の貼り付けによる表現が中心となり、以前にはその中に三つ又や渦巻きが対立するように描き込まれていたが、それがなくなり、すっきりとした、しかも力強い粘土紐による文様だけが展開している。

 心理的に言えば、この文様は彼らの意識の中にある、事象を認識するためのものを比較することから生み出される複雑な対立関係が、整理統合され、より昇華した段階へ進んだことをうかがわせている。

 他に、生活状態に変化はないかとあたりを見回す。

 埋め込まれていて気付くのが遅れたが、以前には壁下に溝堀りは見られなかった。それが今度の家では網代様の編み物の下端をこの溝に埋め込み、土壁の崩れを強固に防ぐ工夫をしているらしい。

 こうした周溝と呼ばれる壁ぎわの掘込みは、武蔵野台地の縄文集落では加曽利E・式期に多出すると言われているが、ここでこうして見ていると、竪穴部の深さとのかかわりがあるのではないかと思えてくる。つまり、竪穴の深さが増せば、それだけしっかりとした押さえが必要で、それにともなうものがこうした周溝ではないのか、という疑問である。

 周辺での調査を思い起こすと、この百メートル南で調査した勝坂・式の住居跡には周溝が存在していたし、同じ時期の野塩外山遺跡1号住居跡にもそれがあった。しかも、双方ともに八十センチ以上の深さをもっていた。

 加曽利E・式の時期に多出とは言っても、限定されているわけではない。どうやら既成の概念にとらわれていたようにも思える。

 薄暗がりの炉辺に腰を下ろし、その先を考えてみたくなった。

 われわれは発掘調査をしても、住居跡の実際の深さを知らない。それは、耕作などで上部がすでに破壊されているためだが、もし、周溝と竪穴の深さが関係しているとするなら、加曽利E・式期を頂点に住居跡の深さが増していることになる。

 土を深く掘り込んだ家。土屋根。多様な炉形態。連想されるのは寒さ……… hypsithermal……

 このとき思い出されたのがヒプシサーマル期という気候変動期の存在である。

 今から六千年ほど前、太陽活動が活発化し、年平均気温が二度上昇、海面は五メートル高まり、縄文海進と言われる現在の低地部が海に没する状況がつづいていた。この時期がヒプシサーマル期。

 ところがその後、五千年から四千年前の気候は一転、ヒプシサーマル期以後の寒冷期へ変動し、冷涼で雨の多い湿潤化した気候が到来しているのである。

 この遺跡の時期は四千四百五十年前から百年ほど、まさに加曽利E・式期は、その冷涼気候の頂点に位置していることになる。

 さて、「真実は如何に?」と考えながら、腰を上げ東の家(4号住居跡1期)を見に行く。

 外へ出て歩きはじめると、もとの西の家(1号住居跡)が窪みとして目にはいってきた。第一次埋没土が壁ぎわに厚く堆積し、中央北寄りにあるはずの炉もすでに埋まり込んでいて確認できなくなっている。

 焼けた礫や土器片が見え隠れしているが、意図的にまとめ捨てたものは見られない。どうやらこの住居跡は、まだ壊れた土器の中心的な廃棄場所としては位置づけられていないようで、家の周囲や道に落ちている土器片の納め場所ほどの意味にしか使われていないように思える。たぶん、焼けた礫も、大方はそのような意識で廃棄されているのであろう。

 歩みをすすめ、こんどはもとの東の家跡(8号住居跡1期)に立つ。

 何か変わったことがないかと観察するが、状況は、今見てきた住居跡と同じ。

 さらに歩き、新築された東の家(4号住居跡1期)へ近づく。

 この家も棟をもたない円錐形の屋根なので、先の西の家(A号住居跡1期)と同じ構造だと思って入口からのぞき込む。

「あれっ、四本柱!」

 身をひるがえし、二、三歩離れて屋根の形を見直す。西の家は五本柱で、一方に山形の梁組をなしているのでその部分に円錐形の屋根を造り出しているが、この家は四本柱。隅の丸い四角錐だったのである。

 目くらましされた気分で中へ入る。

 室内は九畳ほどの広さで、こちらは太くがっしりとした構造材が使われている。

 西の家(A号住居跡1期)とは対照的に、材料の調達に恵まれていたらしく、計画的な構築であることがうかがえる。

 炉はほかと変わりなくやや奥まった位置につくられているが、埋め込まれた土器は径が五十センチを超える大形なもの。興味津々のおももちで土器の文様を観察。

 これも加曽利E・式の土器だが、口と胴に展開する文様の間に無文帯が存在し、それらが一体として描かれる西の家の土器よりも新しい型式の様相をもっている。

 そのことは画面構成についても言える。西の家の土器は突起から下へ延びる直線文で画面が四分割され、その中に粘土紐を貼り付けたモチーフの変化形態が描き出されていたが、この土器は画面分割がなされず、一連の流れとしてモチーフを変化させている。

 この両者の違いに対して心理的な分析を試みれば、西の家の土器には、画面構成上に正反、明暗などの意識からくる、モチーフの鏡像的な反転描写をともなう対立関係がひそんでおり、ここの土器には対立関係がモチーフ自身の内へ納められ、解消したことが表されているように思える。

 とは言え、人の意識というものは電化製品の進歩のように、すべて高まっていくものではない。

 高まる時期にはエネルギッシュに多様な姿で現れ、低まる時期には単調な姿として現れ、それが絶えず浮沈する意識の状態を生み出している。

 ここでのあり方が、ある意味でおおきな意識の指向を現していることは確かであろうが、二者が文様として段階的に発展したと決めつけてしまうのは、今の段階では危険だ。

 なにかによって意識の高められた状態、それはヒプシサーマル期後の環境変化からくる外的刺激であったかもしれない。

 変化する生態系。狩りの方法も、採集の方法も、その変化に刻々と順応していかなければならなかったはずだが、そのようなことが外的刺激となって、想像活動の活性化をもたらしたことも考えられてくる。

 どれ一つとっても、全く同じものが作り出されていない勝坂・式から加曽利E・式期の土器。その文様にこそ、彼らの高まる意識の状態を、読みとることができるように思えてならない。二つの土器の文様変化は、そうしたなかでの多様性として、私の心に入り込んでくるのである。

 それはまさに、土器に現そうとするものが、それぞれの意識の強さをもって多様化している状態として。

 

V期 

 数十年後。

 この村を訪れるときには、いつも同じ位置から見渡すことにしているが、西の家も東の家も一まわり大きくなっている。

 どうやら同じ場所で建て替えがなされたようだ。屋根の古びたようすから、かなりの時が経過しているらしい。

 西の家(A号住居跡2期)は入口が南へ移されている。

 南側の梁から直角に掛け出されている入口上の庇は、南から東へ20゜の方角へ向けられているが、どうもこの方角に入口を設定することが、彼らの建築上の定石であったように見受けられる。

 そう考えると、ここの前の家は東に入口が設けられていて、構造材も貧弱であった。新しい場所への新築であったはずなのに、何か不安定な情況がつきまとっていたのであろうか?

 一メートルほどの間口から、梯子をつたって下りる。

室内の広さは十一畳ほど。建て替えの様子がはっきりと見てとれる。

 炉をそのままに継承し、同心円状に竪穴部を押し広げているのだ。もちろん周溝も新しく掘り直されている。

 柱は以前と同じ五本だが、西側と北東側の二本が前の家から引き継がれているようで、他の三本は新たに設定し直されている。そして、この部分の広がりにより屋根を大型化させていることが知られる。

 屋根を見上げると、北側が全体に左回転のねじれを起こしている。その原因は北側と北東側の柱の根腐れであることは容易に判断できた。このまま放置すれば強風による倒壊はまぬがれない。この状態で補修するには、傾いた屋根をそのままに、二本の柱の位置替えをして支え直すしか方法はあるまい。

 まるで家屋調査士にでもなった気分で外へ出る。

 東へ歩くにつれ、・期の二軒の住居跡(1号住居跡・8号住居跡1期)が近づく。

 すでに三分の二ほども埋まり込んでいるが、そこに見られる遺物廃棄の状況は、以前とは明らかに様相が違ってきている。破損しているが形を保つ土器、あるいは同一個体と思われる破片群が廃棄されだしている。

 たぶん、家の建て替えが行われたころからであろうが、この二軒の住居跡が土器の主体的な廃棄場として位置づけられはじめたようだ。

 西の家跡のまわりを歩きながら、注意深く遺物の出土状態を観察していくと、縁から入れ込まれた土器のほかに、埋没が進行したためか中まで入り込んで廃棄している土器もあるらしい。

 土器以外では、破損した打製石斧や焼け礫も目につく。しかし、これらは消耗が激しく、日常的な行為として投げ入れの様相をもって単品廃棄されているように見受けられる。なお、廃棄遺物の全体量はさほど多いものではないことを記憶にとどめておく。

 さて、東の家(4号住居跡3期)はどのような建て替えがなされているのだろうか、屋根形を確認するために家のまわりを歩く。北側の葺き下ろされた屋根縁に差しかかったとき、足に伝わる土の感触に違和感を覚えた。少し窪んでいて柔らかい。

 前の家より南へ一メートル二十センチほど移動しているので北側を埋めたことは察したが、西の家のように、なぜ同心円状に広げなかったのであろうか?そういえば入口の庇の出されている方角も、南南西へ向けられていて定石ではない。

 漠然とした疑問をいだきつつ、中へ入ってみることにした。

 室内の広さは十一畳ほどで、五本の柱が立ち並ぶ。しかし、問題なのは炉が三つ直列しているのである。家の位置を南へ移したことにより炉位置を変更せざるおえなかったことは想像されるが、北端に見られるもとの家の炉と、南端の現在使われている床を掘り込んだだけの地床炉の間に存在する、三つ目の石組炉は何を意味しているのか?

 床を丹念に調べると、北側へ山形に柱を配置した五本柱の家が建てられていたことがわかる。つまり、この家は二度の建て替えをへた三軒目の家だったのである。

 一軒目の家は四本柱の九畳ほどの広さであったが、東西の梁下へ太い支えを置かなければならないほど、掘立柱の耐用年数が過ぎるまで維持され、建て替えに至っている。

 二軒目の家は、北側を除く三方を掘り広げ、十五畳もある大形な家に造り替えている。庇は定石の向きに設定されている。

 だが、年数が過ぎ、若干の小規模な補強が必要となったころ、それは構造的にはまだ長期間住みつづけることのできる時期であるが、南西からの烈風にさらされ、入口にあたる壁の崩れをともなう家屋半壊の事態に直面したらしい。

 家の建て替えは緊急性を帯び、壊れた家の材料をそのまま用いることで急場をしのがなければならなかったようだが、南北の梁が折れていたために、この部分を短く設定しなければならず、結果的に五本柱であるにもかかわらず棟をもたない円錐形の屋根形としなければならなかったようである。

 しかも、南側の壁が崩れを生じていたため、その方向へ掘り広げなければならず、そのことにより北側へできた大きな空間に対して、住居範囲の北辺へ杭による柵留めをほどこして盛り土する工法をとったことが想像されてくる。

 それを確認するため、この部分の埋め土を少し掘らせてもらうことにする。盛土には遺物の混入は見られない。このことから、盛土の調達先は拡張した南側のロームではなく、しかも掘り返した住居跡の埋没土でもないことは明らかである。

 ここに重要な問題が隠されている。つまり、なぜ南側のローム層を掘り下げているのに、その土を北へ埋め込まないのか、という疑問である。

 考えられるのは、その土が別に使用目的をもっていたこと、そしてこの場合には、ロームでなければ目的が達成されないという条件が付帯していることになる。

 頭のなかでは、数十年前まで活躍していた特許の申請業務を生業とする「めくり屋」のごとくに、今までの膨大な事例がハイスピードで検索されていく。

 めくりが止まった。

 そこにあったもの、それは竪穴と不可分の関係を想定している「土屋根」であった。

 とすれば、南側で掘削されたロームは土屋根として利用されていたことになり、北側の埋め込みは別の土(地表土)を調達しなければならなかったことになる。

 真実は違うかもしれない。しかし、この考え方にも道理は生み出されている。

 さて、視線を床に落とす。

 初期の建て替えにより、すでに床には数多くの柱穴が開けられていて、この三軒目の柱穴設定に利用できる床空間は限られたものとなっていたはず。入口の庇方向が定石をはずれ、梁長の長い南南西へ設定しているのは、そうしなければならなくなっていたためか?

 その間炉端に座り込み、目を閉じ、この過程を観想しつづけていた。

 どれほどの時が過ぎたのであろうか、そろそろ退散しようかと立ち上がり、入口に向かうところで、梯子の左下に口の部分を浅く埋め込んだ加曽利E・式土器のあるのに気が付く。

 文様は粘土紐による「」文を連結したものだ。こうした場所にある土器は、お産にともなう胎盤を処理する胞衣皿などに比定されるが、全体を埋め込んでおらず、炉縁のようにしているのが気にかかる。

 何か、ほかの目的があるのであろうか?


W期

 さらに数十年が経過。

 見渡す先に新たな景観が出現している。

 西の家も東の家もすでになく、この家から直接移行したものであるかはわからないが、もとの東の家の西どなりあたりに、寄り添うように二軒の家が出現している。

 屋根形は、西側の家(8号住居跡2期)が棟をもつ構造で、東側の家(7号住居跡)は隅丸の四角錐。

 入口の庇の向きは、この東側の家が定石の南南西で、クリノメーターで測ると南から東へ20゜の方角だが、西側の家はそれが55゜ を測り出している。

 今までのあり方からすれば、・期の西の家(A号住居跡1期)と・期の東の家(4号住居跡3期)に見られるような、構造材が劣る緊急性を帯びたなかで構築された家、という推測が成り立つ。

 実際はどうなっているのかと西側の家(8号住居跡2期)に近づくと、南側から西側へかける屋根縁の土が、前回訪れた時の東の家(4号住居跡3期)の北側のように窪んでいて柔らかい感触をもっている。

 思い起こせばこの場所は一番はじめに建てられた東の家(8号住居跡1期)の跡地である。

 ほぼ同じ時期に放棄された西どなりの家跡(1号住居跡)は、わずかな窪みを残すだけで埋没が終了まぎわの状態。この家は、これと同じ埋没状態にあった家跡を掘り返し、重ねて構築している。

 だが理解できないのは、北側へ掘り広げ、南側から西側へ古い家跡の埋没土を残していることである。

 既存の柱穴をさけて新住居の柱穴を設定したとしても、南へ掘り広げたほうが、入口部に強固な壁面を確保でき、しかも庇の方角も定石に設定することが可能であったはず。

 (この時期に、2号住居跡は出現していないと判断した。その根拠は、南側の床に埋設されていた土器の型式差によるものであるが、もしこの土器が住居放棄直前の段階で設置されていたとすれば、西の家の構築当初から2号住居が存在していた可能性もでてくる。そして、このことが事実とするなら、北への拡張に、接近する2号住居との距離をおくための方策という見方が浮上してくる)

 北へ寄せている意味を解せぬまま、家の中へ入る。

 広さは十一畳ほど。五本柱で、その配置は南側へ山形を造り出している。

 ざっと見渡した感じでは、構造材も太さ二十センチを超える標準的な丸太が使われているし、梁組も均整がとれている。この構造材の状態からは、さほど差し迫った情況のなかで構築されたようには思えない。

 古い家跡の埋没土にあたる南から西へかけての壁面には、周溝内に等間隔に杭が打ち込まれ、土留めの柵がつくられている。それは家の外の埋没土中にもめぐらされ、この二重の柵で土の崩れをしっかりと防いでいる。

 これだけの資材と労力をかけるのであれば、なぜ新たな場所に竪穴を掘らないのであろうか? 

 埋没している住居跡を掘り返し、新たに住居を構築するのは、堅いロームを掘削する手間をはぶき、早急に家を建てなければならない事態に直面していたことと、一方的に考えていたが、どうやら別な原因も予測しておかなければならないようだ。

 別なとは言っても、現段階では、もとの居住地に対しての固執、そのような精神的ものの介在しか思いあたらない。

 室内をもう一度見渡す。

 基本構造はしっかりしている。しかし、この家も掘立柱の耐用年数が過ぎるほどに老朽化してきている。

 それは当初、屋根の全体的な沈み込みからはじまったのであろうが、やがて北西側へのゆるやかな倒れ込みとなって現れている。傾斜角は最大。5くらいであろう。

 それより少し前、根腐れが進んでいた東北側の柱の梁下へ、主柱に準ずる頑強な支えを入れたらしい。幸い処置が早かったようで、東側の屋根の倒れ込みは防がれている。

 全体として、この家もそろそろ建て替えの時期に差しかかっているのは確かだ。

 梯子を踏み上がり、外へ出る。

 今度は東側の家(7号住居跡)

 老朽化は進んでいるが、構造材は見るからに太く、単純な四本柱の構造そのものが、長さを必要とする梁の太さと相まって梁組の頑強さを高めて見せている。

 これまで見てきたどの家よりも立派な造りで、竪穴の深さも一メートルを超えている。

 入口は、向きは定石だが、南梁の西側へ寄せて造り出されている。そこから見ると、炉は視界の右手となるが、中へ入ると円形の室内の若干奥まった中央に整然と構えている。

 土器を埋設した炉だが、この土器がすごい。

 遠目からでも他を寄せ付けぬ存在感を放ち、近づくことさえはばかられるような気持ちにさせられてしまう。

 われわれは、縄文式土器を、造形作家の作り出した単体の作品に接するような感覚で受け止めている。しかし、そうした現代作家の作品のなかでも、描出された存在感に圧倒され、ある種の緊張をはらんだ意識とともに、作品の実相に観入させられることがある。

 つまりは、われわれの言うところの縄文式土器に対し、作り出した彼ら自身は、どのような感覚をもって接していたのかという、重要な問題に直面したことになる。

 この土器には、見下げる視線では近づきがたいものがある。少なくも私にはそう思える。茶会の席のごとくに正座で躙り寄ることが、この土器に接する最良の方法のようにも思えてくる。

 こうした、日常生活で忘れてしまっているものに接するときの気持ちをたどると、昭和四十八年の三宅島での光景が想い出されてくる。

 当時、室町時代を中心とする七十八面に上る和鏡が、本土から離れた黒潮の洗うこの島で確認されていた。そこで、神社の御神体の鏡の中にまだ確認されていない和鏡があるのではないかと言うことで、ある神社を訪れることになった。

 ところが大学生であった私には、想像のつかない世界が待ち受けていたのである。見ることを許してくださった神主さんは、平服を礼服に改め、社殿のある石段をゆるりゆるりと上がりながら、われわれを導く。

 社殿に上がり、十畳ほどだったと思うが、神主さんを前に連座する。やがて、小さな動きで居住まいを正すと、静寂のなかで祝詞言が御神体の鏡へ捧げられる。

「〜と申す」という、言祝ぎの末の言葉が長く響く。

 神主さんは立ち上がり、立ち姿のまま二、三度膝を浅く折り返した後、御神体の鏡を台座から離し、われわれの前へ丁重に差し渡された。

 もう、見るどころではない。正座した膝上で、自分の揺れている心が映し出されている。

 文様の描かれた背面を向けるにも、やっとの思い。

 この鏡は古いものではなく、江戸時代につくられた柄鏡であった。しかし、御神体としての姿は、恐ろしいほどに感じ取れた。

 今想えば、それはものに宿る「魄」、この世にとどまるという陰の霊魂を感じたのかも知れないが、こうした気持ちのなかに、縄文人の土器に接する感情に通じるものが少しはあるように思えてくる。

 ひるがえって、現代という時代が、ものの認識の仕方も、縄文時代とはかなり隔たってしまっていることを認識した上で文様の意味を探っていかなければ、形のみの理解に終始してしまうことは目に見えている。こうして考えてくると、想像の世界ではあっても、この場に縄文人がいまだ登場できないでいる理由は、その間の隔たりがあまりに大きいためということになろう。

 静まりかえった炉。

 これまでと同じように、入口の方向から粗朶木が掛け入れられていて、その部分が熱で変成している。 

 神主さんはいないが、自分で祝詞の様なものを捧げなくてはいられない心境。

 躙り寄りながら、描かれている文様を拝見。

 撚り糸を巻き付けた棒の回転から生まれる、節のある斜めの条線が、横なぐりの雨のように器面をめぐる。

 その上には併走する粘土紐で、「」形を基調に十字や「9」形の渦巻きを抱き込む、モチーフの変化する姿が四つの場面に展開し、その境には、各モチーフの左右の巻き込む端が、下の渦をともなって迫りあがり、アーチ状の突起を作り出している。

 地文をいっさい傷つけずに粘土紐を貼り付ける精緻な技術。・期西の家(1号住居跡)から・期西の家(A号住居跡1期)へと継承されてきた、炉に用いられる土器の文様が、この家において頂点に達した感がある。

 その変化の方向はこうだ。

 最も強調すべき粘土紐の文様。それによって生み出された個々の空間には、粘土紐のモチーフを象徴する対立の諸相が、器面を掘り込む渦、三つ又、条線により、あるときは単体で、またあるときは並置する対立や融合する姿として描き込まれていた。

 時を経て出現したものは、掘り込み文の消失した、粘土紐の貼り付けを主体とした文様。

 ここでは、深い意識の中にあった掘り込みによる対立関係の描出が、強められた粘土紐のモチーフの中へ解消された姿。

 さらに時が移り、モチーフの形状的な違いとして表現されていた重層的な対立関係が、「」という、とどまることのない悠久をあらわすメビウスの帯「」にも似たモチーフの形状へ集約されてくる。

 つまり、複雑な対立関係が解消と統合をくり返しながら整理され、まさに絶対的な「」という図像を生みだそうとしているのである。

 ∽…… …… 申…… 神

 神は、もと申一字であらわされていた。申は三宅島の神主さんの祝詞言の「〜申す」のごとくに、神との関係をもつ。人間の話す言葉は個人から生み出されるものではなく、神からの啓示を伝達するものとして授けられたもの。口から光を発する描写は洋の東西を問わず存在している。

 申をさかのぼる象形文字は「S」形。統合されてゆく彼らのモチーフの造形が神の表現であったとしても、どのような実相としてとらえられていたのであろうか?

 われわれの社会は、すでに神々の存在を意識しない世界へ来てしまっている、そしてそこは縄文時代から遠く隔たっている。

 そんなことを考えながら炉から下がり、立ち上がって部屋の全体を見渡す。

 掘立柱の耐用年数が過ぎ、屋根の沈み込みはかなり進行している。それに対する補強は、当初梁や垂木への部分的な支えであったようだが、ある段階で南北の梁下、さらに北と西の梁下へ、二本の架構組みをほどこす大規模な補強に至ったらしい。、

 この家も、放棄される時期が間近にせまっている。

 外へ出ると、右手の十メートルほど先に礫が集められている場所がある。近づいてよく観察すると、一メートルと一メートル五十センチほどの大小の掘込みがあり、焼けた礫が集まっている(10 11 号土坑遺跡全体測量図参照)

 とくに大きなほうは六十センチを超える掘込みがあり、礫が充足しテラス状に窪んだ所に高さ七十センチを超える加曽利E・式の大型土器の破片がつぶれ込んでいる。

 土器は全面、白灰色からサーモンピンクに変成しており、高温にさらされ、被熱破損したものであることは容易にわかる。

 埋まり込んでいる礫の一部を掘り出して観察すると、砂岩質の礫が融解し、カルメ焼きのような質感になっているものが認められ、さらに二つの礫が融着しているものまである(下写真左端)。掘込みの壁面のロームは厚く焼土化。

 千二百度を超えるている。しかも瞬間ではない、高温の状態が持続していなければならない。磁器を焼成するのと同じほどの高温が、この穴でつくり出されていることになる。

 しばらく考える。 

「これだけの高温は、焼き物のように窯体をつくらなければ出せやしない。

 獣脂を使ったか?

 しかし、このように礫が詰まった状態では還元炎となるはずなのに、壁面の焼土は明らかに酸化炎で焼成された状態」

 こうした状況証拠の連鎖から導き出された情景はこうだ。

 大小の穴がある、一方の小さく浅い穴は石を集め置く礫溜。他方の穴で燃焼が開始される。

 何もない空の状態の穴に枝木が入れ込まれ、火がおこされる。その横には、調理のためであろうが焼け石を投入して煮沸するための、水を入れた大形土器が置かれている。

 やがて燃えさかる火に石が入れ込まれ、熱せられる。

 その段階で北側の斜面から強風が吹き上がり、手の付けられないほどに炎が一気に強まる。松材などが使われていれば、やにの成分で火力は相当なものとなろう。

 土器の生地に混入しているガラス質の石英粒は変成してはいるが溶脱はしていない。火に直接掛けられていたのではなく、横で炎に包まれる状態であったのであろう。

 しかし、礫は最も高温となる火元に入れ込まれていたため溶岩のように融解。

 その後、火力の収まった段階で、大量の被熱礫が破損した土器とともにこの場所に放棄された。

 おおよそこのような情景が想定される。

 ここで問題となるのが使用目的であるが、北東へ二十メートルほど離れた場所に、径一メートル、深さ三十センチていどの掘込みをもつ集石跡の群集がつくられている。これは日常的な野外の調理場と思えるが、ここのものは、それに比べると大形で、なにか特別の施設とも考えられる。

 礫を大量に被熱させ、高温を維持するとすれば、簡易な小屋掛けをほどこした保存食料をつくる乾燥場とも思えるが、これだけの状況証拠ではまったくの想像としか言いようがない。

 集石跡を離れ、次に放棄されている家跡の埋没状況を確認しに行く。

 ・期に存在していた西の家(1号住居跡)は、ほぼ埋没が完了している。表面には部分的に形をとどめる土器も顔を見せているので、前の遺物廃棄の状態が継続していることがわかる。

 埋没が完了したことで、遺物廃棄も終息しているようだが、まだ勝坂式の土器が使いつづけられているらしく、そう遠くない時期に廃棄された土器に、あるていどの形をとどめる勝坂・式が混在している。

 埋まりきったことで、風や雨で小破片が住居跡の外へいくつか飛びだしているが、彼らはこうした土器片を日常的に拾い集めては、新しい廃棄場所へ納め返しているように思える。

 次に・期の西の家跡(A号住居跡)を観察する。

 中ほどまで埋まり込んでいるが、こちらにも部分的に形をとどめる勝坂式の土器が廃棄されている。すでに加曽利EU式の時期に入っているのだが、廃棄対象となる土器の中に、二時期前に焼造された勝坂V式が、まだかなり残されているらしい。

 次に、同じころに廃絶した東の家跡(4号住居跡)を見に行く。

 今見てきた家と同じに、中ほどまで埋没している。こちらは勝坂・式も散見されるが、破片が中心で、大方は加曽利E・式の廃棄が主体となっている。

 廃棄場に定めた場所により、廃棄対象となる土器に多少の異なりが生じているのであろうか? 

 そのことから、住居跡という廃棄場が、集落全体で共有されているのか、あるいは小単位集団、言い換えれば、その家に居住していた構成員のような、住居集団単位ごとの占有なのかという問題が派生してくる。

 だが、「廃棄現象を追う」で見てきたように、住居間接合する遺物の多さから考えれば、そのありようは前者と言わざるを得ないだろう。

 さて、ここで注意されたのが、ほぼ完形の状態で三十センチほどの間隔をあけて廃棄されている加曽利ET式の二個体の土器で、一方は粘土紐を貼り付けた文様をもつ中型の土器、もう一方は無文の小型土器で、ともに埋まり込んだ北縁に、添わせるように立て掛けられた状態で廃棄されている。

 ここで、いままで見られた遺物廃棄の状態を、復元的に整理してみることにする。

 まず考えなければならないのは、廃棄場が廃絶した家の跡へ定められていることだ。

 そこでは埋まり込むにしたがい、外へ自然に出てしまう土器片も多くなるが、こうした生活空間に飛び出た土器片は、日常的に拾われ再廃棄されていたらしい。

 石器や礫は、消耗が激しかったようで、破損や被熱して使用済みになったものが、土器の小破片と同じような意識で日常的に廃棄されている。

 それらに比べれば、土器の消耗して捨てられる頻度は低かったものと思われ、そのことで時々壊れたものが部分的に形をとどめる状態で廃棄されている。

 この場合、粉々に壊れたものは破片を集めて一度に廃棄し、部分的に底抜けしたものなどは、形をとどめるものを廃棄した後に粉々になった小破片を拾い集めて別廃棄するような、段階差のある廃棄行為をしているように見受けられる。

 後者は出土状態で言えば、大破片に接合する小破片が周囲に飛散している状態が想定される。

 土器の破損している状態には、土器自体が急激な温度変化に耐えられずに破損しているものが多く、焼け石を入れた煮沸にともなうもののほか、まれに土器づくりの焼成段階で冷め割れを起こしたものなどもみられる。

 この住居跡では、先の二個体の土器のうち、中型なものは使用による被熱でひび割れを起こして廃棄されたもであるが、小型なものは口にひびはあるものの、当初は完全な状態で廃棄されたらしく、ここに挙げる以外の廃棄原因がはたらいていたようにも思える。

 まだ使える状態で廃棄される遺物には、磨石(石皿の上で木の実などをすりつぶす道具)、耳栓(ピアス式の耳飾り)、土器片錘(網のおもり)などが往々にして認められるが、これらはセットで使う一方が破損したり、また所有者を失うことで廃棄されていることも考えられる。

 土器には、機能以外に文様とそれにともなう器形変化、つまり他の道具には見られない著しい型式変化が付帯しているため、ある研究者は、モデルチェンジにより、新しい型式の土器と入れ替えに完形土器の一括廃棄が起きていると解き、四季を一サイクルとするなかで、表裏一体の行為として、土器の製造と廃棄を位置づける。

 しかし、私が見てきた廃棄現象からは、どうもそれを素直に受け入れられない。

 仮りにモデルチェンジがあったとしても、この問題を突き詰めていくと、新しいものをつくったから古いものを捨てるという一元的な廃棄の状況は、これまでの事例では確認できない。

 一括廃棄されている土器の中にも新旧の型式が混在している場合があり、また一括廃棄そのものにかんしても、出土状態を詳細に吟味していくと、時間差の想定される事例も多く、廃棄時点で無傷の完形品が複数個体廃棄されるモデルチェンジ的な一律の廃棄状態は希だ。

 完形土器が廃棄されていても、それらには、古い型式の個別的な破損廃棄がくり返されるなかで、長く使用されてきた土器への所有意識の薄らぎ、あるいはまたセットとして用いられてきたものの一方の破損によって引き起こされる廃棄意識、所有者の喪失など、複数の要因が絡み合あっているように思える。

 ここに見られる、同じ状態で廃棄されている二個体の土器には、どのような意識がはたらいていたのであろうか?

 

W期以後

 さらに数十年が経過。

 W期の西側の家(8号住居跡2期)と東側の家(7号住居跡)は消失し、もはやこの区域に家は一軒も確認されない。

 前回訪ねたときにはなかった家が、西の家の南側に何年か前まで建てられていたようだが(2号住居跡)、それも廃絶している。

 この家の跡は、広さは十三畳ほどで、入口の庇の方角も南南東の定石であるのだが、竪穴の掘込みは浅いし、柱穴も小さい。どうやら簡易な家として建てられ、さほど長期間住んだものではないらしい。

 そのことは柱穴から推定される上屋構造からも言えそうである。

 柱は五本ではあるが、どう見ても南側の二本の梁の長さが足りず、山形に配置される部分が正三角形を描けずに低まった山形となっていたようである。

 このことで全体の梁組が四角形に近くなり、垂木頂部が一点に集まる、隅丸の四角錐の屋根形になってしまっていたようだ。この状態は・期西の家(A号住居跡・期)、・期東(4号住居跡3期)と西の家(A号住居跡2期)と同じで、いずれも転用材を用い、豊富な新材を調達してつくられた家ではない。

 それらの中でもこの家は、柱が二まわりも細く、掘り込みも浅い。どう見ても、しっかりとした家とは言い難く、それだけ寿命も短かったものと思われる。

 東北の柱が重なっていることを確認し、床を歩きまわり丹念に支柱の跡を探し出す。

 東梁の下に五つの支柱穴が検出できた。

 そのうちの四本は、ほぼ直列した状態にあるが、想定される東梁の方角からは北側を基点に西へ 11゜ ずれている。

 それらから呼び起こされた情景。東北の柱が根腐れで弱まり、添え柱、もしくは入れ替えられる。しかし、この弱まった柱を原因とし、屋根全体が右回転でねじれ込む。所々垂木へ斜めのあてがいを施すが、通常は5゜ほどの傾斜で大規模な架構組などの補強にはいるところが、それもできず、11゜も倒れ込んだところでこの家の寿命が尽きてしまったらしい。

 想像によって生み出された屋根から、視線を床に落とすと、中央北寄りに掘込みだけが残されている炉が目に入る。地床炉である。 

 近づいてみると東側に円形の浅い掘込みが併設され、不揃いの五個の被熱礫が置かれている。しかも、その一つは刃部を欠く打製石斧で、壁に立て掛けた状態で残されている。これだけでは、炉端の情景は闇に包まれ想像すらできない。

 この家には、もう一つ気になるものがある。それは南側の入口近くの床に、V期東の家(4号住居跡3期)でも見られた下半部を欠く土器が浅く埋められていることである。

 この位置には、底に気抜きの穴を開けた土器が埋設されることが多いのだが、その初期的なあり方なのであろうか。なにか、この家の廃絶と関係しているように思えてくる。

 すべて放棄されてしまった家の跡を、わけもなく歩きまわり、やがて元の場所へ戻って座り込む。

 この場所の歴史を深く胸に刻むまで、しばらくの時を必要とした。

 後背の林をわたる風は、ブロンズイエローにかわりはじめた木の葉を抱き込み、「カサカサッ」という葉音をかなでている。

 一時して立ち上がり、住居間の廃棄現象をまとめるため、もう一度古い順に家跡をたどってみることにする。

 T期西の家跡(1号住居跡)

 すでに完全埋没している。

 この家跡には以前破損した土器の個別廃棄がくり返されていたが、その主体は・期から・期へかける東と西の家(4号、A号住居跡)の存続期間中に破損した遺物廃棄ではなかったかと思われる。

 すでに埋没したことにより、この家跡は主たる廃棄場の対象からははずれたようだが、その埋没土に大きく掘り返された形跡が認められる。

 掘りっぱなしであれば土が柔らかいので崩れてしまうが、形が残されているようなので、埋め戻しがともなっているらしい。

 土を取り去るのが目的ではなく、再利用のために廃棄した遺物でも探しているのであろうか?

 V期西の家跡(A号住居跡)

 埋まり込みが進み、窪地になっている。

 破損した石器や使い終わった被熱礫が、土器の小破片とともに日常的に廃棄されているが、それにまじり、破損した勝坂・式や加曽利E・式土器の個別廃棄がまだつづけられているようである。

 しかし、廃棄の峠は越えたとみえ、その量は急激に減少している。

 ここに廃棄された主要な遺物は、・期の東と西の家(7号、8号住居跡2期)の存続期間中の前半に破損したものと思われるが、一部が・期西の家(1号住居跡)へも分割廃棄されている。

 V期東の家跡(4号住居跡)

 西の家と同じく埋まり込みが進み、窪地になっているが、こちらのほうが廃棄された時期が遅いようで、窪みが深い。

 廃棄の状況は、・期の東側と西側の家(7号、8号住居跡2期)の存続期間中の後半に破損したものが主体となっているようで、西の家跡に見られた勝坂・式期の土器はほとんどなくなり、加曽利E・式へ廃棄主体が変化している。

 W期東の家跡(7号住居跡)と西の家跡(8号住居跡)

 東の家跡(7号住居跡)は中ほどまで埋まり込んでいる。

 この台地縁の区域には家はなくなったが、調査区域外南側には村の本体が存続していたものと思われ、そこでの破損品が廃棄対象となって・期の二つの家へ分散廃棄されだしたらしい。

 そのある時点で村の本体のどこかで、埋没住居跡の掘り返しが起きたらしく、その遺物の混入した土が西側の家跡(8号住居跡)へ大量に運び込まれ、一部が東側の家跡(7号住居跡)の西側や1期西の家跡(1号住居跡)にも投棄されたようである。

 西側の家(8号住居跡)がこうした住居跡の掘り返しにともなう土砂の投棄場となったことから、通常の破損土器の廃棄は、東側の家跡(7号住居跡)と・期東の家跡(4号住居跡)の窪みへ移ったようである。

 とくに、この期の東側の家跡(7号住居跡)にはまだ大きな窪みが残されており、ここに廃棄場としての意識が集中したように見受けられる。

 その景観は、まさに土器の墓場と思えるほどである。

 その後に訪れてみると、最後の家が建てられていた住居の跡(2号住居跡)は完全に埋没していた。

 どうやら、埋没住居跡の掘り返しの土が入れ込まれていたらしく、同じ土が・期西側の家跡(8号住居跡)へも分割投棄されており、そこには出入りの激しさから土の踏みしめによる硬化面ができている。

 この最後の家跡(2号住居跡)には、村の本体に付属する野外の調理場がつくられていたのであろうか、被熱礫を入れ込んだ礫溜がいくつか取り残されており、北側には掘り出された壁面に焼け土が形成されている。まるで古代の竪穴式住居跡につくられた竈のような光景である。

 それを最後に、この区域には、古代……中世……近世……へとつづく、数千年の静けさが到来している。

 

「廃棄」幻視

 縄文時代の野塩前原遺跡への調査旅行から帰り着くには、民族学者クロード・レヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』で書き表した長き船旅のように、さまざまな事象を深く考えるための時間を必要としていた。

 家の構造と弱体化にかんしては、それなりの痕跡の存在から、あるていど実像にせまることができたように思える。しかし、土器にかかわる問題となると、精神的なものの比重が増すためか、いっこうに何も見えてこない。

 土器に描かれた文様の意味については、まだまだ遠い世界であるが、廃棄現象については何か見えてくるものがなければならないはず。

 廃絶した住居跡から、多量の遺物が累積して発見されることで、そこがもの送りの場と考えられてはいるが、漠然としたままに、その問題に考古学者は踏み込むことができないでいる。いや、事象が立ち入ることを拒んでいるのかもしれない。

 だが、住居跡という場が、彼らにとって意味をなすからこそ、そこに遺物が集められているはず。もし、もの送りの場であるのなら、どのような意識がはたらいているか背景を知らなければ、事象を読みとることもままならぬままに、その言葉だけを使いつづけなければならない。  

 そんなことを想いつつ時を過ごしていたある日、『サンタクロースの秘密』という本を想い出した。

 数年前の十一月ごろであろうか、妻が図書館から借りてきたのであるが、どんなにおもしろいことが書いてあるのかと、開いて見て驚いた。

 なんと扉に書かれていた題名は「クロード・レヴィ=ストロース 火あぶりにされたサンタクロース」

 そのころ神話的な思考方法を知ろうとレヴィ=ストロースの本を読みあさっていたので、他の本を後まわしにして読み進むことにした。

 私が生まれる一年前にあたる一九五二年に『レタン・モデルヌ』誌に発表されたものを、宗教学の中沢新一氏が訳し、「幸福の贈与」という論説を併載した書である。

 事の起こりは一九五一年十二月二十三日、フランス。

 パリから南東へ二百六十キロほど離れた、辛子の産地として有名なディジョン。

 この日は日曜日であったそうだが、その午後三時。ディジョン大聖堂正門前の広場で、教区内のクリスチャン家庭を代表する二百五十名の子供たちが、聖職者の同意のもとに、サンタクロースを火あぶりにしたというのである。

 それは、戦後のアメリカから輸入された派手なクリスマスの習俗が、キリストの降誕祭を異教化させるものとして激しく非難するための行為であったという。

 レヴィ=ストロースはこの問題の意味について、サンタクロースのもたらす子どもたちへのプレゼントという贈与のあり方をも含め、クリスマスの歴史的な変遷を追う。そして、火刑それこそが皮肉にも数千年間消滅していた、カトリック教会が異教視してきた儀礼を蘇らせてしまったと解き、儀礼を破壊しようとして、かえって儀礼の永遠性を証明する手助けをしたのだ、と結んでいる。

 私は、この衝撃的なサンタクロースの火刑に興味を示したのではない。レヴィ=ストロースによって語られている「贈与」の歴史性に着目したのである。

 先の廃絶住居跡がもの送りの場として存在していると仮定すれば、そこには他界へ捧げまつるという、ある種の贈与の意識が介在していると判断したからである。

 レヴィ=ストロースの論を逆にたどる。

 現在見られる、ラテン諸国やカトリックの国々の降誕祭は十二月六日に行われていた聖ニコラウス祭に、またアングロ・サクソンの国々の秋祭りを二分する、子どもたちが死者の役を演じ、大人たちから寄進を巻き上げるハロウィーン祭はケルト人のサムハイン祭に、そしてクリスマスに見られる、子どもの生命力を高めるために大人たちが子どもを贈り物で埋めつくそうとするサンタクロース伝説は、オランダ(聖ニコラウスを意味する言葉がシンタクラース)をたどり聖ニコラウス祭に行き着くことを述べている。

 聖ニコラウス祭は死んだ子どもを蘇らせたといわれる聖人ニコラウスをたたえ、またハロウィーンの起源とされるサムハイン祭では死の神サムハインをたたえて新しい年と冬を迎えるが、いずれも子どもたちは変装し、村中をねり歩き、寄進集めをする。

 こうしたあり方に着目し、レヴィ=ストロースはさらに歴史をさかのぼる。

 古代ギリシア・ローマ時代から、中世にいたるまでの十二月の祭りには、古代ローマのサトゥルヌス祭にみられるような、階層身分を超えた贈り物の交換と、その後に乱痴気騒ぎを起こす祝宴が存在し、そこでは連帯の強化と、若者たちによる狂喜乱舞という対立的につながりあう構造の類似性が認められるという。

 このサトゥルヌス祭は怨霊の祭りで、不慮の死者の霊を祀るが、主催者であるサトゥルヌス神は我が子をむさぼり食う老人として描かれる一方で、子どもたちへ贈り物をもってくる角の生えた地下界の悪魔とされている。

 レヴィ=ストロースは、毎年村を訪れては子供をさらっていくという、ブエブロ・インディアンの「カチーナ」の仮面祭りにも触れているが、こうしたなかから注目すべき次の一文に言及している。

 生者の世界に、死者がもどってくる。死者は生者をおどしたり、責めたてて、生者からの奉仕や贈与を受け取ることによって、両者の間に「蘇りの世界(モンド・ヴィヴェンディ)」が、つくりあげられる。そして、ついに冬至がやってくる。生命が勝利するのだ。そののちクリスマスには、贈り物に包まれた死者は、生者の世界を立ち去り、次の年の秋まで、生者がこの世界で、平和に暮らすことを認めてくれるのである。 

 こうしてみてくると、冬至を中心とするさまざまな祭りの基底に流れているものは、夏至より静かにせまりくる野枯れの季節への感得ということになってくる。

 太陽の弱まる、あらゆるものの死を予見させる季節の到来。それはまさに人間界における霊界の進入を想起させ、ミヒャエル・エンデ「モモ」に登場する虚無の世界の広がりのごとくに、人々へ脅え、戦く心的なはたらきかけをもたらす。

 このような祭りの庭では、成人にいたっていない子どもは、霊界の使者として、あるいは霊体そのものとしてあつかわれ、大人たちに贈与を求め、また大人たちが贈与することで霊界の退散を願い、光と生命の蘇りをはたそうとする。それが冬至である。

 冬至祭りは、世界のさまざまな地域に認められ、わが国においても、旧暦十月亥の日の亥の子、あるいは十月十日の十日夜などに類似する行事を見ることができる。

 これらの行事では、子どもたちが藁棒(亥の子)や縄をつけた石(亥の子石)で、土を打ちながら家々をめぐり、餅などの寄進を受けるのであるが、そのさいに子どもたちは「亥の子餅つかんものは鬼を生め、蛇を生め、角の生えた子を生め」と脅しのような文句をとなえるという。まさに、鬼・蛇・角という魔界を象徴するような言葉をならべて贈与を請うのである。

 この行事は、文献では平安時代までさかのぼることができるが、このほかの行事も含め、どうもわが国の場合は聖ニコラウス、死神サムハイン、角の生えた地下界の悪魔サトゥルヌス、カチーナ神のような、明確な人格神がみえてこない。

 このことについて中井真孝氏は「神仏習合」(『講座日本の古代信仰1』)のなかで、以下のように述べている

 元来わが国の神祇観念はアニミズム的精霊神やナチュリズム的自然神の意識が強固で、人格神の観念はなお未成熟の状態にあった。ところが神仏習合の過程で、人格を有する仏菩薩との相関において、精霊神や自然神を人格化することが可能となった。そして、その造形的表現として、仏菩薩像に対比した神像が彫刻される。

 さて、ここまでの過程で、わずかではあるがわかってきたのは、縄文時代の遺物廃棄に某かの儀礼的要素があるとすれば、そこに求められる意識は、このような冬至祭りなどに表される認識と無関係ではないかもしれないということである。

 ここからは、背景となる問題をさらに人と神とのかかわりに絞り込み、時代をさかのぼるなかで縄文という時代の意識を見通していくことにする。

 われわれの知る家の神。それは強い家意識のなかで存在している。しかし、平安末期の武蔵七党と言われる武士団の時代であってみれば、政情不安から血縁とともに地縁で結ばれた者たちが党を組織し、強固な連帯を築かなければならない世となっていた。

 そのように共同体の意識が強固であった時代には、神は家に依るべき性格以上に、共同体全体の守護神(ウブスナ神)としての性格を強めていたと言われるが、それをもたらした大きなことがらは、奈良時代の公地公民制を崩壊させた、三世一身法(723)と、墾田永年私財法(743)にある。

 土地の私有化が認められたことにより、地方の豪族は荒れ野の開発を積極的におしすすめる。しかし、そのことにより労働力が分散し、古い時代からの氏族のなかに強くいきづいていた相互扶助の関係が一気に崩れてきていたのである。

 つまり、それまでは、母子は母方の家で生活が営まれ、また労働力となりがたい老夫婦や経済的な援助を受けられない母子であっても、氏族の強い結びつきの中で生活を維持していくための相互扶助の慣行があり、村内の首長の流れをくむ富豪層が食を供与している光景が『日本霊異記』にも描き出されているが、それが崩壊してくるのである。

 開墾に失敗し、流浪の民となる者も諸国にあふれかえるが、国家による救済とは、いつの世も対処療法的な側面をもつ。民衆の間には夫婦・子が強く結びつけられた、夫が妻子を養うという自力救済的な家族が求められることによって、十世紀ごろには家父・家長の支配権を絶対とする家父長制が成立してきたのである。

 つまり、それ以前の時代にあっては、神は共同体全体の守護神(ウブスナ神)としての性格を強めていたのである。

 さらにさかのぼると、それらの共同体は血縁を強めた三世一身法(723)施行以前の氏族による族団組織が人々の強固な絆を形成していた社会へと行き着く。

 そこでは、神は祖先神としての性格を強め、祖霊信仰を背景として氏族の系譜を重視する意識がはたらいていた。

 このあり方は、古墳時代の稲荷山古墳(埼玉県)から出土した鉄剣の銘文にも表されており、そこには西暦四七一年(または 531)に記された、オホヒコからオワケノオミにつづく、八代にわたる系譜が金象嵌で刻み込まれている。

 このオワケノオミは「无邪志」国造家を先祖として代々大王(天皇)家につかえ、このとき雄略天皇のもとで皇居を警備する近衛兵の隊長となっている。

 こうした時代にあって、系譜にたいする意識は、地方の有力な氏族にとり、自らの存在を証明するものとして重視されていたようで、またそのことが祖霊信仰を発展させていたことにもなる。

 ここからさらに古い時代は、明確な資料を欠くために、古代から見通した意識世界へと入らなければならない。

 祖先神の観念は相当古い時代から発生していたことが予想されるが、その創出にはシャーマンとしての巫女が大きな役割をはたしていたと考えられている。 こうした呪術世界のひろがりのなかでは、自我や観念の強まりを背景とし、人間自体の主体的な機能に関心があつまっていたとされる。

 そうしたなかで、人間の、行動を起こさせるかくも不思議な精神活動について、その根源を超越的なヒトダマの機能として感受していたという。

 これは精霊信仰のなかで生じたものであるが、その祖形には、自然界のなかからもっとも強い霊威的現象を起こすものが選び出され、その機能を可能にする根源的なエネルギー、そのタマにいだかれていた強烈な宗教観念が存在していたといわれているのである。

 水、火、雷、風、蛇などの自然神が生みだされ、そうした自然神のもつエネルギーを潜在させた人格神も生み出されてくるわけであるが、この人格神は権力と結びつきやすく、男性性を強めながら表象化していく。

 しかし、わが国では、この人格神の観念がきわめて希薄で、先に述べた死神サムハインや悪魔サトゥルヌスのような神は見えてこない。

 では、この古き時代にある自然神に対する意識とは、いったいどのようなあり方をみせていたのであろうか。

 民俗学者の宮本常一は『民間暦』の中で、自然神話学派マックス・ミューラーの次の一文を引用したのち、民間暦における自然現象との深い結びつきを語っている。

 人間が世界へ投げた最初の注視に於て、自然ほど自然でないものは無いと思った。彼等には自然は偉大な驚駭であり偉大な恐怖であった。それは驚異であり永遠の奇蹟であった。この奇蹟の或る方面が

 自然的であると呼ばれたのは遙かに後に、それが恒常であり、不変であり正規的に回帰することが発見されてからである。しかるに宗教思想や宗教上の言語に最初の刺戟を与へたのは、驚駭と恐怖と感情を開かれてゐるこの茫漠たる領域、この驚異、この奇蹟、知られたものに対するこの広大な知られざるもの等々である。(『宗教生活の原初形態』) 

 そして、宮本常一が語り継ぐ。気候が生産生活を規定していたことにより、われわれの祖先は、

雪消え      ………田耕の労働の始まり

辛夷の花     ………苗代種まき

ほととぎすの鳴き声………麦が熟れる

のように数理的に割り出された暦書によるよりも、自然の暦のほうが安全だったのである、と指摘しているのである。

 季節を知るには、太陽の運行が欠かせない、しかしこうしてみてくると、わが国は、自然学者がかつて「箱庭的な景観」と称したように、植物、動物、大風、雷など、直接的に季節を知ることのできるものが多い。それも単に季節の変化だけではなく、例えば、カマキリが木の下のほうに巣を作ると冬に雪が少ないなど、季節を先取りした豊凶をも予見しているのである。

 太陽の運行は計算できるほどに正確である。しかし、箱庭的な景観にあるわが国では、地表の気象は朝夕で異なり、突発的な雷雨や烈風をも巻き込み、複雑に千変万化する。

 秋から冬にかける時期も気候が荒れる。

 それを鎮めるための風の神追い、雷追いなどの祭りが各地に見られ、また宮廷神道にも風神の協力を祈願する竜田風神祭、火神を支配するための鎮火祭がある。

 これらは、九二七年に完成した律令法の法典である『延喜式』にその祝詞が記載されていて、風祭りの起源や火の起源神話を宣ることにより、災いを転じさせ、有益なものとなすことを祈願している。

 ここに、われわれは、自然神を祀る精霊信仰の絶えざる意味を見い出すことができる。

 その源流にあるものは、まさに

草木咸物言………………………『日本書紀』

石根、木立、青水沫も

     言問ひて荒ぶる……「出雲国造神賀詞」

草木言語ひし時…………………『常陸国風土記』

という、精神世界にほかならない。

 それらは、みな物言ところの精霊であり、危険、あるいは何らかの判断を必要とするとき、物言をしてくれるものでもある。感受されていた根源的なエネルギーは、タマとよばれるもの。 

 火魂 水魂 木魂 舟魂 人魂 言魂 ………

 それらは具体的なものから、次第に概念的なものへと移行していくことが考えられているが、人間に害を及ぼす精霊を鎮めるためには、古代において言葉の霊威をもって言祝ぐ(言葉で祝福する)魂鎮めの神祭りを行うことで、災いを回避しようとしている。

 もちろん、これらのなかには舟霊のように、人間がつくり出したものへの霊力の感受も存在している。それは、弘計の室寿に見ることができる。

 この弘計とは、のちに西暦四八五年から二年間天皇に在位する顕宗天皇のことであるが、このときは雄略天皇に父を殺害され、兄の億計とともに名を変えて播磨(兵庫県)の屯倉の首であった縮見のもとに潜伏していた。

 そして、そこでの縮見の新築祝いの席で、身分を明かすことを決意し、祝詞をはじめたのが「日本書紀」に登場している次の室寿である。

 築き固めて立てた、新しい室を結びつける葛の根や、築き固めて立てた柱は、この家の主人の、お心を鎮めるものです。しっかりあげた棟木や梁は、この家の主人の、お心を美しくさせるものです。 ……しっかり据えた垂木は …… しっかり置いた桟は …… しっかり結わえた縄や葛は …… しっかり  葺いた萱は……

 すべてはこの屋の主人となる縮見への賛辞であるが、ここで注視されるのが家の構造的な各部位が引き合いに出されていることで、それらはすべて主人の心を鎮めることによる長寿へと向けられているのである。

 つまり、そのことを逆にたどれば、

結びつける葛の根

築き固めて立てた柱

あげた棟木や梁

据えた垂木

置いた桟

結わえた縄や葛

葺いた萱

についての強固な永続性ということになり、それは主人に対しての魂鎮めであると同時に、それらものに対しての魂鎮めでもあったはずである。

 ひるがえって、伊勢の皇大神宮には、かつての古い神体であったとされる、天御柱がある。

 この柱は、内外宮正殿の中央の床下に六十センチほどに埋め込まれた柱で、地上へは九十センチほど出されている。

 そしてそれには五色の布が巻かれ、八葉榊が飾られているらしいが、そのまわりに、神々が参集する神座として、八百枚もの天平瓮といわれる土器が積み置かれているといわれる。

 関連する事項は、『日本書紀』神武天皇の事績にも登場している。

 このとき神武天皇は、現在の奈良県桜井市あたりにいた賊軍に悩まされていたという。そうしたなか天皇自らが祈請をし、その夢の中に現れた天神が、次のことを告げる。

 天香山の社の中の土をとって、天平瓮(平らなかわらけ) 八十枚を作りあわせて厳瓮(神酒を入れる神聖な瓶)を作って天神地祇を敬い祭れ、また厳呪詛(心身を清めて行う呪言)をせよ。こうすれば賊は自然に平らぐであろう。

 天皇はこの夢のお告げにより、八十枚の平瓮と、八十枚の手で土をえぐった器、さらに厳瓮をつくり、吉野川の上流で天神地祇を祭る。

 そして、それ以後、天皇自身が天神の憑代として祭りをおこなうこととし、埴瓮を厳瓮、火の名を厳香来雷、水の名を厳罔象女、薪の名を厳山雷等々と名付けることにしたという。

 これらのことからすれば、柱や土器は神霊が招きよせられて乗り移るものとして意識されていることは明白である。

 一方、先の室寿のムロについても、興味深い神事が十二世紀まで伝えられていた。

 それは諏訪上社(長野県)の冬祭りとして、旧暦の十二月から翌年の三月まで行われた御室神事で、ここでは藁でできた神体の蛇を、土室に籠もらせ、脱皮させるがごとくに作りかえたといわれ、最後には長さ十六メートル五十センチ、太さ二十四センチほどの大蛇をなしていた。そして、この場が、冬季の上社の重要な祭事の場となることが吉野裕子氏により紹介されている(『蛇日本の蛇信仰)

 この室は、

大穴を掘りて、其の内に柱を立て棟を高くして萱を葺きて軒の垂木、土を支へたり(『諏訪大明神絵詞』)

と、記録されているが、それはまさに野塩前原遺跡で見てきた縄文時代の竪穴式住居跡と同じ構造のもので、「土を支え」というくだりから土屋根の形態であったことも類推されてくる。

 ここでのあり方は、蛇の冬籠りする状態を竪穴式の住居に見立てており、それを地下的なものとして、とりあつかっている。とすれば、連想されてくるのは縄文時代の廃絶住居跡も地下への入口と考えられているのではないだろうか、という疑念である。

 しかも、先の伊勢神宮の秘密めいた柱と土器のありようを交錯させれば、廃絶=寿命のつきた=地下的で死した住居跡に存在する、これもまた廃棄=寿命のつきた=死した土器という構図の中で、いずれも神の憑代的な要素が強く観想されてくるのだが……

 この長き幻視の旅も、もうそろそろ終わろうとしている。私の脳裏に浮かび上がろうとしているもの、それは次の幻視の旅を予感させる言葉である。

 クロード・レヴィ=ストロースの『やきもち焼きの土器つくり』。何とも風変わりな書名で、表紙のカバーにはヨタカとナマケモノとホエザルの鮮やかな色の絵が描かれている。まるで絵本の表紙のようなのだ。

 ある大きな書店で、偶然にこの本に出会ってから、私の縄文土器の文様世界を知ろうとする感覚が、研ぎ澄まされることになる。

 その序に書かれていた言葉が、浮かび上がる。

 土器作りの職人とその製品が、天界の支配者と地上、水界、地下世界の支配者との仲立ちとなるという考えを含む宇宙始源論は、なにもアメリカ大陸のみに固有のものではない。ここでは、日本の古い神話の例をあげておくにとどめよう。この例を選ぶのに下心がないわけではない。というのも日本  神話もまた、太平洋をはさんだ大陸それぞれにその痕跡をとどめた、信仰と表象の古層から発していないとも限らないからである。

 この一文を読んだとき、縄文土器の文様に神話的な世界の投影がありや、なしや、というテーマに踏み込むことを決意したのである。

 

地下の迷宮

 人影の見えない民族探訪を終え、話はもとの発掘調査の情景へともどる。

 

二000年二月七日

 新しい千年紀が到来し、一ヶ月が過ぎていた。

 想えば二十代のころ、漠然と四十代後半になったら西暦二千年へ入るのだと、何かしらの小さな感動を抱いていた。

 ところが、この遠い出来事と思っていたことが、つい一ヶ月前に巡ってきたのである。

 このとき自分の気持ちはどう反応したか。実を言うと、現場での、寒さと霜の格闘の中から発見された数々の事象に心が高まっていた私にとって、西暦二千年への節目はテレビジョンの中であっけなく通り過ぎてしまっていた。

 7号住居跡から出土した大量の廃棄遺物は、見学日を設け、近隣の方々へも公開された。だが、調査は終盤を迎え時間を争う状態におちいった。

 この日、7号住居跡では遺構の実測がつづけられていたが、私はその西どなりの8号住居跡から検出された炉跡の写真撮影にとりかかる。

 「なんだこれは!」

 住居跡の各部位の標高を読み上げる声を割り、本荘君のかん高い声が聞こえてくる。

 撮影を終え、その場所に行ってみると、上田さんや望月君が集まり、二メートルのつなぎのポールを柱穴に入れ込んでいる。

 「ピット(柱穴)の底の標高を測ろうとしたら、底が抜けて下に大きな穴が出てきたんです」

 本荘君が言い終わらぬまに、上田さんが、

「二メートル以上あります」

 事務所から懐中電灯を持ってきて、床に腹這いになり、ピットの底を照らし見る。

 底抜けした穴が小さいので周囲の状況はわからないが、はるか遠くに崩れた土砂の堆積が確認できる。

「これは深くて大きいな」

 私のイメージしたものは、インディージョーンズの『魔宮の伝説』。たぶん、この場に居合わせたものは皆それを想像して胸躍らせていたことであろう。

 それは入口のない地下部屋、縄文の住居の下に掘られた部屋。しかも、この住居跡には数十個体の土器が廃棄されていて、東南側の柱穴の横には二十センチほどの扁平な円礫が封鎖石のように置かれている。

 床のどこかに塞がれた入口があるのか?

 想像は膨らみ、ラスコー洞窟よろしく、壁面に縄文土器に付けられている文様世界が刻まれているのでは?

 このことで熱が出たわけではないが、その夜、風邪が悪化し、翌日の作業は休まなければならなかった。

 

二月九日

 体調の悪さとは裏腹に、意識は地下部屋の行方に高揚している。

 自転車を入口に留め、7号住居跡へたどり着く。まだそのままの状態にあることを確認し、事務所へ入る。

 挨拶もそこそこに上田さんに向かい、

「どうなった!」

「入口らしいのが見つかりました。

 南側の集石を掘り上げたら、その下に縦坑がつづいていて、そこが入口のようです」

「中世の地下式横穴墓か?」

 さっそく行ってみると、人が一人はいれるほどの穴が、三メートル七十センチも垂直に掘られ、底の北壁に地下部屋への入口が確認できる。

 事務所へもどり作業の準備に取りかかる。

「昨日帰ってから、工事用のライトを探してきましたから」

と上田さん。

「それはありがたい。ビデオで記録するから、先に縦坑の下の残土を掘り出してくれないか」

 事務所で機材を整え、その場所へ向かう。

 梯子の掛けられた縦坑の下では、田中さんが塹壕を掘る兵士のような機敏な動きで残土をかき集めている。

 やがて、工事用のライトが下ろされ、田中さんが上がり来るのを、今か、まだかと待ちわび、ビデオカメラの録画スイッチをいれる。

 片手にしたビデオカメラを右胸に押しつけて固定。そのままの体制で、ファインダーを見ることなくゆっくりと梯子を下りる。

 梯子に掛けた最後の足をはずしながら、カメラ位置を入口に向け、今度はその静止状態で録画をつづけているカメラのファインダーへ、体を沈み込ませて目をあてる。

「ワァウォ」

 発せられない意識の声が胸に込み上がる。

 細長い暗黒の地下部屋。その奥まった左隅に、一条の下へ広まる光の帯。

 それは、天井に貫通した穴から差し込む陽光だが、巻き込まれたわずかな土ぼこりがダイヤモンドダストのようにゆらめいている。まさに迷宮にふさわしい情景である。

 カメラをそのままに、左手で工事用ライトのスイッチを入れる。

 ホワッと包まれるような時間差で、地下部屋全体が映し出される。数秒静止画像をつくり出してから、ゆっくりと迷宮の中へ入り込んでいく。奥には天井の崩落土が山をなしているが、その手前でしゃがんだまま半回転して入口方向を映し込む。数秒おいてスイッチを切る。

「残念!」

 高ぶった気持ちが、落胆に変わった瞬間である。

 なぜかというと、天井の一段低まった入口から中へ入りながら気付いたのである。カメラのファインダーには、工事用ライトから放たれた、斜めの光で陰影の強められた壁面に、剣先のスコップによる掘削痕が、いたるところに映し出されていたのである。

「芋穴だ!」

 様子をうかがいに来た上田さんへ、サツマイモを貯蔵するための室であったことを告げ、民俗事例としては大切になるからと実測図の作成を指示し、地上へもどる。

 作業員は興味津々でいるだろうと、みなを呼び集め、状況を手短に説明。一様に落胆の声があがる。

……と言うことで、この一帯は危険なので立ち入り禁止にします。望月君、線を引いた範囲にロープを張って」

 ところが数日後、南どなりの家のご主人がそれを聞きつけ、塀越しに、

「すいません、芋穴はうちの方にも入ってますか?」

 それはそうである。まさかすぐ下に、これほど大きな穴があるなどとは知らないままに家を建てたのであろうから。こわい話だ。

「そちら側へは入っていません。

 この穴は危険なので、調査終了までには埋めもどしますので」

 せっかくなので、当地におけるサツマイモの歴史について話しておく。

 サツマイモの原産はアメリカ大陸といわれ、琉球(沖縄県)へ伝えられたのが慶長年間(一五九六〜一六一五)

その後、薩摩(鹿児島県)へ伝えられたが、享保十七年(一七三二)に襲った未曽有の大飢饉をまのあたりにした蘭学者青木昆陽が『蕃藷考』を書き表すにおよび、大岡忠相の助力を得て将軍徳川吉宗の目にもとまることとなった。

 このことでサツマイモの栽培はいっきに諸国へ普及し、当地周辺においても、埼玉県所沢市の南永井に寛延四年(一七五一)、上総国(千葉県)志井津村からサツマイモが取り寄せられている。有名な川越芋はこうした歴史の流れのなかで栽培されはじめたのである。

 時移り、時代が第二次世界大戦へと突入していくなか、食糧増産が叫ばれていた。

 立川の農事試験場へは千葉県から穴沢松五郎氏がサツマイモ栽培の指導に訪れ、また二宮尊徳の主唱した至誠、勤勉の報徳思想をもって地方改良運動を推進していた大日本報徳社も、落ち葉の半熟堆肥だけで増産可能な元静岡県農会技師丸山方作氏の方法を、氏の講演会をとおして普及させようとしていた。

 こうしたなか、東京都は各所に甘藷馬鈴薯増産巡回指導員を任命し、大政翼賛会の外郭団体であった翼賛壮年団とともに食糧増産をはからせていた。

 主食がサツマイモの時代は戦後もつづくが、問題なのは、収穫し、置いておくと芽を出してしまうことである。

 清瀬でも、関東ローム層を掘り込んだ地下室が農家にはたいがい常備されていた。地下室は温度が一定し、サツマイモを保存するのにもっとも適した環境をつくり出していたのである。

 子供のころ、こうした地下室でスイカを冷やして食べた、という話しもよく聞くが、このほかにウド栽培に使う穴も造られている。

 それらは、時代の移り変わりとともに忘れ去られ、この場所のように、住宅地の地下に迷宮として取り残される恐ろしい穴もでてくるわけである。

 以上が地下の迷宮の正体であったが、要は発掘現場からは時代を超えたさまざまなものが発見されるということ、そして芋穴一つにしても長い歴史のうえに存在しているということである。

 

調査終結

二月十日

 一週間ほど前になるが、作業を終えてから誰とはなく、いつものメンバーがストーブのまわりに集まりだしていた。

 この日は、都心で仕事をしていたパワーショベルのオペレーターの花井さんが加わっている。

 花井さんは発掘が好きなのだが、オペレーターであるので、残念なことに最初の表土剥ぎと最後の埋め戻ししか、この現場にはかかわれないのである。

 どうやら、大量の土器が出たということで、気になって来てくれたらしい。

「もうすぐ終わりですね。埋め戻しはいつ頃から入れますか?」

「まだ、来週後半ぐらいにならないと、めどが立たないんだ。今度大規模な発掘があるときは、高所作業車を入れて、上から遺物出土状態の写真を撮影したいよなぁ。

そうすれば、花井さんも現場にいられるし……

「僕は別にいいんですよ、内田先生がやりたいというのなら」

 その茶目っ気を出したものの言いように、

「そうだよなぁ。

 重機のオペ(オペレーター)さんにも女性がいるだろうから、どうせなら花井さんより女性の方がいいかも。

 ダム工事でも大型ダンプは、女性の方が運転が優しくてよく気が付くそうだから。そうしよっ!」

「えぇ、先生勘弁してくださいよ!」

 こんなたわいない話がしばらくつづいた後に、

「もう住居跡も床まで出てきたし、外山遺跡のように上から気球で撮影したいですよね」

 田村君のこの一言で場が変わった。

「線路がすぐ横だから気球は無理ですよ。

 気球の大会の時、小さな無人の気球を上げるときもありますから、それ借りてきましょうか?」

 上田さんから現実味のある話が出てきた。

「だけど、カメラはどうセットする。コード付きじゃ重くて上がらないだろ」

 話が止まってしまった。こうしたときは、それぞれにおもいっきり想像を働かせている。

 立ち上がってコーヒーを入れ出すものも現れる。

「タワー()をもっと高くしますか?」

「盛り土の上に立てているから、これ以上は危険だ」

 花井さんがゆっくり話しはじめる。

「う・ん、いまちょっとわからないんですけど、来週うちの会社でクレーン車が回送になるはずなんですよ。その途中でここへ寄ってもらえれば問題ないんですけど」

「それアームの長さどのくらいあるの?」

「かなり長いですよ、たぶん入口に置いて、7号住居跡の上ぐらいまで延ばせるんじゃないですか」

 上田さんが会話に入り込み、

「気球のゴンドラをクレーンでつり下げましょう」

 頼もしい仲間たちだ。話はトントン拍子に進み、花井さんの携帯電話の成り行きに、みな聞き入っている。

「先生、十日の午後でいいですか?

 (お願いします)

じゃぁよろしく」

 携帯電話を折りたたむ姿が、四十にして惑わずの、キリッとした大人の雰囲気を高めているが、こちらは子供に返って大はしゃぎ。

「ヤッタァ。

 やっぱりオペは花井さんがいいな。女性はやめよう」

「以前言ってたじゃないですか、若い女の子集めてハーレムをつくって発掘したいって」

 田村君が意地悪そうに言う。

「ハハハハハ」 

 

撮影当日午前

 午後の撮影に向け、すべての住居跡の清掃が開始された。

 この一週間、各住居跡を完掘の状態にするため、ある者は柱穴の掘り出しに、またある者は図取りへと、手分けしてよく働いてくれた。それも、瀬川さん、田中(典子)さん、板倉さん、盛口さんらを中心とする、女性陣による遺物取り上げの手際よさがあってのこと。

 板と化した霜をかき取り、残土が取り払われ、見る見る住居跡がきれいになっていく。

 やがて、昼休みをはさんだ作業が終わろうとしていたとき、大型車の後方確認に入る断続する警告音が聞こえてきた。

 いよいよ主役の御登場である。

 現場内に緊張が走り、急に慌ただしくなってきた。クレーン車からさっそうと降りてきたのは、当世風に言えばイケメンの年若のオペさん。

 何事か打ち合わせしていた花井さんは、上田さんとともに本荘君と望月君をしたがえ、ワゴン車から気球のゴンドラを運び出している。

 ビデオカメラには、クレーンのフックを下ろすモーター音とともに、ゴンドラが着装されていく光景が記録されていく。

 しばらくして花井、上田が乗り込み、若いオペさんに合図を送り、低い位置でゴンドラの安全確認がはじめられた。一時して、二人を乗せたゴンドラが天空高くつり上げられていく。

 すべての確認が終了した段階で、花井さんから声がかかる。録画スイッチを切り、小走りにかけ寄る。

「先生、どこまで延ばしますか?」

「高さがほしいから、なるべく上げてくれないか。

 8号住居のあたりで上げてもらうのがよさそうだが、真上だと撮影できないから、北側へ……

 あのタワーと並行になるぐらいの位置にもってきてほしい。

 それと、合図したら、アームの方向をそのままに、なるべくゆっくり縮めながら下げてきてほしい。そうすれば調査区に沿うような位置で撮影できるから。風が出てきてるから止めなくていいから。同じ速さでね!」

「はい、わかりました。風で横ぶれしないように二本のロープを垂らして下で引っ張りますから」

 いったん事務所へもどり、撮影機材を整えて出直す。

 冬の陽射しは強い。夏とは違い、熱はおさえられているのだが、色を濃く映し出し、低まった太陽により陰影が強められているのである。

 雲は出ないかと天を見上げるが、願いなどかなわぬほどの晴れっぷり。考古学の写真は全体が一様に映し出されていなければ駄目なのである。仏像に見る芸術写真のように、コントラストを強めた力量感あふれる撮り方は、御法度だ。

 しかし、今日の状態は住居跡が芸術写真を撮るようなライティングになってしまっている。

 日を改めて撮影しなければならないことを覚悟して、人手を借りてゴンドラへ乗り込む。

 低くうなるモーター音とともにゴンドラが大きくゆれ、指定した位置へ伸び上がっていく。ゴンドラに吹きあたる風音、下で引くロープのこすれる微妙な振動。

 得体の知れない恐怖感を押しとどめ、ビデオ、モノクロ、リバーサルと撮影はつづく。

 ファインダー越しに見る住居跡は、けして整然としたものではない。大小の柱穴が入り乱れるその家跡の姿たに、縄文人が手をかけながら精一杯家を守りつづけてきた思いが凝縮し、それはまるで老いた顔に深く刻み込まれた皺のような重厚さを放っている。

 

 住居跡の個別撮影を終え、再びビデオカメラに持ちかかえる。

「終わりました。下げてください」

 ゴンドラは絶えず風にゆられている。

 見下ろしていたファインダーの中の画像がほぼ水平になったころ、小さな衝撃とともに着地。

「終わった」

 ゴンドラから降りると、それを待ちかねたように田村君と上田さんが乗り込む。第一声は、

「うわぁコエェ〜」

 こうしてクレーンによる撮影は無事終了した。

 

二月十四日

 クレーンでの撮影以後、作業の主体は測量に移っていた。住居跡の図化、これがこの現場での最後の作業になるはずであった。

 ところがこの日予期せぬことが起きた。

 朝から薄雲のかかる、おだやかな日和なので、住居跡の個別撮影を行うことにし、住居跡の清掃を待ちながら順次東から西へと撮影をつづけていた。

 それが西端の1号住居跡に入る。

 いつものようにカメラのファインダーで撮影位置を確認し、画角範囲を作業員に告げて清掃にあたらせていた。

 誰であったかは覚えていない。それほど事態が急変したのである。

「女子トイレの近くに落ち込みがあるみたいです」

 行ってみると、トレンチの隅に黒色土の落ち込みがほんのわずかに見えている。トレンチを掘り広げると住居跡のように曲を描く。

「くわぁ! 住居跡だ!」

 

二月十五日

 皆には前日の夕方伝えていた。

「測量作業を継続しなければならない数人を残し、総動員でこの住居跡の調査にかかる。住居番号はいままでの番号と混同しないようA号住居跡とする」

 今日は、馬車馬のごとくに、昼の休憩もそこそこに働く、働く。その集中力は恐ろしいほどであった。

 その夜。

 実は翌日から埋め戻しに入る予定で、この日解散式を行うことになっていたのだ。

 本当は解散式どころではなくなっていたのだが、彼ら、彼女らの今日の働きにより、何とかこの事態を切り抜けられる勇気がわいてきた。

「まだ、ご苦労様とは言える状況ではありませんが、本当にありがとう」 

「乾杯!」

 すべて頼もしき仲間たちであった。

 

二月十六日

 みな、朝から気合いが入っている。

 A号住居跡では、作業の開始時間前から掘り下げに入っているものがいる。それもオペの花井さんまでもが。

 しばらくして、埋め戻しの指示に入る。

「A号住居に時間をとるので、埋め戻しは東側からにしますから。

 最初に地下室を掘り出して、定圧をかけて埋め込んでもらい、それから4号住居跡へまわり、南北を軸線にして東側を若干掘り下げてもらいたいんだ。そこで床断面がどうなっているのか最終確認をするから。

 じゃ、お願いします」

 やがてパワーショベルの掘削がはじまるが、地下の迷宮をほとんどの作業員が見ていないこともあってか、そわそわした様子。

 そこで、天井が抜かれる間近の段階で、作業員を呼び集め見学させる。もちろん、一番恐怖を感じていたであろう隣の家のご主人にも声を掛け、立ち会ってもらうことにした。

「へえぇ、こんなに大きい穴があるなんてねぇ。知らないで買ったら、いつか家が崩れてしまうねぇ……

 

二月十七日

 A号住居跡は、土層図からベルトの除去が完了した段階で、蜂の巣をつついた状態をていしていた。

 柱穴の確認、掘り下げ、土層図、そして住居平面図、これらの作業が同時併行で進んでいる。すごいチームワークである。それも、

〈船頭多くして、舟、山に登る〉

などと言う状態ではない。これを言い表すには、

〈船頭無くとも、舟、大河を渡る〉

みな、一つの目的を達成するために集中し、そのことで意識が相手の動きさえも読める状態に高まっているのだ。

 日没近くには、構造復元に取りかかれるほどの状況がつくり出されていた。

 

二月十八日

 A号住居跡での実測作業に数人、埋め戻しにより除去された盛土下の遺構確認に数人を残し、他は博物館への遺物や機材の搬出にあたる。

 遺物の収納された箱のチェックと台帳づくり、および文房具などの小物の収納は、女性陣により手際よく片づけられていく。

 それらの搬出は午後、したがって私は午前中いっぱいA号住居跡の構造復元に没頭することができた。

 そこへ発掘調査終了後にこの土地を造成する会社の人が、背広姿で現れた。

 一瞬、埋め戻しなどについて、何か難題を突きつけられるのではないか、と緊張する。

「大変申し訳ないんですが……

 もう、予算も期間も無い、困るのだが。その次に出た言葉はこうだった。

「実は、縄文時代の住居跡が出たと聞いて来たんですが、

それを子供たちに見せてやりたいんですよ。

 今日埋め戻しと知って急いで来たんですが、何日か待ってもらえませんかね。何とかお願いします。約束してしまったんですよ」

 はぁ〜。緊張が頂点に達したときだったので、崩れ込むようなため息とともに安堵感が胸にひろがる。

「埋め戻しが済んでしまったので、残っているのは、この住居跡一軒なんですが」

「はぁ、一軒で充分です」

「ただ、埋め戻しは、もうこちらではできませんので、それをご承知いただければ結構ですが」

 携帯電話で会社へ連絡をとりはじめるが、話が事前についている様子。

 差し出された携帯電話で、こちら側の状況を説明。それが済み、A号住居跡は遅れて発見された分だけ、地上に残ることを許されることとなった。

「本当は見学なされるときに、私が来られればいいんですが、この状態では無理だと思いますので、よろしければ、今この場で、遺跡とこの住居跡の概略を話したいのですが?」

「それは、願ってもないことです。ありがとうございます」

 言うがはやいか、もう新聞記者のように手帳を取り出し記録する態勢を整えている。

 

その日の夕方

「また清瀬で発掘があるときは寄せてください。

 楽しかったです。長い間ありがとうございました」

「ありがとね。報告書ができたら知らせるから。ご苦労さんでした」

 なごりを惜しみながら、切れ切れに家路をたどる作業員ら。

 埋め戻された広い斜面。二、三人づつ連れ立ち、もう地下に入ってしまった、見えはしない住居の跡へ視線を投げかけている。

 遠くなってしまった声が、夕闇に溶け込むようにわずかに聞こえる。

「ここに1住居跡があったんだよ

 

 事務所の入口から、みなを見送る。

 振り返ると、元祖「頼もしき仲間」たちがストーブに集まっている。

 こうして、まだ一時、なごりを捨てきれない者たちが、静かに秘密の森のできごとを語り合う。

 

 西の、しだいに狭められていく暮れ色の空に、富士の山影が消え入るように残され、すでに闇を深めた空に、太古の星が輝きだしている……





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   執筆・編集
       清瀬市郷土博物館
        学芸員 内田祐治

 制作    2005年3月
 
 歴史読本
【幕末編】
多摩の江戸時代の名主が書き残した「日記」や
「御用留」を再構成し、小説の手法をもって時代
を生きた衆情を描き出した読本。
 
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