掘り出された聖文 10
─縄文時代中期遺跡発掘調査の記録─





目次詳細
 

第五章 野塩前原東遺跡第二次発掘調査の記録  

  ・二次調査の開始

  ・土坑検証への糸口

  ・土坑の掘り下げへ

  ・土坑埋没過程と伏甕のこと

  ・小さな手

  ・掘削痕の検証
   


   

第五章 野塩前原東遺跡第二次発掘調査の記録

二次調査の開始

二000年九月

 野塩前原遺跡の遺物整理が、本格的な復元作業に入って久しい。私が行っている土器の実測も4号住居跡へ差しかかっている。そんな九月のある日、内線の電話が事務所から入る。

「事務所のカウンターに埋蔵文化財の確認の方が見えていますのでお願いします」

 細かい作業中に呼び出しのかかるのは辛いのだが、遺跡にかかわる仕事は、すべて一人でこなさなければならない。

 二階から一階の事務所カウンターへ向かう。

「ご苦労様です」

「野塩四丁目に福祉作業を建設するのですが、遺跡があるか確認しに来たのですが」

 このときの正直な気持ちは、来た、来てしまったである。

 開発予定地が遺跡のなかであることを説明し、開発を行うための申請書を交付。すでに一次調査で数多くの遺構の検出されていることを話す。

「このような状況なので、通常は試掘調査を経て確認するのですが、すでに南どなりの道路部分の調査から、開発のさいには本格的な発掘調査が必要となる結果がでております。申請書を提出されてから協議させていただくことになりますので、よろしくお願い致します」

 遺跡があるということは、事前に聞いているらしい。こうした場合誰でもそうであるように、心配なのは調査期間と費用。だが、それについては建物の建築面積や遺跡内容など、さまざまな資料を積み上げなければ即答はできない。

 この段階で言えるのは、開発にかかわる各種図面を添付した申請書を、なるべく早く提出していただくことである。

 応対を終え、カウンターを離れ二階へもどる。

 途中だった土器の実測を終えるのに数時間を費やしたのち、概略の資料づくりにとりかかる。

 数日後、申請書の提出があった。

 開発は迅速に動いているらしく、発掘調査に入ることも先方は調整済みのようであるが、やはり問題なのは費用と期間である。申請書に書き記された工事開始時期は十二月。その日付が私に重くのしかかってくる。

 それから一週間後。すべての資料を整えて協議に入った。

 申請書が提出された段階で、先方には調整窓口の一本化をお願いしていたが、このことで協議は円滑に動き出していた。

 十二月から工事を着工するのであれば、調整を円滑にし、短期間に事務処理をしていかなければならない。

 こうしたとき心がけているのは、開発と発掘調査という相反する目的の間に、相克の関係を築いてはならないということ。

 相生させる方法はただ一つ、たたき台などつくらず、最初から無駄をいっさい切り捨てた計画を提示し、それを承知していただけるかどうかの一点に絞り込むことであるが、それには信頼関係の構築がもっとも大切なこととなる。

 発掘における金銭的な問題の多くは人件費。もちろんそれは質なのだが、だらだらとした雰囲気をつくれば、作業が遅れ、人件費に羽が生えて湯水の流れるが如きに失する。

 それを生じさせないため、調査期間中、私が責任をもって担当することを告げ、協議は無事終了。

 そこで了承された調査期日は、十一月一日から同月三十日までの一ヶ月間。

 この日以来、整理作業の再中断を目前にした、区切りをつけるための作業が夜遅くまでつづく。

二000年十一月一日

 調査開始日から、いきなり雨である。

 作業主体が表土剥ぎということもあり、小雨なので調査を強行。 

 一次調査の区域には、すでにアスファルトの道路が完成しているが、その北側の線路までの間が今回の二次調査区域である。

 今回のメンバーは中山、本荘、望月、田村、花井(パワーショベル・オペレーター)、それに一次でも手伝いに来てくれていた岡部君が正式に加わっている。なお、板倉さん、盛口さんはこの調査には参加せず、野塩前原遺跡の拓本を主体とする整理作業をつづけている。

 仮設事務所で着替えながら、久しぶりの再会に会話がはずむ。さあ、野塩前原東遺跡二次発掘調査の開始である。

 雨に濡れぬようにビニール袋に入れた図面を広げ、本荘君を呼び寄せる。

「調査範囲を書き入れてあるから、この図を見て、望月君とビニールテープを張ってくれるかな。お願いします」

 その後、花井さんのもとへ走り、

「表土は東から西へ剥いで下さい。今、テープを張りますが、残土はその西の外側へ集め、上から写真が撮れるようにしてほしい」

「わかりました。じゃ、はじめていいですか」

「はい」

 パワーショベルが、雨を吸った柔らかな耕作土を踏みしめ、テープの張られた東側へ移動。掘削開始。

 四、五十センチ掘り下げたところで黄褐色のローム層が現れる。

 手で水平を切り、その深さで掘り進むことを花井さんへ合図。

 掘り広げるにしたがい、東西に延びる幅三十センチほどの黒褐色土の溝跡が、いく筋も確認されはじめる。

 この痕跡はゴボウの収穫にともなう溝。合羽にあたる雨音のなかで、縄文時代の遺構の検出に神経を集中する。

 しばらく掘り進むと、溝はなくなり、大小のピットが現れはじめた。調査区内へ降り、ジョレンで水気を含んだベタ土を掻くと、しまりのある暗褐色土が現れる。縄文時代の地表土の入り込む遺構に間違いない。

 そのとき前方で作業しているパワーショベルのエンジン音が、超低速モードの低い唸りに変わった。

 合羽のひさしを上げて視線をバケットの下に向けると、黒色土の落ち込みの存在が目に入った、と同時に運転席から、

「先生、落ちてますよ!」

 近寄って観察すると、どうやらそこは深く落ち込む大きな攪乱坑らしい。

「花井さん、四、五十センチ離したところを薄く剥いで!」

 そこから先は三十センチほど落ち込んでいる。

 ジョレンと移植ゴテを使い分けて、落ち込みの壁をきれいに掻き出していくと、ローム面に五、六センチ幅の断面かまぼこ形の溝が、数条平行に付けられているのを確認。

「パワーショベルのバケットでやられてる!」

 土地の人から掘り返しのあったことは聞いていたが、これほど深く、大きいものであることは予想していなかった。

 しかし、その掘削で掘り下げられた底から、ピットとともに一次調査と同様の土坑が検出されはじめた。

「花井さん、埋土が残ってもいいから、もう十センチ上げて」

 間断なく指示が飛ぶ。

「ストップ!」

 一基目のあたりの攪乱土から、破壊された伏甕らしき大形土器片を検出。

 そのころから雨足が強まり、パワーショベルのキャタピラの足場も、地表にかなりめり込むようになってきていた。

「中止! 駄目だ中止にしよう」

 片づけを終え、小さな仮設事務所へ入る。

 季節は冬にさしかかっている。雨に濡れた髪をタオルで拭く、みなの唇が青ざめていた……

土坑検証への糸口

十一月二日

 二日続きの雨である。整理室と化した博物館学芸員室で、表土層から出土した遺物の水洗い。

 調査初日から二日間の雨は辛い。今回の調査では休日の編成を博物館の休館日である月曜にあて、日、月、祝日としたが、こう雨が多くては、休日の作業も覚悟しなければならない。その旨をみなに伝える。

 話を終え、しばらくすると、盛口、板倉さんが拓本取りの手を動かしながら、

「昨日は雨で大変でしたね。何か出ました?」

 現場の様子が気がかりらしい。

十一月三日 文化の日 休み

十一月四日 

 今日は晩秋の抜けるような青空。

「おはよう」

「おはようございます」

 みな、元気があふれている。

「今日は表土剥ぎを完了させるから。

 本荘君と望月君は、攪乱で掘り込まれた南側の遺構確認に入って。だいぶ深くまで掘られているから、遺構は残っていても浅いはず。削りすぎないようにね。

 中山君と岡部君は、調査範囲を平面図に入れてから本荘君たちへ合流してくれるかな。それと、レベル(主に標高の計測に用いられる測量器具)も据えて」

 パワーショベルに燃料を入れ終えた花井さんが、やって来た。

「北側にもう一つ大きな攪乱坑があるようなんですけど、掘り上げていいですか?」

「縁ぎわは手で掘り出すから、少し離した位置から掘り下げて」

 指示を終え、作業に取りかかる。

 パワーショベルの作業場所へ向かう途中、一昨日検出した伏甕と思われる土器片を見に行く。

 雨で洗われた土器の表面には、地の縄文を線で縁取りして消す磨消縄文の手法で描かれた曲文が描かれている。

「一次調査の 22号土坑から検出された土器と同じ、加曽利E・式だ」

 近くで作業している本荘君を呼び寄せ、

「ほら、E・だよ。破片は破壊されて飛び散っているが、壊れ方を見たいから、そのままの状態で掘り出してもらえるかな。

 まわりから攪乱土を取り除き、生きている土(破壊されていない土)は掘り下げないように注意して」

 そう言い残して花井さんのもとへ行く。

「長雨で心配したが、思ったより水はけがいい。今日は状態がいいから攪乱土を残さず取り去って下さい」

 パワーショベルが力強く動きはじめる。

 しばらくして、長軸が二メートルを超える楕円形の黒色土の広がりが現れた。

 ピンポールを突き刺してみると、どんどん入っていく。埋土は柔らか、深さは一メートル以上。どうやら一次調査で検出された、近代以降の陥し穴のようである。

 さらに掘り進むと、調査区西端で攪乱が段をなし、一気に深まっている。


「花井さん、ここから先は駄目だ、攪乱が深すぎて遺構があっても破壊されてる。

 残土の捨て場に使うから、一応掘り出して下さい」

 振り返り、

「望月君、遺構確認で出た土は、ここへ投げ入れていいからね」

 後の作業をまかせ、調査区中央に連なる攪乱坑の壁面の掘り出しにかかる。

 やがて、その作業が終わろうとする西端で、壁の下から土器の一部を検出。そのがっしりと土にくい込む感触は、伏甕の存在を予想させるには充分の手応え。

 竹ベラと移植ゴテを使い分けながら攪乱土を取り除く。胴部から底へかけて破壊されているが、残る口の部分は掘るにしたがい弧を描き、ついには一周まわってしまった。

「くわぁ〜、残念だ。破壊されていなければ完形だったはず」

 さらに周囲をきれいにしていくと、長さ一メートル、幅七十センチほどの暗褐色土の埋まり込む土坑(1号土坑)の輪郭が現れたが、伏甕はその片端に埋設されている。

 土器の文様を見ようと、這いつくばって顔を近づける。左撚りの縄を縦回転した無節の斜行縄文。胴には線で縁取りした縦帯の磨消縄文。口には連結する楕円の線引き。

「加曽利E・式だ。これは一次調査の16号土坑から検出した土器と同じ……

 そういえば、あの土器も無節L縦回転の縄文だった。

 近いぞ、二つの土器は、同じ時期につくられている可能性もあるな」と心の中でつぶやく。すると、

「出てきましたね」

 調査区の図取りを終えた中山君が、近くで遺構の確認作業に入っていたらしい。

「もったいないよなぁ、完形だったのに。

 わるいが、壁に攪乱土が残っているから、先にそれを取り去ってから遺構確認のつづきをしてくれるかな。

 あっ、それから攪乱土の中に破片が紛れているかも知れないから注意して。花井さんが北へまわったから、私もそこへいく。何かあったら呼んで」

 調査区の外へ上がり、検出された遺構を確認しながらパワーショベルの作業場所へと向かう。

 ところが、先ほどの土器を観察しつづけたせいであろうか、残されていた埋土の残映ではないのだが、無意識のうちにロームブロックという言葉が浮かんできた。

「ロームブロック…… そういえば、さっきの土坑にも確認面にロームブロックが入ってたな。一次調査のとき、掘ってすぐ埋めているからこそ、ロームが乾燥を受けずに顆粒状に分解しない、と判断したが、それをしっかり観察していかなければならないな」

 こうした連想から、ぼやっとだが、先端を尖らせた棒で固いロームを突き崩しながら掘る、縄文人の姿が脳裏に浮かんできた。

「そうだ、状態のいい土坑を選び、調査を終えた段階で切ってみよう。断面から観察すれば掘削痕が明瞭に観察でき、工具を想定できるかも知れない」

 パワーショベルの後を追い、ジョレンで攪乱土を掻き集めながらも、これからの調査のシミュレーションはしばらくつづいた。

 この北側の攪乱坑では、中ほどから土坑の重なりが確認され、日暮れ間ぎわには、表土層の除去を完了。

「作業終了」

 みなが道具の片づけに入るなか、きれいにされた確認面に足を踏み入れ、検出されたばかりの十数基の土坑を見てまわる。

 こうした時間は、これからの作業工程を組み上げるための大切な時間なのである。

 薄暗がりの事務所へ入る。

 着替えを終え、くつろぐ面々に、考えていたことを話す。

「土坑の調査の最後に、半割して断面から掘削痕を観察しよう。

 デジカメを据え、固定した位置から、数ミリ単位で切断面を連続撮影していく。うまくすれば、ムービーのような状態で掘削痕をとらえることができる」

 頼もしき仲間たち。その中では私はいつもこうだから、誰も唐突とは思わない。土坑に対して縦に切るべきか、横に切るべきか、カメラの場所をどう確保するか……

 空には冴えわたる月も現れた。


土坑の掘り下げへ

十一月七日

 休み明けのこの日、調査はいよいよ本格的な段階へ突入した。

「ちょっと集まってくれるかな。

 状況はわかっていると思うが、攪乱部分が予想以上に深い。掘り下げたら数センチしか残されていない遺構もあると思うから、確認段階の遺構状態をカメラとビデオでしっかり記録してから掘り下げに入りたい。

 だから今日は、徹底して確認面をきれいにする。

 撮影は作業進行に沿い、順次遺構ごとに行っていくが、今日の夕方か、明日の朝一番で調査区全体の撮影をするので、それが終わるまで、清掃した箇所にはなるべく立ち入らないように」

 各自道具をととのえ、調査区東側へ終結。横一線に並んだ一対ずつの眼は、斜め前の土面を凝視し、どんな小さな変化も見逃すまいという気迫に満ちあふれている。

 作業はかなり速いスピードで進行。二時間ほどで、最初に発見された伏甕をともなう土坑(13号土坑)を越えるあたりまできている。

 私は、事務所で撮影機材をととのえ、靴底の泥を洗い流してから撮影の作業に取りかかった。

 まず、調査区外の縁の高みから、集合している土坑群の全景を記録。

 一部攪乱土から出土した土器を残しているので、ピントがズレてはと、ビデオカメラのモードを手動に切り替え、アップの表示画像で土層面にピントを合わせる。

「おっ、見えるぞ。暗褐色土に黄褐色のロームブロックが混入している」

 カメラをゆっくりと左へバンダウンしていく。

「あれ、埋没土の色が違う」

 こういう事はよくありがちなのだが、裸眼で観察していると当たり前のことに思え、変化を見定めていく気持ちにゆるみの生じていることがある。

 この場合、土坑間における埋没土の色調の違いは、誰が見ても一目で分かる状態であった。しかし、問題視しなければならないのは、意識が漠然と、それをとらえているだけで、関連事項への神経の情報伝達が断ち切られていたようである。

 それがファインダーの中の世界として、モノクロ、画角などの、制限が加えられたために変化が強く意識づけられたものと思われる。

 埋没土の色調の違い。それは遺構の残存している深さを表していたのである。掘らずとも、それがわかるのである。

 つまり、掘り出される土は、下位へ行くほど後から積み上げられていく。したがって特殊な事情がない限り、埋め戻されるときは最後の方に掘り出された土から、順次埋められていくことになる。

 このたいした理屈ではないことが、掘った場所の基盤の土層が下へ、黒褐色土黄褐色土と変化しているとなれば、この上もない判断材料となってくるのである。

 実証的に言えば、上部が破壊されている確認面では、残りの深いものほど埋没土の色調が黒色味をもつ。この土坑群について言えば、残存部分の深い順に 9→ 12→13 →10 号。

 これはあくまで目測による感覚的なものであったが、その正式な結果を先取りすれば、確認面から床面までの平均的な深さは、

   9 …41cm   12 …22cm

   13 …15cm   10 … 4cm

となり、順位に狂いはなかった。

 なお、写真中央左寄りに土器片のまとまりが見られるが、これは攪乱土中から出土しているもので、後に右手13号土坑伏甕の破壊にともなう飛散片であることが判明した。

 調査区へ降りての個別撮影を終え、周囲の確認面を観察していると、暗褐色系の土が入り込む、径一センチ四ミリほどの円形をした掘削痕の密集箇所があることに気付いた。

 地べたにしゃがみ込み、その痕跡の確認できる限界点をつないでいくと、幅七十センチほどにまわった。

「床面まで跡形もなく破壊されているが、土坑構築時に付けられた掘削痕だけが、かろうじて残っている。このことからすれば、元の規模は二回りは大きかったはず」

 これが7号土坑の発見であった。

 望月君と本荘君を呼び寄せ、

「急ぎの仕事を頼む。この7号土坑と東側の11号土坑は輪郭が半分出ているんだが、南側へ調査範囲を拡張してほしいんだ。

 土坑を傷めないようにコンパネを敷いてから作業に取りかかって」

 それから一時間ほどが過ぎ、7号を終え東側の11号の拡張に入っていた本荘君が、1号土坑で撮影をつづけていた私の所へやって来た。

「拡張の攪乱土中から土器が出てくるんですが、これ見てください、北側の13号土坑の伏甕じゃないですか?」

「本当だ、似てるね」

 いったん調査区を出で、13号土坑へ確認に走る。

 伏甕と見比べながら、

「同一個体に間違いない!文様も、色調も、粘土の質も同じだ、やったね!」

 表土剥ぎの段階で、本荘君に伏甕の掘り出しを頼んでいたのがよかった。そのときの眼が土器の特徴を記憶していたのである。

13号掘削土がここへ運ばれてるんだ。

 攪乱土からの土器の検出がなくなるまで、範囲を広げよう」

「はい、承知しました!」

 本荘君の応対はとても丁寧である。これは、真剣な場面に遭遇したときの彼の特徴でもある。それは多分、報道カメラマンをしていたころに培われたものであろうが、その彼と、二の腕が太く黙々と作業をする望月君とは、最高のコンビなのである。

 しかし、この二人をしても、幾ばくもなく土器片の検出は止まってしまった。

 他の多くの破片は、破壊にともない調査区外の何処かへ運び出され、そこで眠っているのであろう。

 こうして、今日の作業は全体撮影までにはいたらなかったものの、新たな発見を織り込みながら順調に進み出した。

十一月八日

 今日は快晴。朝一番で、調査区全体の撮影に入る。

 リバーサル、デジタルカメラ、デジタルビデオによる、三様の異なる媒体で記録。

「はい、終わりました。遺構にナンバーを付けるから、荷札とマジックと釘持ってきて」 

 各々の名称を書いた荷札を、遺構横の地面に釘止めしていく作業に取りかかる。こうしておけば、遺構が密集していても番号を取り違えることはない。

「さてと、東側の伏甕の出ている二基重なった土坑(12号・13号土坑)、そこにはわたしと中山君。

 西側の伏甕が出土している土坑(1号土坑)には田村君。

陥し穴(1号陥し穴)は大変だが、本荘君と望月君、岡部君で頼むね」

 各自持ち場へ散り、作業開始。

 12号・13号土坑は、半割した土層断面で新旧を最終確認することが重要な課題であった。

 土坑は、双方とも上部が大きく破壊され、残存している部分は下位の二十数センチ。掘り下げの作業自体はかなり早く終了した。

 こうして現れた土層面には、明らかに埋没していた12号を切って13号を構築した痕跡が残されており、事前に確認されていた伏甕の位置、それに平面的な土層観察と考え合わせ、12→13号への移行が確定した。

 一方、 1号土坑も半面の掘り下げが終了に近づいていた。

 この土坑には、中位の埋没土にロームブロックが著しく混入しており、最下位に黄褐色のローム質土が堆積。

 伏甕は、北端に埋設されていたことは先に述べたが、床面から二十八センチていど上に設置されており、土坑の内側へ傾斜していることを確認。この傾斜の状態は、一次調査の16号、21号、23号土坑においても観察されており、埋葬後の遺体の腐敗にともなう陥没であることが確定的となった。しかも、土器の内面には、例の小動物がかじりついたような痕跡も残されていた。

 田村君の動かす移植ゴテの下から、床面が現れた。そこには、暗褐色土の入り込んだ直径一センチ四ミリほどの円が無数に現れ出した。それは間違いなく、この土坑を構築したときに付けられた掘削痕である。

 彼はそれをもう少しはっきりと出すべく、削り込もうとしていた、

「駄目だ! そこで止めなきゃ駄目だ」

 住居跡では踏みしめた硬化面が形成されているのであるが、土坑の場合はそれが見られず、ともすれば掘り込んでしまうことになる。ここでの調査では、こうした掘削痕も徹底して調査しようというのであるから、削り込みは絶対にしてはならない。

 1号土坑を離れ、南側の陥し穴の作業を見に行く。

 ずいぶんと馬力をかけて作業したらしく、もう少しすれば底が現れそうな段階へさしかかっている。

 埋没土は、ぐずぐずの柔らかな土。中位以下にはロームを主体とする層が凹状に堆積し、それより上位へは黒色味を増す腐植土が埋まり込んでいる。

 中で窮屈そうに作業する望月君の背の高さは一メートル六十七、八センチであろうか、その彼が立ち位置でもすっぽり入ってしまうあたりで、

「底が出ました。幅五十センぐらいで平らになってますね」

 野塩外山遺跡にはじまり、今までの調査でもれなく検出されている近代以降の陥し穴と、規模、形態は同一であった。

十一月九日

 今日は曇り。薄ら寒いが、撮影には陰が出ず最適な日である。作業に入ろうとする皆を呼び止め、

「土層の堆積状態の写真を撮ります、手早くきれいにして。終わったところから撮影していくので、声をかけてください。

 撮影を終えたら土層図の作成、それから残り半面の掘り出しにかかってください。くれぐれも床面を掘りすぎないように」

 清掃の間、私はある決意をもって9号の半割に入った。ある決意とは、一昨日見た埋没土の色調の違いからくるものである。

「この土坑は深く、状態もよいはず」

 この思いにより、掘削痕を調べるのであれば、この土坑にしようと決めていたのである。

 片面を二十センチほど掘り下げた段階で、当初の判断が間違いではなかったことがわかってきた。覆土にはロームブロックが多量に混入しており、それが下位へ行くほど増している。

 絶えず水平を保ちながら、平面での観察を怠らぬよう細心の注意を払って埋没土を掻き下げていく。草木による攪乱は一切無い。状態はすこぶる良好。

 途中、何度も声が掛かり他遺構の土層面の撮影に走る。しかし集中力は途切れていない。この9号にもどれば、すぐに空白の時間は埋められている。

 やがて、構築時の掘削痕が現れはじめた。通常中に入りながら作業をつづけるのであるが、自身の踏み跡で痕跡を傷つけるのを避けるため、いったん外へ出でコンパネを敷き、そこに腹這いになり、身をのり出して床面の検出に入る。

「きれいだ」

 若干の水気を含んだ艶やかな黄褐色のローム面。そこに、暗褐色土の入り込む円形の掘削痕が無数に散っている。床と眼の間隔は三十センチたらず。どんな小さな違いも判読できる。

 その眼でとらえたもの。それは掘削痕の多くのものに切り合いが生じている姿。何百、何千という、突き刺しの跡である。

 だがここで問題が生じた。あまりに頻繁な突き刺しのため、それらが重なりすぎて単体としての判読が困難になりそうなのである。

 片側半面の掘り出しを終え、傍らに座り、今後どのように作業をすすめるべきか考え込む。

 

土坑の埋没過程と伏甕のこと

十一月十日

 曇り。今日も記録撮影には絶好の日である。

 7号・8号・10号土坑は遺構の大半が破壊され、床面上数センチ、もしくは床面まで破壊され掘削痕のみをとどめるものであることを確認。作業時間を要せずして完掘状態の写真撮影へ入ることができた。

 作業に区切りのついたところで、周囲を見わたす。

 今日は別段指示を出していないが、他所の作業は順調に、土層図の作成から残り半面の掘り出しへと向かっている。

 撮影後、昨日調査方法で悩んでいた、9号土坑の土層図作成にとりかかる。

 ここでは、下底に十センチほどのローム質土が水平堆積しており、その上にロームブロックを多量に混入する暗褐色土が、微妙な違いを見せながら複雑に重なり合っている。

 それらを土層図に書き入れながら、観察をつづけていくと、ある段階で土層堆積の具体的な状況が類推されてきた(前出図BB参照)

 最下層に堆積する・層は、ロームブロックを混入し、ローム粒子の割合を強めた暗褐色土であるが、特徴的なのは上位と異なり、底一面にほぼ水平堆積していることである。

 この状態は、上位の土が流し込みのような粗雑な行為で埋められているのに対し、振るい落としのような慎重さが窺える。つまり、墓であることを考慮すれば、遺体を安置し、その姿が見えなくなるまで、静かに、注意を払って埋めているように想像されてくるのである。

 先に水平堆積とは行ったが、当初の・層上面の状態は山を為していたのではないかと思われ、その部分が後に遺体の腐敗とともに陥没、上面に凹凸をもちながらも水平に圧縮されたものと判断される。

 それに比べ、上位の層は・・・層にロームブロックの混入が著しいことで明瞭に区別されるが、それらの重なる状態からは、土坑縁より中央へ、順次土を流し込んでいることが判明。

 埋没土は、墓坑としての性格を的確に表していたのである。

 土層図面を仕上げ、残り半面の掘り下げをはじめるが、しばらくして移植ゴテに石をかすめた感触を受ける。持ちかえた竹ベラから掘り出されたものは、基部を欠く打製石斧。出土位置は、・層下底から三センチていど上。

 これまで発見された遺物は、掘り上げ土に、地表で紛れたと思われる微細な二片の加曽利E式土器のみ。

 問題なのは、それが置かれたものか、土器とともに混入したものか?

 土坑に残る掘削痕が棒状の工具であることからすれば、打製石斧は構築時に使用された工具の破損廃棄ではない。しかも、表土層からの混入品であれば、出土位置周辺の土層が上からの流し込みとして、傾斜して出土することが多いはずだが、この状態はそのようには思えない。置かれたように水平に出土している。

 結局、これだけの情況証拠では何とも言いがたいのだが、関東ローム層という酸性土の中で、骨までも溶脱して消え去った被葬者とこの打製石斧が、深い関係にあったと思えてくるのは、調査者だからであろうか。

 この日は、作業に取りかかっていた土坑の多くが掘り上がり、完掘状態の個別撮影の段階までこぎつけることができた。

 

十一月十一日

 今日の主な作業は、1号、13号の伏甕取り上げ平面・断面図作成。そのほか、前日から作業に入っていた東側ピット群の掘り下げと、北側に重複する3号から 6号土坑の確認掘り下げである。

 すでに13号土坑では、中山君と私で伏甕の取り上げがはじめられている。

「この伏甕も内側に傾斜している。しかも、土器の内面には小動物がかじりついたような削痕も付いている。

 ほらここを見て、外側にもそれがある。位置は倒れ込んでいる土坑の内側へ向かう方だ。一次調査の伏甕の状態と全く同じじゃないか。しかも、1号土坑の伏せ甕もそうだった。

 傾斜と痕跡の意味については、今まで考えてきたことに間違いないな」

 このとき頭の中では、もう一つの問題が派生していた。

 一次調査と合わせ、これまで六例の伏甕を検出しているなかで、ただ一つ例外が存在していた。

 伏甕を埋設することは共通しているのであるが、長さ一メートルを超える土坑にともなわれるなかで、土器を収めるだけの穴しか掘られていない20号ピット。その伏甕には、削痕も、傾斜も、認められてはいないのである。

 ここで、その二つの現象を追求してみることにする。

 土坑にともなう五例の伏甕には、二つの特徴が認められる。

 一つ目は、上の13号土坑伏甕写真で示したごとく、器面に灰汁状のものが含浸する変質部分が見られ、そうした箇所に削痕が密集していること。

 二つ目は、削痕の位置が、土坑端に設置された伏甕の傾斜する側、つまり土坑中央部に面する低まった口縁部を中心に現れていること。

 このことから、小動物がかじりついたような想定がなされてきたのであるが、そのことはまた土坑形態を踏まえ、腐敗した遺体の存在を間接的に傍証する情況証拠ともなっている。

 つまり、五例すべてに共有された土坑端に設置された伏甕の中央への傾斜現象からは、二つのことが想定されてくる。

 一つ目は傾斜の原因であるが、このことは陥没により引き起こされている可能性が強く、遺体の腐敗にともなう現象として理解されてくる。

 二つ目は伏甕の埋設位置。縦長な土坑の端への埋設から、遺体が存在していたとすれば、選択肢は足か頭部に限定されてくる。

 土坑の長さは一メートル二十センチていどであることから、成人であれば足をたたむ屈葬の状態が想定されるが、ここで計測不能な一次調査の21号土坑を除き、伏甕の傾斜角を挙げると、

一次調査  16号土坑…21.6゜  22号土坑…53.1゜ 

二次調査  1号土坑… 8.7゜   13号土坑… 8.3

となる。

 埋め方の状態もあるであろうが、少なくも二十度や五十度という陥没の値は足部では不可解で、腐敗による大規模な陥没空間を想定できる胸部が、伏甕の埋設位置にかかわる現象として理解されてくる。

 このことは、伏甕が〈頭部に被せられる〉といわれる従来からの説を肯定するものでもある。

 伏甕に見られる削痕と傾斜。この二つの現象は、ともに情況証拠として遺体の存在を暗示しているが、こうして考えてくると、20号ピットの土器だけを入れるあり方がきわ立ってくる。

 伏甕を埋設するだけの掘込み。想像されるのはお産にともなう胎盤の処理、ないしは流産や乳幼児といった小さな遺体の埋葬、あるいは再葬による骨のみの洗骨葬などである。

 このうち洗骨葬とすれば、伏甕に削痕の見られぬことが重要な判断剤材料ということになってくるが、事例はまだ一例。この問題は、今後の事例検出の増加に託された。

 

小さな手

 その日の夕方、12号、13号土坑の平面図の作成に没頭していると、東側の調査区への進入口あたりから子どもの声が聞こえてきた。

 畑の中に出来たばかりの道路に魅せられ、遊んでやろうと入り込んで来たらしいが、こちらへ静かに近づいてくる気配。何か、おじさんたちが集まり、宝探しでもやっているのかと興味津々の様子。声をひそめて、ああだ、こうだ話している。

 こういうとき、素知らぬ顔をして子どもたちの会話を聞いているのは楽しい。

「何だ、この深い穴は?」

「あのおじさん何書いてんのかな?」

「おい、あそこに土器が出てるぞ!」

 そこまで、各々目につく状況分析が進み、短時間のうちに何をしているのかを読みとったらしい。感心、感心。

 次に、いよいよくるかなと思っていたら、案の定、

「おじさんたち発掘してるの?」

 きたきた。こませに寄ってきた魚だ。さて釣り上げるぞとばかりに悪知恵が働く。

「駄目だよ! 入口にロープ張ってあったでしょ。入っちゃ駄目だよ」

「ごめんなさい」

 この子どもたちには失礼だが、案外と良い子たち。これなら、まずは大丈夫。

「おじさんたちは、ここで四千年前にいた縄文時代の人たちのお墓を発掘調査してるの」

「うぇ、お墓だって!」

「だから、いい加減な気持ちで掘っていると呪われちゃうから、みんな真剣に掘ってる。わかるよね!」

 三人とも、うなずいている。

 子どもたちのいるところへ上がり、目につくものを一通り説明するが、三人ともしっかりと聞いている。これで、大丈夫は確定。

「掘ってみたい?」

「いいの? やらせて!」

「岡部君、移植と竹ベラ、三本ずつ持ってきてくれるかな」

 振り返って言いながら見ると、わがほうの発掘小僧たちは、みな事のなり行きに笑っている。

 子どもたちには悪いが、一部残されていた畑の溝跡の掘り出しに入ってもらう。うまくすれば、この攪乱土の中からも、小さな破片を見つけ出すことができるかもしれない。

 持ってきてもらった、移植ゴテと竹ベラを子どもたちへ渡す。

「おっ、ちっちゃい手だな。移植ゴテは、こういうふうに握って掻くように土を掘るんだよ。

 さて、みんなよく聞いて、土の色の違いわかるよね。黄色っぽい土は今から一万年以上前の富士山の噴火で飛んできた火山灰……

等々、掘るべき土の状態を説明をしてから、耕作による溝の掘り出しを手伝ってもらう。

「岡部君、悪いが作業しながら、見てやってくれるかな」

「はい、わかりました」

 こうしたとき、子どもたちの気が散るように、無闇にだらだら話しかけてはいけない。岡部君は、何処の学校、何年生などと、話しかけてはいない。その状況を遠目に確認して、安心して持ち場へもどる。

 四、五十分して日暮れの気配。

「ほら、もう終わりだよ。何か出た?」

「岡部先生に見せたら、石だって言われた」

 土器が出なかったことに、多少の不満はあるようだが、充分満足した様子。ここで初めて聞く。

「何処の学校?」

「芝小(芝山小学校)。また来ていい?」

「おじさんたちも忙しいから、みんなに話して大勢で来ちゃ駄目だよ」

「じゃぁいいの。やったー!」

「暗くなるのが早いから、寄り道しちゃ駄目だよ!

 はい、ご苦労さんでした」

「ありがとうございました」

 歯切れのいい学校仕立ての一斉の挨拶を残し、駆け足で楽しそうに帰っていった。

「さぁ、うちらもブルーシートを遺構にかけて終わりにしよう」


 それから五日後。

 いつ来るかと思いつつも、あまり興味がなかったのかと忘れかけていたとき、一人増えた四人連れで彼らはやって来た。

「こんにちは」 

「おお、来たのか」

 塾とか、用事とか、子どもたちは子どもたちなりに忙しかったらしく、抜け駆けしないよう、みなが集まれる日を調整していたらしい。

 準備はしておいたのである。今回は、調査区西側の端に、彼らに遺構確認をしてもらう二畳ばかりの広さを用意していた。

「道具は事務所の入口にあるから持って来て。走っちゃ駄目だよ」

 走っちゃ駄目と言われ、競歩の状態でわれ先にと戻って来る。

「いいかい、遊び半分でやってたら、怪我することもあるから気をつけなきゃ駄目だよ。みんな並んで、一方へ黄色い土が出るまで掘っていくんだよ。

 ここの黒い土は、畑でかき混ぜられてるから土器が出てきたら、このカゴの中に入れるけど、大きなものが出てきたら、そのまま動かしてはいけないよ。何かあったら、おじさんを呼んで。では、はじめてください」

 しばらく横につき、それぞれに指導。そのうちに一人の子が一センチほどの土器を発見し、私に確認を求めてきた。

「これは土器に間違いありません! 

 今から四千年前の縄文時代の土器で、縄を転がして付けた文様があるでしょ」

 土器を差し戻すと、カゴに入れると思いきや、小さな手で握りしめ、横の未開通の道路に飛び出て、

「ぼくが一番だ、一番だ!」

 思いっきり両の腕を広げて、駆け回っている。

 あまりの感動の仕方にあっけにとられ、それと同時に小学五年生の時の、はじめて土器を手にしたときの喜びを自分でも想い出していた。

 その後、子どもたちは、それぞれに感動という人生の土産を手にして父母の元へ帰っていったが、仕事を終えた事務所の中では、

「あれだけ感動できるの、すごいですよねぇ」

 田村君が言い出した。

「忘れてしまっていたなぁ、あんな小さな破片で感動していたことを。

 大人になっても、忘れちゃ駄目だよなぁ。それがあれば、どんな現象も見つけ出し、探っていける気がする」

 ところが数日後、この話は巡り巡ってとんでもないところへ行き着いていたらしい。

「いいことだから、子どもたちに発掘をやらせなさい。

 やりたい方をボランティアで参加させなさい」

 調査する側にとり、この言葉が、どれほど理不尽な言葉であるかおわかりいただけるだろうか?

 あくまで、担当者としての責任において、調査に支障のない範囲で子どもたちの知ろうとする気持ちを受け入れたのである。

 相手は現場を知らぬ分だけ電話ですむが、こちらは足を運ばなければならない。行政発掘の調査では不可能であること、やるのであれば充分な体制を整え、独自に考えていかなければならないことを説明し、取り下げてもらう。

 子どもの感動は清々しいが大人の感動は思惑がともなうだけに、厄介なことも多い。

 こうしたことを今後もやめようとは思わないが、それはできる範囲でのこと。これは一例だが、調査内容を知らぬ世界との意識の開きは、ことのほか大きい。

掘削痕の検証

十一月十四〜十八日

 この週の調査主体は、北側に重なりをもつ3号〜6号土坑と、東側のピット群であった。

  3号〜6号土坑は、大規模な攪乱により北側が削り取られ、保存状態は悪く、遺物の検出もまったく見られなかった。

 残されていた埋没土の性質から、南側の土坑群と同時代のものであること、また4→3号、6→5号、4→5号という、新しい段階へ向けての切り合い関係の存在していることをかろうじて判読したものの、さほどの成果は上がらなかった。

 一方、東側のピット群においては、住居跡の柱穴の残存ということも考えられたが、これも確証を得るまでにはいたらなかった。

 そうしたなかで目を引いたのが、6号ピットである。

 土層の堆積状態を確認するため、片側の掘り下げが進行していたが、下位へ差しかかるところで、埋没土が急激に固くなった。

 柱を入れ込むさいに周囲の埋土を突き固めていることが予想されたため、下位を残したまま、断ち割って観察することにした。

 完掘状態での調査区全体の写真撮影が間近に迫っていたため、上部の調査を先に完結させるため、土層図を作成し、再び残る片側の掘り出しにかかっていたが、それを終えようとしたところで移植ゴテに石の当たるかすかな感触をえた。

 注意深くそのあたりを探りなおしてみると、硬質なチャートを用いた石鏃が埋まり込んでいたのである。

 意味深長。

 地表から偶然に流れ込む確率は極めて低い。しかも、出土位置は硬化面の直上、状態は水平出土。置かれた可能性が強い。

 この段階ですべての作業を、後に予定している断面観察まで凍結。

十一月二十四日 

 昨日までに、全体の写真撮影を残し調査を終了。そして、ついにその時がやってきた。

 今日と明日の二日間で、遺構構築時の掘削痕を徹底調査する。状態の良い遺構は、すでに抽出済みである。その手はじめが石鏃を出土した6号ピット。

 本荘君と望月君を呼び寄せ、

「ピット南側半面を、カメラ位置まで五十センチで三脚を据えて人が入れるほどに掘り広げて。深さは、ピットの底にカメラレンズが水平に設置できるほどにしてもらいたい」 

 その間、9号と13号土坑でも同じ作業がつづけられている。

 やがて、一時間が過ぎようとしていたころ、望月君が作業を終えたことを告げにきた。まずは確認へ。

「うわぁ、きれいに出てるじゃないか!」

 それは遠目にも鮮やかに見て取れ、全体の掘削痕の印象は「井」字の外周の突出部を連想させた。下底の痕跡は予想していたが、側壁に直角の掘り込みのあることに驚く。


         シッタツプ『アイヌ民族誌』より

 この痕跡から復元される掘削工程は、先端を尖らせた長い棒状の工具で突き崩しながら掘り下げ、あるていどの幅になったところで、おそらくアイヌが草木の根株の掘り起こしや土塊の突き崩しに用いる、鹿角製のシッタツプのようなL字形の工具に持ちかえ、壁面を突き崩しながら掘り広げている姿である。

 鹿角製の工具はアイヌ独特のものではない。『常陸風土記』香島郡白鳥の里南方にある角折の浜のいわれに次のようなものがある。

 そこには倭武の天皇が、この浜に宿をおとりになったときに飲み水がないため、鹿の角を手にして地面を掘ったが、その角が折れたことから角折の浜と名づけた、という一文がある。

 このことからすれば、鹿角が古代においても、手持ちの土掘り具として一般的に用いられていたことを知ることはできる。

 さて、その後は土層図を作成し、残された半面をケーキを切り分けるように段階的に裁断し、それぞれの断面の状態を映像的に記録していく作業がつづけられていた。

 この方法は大成功で、これほどきれいに現れたことに一同喜び合った。だが問題なのは石鏃の意味である。この段階ではまだ不明であったが、以後につづく三次調査においも同種の事例が次々と発見されるにおよび、縄文人の意識世界へ入ることのできる重要な問題を秘めていることが明らかになってくる。

 一方、掘削痕については、このことが弾みとなり9号・13号土坑においても先端を尖らせた棒状工具の存在が確認されはじめていた。

         9号土坑の半割状態と掘削痕

 それらは、斜めから入ったり、垂直に入ったりしているが、共通しているのは、先端を尖らせた径一センチ四ミリほどの断面円形の棒状工具の痕跡。しかし、それを記録するには二例とも突き方が激しく、数ミリづつ断面を切り継いでも、単体としてとらえられる部分は少なかった。

 土坑全体をどのように掘り進んだか、もう少しわかればという思いがつのり、状態のよい面を探し出すため、みな各遺構を歩き回っている。

 そうしたなかで、私は 5号土坑に目を止めた。

 ここは側壁の半分が破壊されていたが、床には掘削痕が鮮明に残されている。しゃがみ込み、端からゆっくりと視線を移動させていく。

「突きの強いところがリングになっている。目の錯覚か?」

 

 別の方向から見ていく。

「あるぞ、ある!

 みんな、ちょっと来て」

 誘導尋問になってはいけないので、何も言わずに見せる。

「こんなにはっきりしているのに、なぜ気が付かないんだ!」心の中で叫ぶ。

 みな、目が慣れていないのだ。てんでにあっちの方を見たり、こっちの方を見たり。はやく気づけ。しびれを切らせている間に本荘君が気づいたらしい。目が止まっている。

「あるだろう」

「ここ、はっきりしてますね」

 そのあり方に気がつくと、鮮明ではないが、他にも帯状のリングがいくつも見えてくる。

「突き棒で三十センチぐらいの円を描きながら突き崩している。

 ほら、あの隅を見て。壁の所では突き刺して掻き落としているから、筋ができてる。

 ということは、固いローム層を円を描きながらブロック状に掘り起こし、深まってきたら、縁は手前へ掻き落として形を整えているんだ」

 分かってしまえば何ということもないが、縄文人の行動を、この痕跡から直接実証できたのであるから、その意義は大きい。

 小さな手をした子どもたちのように、飛び出して走り回りはしないが、気持ちは誰も、大人の感情を超えていた。

 そして、このできごとで、今回の調査の幕引きが飾られたのである。




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   執筆・編集
       清瀬市郷土博物館
        学芸員 内田祐治

 制作    2005年3月
 
 歴史読本
【幕末編】
多摩の江戸時代の名主が書き残した「日記」や
「御用留」を再構成し、小説の手法をもって時代
を生きた衆情を描き出した読本。
 
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