掘り出された聖文 9
─縄文時代中期遺跡発掘調査の記録─





目次詳細
 

 第四章 野塩前原東遺跡第一次発掘調査の記録

  整理作業

  新たな発掘へ

  遺構確認

  掘り下げ開始

  作業の流れ

  伏甕出現

  土坑の重なり

  最後の土坑

  整理作業再開

  天才現る

  土器の写真実測
 


 
第四章 野塩前原東遺跡第一次発掘調査の記録

整理作業

 寒さと、霜に悩まされた野塩前原遺跡の発掘を終え、作業は室内での資料整理の段階へ入っていた。

 作業場は、郷土博物館の学芸員室。

 壁面には、土器や石器を収納したプラスチック製の箱がうずたかく積み上がり、私の机のかたわらにも、図面や各種台帳、写真ファイルがところ狭しと並んでいる。

 この部屋には、私のほか三人の作業員がいる。基礎的な整理作業のために残ってもらった、田村君と板倉さん、盛口さんである。

 現場作業は終了したのであるが、埋蔵文化財保護法には「記録保存」という文言が明記されていて、報告書の作成が義務づけられている。

 その報告書に記すべき項目を挙げると、「調査経過」、「遺構」、「遺物」、「まとめ」が基本的な構成で、最後にそれらの「写真図版」が加わる。

 章にしてしまえば、たったこれだけのことであるが、掲載する図面類だけでもかなりの量に達し、遺構では平面図・断面図・土層図が、また土器であれば、形があるていど残されているものには実測図が、そして主要な破片には拓本が必要となる。

 各図面類は、修正がなされたのち、トレースをへて図版に組み上げられていくのであるから、一つの図にも一手間も二手間もかかるわけである。

 田村君たちの主要な作業は、遺物復元までの工程で、それは次のように進められていく。

水洗い

 

注記

 

接合

 

石膏復元(土器類)

 ここからは、その作業内容を見ていくことにする。

 水洗いは、たいした仕事ではないように思えるかもしれない。しかし、土器片の割れ口に土が残ると破片同士の接着がうまくいかず、また乱暴に洗えば土器片の角が壊れ、これも接合箇所が不安定になる。

 土器には地肌のもろいものも多い。むやみにブラシに力をいれて洗えば、表面が傷つき、煤や赤色顔料を洗い落としてしまう場合もある。

 こうしたことで、水洗いは、注意深く状態を観察しながらの作業となる。

 次の工程は注記

 それぞれの遺物は、プラスチックの平たい洗浄カゴに並べて乾燥するが、その横には遺跡名・遺構名・遺物番号・日付を書いた荷札が添えられている。

 これらは、それぞれの遺物がどこから出土したかを明らかにするもので、遺物番号は出土状態を実測した平面図中に位置と標高を記録しているので、無くせば照合不能となり、位置確認ができなくなる。

 そのため水洗い後に、荷札の番号を略号で遺物へ転記していく作業がおこなわれる。

 たとえば、荷札に書かれてあるものが

  野塩前原遺跡(NM) 1号住居跡(1H) ・層()  遺物No246 (246)

であれば、略号は、

   NM 1H 246   Hはハウスの略

というような具合に注記されていく。

 以前は面相筆で白のポスターカラーを用いて書き、その上からニスを塗ったものであるが、今は細書きの油性ペンを使うことが多い。

 大規模な現場では商品パッケージのナンバリングに用いる注記マシーンをリースしているところもあるが、この万単位に達する気の遠くなる注記作業をへて、接合の工程にはいる。

 この段階では個人差が強くあらわれ、答えのないパズルをどこまで高められるか、個人の資質が問われる。

 その作業がどういうものか、いくぶんかのテクニックを挿入しながら説明するため、誰でも親しんだことのあるジグソー・パズルを例に話を進めていくことにする。

 さて、両者には大きな違いが三つある。それは遺物接合が三次元であること、そして複数個が混在していること、しかもパーツのすべてがそろっていないことが当たり前なのである。

 つまり、完成の精度は個人任せ、という恐ろしいパズルが仕掛けられていることになる。

 そこでの判断基準は、パズルのように一面的な絵と形だけではすまなくなる。文様のほか、裏表の焼きむら、材質、厚さ、形の反り具合、平面形と、さまざまな視点が必要になってくる。

 机に広げられた土器片は、パズルであれば、幼児用の数十ピースからマニア向けの数千ピースまで、大きさで異なる各種類のパーツが、ごちゃ混ぜで分割された状態にある。

 そのため一山ごとに、それぞれ複数の台紙を選び出してはめ込むような作業を強いられるため、同時に複数の個体を識別する視点が欠かせない。

 そこではまず、統一をはかるために土器片の表を上にしながら、全体の破片の状態を概観しておくことが大切である。

 パズルでは、箱に表記されている完成形が重要な指標となるが、土器の接合においても、破片を見て、各時代の形や文様にもとづく類似型式の全形が頭にイメージできることが望ましい。

 しかし、最初ではそれは無理であるから、一般書や報告書での観察を心がけておくことにして、その分、目の前にある破片の観察を充分に行わなければならない。何といっても目が慣れなければ、苦痛をともなう大変な作業になるからである。 

 ここからはしばらく接合の方法をシミュレーションしていくことにする。

 たくさんの土器片の中から同一個体を選び出していくには、パズルで縁の直線的なパーツの選び出しからはじめるように、ここでも口の部分の破片を無作為に出し、それらを比較していくことが早道である。

 口の縁形状には変化があり、また文様も付けられていることから、同じものを見つけやすく、破片の上下も定まり、接合部位が左右の割れ口に限定できるので、いくつかは容易に接合できるはずである。

 それらの文様や肌合い、厚さをじっくり観察し、さらに似ている破片を他から選び出す。

 接合した口があれば、下へ接合する破片の形が見えてくるので、ここからは形状も重要な判断材料となってくる。

 口と同じく底の破片も識別しやすいので、先に選び出して接合を試みておく方が作業効率はよい。

 こうして順次付け合わせを試みながら、接合するかしないかを確認していくが、いきづまったら裏の色むらや湾曲の具合などを頼りに探していく。

 とくに後者は、口に向かい開く器形が多いため、大きめの破片では湾曲が強ければ下の方、ゆるやかであれば上の方と、大まかに察しがつく。

 しばらくして目が慣れてくると、胴部の破片どうしが単独に付くものも現れるが、そうしたものは机の片方へ集め、わからなくならないように接合箇所へ、チョークでかるく目印の線などを引いておくとよい。

 複数の破片が付いたものは、さらに付く可能性が高いので、常に破片の選び出しに心がける。

 こうして数時間過ぎると、だんだん接合するものが少なくなる。それは一番判断しやすい文様のある破片の接合が一段落したからで、縄文だけのものや無文の土器片に接合主体が移ってきからである。

 そこで縄文のあるものは、条の太さ、厚さ、色調などを手掛かりに似通ったものを集め、条の方向を同じ向きに並べた後、その湾曲などから上下を見はからい、確認をくり返していく。

 無文であれば、湾曲が重要な判断材料となり、このことでどのあたりの高さかを推定していくことができる。

 さて、あるていど接合したところで、接着にはいるが、縄文式土器のような素焼きの土器によく使われるのは、セメダインCという接着剤で、これは陶器にも使用できる。

 これに対して磁器はガラス質なので瞬間接着剤が有効で、石器には石専用の接着剤を使う。板碑など重量のある石は、これでなければ接着はできない。

 接着しようとする破片が、ほぼ完全な形の場合には口や底から付けていくのがよいが、細かく割れている部分があれば、などの安定した形になるまで先に接着しておいた方が効率がよい。

 これは、ほかの部分的な破片でも同じであるが、不安定な状態のままに接合してしまうと、折れ曲がったり、あとから接合破片が見つかり、剥がして接着しなおすことも起きるからである。

 接着時は、両方の断面に接着剤を塗り、一旦軽く密着させたうえではずし、数十秒おいてから、しっかりと密着度合いを確認しながら接合する。

 数十秒おくのは、媒材を揮発させた方が短時間で接着力が高まることによる。

 接合した土器は、伏せ置くとゆがむので、立てておくが、その場合ものに立て掛けたり、砂があればそれに沈み込ませて立てるのがよい。なお、接合箇所を洗濯ばさみで挟み込むことも多いが、そのときには曲がり具合にずれがないか注意を要する。

 完形になる土器は、口からつけた方がよいと言ったが、その場合最後の円周全体を組み上げる段階では、接合破片を四分割ていどまで大きくした状態で、一気に付けていく。

 そこで私がよく用いるのは、自転車に積んだ荷物を固定する帯状のゴムバンドで、それを利用して接着した土器を外から均等に締め上げる方法をとっている。

 こうしておけば、後はゆっくりと破片を接着していくことができ、要所要所を締めながら全形を復元していくことで、ずれも生じにくくなる。

 以上だが、土器片が他の場所から発見されたり、また二次的な火をうけたことで、思っても見ないような色調の異なる破片が後から接合することもあるので、破片が不安定に抜けている箇所は、接着を最終段階まで見合わせておくほうがよい。この段階では、すべての破片を接着しておく必要はないのである。

 こうした作業が遺構ごとにくり返され、新たな破片の抽出が終了したことを見極めた段階で、欠落部分の補強をおこなう。それが石膏復元である。

 おおかたは、破片の抜けた部分の内側から粘土をあて、水溶きした石膏をパレットナイフで盛っていくのだが、粘土のかわりに、布製のガムテープを四センチほどに切り、裏側から湾曲に合わせて張り合わせて行く方法も有効である。この場合規則的にではなく、湾曲に合わせて角度を変えながら、柔軟に張り込んでいくことが肝要である。なお、粘着が強ければ、布などに押しつけそれを弱めるとよい。

 こうして裏当てをしたのち、余分なところに石膏がつかないよう、表の破片の縁沿いにドラフティングテープなどでマスキングをほどこす。ここまでが準備段階。

 石膏は溶く水の分量で固まる時間が異なる。多くすれば垂れやすくなり、少なければすぐ硬化して継ぎ足しができにくくなる。感覚的に言えば耳たぶぐらいの柔らかさがよいが、それより若干柔らかめに溶き、先に土器の断面にしっかりなすり付けてから盛っていく方が、石膏と土器の密着度が高まる。

 ここではスムースな作業進行が必要で、盛るのと同時に厚さが均等になるよう、パレットナイフの腹の部分で撫でつけていく。それをしておかないと、硬化してから厚くなりすぎた部分に削りを入れなければならず、状態によっては大変な労力が必要となる。また、時間をおいて石膏面を継ぎ足す場合は、つなぎをよくするために、盛るのと同時に石膏の縁へ刻みを入れておくこと。

 硬化が若干進んだ生乾きの段階で、振動を与えぬように静かに裏の当てをはずす。

 いくらしっかりやったつもりでも、裏側の土器と石膏の間には、必ず隙間ができているはずだから、そこへゆるめに溶いた石膏をなすり入れていく。

 このくり返しで、徐々に土器を補強していくが、石膏の取り扱いになれるまでには、かなりの経験が必要である。

 次の工程は遺物の実測と拓本。

 実測は方眼紙の上に遺物を置き、三角定規やデバイダーで測り込んでいく。石器の表現方法には、以前は植物の細密画のように点描の手法が用いられていたが、今は線のみで書き表すものが主流である。

 点描は、新聞の白黒写真を拡大するとわかるように、ドットだけでも表現力は豊かで、写真的にものの質感まで書き表すことができる利点はあるのだが、個人差と作業時間が長くなるため敬遠されたようである。

 だが、ここに線書きの弊害も少なからず起きている。石器の実測を請け負う者が一様に感じているのは、ゆるやかに落ち込む面の、どの位置で線化していくか、ということである。

 はっきりした稜線は誰が見ても間違いないが、こうした部位では多分に感覚的な要素が強まり、監督者ごとに線の入れ方が異なる状況が生じ、何度もやりなおしさせられることも多いという。

 実測は、ある意味で模式化をともなう。

 もちろん、製作技術を問うためのものであれば、その方が判断しやすいというメリットもあるが、復元的な観点を有しない表現上のことであれば弊害もでてくる。

 そこで一つの方法として、コンピューターの画像処理能力を活用し、縮尺率を設定した、鮮明な画像で表す方法もおこなわれはじめている。

 次に拓本である。

 白黒の、めりはりのある状態を作り出せるため、古来より碑文の写し取りに使われてきた手法で、木版画に同じく凸部が黒く表現される。

 拓本には湿拓と乾拓という二様の方法があり、前者は取るものに墨を塗り和紙をあてて写し取る、どぶずりと言われる魚拓に代表される技法。また後者は、ものに和紙を密着させ、その上に拓墨をつけたタンポを押し付けて写し取る技法である。

 考古学で用いる技法は、記録するものを墨で汚すことのない乾拓で、土器片や古鏡背面の文様、板碑の銘文など幅広く使われている。

 そこで用いられる拓肉と呼ばれる墨は、拓本専用のもので、印肉のような状態をしていて油分を含んでいる。またタンポは、目の細かな絹布で綿を包み込み、もちやすいように閉じ口を巻き締めたもので、大・中・小のタンポを用意して写し取る部分によって使い分けていくが、細部にはツマヨウジの頭を綿でくるんだ極小のタンポも必要になる。

 ここからしばらく、その手法をみていくことにする。

 土器片は割れることのないよう、布製の砂袋を作り、その上に置いて作業する。

 使用する和紙は画仙紙が一般的で、つるつるした表の上に土器を置き、それを目安にして後から包み込むための幅をとり、二回りほど大きく切る。

 この切った和紙を土器に密着させるが、土器は吸水性が高いので、先に表面をかるく湿らせておくとよい。

 私の場合は、土器をぬらさずに、紙のほうを水に浮かべ、それをゆっくりつまみ上げながら水切りし、土器の上に合わせ置く方法を用いるが、慣れないと少々むずかしいかもしれない。

 次に、化粧に使うカット綿を水にひたして固くしぼり、つまんだ指を前へ転がし継ぎながら、中央から外側へ放射状に、紙と土器の間に入った空気を逃がしながら押し付けていく。

 カット綿をつまみ上げた指をローリングさせるのは、綿で画仙紙を擦りつけてしまうと毛羽立つからで、これには注意を要する。指の動きに慣れるまで、ゆっくりでいいから、押し、転がすのである。

 画仙紙を密着させるということは、和紙独特の繊維が伸びる特性を利用しているのであるが、この段階では、まだ紙がなじんではおらず、凹凸の激しいところで力を入れれば切れてしまう。

 回避するには、軽く、軽く、ちょっとずつ押さえ込んでいく。

 一度押さえた場所が乾燥し、もう一度水をしぼったカット綿で押しつけると、和紙は一度目より二度目の方が凹凸になじみ、伸びがいい。だから一度で済まそうと思わず、軽く、軽く、何度もくり返しながら和紙の伸びを引き出していくことが大切である。

 もし、途中で皺が寄っても恐れることはない。

 その部分をゆっくりと剥がし、軽く引っ張りながらもどせばよい。和紙はもう下の凹凸になじみ、伸びようとしているのであるから。

 こうして表面を密着させたあと、縁を巻き込んで押さえ付けるが、しっかりできていれば乾燥しても剥がれることはない。

 ここからが墨付けの段階。

 いくらか紙に湿気が残るときが、ころあいである。

 タンポに墨を付ける場合、拓肉の墨が濃いので、直付けする大き目のタンポを用意し、そこから実際に使うタンポヘ、墨をすりつけるように移して使うほうがよい。

 墨付けのさいのタンポの動かし方は、カット綿に同じく、押し、転がすが、ここでも軽くあてながら色の薄い状態を何度も重ねながら、濃くしていくことが大切。

 部分的に濃くなれば、そこの色にすべてを合わせなければならず、安定した濃さを保つことはできない。

 そこで、色むらを出さないよう気配りしながら、薄く、薄く墨を重ねて、濃さを整えていく。

 これが墨つけの基本であるが、いくつかのことを書き添えておく。

・粘土紐を貼り付けたところなど、凸部と破片の縁は、若干色を濃くしたほうがめりはりがきいてよ  い。

・縄文の条の中に入る節の線などは、タンポでは出しきれないこともあるが、こうした部分ではBや2Bなど、濃い鉛筆で擦り出す方法も有効である。

・墨の汚れは、ポスターカラーの白などで消す。

・複数人で作業すると、色の濃さに個人差が出てくるので、濃さの見本を横に置き、確認しながら作業するとよい。

 以前はすべて手作業であったが、コンピューターの画像処理ソフトを活用すると、色の濃度調整や不要な墨の除去が迅速にでき、また別取りした断面図を取り込み、それをトレースすることで図版組まで容易にできる。

 以上が、遺物整理作業の全容であるが、このほかに現場で作成した図面類の修正トレース、台帳類や写真類などの整理が同時進行する。

 これらは、みな考古学を専門とする研究者のもとで行われる作業であるが、科学分析や保存処理が必要な場合には、各専門機関に依頼しなくてはならない。その主なものは以下の通りである。

 ・年代………炭化物放射性炭素C14測定

        黒耀石フィッション・トラック測定

        黒耀石水和層測定

         木  年輪測定(気候)

 ・植生………土  壌 花粉分析(気候)

 ・種類………石  器 石質鑑定(産地)

        その他 木、貝、骨、鱗の鑑定

 ・保存処理木製品・鉄製品

 こうして、さまざまな工程を経てまとめあげられた記録が、「◯◯遺跡発掘調査報告書」として刊行されるのである。

 新たな発掘へ

二000年三月

 整理作業は順調に進みだしていた。

 現場の段階から、数人を分けて水洗いを先行させてはいたが、百八十三箱に収められた遺物の半数以上は手付かずの状態である。

 田村君ら三人は、来る日も、来る日も、土器や石器の水洗いと注記に追われ、私はというと、これもまた膨大な図面の修正や統合に追いまくられていた。

 これらの作業は、ある意味で単純な作業のくり返しであるが、後に重要な結果をもたらす。

 水洗いは、一点ずつ、すべての遺物を洗うのであるから、遺物の状態を個々に観察していくには、このうえない作業である。

「これ、赤い色が付いてますよ」

「あっ、それは洗っちゃ駄目!ベニガラという、酸化第二鉄の赤い顔料が塗られているから。

 鉢形の土器など何かの儀式に使われた土器に多いんだ。前にも言ったけど、煤も落としちゃ駄目だよ、大切な痕跡だから」

 田村君が盛口さんに説明しているが、現場作業の段階で確認されていなかった遺物の存在が、整理の各工程から次々と姿を見せはじめている。

 それは、遺物の特徴だけにとどまらず、各種図面の整理からも、建物の構造や遺物の廃棄現象などが問題を派生しながら浮かび上がってきているのである。

 作業が進行してくると、長期の中断は、せっかく築きあげたそれまでの遺跡に対する感覚を鈍らせてしまう。

ところが、そうしなければならない事態が間近にせまりつつあった。

 時は戻るが、一九九九年が終わろうとする十二月。野塩前原遺跡東側二百メートルの地点で、道路建設計画のあることが伝えられていた。

 工事完了は翌年の八月。逆算して工事開始は五月ということであったが、その周辺の畑では土器片が表面採集でき、遺跡台帳でも野塩前原遺跡と同じNo2遺跡に含められていた。

 年が明けた一月十八日から二十一日までの四日間、本隊の野塩前原遺跡の調査から別れ、上田、田中(照晃)、山崎、花井らと試掘調査を実施していたのである。

 その結果、伏甕をともなう重複する土坑群が検出され、縄文時代中期加曽利E・式期の墓域の存在していることが明らかとなっていた。

 そのため、混乱をきたさぬように野塩前原遺跡の発掘終了後、一ヶ月をおいた四月から、本調査を実施する計画を立てていたのである。したがって、整理作業の一方で、本調査への調整を図らねばならず、しかもそうしたなかから聞こえてきたものは、道路予定地の北側で福祉作業場の建設が、また南側では三千平方メートルの宅地造成が、次々と連動して計画されていることを知る。

 この時期、私は、陽が昇るまでにはまだ充分ときのある寝覚の床の中で、遺跡が、〈われらも掘り出せ〉とばかりに追いかけてくるような錯覚におちいっていた。

遺構確認

二000年四月十日

 その日がきた。

 小さな踏切を超えるとき、真っ直ぐに延びる鉄路の奥に奥多摩の山並みが見える。

 野塩前原遺跡の調査で通い慣れた踏切。その横が今回の調査区域。

 畑のなかに、ぽつんと建てられた仮設事務所。机が二つ置かれているが、機材を入れれば数人しか座れない小さなユニットハウスである。

 主要メンバーは整理を中断して参加してもらった田村、板倉、盛口、それに前回の調査でも活躍した中山、本荘、望月、そしてパワーショベルのオペレーター花井と担当者の私。

 調査終了予定日は四月二十六日、実働十五日の短い調査がはじまった。

 パワーショベルのエンジン音のなかで、花井さんに指示を与える。

「確認! 試掘調査の時、遺構の検出され位置にブルーシートを敷き込んでいるから、表土を剥ぎながらそれが出てきたら、いったんバケットをよけて。めくりは人手でやりますから。

 それから、ピンポールを差したところは土器が確認されているところで、土のう袋が周囲に置かれているのでシートが盛り上がっていますから、慎重に。

 あとはその場で指示します」

 花井さんがパワーショベルに乗り込み、運転席の前にある左右のレバーを操作しはじめた。

 力強いエンジン音とともに、アームが運転席ごと細長い調査区と平行の位置まで回転。静止と同時に油圧で圧し下げられるアーム、それに連動してバケットが土を掻きはじめる。

 しばらくして、最初のビニールシートの片はじが現れた。

 腕を交差させて停止の信号を送るが、すでに花井さんはアームを外へ回転させ、静止の態勢に入ろうとしている。

「本荘君、望月君、シートをめくるから手伝って」

 埋め土をジョレンで取り除きながら、シートがめくられていく。

 その下からは、試掘で確認されていた暗褐色土の広がりが、湿り気をおびて円形に現れる。

「田村君。中山君たちと西側から遺構確認に入って」 

 声を出しながら、別方向の花井さんのところへ駆け寄り、

「次のシートのはじは、すぐに出てくると思うが、そこには土器がすっぽり埋まっているはずだから、気をつけて」

 掘削が開始されて間もなく、シートの盛り上がった部分が現れる。

 パワーショベルのバケットを横付けしてもらい、ジョレンで掻き落とした土を入れては、外へ運び出す。シートをめくり、土のう袋をはずすと、胴の直径が四十センチほどもあろうかという、伏せて埋まり込む甕が現れた。残念だが、耕作の影響で側面が大きく破壊されていることは試掘調査の段階で確認済みである(写真右)

左から、21a号土坑試掘時の伏甕 21a号土坑本調査時の伏甕 20号ピット伏甕

 土の状態を観察すると、土器を取り巻く黒褐色土の広がりは、いたって小さい。この状態では土器を伏せ込む範囲だけを掘り込んでいるらしい。

 こちらの作業を興味津々に見つめている花井さんに、声をかける。

「ここから東へ二メートル五十あたりのところに伏甕があるから、先にその南側を掘り出してください」

 こちらは手作業で、さらに東側へブルーシートを掘り出していく。

「あっ! シートがめくれてる。

 おかしいぞ、試掘の埋め戻しの時にはシートをしっかり合わせて埋めたはずだ」

「土が変ですよ」

 めくれ上がったシートの陰に、散乱する土器片。

「やられた! 誰だこんな事をしたのは」

 一瞬、函館空港遺跡で五十個体ちかくの土器が盗み去られた事件を想い出した。しかし、盗掘マニアや売買目的の仕業でないことは明らかである。

 興味本位で確認しようと、あやまって破壊したことは一目瞭然である。

 この土器は、試掘段階では確認面に斜めに埋まる胴部を検出していたが(写真中央)、その部分が壊され、二重にまわる縁が現れている。大形土器の中に小形土器を入れ込む、非常に珍しい形態の伏甕だったのである(写真左)

 数千年も土の中に保存されてきたが、遊び心のような行為で一部が破壊されてしまったのである。発掘調査は、単なる好き者の気休めではない。

 シートをはがし終える。他に盗掘された場所はない。一安心。

 パワーショベルから降り、事の成り行きを見守っていた花井さんに声をかける。

「ほかは大丈夫だ。

 東側に近代以降の大溝が斜めに入っているから、その壁に気をつけながら土を剥いでいってください」

 後ろにいる本荘君と望月君に向かい

「パワーショベルであるていど剥いだら、はじから手掘りで大溝を出していって。

 私は、土坑の重なりの確認に入るから、何かあったら声をかけて」

 一通りの指示を終え、各々作業を開始する。

 しばらくして、田村君たちが西側の遺構確認をつづけながら私の場所へ合流してきた。

「田村君、暗褐色土の輪郭がはっきりとらえられないんだ。

 土はロームの混入の割合で微妙に違っている。おそらく楕円形の土坑が四、五基重なっているように思えるが、重なり合った部分の壁が崩れているためか輪郭が不鮮明なんだ。北側から、もう一度中山君と確認してきてくれないか。

 盛口さんと板倉さんは、東側の土坑の確認面をきれいにして。そこも土坑が重なっているらしいから、削りすぎないよう、慎重に」

 この時から、埋まり込む同系の土を混入しているローム粒子の質と割合、また炭化粒子などの混入物の有無、固さ、粘性など、さまざまな視点から埋没土の違いを見いだしていく微細な作業へと移っていった。

「田村君、ここではローム粒子を含む明るい色調の土が延びてるから、こっちの方が遺構の切り合いは新しいと思うが、どう見える」

「そう見えます」

「じゃ、線引くから」

 今度は田村君の方から確認を求められる。

「内田さん、ここは内側の土が違うみたいなんですよ。

 土坑の中にもう一基あるんですかね?」

「一つの土坑内だけの土層の違いではなさそうだ。

 ほら、こっちを見て、この輪郭は外から直角に入り込むこちら側の土坑の土が延びているものだ」

「そういえば、こっちの土には小形のロームブロックが点々と入ってます。

 それを追っていくと、確かに外から入ってますね」

 相互に確認し合う作業が長時間つづく。

「崩れもあるだろうから、これ以上は確認面では限界だ。

後はベルトを細かく設定して、その土層断面の観察からでなければ切り合いはわからないな。

 田村君、この状態で略図を作ってくれるかな。それができてから土層を残す位置を相談しよう」

 この遺構確認の段階では、十に近い数の土坑が重なっていることが予想され、土層観察面の設定を間違えれば土坑の新旧関係を割り出せなくなるため、慎重な判断が要求されていたのである。

 パワーショベルは二本目の大溝を超え、調査区中央のクランクの部分を過ぎようとしていた。

 私は、パワーショベルの前に距離を置いて立ち、バケットの掘削面を観察しているのであるが、現れるローム層の面が、いくぶん黒ずんでいるのに気がついた。いつものように手を交差させ、パワーショベルの動きを静止させる。

 その場所に近寄り、ジョレンで土を丁寧に掻くと、暗褐色土の広がりが延びている。

「遺構があるので、東側へ拡張して」

 こうなると、数センチ単位で操作できるのが花井さんの操作技術の高さであるが、そのゆっくりとした動きが急に止まったかと思うと、運転席から花井さんが飛び降りてきた。

 私には死角になって見えなかったのであるが、何かがバケットの先に見えたらしい。

「先生、石が出てますよ」

 よく見ると寸止めされたバケットの下に、いくつかの石が見え隠れしている。掘り位置を指定するために使っている、ピンポールと呼ばれる一メートルほどの鉄棒を抜き取り、周囲を慎重に突き刺していくと、先端がどこもコツンと石にあたる感触。

 その範囲は一メートル五十センチほど。

「ここより若干高い位置で、まわりを広げてください」

 大声を出して中山君を呼び寄せ 

「土坑と集石が出てきたから、確認面をきれいにして。

 それから、表土の遺物は他とまじらぬように、ここだけの箱を用意して入れて」

 パワーショベルはそこから移動し、最後の幅六メートル、長さ三十五メートルの直線部分に入っている。

 土を排出するわずかな時間に、気になる中山君の作業場所へ目が向く。

 そのくり返しが何度かあったころ、黒味を帯びた広がりが直径二メートルほどの円を描き、つづけて東どなりからも幅一メートル、長さ二メートルの、こちらはその形態から陥し穴と思われる遺構が現れはじめる。

 その後、調査区東側から径四十一〜八十四センチの十九基からなるピット群が検出されたが、これらの多くは、埋まり込んでいる土が黒色味の強い軟弱土で、麦などを干すために立てられた近世以降の干場の柱痕ではないかと思われた。

 表土の除去から詳細な遺構確認までには、三日を要したが、この作業で明らかとなった遺構は、以下の通りである。

 西側に、縄文時代中期加曽利E・式期ころの土坑墓およびピット群。その東に、近代に掘られた耕地を囲繞する二本の大溝。中央部に、円形の小竪穴状遺構と陥し穴、集石跡。東側に、近世以降のピット群。

 調査主体は、西と中央部に認められた縄文時代の遺構群に絞られた。

 

掘り下げ開始

 調査区内における遺構の全体像が明らかにされた時点で、どのように調査を進行させていくかが問題となっていた。

 今回も延長の認められない短期間の調査。作業の組み立てを間違えれば、直接に調査の質にかかわってくる。

 こうした時、いつも想うのは列島改造論のころの調査である。ブルドーザーが唸りをあげる横で、明日にも壊されてしまう住居跡を、黙々と調査している先輩たちの姿が浮かぶ。

 開発者と調査者、その相克のなかで、陽が落ちても作業をつづけていた仲間たち。その洗礼を受けた者たちがなによりも大切にしていたのは、作業進行上の優先順位の策定であった。

 数日間悩みつづけていたが、遺構確認が終了したことで結論を出すときがきた。その計画の青写真は次のようなものである。

 単独の遺構は作業時間を想定することができる。しかし、重なり合った土坑群は新旧の判別等で作業手順が複雑になり、時間もかかる。21号と22号は、当初から田村と私でとりかかり、必要に応じて人を入れる。ただし、大溝間の南側に不定形の落ち込みがあるため、その掘り下げを先行。

 他の単独の土坑と東側のピット群は、本荘、望月、盛口に担当してもらい、早い段階で見通しをつけていく。

 1号集石は、礫の図取りから入らねばならないため、中山、板倉に先行して入ってもらう。

 小竪穴状遺構と陥し穴は、調査期間の半ばから取りかかる。

四月十三日

 朝一番で、みなに遺構の概要とこれからの調査進行を伝える。時間にしたらたった数分のことだが、すでにやるべき仕事は各人充分にわかっている様子。

 それぞれが事務所前で道具を整えている間に、私は準備していた撮影機材をいち早く持ち、櫓へ上がり、確認面の写真撮影を行う。

「はい終了、もう入っていいよ」

 個々に持ち場を定め、勇んで散っていく。

 田村君と私は、大溝間の南側の落ち込みの掘り下げにとりかかる。

 こうした場合、移植ゴテで輪郭を確認していく作業からはじめるが、どれも不定形。しかも、中に入り込んでいる土は柔らかく、古いものではない。

 土層の堆積状態を観察するため、片側を掘り下げるが、側壁や底は凸凹しており、大小深浅の乱れた穴がいたるところに入り込んでいる。

「田村君、そっちはどんな状況だ」

「風倒ですね」

 ここで言う風倒とは木の根跡のことで、人工的な穴ではない。

 この痕跡も、場合によっては中世や近世の地境を割り出したり、屋敷まわりの植樹を想定するために大切な物証ともなりえるのだが、ここではさほどの重要性は認められない。そこで最低限の記録にとどめ、作業を手短に終わらせた。

 午後からは他の遺構の作業進行を確認するため、調査区内を巡回。

 西側での作業は、単独で存在している土坑とピットの片側の掘り下げである。

 これは埋没と遺構自体の状態を知るための処置だが、いずれも遺物の出土が少ないために作業はことのほか進んでいる。

 遺構確認で伏甕を検出していた土坑以外、埋没土に混入した遺物は、土器の小片が数点出土しているだけ。この状況では、遺構との直接的な関係はなさそうである。

 調査区の横に水色の平たいカゴが置かれている。その中に入っているのは、遺構確認の段階で付近から出土した土器。荷札には「野塩前原東遺跡一次A区 確認面 2000.4.1013」と書かれている。

 その中の土器に目を通すと、いずれも型式は加曽利E・式。他の時期の土器片を交えないことから、ここで検出されている土坑もほぼその時期のものと考えられよう。前回調査した野塩前原遺跡の新しい段階と同じ時期である。

 今回の調査だけでは何ともいえないが、この地域一帯での墓を作る埋葬の起源がつかめるかも知れず、期待は膨らむ。

 次に各土坑の土層観察へ入る。

 埋没している土にはロームブロックの含まれるものも多いが、それらは掘り出されたロームが乾燥して顆粒状に分解する前、つまり掘り出されてからすぐに埋め戻されたことを物語っている。

 遺構の形態は、長さ一メートル五十センチ〜一メートルの楕円形と円形の土坑、それに五十センチほどのピット。伏甕の残存状況から推し量り、いずれも耕作の影響で上部二十センチていどが破壊消失し、それに加え東側では大溝によりさらに深くまで破壊がおよんでいる。

 以上のことを記憶にとどめ、集石跡へ向かう。

 礫群の実測はかなり進んでいる。この分では明日にも写真撮影に入れそうである。

 作業の邪魔にならないよう観察していく。

 礫群の西側には径七十センチ、深さ三十センチほどの落ち込みがある。礫は大小さまざまだが、一部が南側へ飛散しており、一様に被熱赤変している。

 観察の途中で中山君が声をかけてきた。

「ここの礫の下に土器があるんです」

 指さす北側の一画を見ると、上に崩れをもつ原形を保つ土器が埋まり込んでいる。

 文様を見たいのだが、この状態では内側しか確認できない。しかし深い菓子鉢のように、口が広く、たっぷりとした丸味をもつ胴部の形状から察し、今までの調査のなかで例のない、もっとも新しい時期の型式となる加曽利E・式ではないかと考えられる。

 そのことが事実とするなら、まだ住居跡は確認されていないが、この付近一帯に以前の調査区域も含め、勝坂式期の後葉から加曽利E・〜・式期におよぶ集落が途切れなく形成されていたことになる。年代幅は、おおよそ四千五百年前から四千年前までの五百年間。

作業の流れ

四月十四日

 西側では、土坑の掘り下げが案外早く進行したため、この日の作業は、土層の分類清掃写真撮影土層図作成という流れで進めることにした。

 片側を掘り終えた土坑やピットを、私が土層堆積を分類しながら線引きしてまわり、その後に本荘君たちが清掃に入る。今度はそれを追い写真撮影してまわり、順次終了したものから土層図の作成に入るというローラー作戦である。

 一方、田村君は伏甕の検出されている21号土坑群の掘り下げに入っている。

 ここでは複雑に土坑が重なり合うため、土層観察用のベルトを適切な場所に設定しながらの、慎重な掘り下げがつづけられている。

 そのほか中山君の担当している集石では、出土遺物の実測作業が平面図から断面図へと移行し、午後には写真撮影もできるまでに進んでいた。

四月十五日

 雨だ。

 短い調査期間のなかでの雨はつらい。しかし、無理をすれば土層確認をすべきベルトを崩してしまう恐れがある。ここは気持ちを切りかえ、博物館で遺物の水洗いと資料整理をおこなう。

 本荘、望月、中山君、それに他所での仕事が雨で中止になったと言って後から手伝いに来てくれた花井さんを加え、整理を中断している野塩前原遺跡の懐かしい遺物に囲まれながらの作業となった。

四月十六日 日曜休み

四月十七日

 西側の土坑とピットでは、土層図作成掘り下げ。集石跡では、礫および遺物の取り上げ掘り下げ、と順調に作業の進むなか、21号土坑群だけは複数の重なり合う土坑の判別に困難を極めていた。

「田村君、この土層どう思う。

 平面で、この土坑の輪郭がまわってくるとしたら、ここの土層面に切り合いが出なければならないが、どう見ても同じ土なんだ。

 壁が崩れ、平面で輪郭が重なっているように見えるのか?」

 また、あるときは

「ちょっと見てくれますか。この床の段差が、別土坑の重なりみたいなんですが、そうするとこの土層の違う部分が、こっちの土坑の輪郭なんですか?」

 悩む、悩む……

 こうしたときは、状態の観察がうまくできていないのである。安易に納得してはいけない。一つの状態には、関係するすべての事象連鎖が織り込まれているわけであるから、一つ二つつじつまが合っても否定するものが入り込んでいれば、それは判断を誤っているのである。

 解決の糸口は、観察しつづけること以外にない。目が慣れるにしたがい、必ず真実への方向が見えてくるはず。

 作業しながら自問自答の世界を迷い歩く。

 この日の夕方、頭の中にあることがよぎる。それは、単独で検出されている土坑やピットの規模と形態。つまり、それらと同類のものがここに重なっているはずである、という漠然とした推測である。

 このことが、凝り固まった気持ちをほぐし、某かの観察基準を生み出したようである。薄暗くなった現場のなかで、まず南側の一画の解釈に道理が生まれた。

四月十八日

 本荘君らの作業は、土坑とピットの掘り下げを終え、平面図断面図の作成へと進んでいる。

 本来なら、ここで各遺構の完掘状態の写真撮影に入るのであるが、それを最後におこなう調査区域全体の写真撮影に併行させ、清掃作業の二度手間を省くことにした。

 中山君の担当している集石跡では、礫群の下に掘られていた土坑が掘り上がり、写真撮影平面図と断面図の作成へ入っている。

 さて、21号土坑は北側の解明に移っている。

 ここでは、重なりをもつ土坑群のなかに、さらなる土坑群が築かれているため、複雑さを増している。新旧は内側の方が外側より新しいことは判明しているのだが、それら同士の切り合いが分からない。

 外側の重なりは、内側へ掘られた新規の土坑により、本来確認できるはずの切り合い関係を示す土層が大幅に失われており、また内側のものは、外側の土坑の軟弱な埋没土中につくられているため、側壁に崩れを生じている箇所が多く、これも切り合いが判然としない。

 優先される着眼点は、床の高低差。それを基準に、一つひとつの事象を解き明かそうとしているのだが……

「ちょっと内田さん来てくださいよ!」

 何事が起こったのか、とばかりに振り向く。フル回転している脳の神経伝達が、突如として切られたのであるから、怒りを込めてである。

 このとき、田村君は、凝り固まった頭を解きほぐそうと本荘君たちの作業場所を見に行き、そこで調査区の壁ぎわにわずかに現れていた土器を発見したらしい。

 その強引さに負けて連れられていくと、縄文の付けられた丸味をもつ土器の一部が、トレンチの壁に張り付くように現れている。

 指を添えて押してみるが、がっしりと土に入り込んでいる様子。軽く敲くと鈍い音が返ってくる。その感触に、大魚が釣り竿にかかったような感動が呼び起こされる。

「これはでかいぞ! 雨に洗われて出てきたのか。よく見つけたな」

 にたり顔の田村君が言う、

「私には、縄文の女神がついてるんですよ」

「よし、拡張だ。

 望月君、手があいたら、北側の残土を取り除いて確認面の二十センチ上の高さまで掘り広げてくれるかな。

 明日、ビデオで掘り出しを生撮りするから、まわりもきれいにして。完形だったらすごい記録になるぞ」

 何年か後に、ビデオを見て驚きの声を挙げている子どもたちの姿が想像された。

 この事件を契機に、21号土坑群における北側の重なりも徐々に解明されはじめた。

伏甕出現

四月十九日

 朝一番で、昨日発見された土器の前にビデオカメラを設置する。

 記録となると、撮影の仕方にもそれなりの心構えがいる。もっとも避けなければならないのは、被写体を決めずに撮影にはいること。

 多くの場合ズームインやズームアウトを多用し、録画開始直後からそれをおこなうが、これでは見る側としてはいきなり画像が動きはじめて被写体をよく認識できない。そのため、必ずカットの頭に静止画像を入れる。

 基本はあくまでも静止画像にある。ズームイン、ズームアウトは補助的な動作として頻繁に用いないほうがよい。

 ズームを使うと、ファインダーにさまざまなものが映し出されてくるが、そうしたとき、あそこにあんなものがあったとばかりに、ズームをかけながらカメラをパーンさせることもあるが、それをすれば見るほうは混乱し、何を見たらよいのかわからなくなる。

 大切なのは、撮影前に被写体の位置やカメラの動かし方、画幅をどう撮っていくか、シミュレーションしておくことである。

 これから行おうとする撮影では、土器の掘り出されていく経過を記録するわけだが、視点を頻繁に動かしては、現れてくる土器面の広がりがとらえにくくなり、その分臨場感が薄れる。

 見る側に、それを共有してもらうには、三脚を据え、レンズに動きをいれず、実際に作業にあたっている者と同じような凝視する視線が必要になってくる。

 カメラは一台であるから引きの画像ばかりでは文様や竹ベラの動きなど細部がわかりにくい。そのためどこかで拡大した画像に切り替えいてかなくてはならない。

 しかし、ここはカットを切らない方がよい。切るのは編集の段階でもできるからである。となると、手法はズームイン。

 その操作を円滑にするには、前もってズームインする位置と画幅を設定し、そこからズームアウトして撮影を開始する画面を見つけ出す。こうしておけば、ズームインしたときに、ぴったりとその位置に到達することができる。

 さて、ここでは一度しかチャンスはない。撮る方ばかりでなく、作業にあたる本荘君と板倉さんにも指導が入る。

 土器をよりよく映し出すため、無理のない位置で左右に分かれてもらう。

「体で土器を隠さないように。

 いつもどうりでいいが、ただ掘り出した土を集めたり、無駄な動きのないようにしてほしい。一カットで、なるべく短い時間の中で土器の全形を見せたいから。

 先に土器だけを撮るから、手を挙げたらすぐに作業を開始して」

 準備は整った。

「撮影に入ります!」

 編集時のつなぎを確保するための七秒が過ぎ、本撮り静止七秒を終えたところで手を挙げる。

 両脇から二人が入り込み、作業に取りかかる。竹ベラの二掻きほどで包み込んでいた土が大きく剥げ落ち、土器の口が現れた。

「伏甕だ! これは大きい」

 もちろん胸の中の声である。

 近くで作業する者が忍び足で集まってきている。田村君に視線を送り、あごを斜め前へ小さく振り出すと、見つけたのは俺だと言わんばかりに顔相を変えて見せている。

 そうした間にも、器面はどんどん現れてくる。口には横に連なる楕円文が線書きされ、胴部には地の縄文を縦帯に磨り消した文様が等間隔に描かれている。

 典型的な加曽利EV式土器だ。

 文様の全体像が明らかにされはじめたところで、ズームアップ。

 被写体との距離はおよそ四メートル。メーター一秒の歩くほどの早さで接近。最後は少しゆっくり。そして静止。

 止めた息を静かに吸い上げながら見るファインダーの中の土器。モノトーンだが、無節L原体(左撚りの縄)縦回転による斜行縄文が、鮮やかに映し出されている。

 竹ベラの小刻みな動き、剥がれ落ちる土、四千年の時を経て現れる神秘。宇宙から地球を見た者がいる。われわれもまた壮大な時の神秘を、ここに感受している。

 土器の全形が現れるまで六、七分。それが時の狭間のように、長くも、短くも感じられる。

 カメラを三脚から取り外し、手持ちで土器の周囲を撮影する。残念なことに、底の部分は耕作の影響で破壊されていた。以上、撮影終了。

 土器の掘り出しにより、この場所が伏甕をともなう土坑(16号土坑)であることが判明し、後の作業は土坑片側の掘り下げ土層図の作成残りの掘り下げ写真撮影平面図・断面図の作成伏甕取り上げ完掘状態の写真撮影、へと進むことになる。

 21号土坑にもどって作業をつづけていた私に、本荘君から声がかかった。

「掘り上がったので、土層の分類をお願いします」

 道具立てを整え、先の 16号土坑へ移り作業に取りかかる。

 しばらくして、この土層からさまざまなことがわかってきた。当初、底部と一方の側面が破壊されていたことから、耕作による強い力で引かれ、土器が傾いたと思っていたが、それは違うらしい。

 伏せられた土器の失われた側には、縦に攪乱が残されており、その破壊で底から胴下半の片面が消失。伏甕の内部から検出された三つの異なる土器片は、攪乱が埋まるときに表土層から流入したものと思われる。

 伏甕の下方は、固いローム質土で覆われており、この破壊で動いた形跡はない。土器の傾きは縄文時代以来の状態と判断されるが、設置当初からの姿ではないらしい。

 斜めになった口縁の高い方、つまり床から二十センチ上がった位置に水平に置かれていたものが、後の何らかの状況で傾斜を生じたようなのである。

 それについては、次のことが想像される。

 土坑の長さは一メートル十五センチ。足を折り畳む状態で硬直した死体を、仰向けにした屈葬で土坑に安置。

土を周囲に入れ

伏甕の片端を胸に置き、つまり先の二十センチはこの胸の高さであるが、その位置で水平に甕を伏せ置き、顔を隠す。

そして、本格的に土を入れ込み埋める。なお、伏甕の直下の床には径十二センチ、深さ五センチの円  形の窪みがある。これは硬直した頸骨が移動で折れ、安置したときに顔を上へ固定するための処置であったのであろうか。

やがて地中で腐敗が進行し、肋骨が陥没。

それに連動し、包まれている土ごと土器が傾斜。

 しかしこの段階では、それはあくまで想像の域を出るものではなかった。

 さて、この日の作業は、明日の天気予報が雨ということもあり、各自の頑張りでハイペースに進んでいる。

 21号土坑群は、悩みつづけた土坑の重なりが解明され、土層図の作成に入った。

 田村君はとなりの22号土坑群を掘り下げる予定であったが、図化作業の支障になるため、小竪穴状遺構および陥し穴の掘り下げを先行し、そこへ集石跡での作業を終えた中山君が合流している。

 調査日数は、あと六日間。手付かずなのは、数基が重なり合う22号土坑のほか、20号・23号土坑、それに伏甕の埋設された20号ピットとなった。

土坑の重なり

四月二十日

 雨。遺物および図面整理。

四月二十一日

 この日、手付かずであった20号・23号土坑、20号ピットの調査にはいる。

 20号は単独の土坑と思われていたが、楕円の長軸に沿う二基重なる土坑であることが判明。規模は、長さ一メートル、幅八十センチ、深さ五十センチほどであるが、遺物の出土は見られなかった。

  23号は長さ一メートル二十センチ、幅七十センチ、深さ三十センチほどの、浅く掘られた土坑だが、ここでも遺物は見られない。

 次に20号ピット、これは試掘調査の段階から伏甕の検出されていたピットである。

 規模は径四十八センチ、残存する深さ二十二センチで、伏甕を入れられるだけの深さしか掘り込まれてはいない。

 伏甕は、加曽利E・式に属するもので、イチゴ形の胴部に直立する無文の口縁部が作り出されているが、特徴的なのは、縄文をほどこした胴部に幅広な帯状の取手が付けられていることで、耕作により底部から片側の胴部を大きく失っているが、取手は左右に二つ付けられていたように思われる。

 私が各遺構の土層説明に追われているところへ、田村君がやって来た。

「小竪穴状遺構(24号土坑)から、おもしろいものが出ましたよ」

「もうちょっとで終わるから」

 作業に区切りをつけ、小走りでかけつけると、径二メートルほどの円形遺構の半分が掘り出されていた。

 中山君が指さす方を見ると、四角い艶やかな石が顔を出している。

「あれ、定角式磨製石斧じゃないか」

 名前はいかめしいが、磨いて面取りした小形の石器で、Zippoのオイルライターの下端に刃を付けたような形をしていて、非常にきれいな石器である。

 この場合、きれいな、という表現には石質の美しさも含まれているのであるが、この形態の石器には玉髄質の石を使うことが多く、その緑味をもつ脂肪色から蛇紋岩であることがすぐにわかった。

 蛇紋岩は、グリーンタフと呼ばれる緑色凝灰岩を生み出した造山運動の地帯に分布しており、この辺りでは神奈川県の丹沢にその産地がみられる。

 後の遺物整理の段階で、この定角式磨製石斧は刃先に縦方向の小さな擦り痕が、そして反対側の基部にも打撃による破損箇所のあることが確認され、ノミのように使われていたことが判明。

「ほかに遺物は出土した?」

「土器片が少し出たくらいで、まとまっては出土していません」

四月二十二日 

 また雨である。博物館で整理作業。

 重なり合った21号土坑群の分析に取りかかる。資料は平面略図と、土層断面図。

 こうしたときデジタルカメラとビデオの映像記録は、検証作業に即役立つ。

 現場でとらえられているのは、十基の土坑と一基のピット。それが二×四メートル四方のなかに重複しているのである。

 解明されはじめたときと同じように、南側の三基縦列する部分から検討を開始するが、その主な作業は、土層に残る切り合い関係を一つずつ解析しながら新旧を判別していくものである。

 ここからはしばらく、自問自答の世界がつづく。

 まず南端のa土坑。これはC´ラインの土層で、c土坑の埋没土を切って(掘り抜いて)いるので、新旧はca。

 cは、dと重なる東側で壁に崩れを生じて輪郭が不鮮明であったが、明らかにdに土層が入り込んでいた。そのことからdaという構築順位が割り出される。

 さらにdは、北側でhを切っていることがC´ラインの土層で確認されているのでha。

 ここからは北側へ移る。

 jとiの土坑間には、掘り下げのさいに土層観察用の小さなベルトを残して両者の関係を割り出している。それから判断されたのはjiへの移行。

 それに加え、e西壁の崩れはあったものの、A´ラインの土層観察からiピットと、heという関係が成立している。

 iとhについては直接的な関係は求められないが、新しくなるにしたがい、深さが増す傾向が顕著に見られることから、ihであった可能性が強い。

 さて、最後のfとbであるが、これはbがfを切って構築されていたことからfb。そして両者は、eを切り、ピットに切られていることが確認されている。

   すべてを総合して得られた序列は

ピット

    └→

 途中、田村君と何度も確認し合いながらの作業であったが、やっと整理がついてきた。ところが、ほっとして図面に見入っているうちに、あまりにも基本的であるために見過ごしていた重要な問題に気づいた。

 それは住居跡でもそうであるように、なぜ重ねているのか?という疑問である。

 付近には単独の土坑も数多く検出されている。調査面積の狭さで注意がおよばなかったが、土地を利用する空間がまったく無いわけではない。

 判明した土坑の構築順位をたどることにより、長軸方向や形態に、類似性の見られることに気づいてきた。

 それらを抽出すると、二、三基ずつのまとまりをもつ、4群の存在していることがわかり、しかもそれらには時系列が認められ、・期ないし・期(3群は・期以降の構築が確認されており、最も新しければ4群設置後の・期の可能性がある)の時期差のあることも想定されてきた。

 さて、ここで問題になるのが土坑の性格である。南端のa土坑に伏甕が設置されていたことから、これらは墓としてつくられたものとみて間違いはない。

 先にも指摘したように、周囲に土地利用空間があるにもかかわらず十基が重なり、それも二、三基ずつがさらに強い関係をもちながら重ねられている。

 この状態は、各群ごとに、一つ前の土坑の位置確認がなされるなかで、次の土坑が重ねづくられていることを表しているように思える。

 こうした現象を生み出す背景に作用していたものは、親しき者に寄り添わせようとする意識なのであろうか?

 重ねられた土坑。そこには、明らかに時間経過を読みとることができ、何世代かにわたる、近しい関係をもつ者たちの埋葬されていることが想像されてきた。

最後の土坑

四月二十三日 日曜休み

四月二十四日

 21号土坑は、土層図平面図断面図の作成へと作業が進み、a号土坑から出土した小形土器を入れ込む二重伏甕の取り上げの段階にはいっている。

「この土器は、16号土坑の伏甕と同じに傾斜している。それに、床に窪みがつけられてるのも同じだ」

 アイヌ民族の場合、墓坑を掘るさいに墓柱を立てる穴が同時に掘られており、日高の沙流地域では男頭部左側、女頭部右側に立てる習わしがあったといわれる。

 しかし、アイヌにとっての墓標は、埋葬者への供養に訪れたときの目印ではない。

 狩などで迷い込んだ者へ墓の所在を知らせるためのもので、彼らは、みだりに墓地へ入ることを嫌う。それは墓地が屍を葬る場であって、祀る場は各家の祭壇とする厳然とした区分けが存在しているからである。  

 当遺跡の床に残された窪みも、それだけでは一見墓柱の痕跡のようにも思える。しかし、それは伏甕中央下の床に設けられていることを考えたとき、墓柱のように外界との関係で立てられるものの穴でないことは明らかで、被葬者との直接的な関係、つまり後頭部を窪みに入れ、顔を水平に設置した後に伏甕を被せるような処置、ではなかったろうか?

 いずれにせよ、その可能性のなかから墓標という線は断ち切れた。

 伏甕の取り上げ作業が進む。

 土器にひびが入り、そのままの状態では取り上げられない。そのため丁寧に掘り出し、一つひとつの破片を傷めぬように古新聞をはさみながら箱へ収めていく。

 土器の型式は双方ともに加曽利EV式。

 内側の小振りな土器がうねらせた櫛引を地文としているのに対し、外側の大形土器には縄文が用いられている。

「あれっ、外側の土器の内面はきれいなのに、内側の土器には小動物がカリカリと歯でかじり付いたような削痕がある。

 そういえば、16号土坑の伏甕にも付いていたな。ひょっとすると、腐敗した脂肪分が土器に吸着し、それをねらいモグラなどが入り込み、かじっているんじゃないか?」

 明治二十五年の村尾元長「アイヌ風俗略誌」の一節が頭をよぎる。

穴は深さ一・二m 縦一・五m(死体により長短あり) 横九十cm(地方に由り同じからず)北首東首等地方に由り同一ならず。穴を蓋ふに柴薪等を積み、僅に土を振掛け置けり。故に狐狼の害を蒙らざるは稀にして、旅中原野に人骨の雨曝しになれる者を認むるは、概ねアイヌの骸骨なり。

 伏甕の二重の意味に、尋常ではなかったであろう被葬者の死を予見しながら、取り上げは終了。

 この日の他の作業は、最後に残された三基重なる22号土坑の掘り下げ。小竪穴状の24号土坑完掘平面図作成。陥し穴の土層図作成。

四月二十五日

 明日全体写真を撮影するため、今日一日が実質的には最後の調査日になってしまった。しかも、明日の天気予報は小雨。

 急がなければならない。 

 西側で検出されていた、単独の土坑とピットの平面図・断面図作成。それに陥し穴の完掘写真撮影平面図・断面図作成、なお陥し穴は近代のものであることが確定。小竪穴状遺構写真撮影。

 写真以外の作業をみなに任せ、田村君と22号土坑の調査に専念する。

 土層図の作成を終えたのが昼近く。

 食事もそこそこに、午後からは私が土層説明を記録し、順次終了した部分から田村君が残された片面の掘り下げに取りかかる。

 土層断面に現れた三基の切り合い関係は、南から北へ新設されていったことを物語っている。

 遺物は、土器の型式判別が困難なほどの細片が三点。

これでは十基も重なる21号土坑との関係が割り出せない、と思っていた矢先。

「伏甕かも知れませんよ!」

 南端の土坑片面を掘り下げていた田村君からの声。

 書きかけの画板を置いてのぞき込むと、下半を欠く逆位の土器が倒れ込むように出土しようとしている。

22号土坑伏甕と削痕

「土層を確認したいから、いったん中ほどまでの掘り出しで止めて」

 次第に現れる土器。胴のくびれがはっきりと確認できるころ、磨消縄文の手法を用いた、ジェイコブシープの角のように大きく巻き込む文様が見えてきた。

「加曽利EWだ! すごいぞ。

 21号の土坑群では最も新しい段階が加曽利E・式期、この22号は三基重なる土坑群の最も古い段階が加曽利E・式期。

 二つの土坑群の十三基は、時間軸のなかで一基ずつ連なって構築されているのだ」

 土層観察と写真撮影を終え、伏甕全体の掘り出しにとりかかる。

 しばらくして全形が現れる。

「あれ、奥の壁がオーバーハングしてるが……

「となりの21号のd土坑と、上が十センチしか離れていないから、壁を壊さないように下を掘り広げているようですよ」

 この部分の土を詳細に観察するが、確かに下のみを掘り広げている。

 ここで不思議なことに気が付いた。他の箇所は当たり前に重ねているのに、なぜこの場所だけは重ねることを嫌うように下を掘り広げているのか?

 22号の三基の土坑は、東側の径二十センチほどのピットを基点とするかのように、扇形に重ねづくられている。このピットは土層に崩れを生じていて、土坑との関係が不明瞭ではあるが、前の窪みとは異なり、これには墓標的なものを想定することも可能である。

 どう見ても、東側の位置を基準にすることで、寸法のずれを西側で補っているように思えてくる。

 もしそのことが事実とするなら、このオーバーハングの掘り込みのあり方には、そこから上部を崩して21号土坑群へ重ねてはいけない、という強い規制意識の働いていたことが想定されてくる。

 21号の土坑群の近くに構築しようとしながらも、直接重ねることを避けているとしたら、それは何なのか?

 21号の十基に、時系列による継続する重なりがみられることからすれば、その重ねようとする意識のなかには、当然として世代間の関係も投影されていよう。そうすると、重ねない理由には、別次元の意識のかかわりを想定しなければならない。

 十基の重なりをもつ21号と三基の重なりをもつ22号、互いに血縁関係を内在しながら、両者は地縁で結びついているのか、それとも血縁間の時の断絶が介在しているのか?

 その現象は、ここに確実性をもって認識された。しかし、進めば進むほど、過去という時の壁が大きく立ちはだかる。

 「この土器も内側に傾斜している。上がっている部分の床からの高さは十八センチ、しかも反対側の下がった方の器面内外には小動物が歯でかじりついたような凸凹した剥離が付いている。

 死体の腐敗による伏甕の倒れ込み、死臭に寄ってきた小動物。このことを説明するための事例は、これで三例目。単なる想像ではなくなってきたな」

 以後、ここでの作業は写真撮影断面図作成伏甕取り上げ、と進行。あとは平面図と断面図を残すのみとなった。

 薄暗くなってきた事務所の中で、着替えながら。

「はぁ、やっと目鼻がついたな。明日雨が降らなきゃいいんだが」

四月二十六日

「おはよう。小雨で助かった。雨雲が切れそうだから、様子を見てブルーシートの取り外しをおこなうから」

 ローム層は雨に濡れると水気で光る。写真撮影に支障がでるので、昨日ブルーシートを敷いていたのが功を奏した。

 雨が止み作業に取りかかる。清掃は昨日のうちに、あらかた終えていたので、短時間で写真撮影に入ることができた。

 その後、二組に分かれ、やり残しの図面作成と出土品の搬出作業を終え、野塩前原東遺跡の調査は完了した。

 調査を開始したころ、満開の花を咲かせていた桜木は、すでにライトグリーンの葉を雨空へ生い茂らせていた。

整理作業再開

 現場調査の終結した翌日から、整理作業が再開された。

 作業は二手に別れ、中山、本荘、望月が昨日まで調査していた野塩前原東遺跡の遺物水洗い注記と図面修正。田村、板倉、盛口が中断していた野塩前原遺跡の整理作業のつづきである。

 私はというと、二、三日は今回行った調査の書類づくりや報告に忙殺されていた。

 部屋の奥まった片隅に陣取り、パソコンで書類づくりに追われている私に、本荘君が声をかけてきた、

「先生、野塩前原遺跡と今度の調査では、土器の文様がだいぶ違うんですね」

 机越しに中腰でのぞき込むと、どうやら試掘段階で表土層から採集された土器の水洗いが、終わりにさしかかっているらしい。

 席を離れ、いくつも重ねられた平カゴの中の土器に目をとおしていく。

「勝坂式や加曽利ET・U式の土器片は、ほんとにわずかだね、みな磨消縄文や櫛引文をもつ加曽利EV式以降の土器ばかりだ。

 前に調査した外山や前原遺跡とは時期を違えているから、墓をつくった新しい時期の人々の集落もどこかにあるはずなんだが……

「前原と前原東遺跡の間にあるのではないですか」

「そうなんだ、本荘君が言うとおり、あの二百メートルの間にあるはずなんだ。

 今までの調査、それは表面採集と昭和五十四年調査の前原遺跡南側の住居跡一基を含めてのことだが、どうも遺跡の東側の限界が今回調査した地点からさほど隔たらないところにあるらしい。そのなかに勝坂U式期から加曽利EW式期までの集落が、時期を追うごとに西から東へ向け、移動してきているのではないかと考えている。

 そして、その東端に加曽利EV式期からの墓域が形成されていると」

「早く掘りましょうよ」

「田村君がいうような、そんなわけにはいかないな。

 イスラエルやイラクなどの中東の国々では、聖書を片手に国家が率先して民族の歴史を解き明かそうとしているが、日本の場合には自主的な学術調査は、いくつかの大学で実施している小規模な調査と史跡保存事業以外、ほとんど開発まかせの調査ばかりなんだから」

 しばらくの間、まだ誰知ることのない、集落景観についての話題がつづく。

 調査地点が西武池袋線の秋津駅と清瀬駅のほぼ中間地点ということもあり、秋津駅を利用していたものは西側の地形を、また清瀬駅を利用していたものは東側の地形を克明に追いながら、集落景観を想像しようとしている。ともに住宅が建ち並ぶ現在の景観の中から、現場へ通う道すがらの坂や川を思い出し、遺跡の原風景を知ろうとしているのであるから、頼もしい。

 こうして、またたく間に一週間ほどが過ぎ、野塩前原東遺跡の基礎的な整理作業を終え、本荘、望月、中山の三君が、他の現場へ去っていった。

 ここに残るのは元の三人。この段階で野塩前原東遺跡の整理を凍結。冬に調査した野塩前原遺跡の整理作業に全力を傾ける。

天才現る

 この違和感のある節の題名は、ある日の田村君との約束にもとづいて設定している。

 整理作業を再開して数ヶ月後。田村君たちの作業は本格的な土器の接合段階へと入っている。

 彼は遠方の八王子から通って来ているが、連日遅くまで作業してくれている。そんなある日の夜。

 私はいつもどおり部屋の片隅で、パソコンを使い、写真画像からの土器の展開図作成に追われていた。二遺跡百十五個体の土器の実測を一人で仕上げなければならないのであるから、夜間の作業中は内にこもり、巣穴に食物を運ぶ蟻のような精神状態をつくりあげていた。

 おし潰されそうな仕事量。気持ちを支えていたのは、総面積二十一万平方メートルにのぼる、下宿内山遺跡の遺物整理。それを五人の作業員とともに成し遂げた経験。

 集中することを持続しなければならない作業のときには、どこか脳の解放された組織で、こうした過去の光景が無意識のうちに蘇っている。

 そのとき、こっちが付かなければあっちと、住居跡ごとに土器を並べた机の間を移動していた田村君が、声高な奇声を発した。

「ひゃぉ! 内田さん住居間で土器が付いた」

 このとき私は住居跡が接近して検出されているだけに、確認面での自然流入による偶発的なものではないかと直感。

 しかし、長時間土器片を見つづけていた田村君の目は、まさに眼力をえていたのであろうか、いくばくもたたぬ間に二例の住居間接合を成し遂げてしまった。

 それも、個々の土器片に注記されている出土番号から察すると、埋没土の下半から出土しているらしい。

 さっそく、該当する遺物の出土図面と、遺物標高の記載された台帳を広げ、照合してみる。

「これはすごい! 4号住居跡の中層。こっちは3号住居跡の中層だ。はぁ〜っ。たまげたねぇ」

「この分だと、まだ付きますよ」

「何が起きてるんだ。ただ壊れた土器を分割して廃棄しているのか?

 こっちの土器は破片同士も大きい。なぜ、一緒に廃棄しないんだ。土器が壊れてから放置される、その時壊れた土器だけを一旦集め、それからあっちこっちに廃棄するようなことが起きているのか?」 

 事例発見の衝撃は、その現象の想像的解明へ向け一気にふくらむ。

 その後、二人で祝宴を催す。

 一杯入ったところで、田村君が言い放った。

「内田さん、『縄文の世界』のつづきを書くと言ってましたけど、そのときは〈天才現る〉という題にしてくださいよ」

「よし、わかった。絶対に〈天才現る〉にする。天才現るだ!」

 そのあとも、しばらくつづく解放された意識の中で、住居間接合の意味が、正論、邪論、あらゆる可能性を求めて飛び交う。

 この日の酔い心地は、格別、格別……


土器の写真実測

 翌日、田村君は盛口、板倉さんに、達人の技を自慢げに伝授している。

 一方、私も、実測をつづけながら密かに様々な事例を手にしはじめていたのであるが、ここではまず、写真実測の方法から見ていくことにする。

 この整理作業の行われた西暦二〇〇〇年の段階で、多くの考古学を志すものが遺物の写真実測を試みていたが、直接に導入できていたのは、主に陶磁器の文様を写真から図化するていどのものであった。

 しかし、縄文土器となると写真に映し込む面積が大きく、通常の撮影ではレンズによる光学的な歪みが生じ、実測までにはいたらない。

 多くの場合、数百ミリの望遠レンズで、遠距離から撮影することで歪みを抑えようとするのだが、フィルムによる写真撮影では印画紙に焼き付けるときの縮尺調節が難しく、しかも部分的なコントラストの調節もままならない。

 この弊害を乗り越えるにはデジタルカメラとコンピューターソフトを組み合わせ、機械的な数値として画像を処理していかなければならない。

 歪みや部分的なコントラストをソフト上で補正していくのであるが、とくに問題となるのが歪みである。

 上段の1はレンズの中心を土器の中央に置いて撮影した写真であるが、周囲にあおりを生じている。2はコンピューターの画像処理ソフトを用い、実際の計測値に合わせて補正したものであるが、補正値が大きくなる場合には、1の線で四区画した中央にレンズの中心を平行移動し、その四枚の分割写真をソフト上で合成すれば、あおりを最小限にとどめることができる。

 したがって、その分割を規則的に増やしていけば、合成だけでかなりの精度を保つことが可能となる。

 3は展開写真であるが、従来の写真撮影では、次頁上段のようにスリットカメラでフィルム面を移動させながら記録していくため、口と底で円周率が違っていても、小さい円周部分は大きい方に合わせられて間延びし、実測素材としては使用できなくなる。

 そのため、土器の場合には、地球儀の平面図化的な手法が必要となってくる。

 それを行うには回転台の上に土器を設置し、固定したカメラで土器を回転させながら順次撮影していく。この作業は歪みを最小限にとどめるため、中型の土器で二十数カットにおよぶが、その画像データーをコンピューターの画像処理ソフト上で、中心部を帯状に切り、合成していくのである。

 その作業を経たものが3であるが、撮影段階での照明が適切でないと、コントラストの調整が困難となり、自然な合成が生み出せなくなる。

 なお、実測のさいの補助資料として、ライティングを変え、文様をはっきり出した写真を作っておくと便利で、場所によっては、その画像に切り替えながら実測をおこなっていく。

 いや、この場合の実測というのは適切ではない。処理された画像がソフト上で正確な縮尺比を表しているのであるから、いきなりトレースしていくことになる。

 さて、それを行うにはセル画を重ねるようなレイヤー、領域指定による回転・変形、数値による縮尺、コントラスト、色調整等々、高度な機能を搭載した画像処理ソフトが必要であることは言うまでもない。

 価格にすれば十数万もするソフトではあるが、それにより高精度の図面が迅速にでき、結果的に四遺跡百四十五個体の土器実測を一年ほどの間に、一人でこなすこともできたのである。

 メリットは計り知れない。作業を進めながら原色の土器展開写真ができあがるわけであるから、報告書完成後、一ヶ月ほどあれば原色の豪華、『縄文土器大全清瀬編』などという本の出版も夢ではない。

 実測作業中には、いつも回転台に置いた実物の土器をともなっている。やはり実物の確認が不可欠なのであるが、このことがどれほどの観察眼を高める効果をおよぼしたことであろう。思いつくままにそれを挙げれば、

・縄文の流れに、縄が粘土の水気を吸い上げ、撚りがほぐれていく経過を発見。そのことから、施文の開始と終結の位置、および回転方向を判読。

・区画に使われる線の重なりから施文順位を判読。

・鉢形土器に、板づくりの手法の認められるものを確認。

・粘土の重ね積みに、刻み付けの認められるものを確認。

・接合部位の極端な色調変化から、破損し、破片化してから違う状況下に置かれていたものを検出。

・接合線と被熱変成の状態から、加熱礫による煮沸を特定。

・炉縁に使われた土器の多くに、設置位置で南側に被熱痕のあることを確認。 

・彩色土器に弥生時代中期からと言われていた、化粧土を用いるスリップ手法の用いられた破片を確認。

・ベニガラによる赤彩土器の上に、炭化物の付着を確認し、住居内埋設までの間に火を用いる何らかの状態(儀式的なものか)の介在していることが判明。

等々、土器の実測作業をとおして、数多くの事例を観察することができた。

 すでに前節までの間に述べた事例もあるが、これから語らねばならないことも多い。すべては、こうした長く、ともすれば気持ちが萎えてしまいそうな作業の中からえられたものであるが、こうした発見こそが研究することの醍醐味であり、想像力を高め、そして集中力を持続させることへの秘められたエネルギー源にもなっていく。



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   執筆・編集
       清瀬市郷土博物館
        学芸員 内田祐治

 制作    2005年3月
 
 歴史読本
【幕末編】
多摩の江戸時代の名主が書き残した「日記」や
「御用留」を再構成し、小説の手法をもって時代
を生きた衆情を描き出した読本。
 
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