掘り出された聖文 11
─縄文時代中期遺跡発掘調査の記録─





目次詳細
 

第六章 野塩前原東遺跡第三次発掘調査の記録 

  
・三次調査へ

  ・三次調査始動

  ・遺構の全貌

  ・土坑群

  ・スリップ技法の発見    

  ・悲憤抹殺された時代―    

  ・ピットにともなう石鏃の謎

  ・石鏃の力

  ・寄り添う伏甕

   

第六章 野塩前原東遺跡第三次発掘調査の記録

三次調査へ

 野塩前原東遺跡の二次調査を完了して間もなく、南側の畑地で二千八百平方メートルにおよぶ大規模な宅地開発の計画がもち上がっていた。

 整理にはいるたびに襲い来る発掘調査。すでに調査報告書の刊行は遅れ、郷土博物館での展示替えも二、三年はできぬありさま。

 しかし、現場調査を優先しなければ、遺跡という文化遺産の消失はまぬがれない。

 年が明け、開発業者との本格的な協議に入る。開発の着工は六月。どう見積もっても調査には三ヶ月はかかる。逆算するまでもなく、調査期間は二月の末から五月末に絞り込まれた。

 そのころには整理費用も尽き、田村、板倉、盛口の三名はいなくなっていた。

二00一年二月

 開発者側との最終協議を経て、発掘調査を実施するための各種届出書類の作成に追われる一方、三度目の中断を前にして、整理作業にも区切りをつけなければならなかった。

 そのころの私は、夜ごと目覚めの床の中で、野塩前原遺跡からの調査を想い返すようになっていた。

 整理の度重なる中断により、記憶が次々と薄らいでいくことを恐れていたのであるが、どれほどのことを忘れてしまったかと言うことは皆目見当もつかぬままに、闇の中に眼を走らせていた。

 それが長時間つづくこともあり、また図面のコピーをめくりながら思いついたことを書き記すこともあったが、疲れてくると決まってあることが頭に浮かんでくる。

「忘れるんだったら忘れてしまえ。忘れた方が、かえって重要なことを浮き立たせる。そこから考えていけばいい」

 こうした日々をくり返しながら、またたく間に二月二十一日がきてしまった。

 実はこの日、本格的な調査に先駆け、大量に排出される土の置き場を確保するための予備調査を実施することにしていたのである。

 表面調査と簡易なボーリング調査により、南側には遺構の存在していないことが予想されていたのであるが、その部分の表土層をパワーショベルで剥ぎ、遺構の存在していないことを確定しようというのである。

 ここから遺構が確認されれば、調査の途中で残土を移し替えなければならず、調査工程を根本的に練り直さなければならない。

 ところが、この朝現場へ到着するとトラブルが発生していた。南西側にある駐車場に、撤去していなければならないはずの車が二台止まっているのである。

 携帯電話を借り、確認を取るが、すでに駐車場からの撤去は利用者へ告知し、了承済みとのこと。後は、こちら側で処理するしかない。

 こうしたトラブルはよく起きるのであるが、思い悩むより、事後処理を迅速にしなければ問題が飛び火し、大きくなる。

 パワーショベルの作業は、急きょ調査区東端の表土剥ぎに変更。午後から回ることにしていた、近隣住民への発掘調査を知らせるビラ配りをすぐにはじめ、それにより車の所有者を捜し、調整をはかることにする。

「須田さん、田村君、一緒に来て」

 駐車場脇の道路に家の門口を掃除しているご婦人がいる。まずはそこへ向かい、

「おはようございます。郷土博物館のものですが。実は前の畑で、戸建て住宅の開発があるのですが、縄文時代の遺跡がありまして、二十六日から五月末まで本格的な調査に入る予定でおりますので、なにぶんよろしくお願いします」

「遺跡の発掘。なにかいいもの出てくるのかしらねぇ?」

 世間話のような状態でしばらく話しているうちに、二、三軒の人が集まってきた。その中の一人に、車の所有者がいた。

 事情を説明すると旦那さんが出てこられ、朝早くからとは思わなかったのですぐに移動させるとのこと。連絡は確実に入っていた。一安心。

 閑静な住宅地をまわり終える間に、車の所有者全員に確認を取り付け、午後にはすべての車を移動させてもらえることになった。

 現場へ立ち戻り、再び携帯電話を借り、問題の解決したことを業者側へ報告する。こうしたときに行き違いが生じると、二次的なトラブルが起きやすいので注意しなければならないが、この場は事後処理が迅速に済み、問題は解消した。

 つまりは、発掘を担当する者には、ただ掘って調査研究する能力だけではなく、内にも、外にもさまざまに起こるトラブルを調整する資質も問われてくる、という事例である。

 さて、東側の表土層の除去により、当初予想したように南側へ向かうほど遺構の希薄なことがわかってきた。

そして、二日目に実施した残土置き場の予定地においても、遺構の存在しないことが確認された。

 この時点で、調査開始と同時に、キャリアダンプを導入し、一気に表土層の除去に入ることが申し合わされた。

 二十三日に仮設事務所、倉庫、トイレが搬入。今回の調査は三ヶ月間におよぶ。仮設事務所となるコンテナハウスも大きく、総勢十三人が雨の日も遺物の水洗いができる広さ。

 二十四日。博物館での私の勤務表では、休日は日曜と月曜。翌週が月曜と火曜、そのくり返しだが、発掘調査に入る間は土曜と日曜に固定される。

 この日は土曜。すでに発掘期間中の休日に変更されていたが、心配になり雨模様の中、合羽を着て現場へ向かう。

 二日後の調査開始を前に、田村君は不足している物品の買い出しへ走り回り、残された花井さんも雨に打たれながら水道を引き込むため、ホースの埋設をしている。

 やはり、きて良かったとばかりに溝掘りを手伝う。

「あれぇ、先生来てたんですか」

 一時して作業は完了し、真新しい事務所に立ち入って流しの蛇口をひねる。圧縮された空気がバッボッと出た後、勢いよく水がはじけ出た。

「オッケー、出たよ」

「しばらく出しておいてください」

 靴を履き外へ出る。

 右手の二次調査区は、フェンスで囲まれ、すでに鉄筋二階建ての建物の外観が出来上がっている。

 回り込んで事務所のドアをノックし、現場監督さんに挨拶する。

「先日お伺いした郷土博物館の者ですが。

 明後日から調査に入りますので、よろしくお願いします。

 それで、明後日の朝一番にキャリアダンプが一台現場へ入りますので……

「あぁ、さっきお宅の若い人が来て、聞きました。車、奥の方へ入れときますから。

 ここの下も発掘したんですって、何かいいもの出ました?」

「四千年ほど前の土器がでました」

「近くだから、今度発掘見せてくだいよ」

「はい。あるていど進みましたら声かけますので」

 外へ出る。

 そのころ、自転車に荷物を積んだ、田村君が帰ってきた。

「来てくれてたんですか」

「向こうの事務所へ、キャリアダンプの搬入伝えてくれたんだ」

「えぇ、さっき行って来ました」

 そそくさと事務所へ入るなり、購入した伝票の整理をはじめている。こんな姿は見たことがない。会社側から現場を任され、頑張らなくてはという意気込みが痛いほど伝わってくる。

三次調査始動

二00一年二月二十六日

 いつもより早めに家を出て、博物館経由で現場へ向かう。

 一次、二次調査で通い慣れた小さな踏切を、また三ヶ月間渡ることになる。右手に見える奥多摩の山々も春めく気配。

 線路脇を右に曲がり、事務所の横へ自転車を止める。

「おはよう」

 田村君が、事務所への土よけの上がり台を作っている。

「よろしくお願いします」 

 事務所へ入り、バックから酒と塩を出す。朝から枡酒で一杯やるわけではない。発掘に入る前には、必ず土地のお清めをするのである。

 自分自身の気持ちを引き締め、調査する者に怪我がなく、調査後に破壊されてしまう遺跡に礼を尽くさなければとの思いの現れである。

 誰にも告げはしないが、遠目に見守る者たちも、きっと同じ気持ちを抱いているはず。

 ほどなく、発掘を請け負う会社の責任者である須田さんが、紺の背広に書類ケースを下げてやって来た。挨拶もそこそこに、初期段階の調査計画の確認に入る。

「すでに話してありますが、無駄が出ないように作業員は段階的に増やしていきます。

 これからの一週間で遺構の確認をしますから、三宅島の方々は来週のはじめからでお願いします」 

 そうなのである。今回の調査は体制に変動が生じている。それは、二000年八月十八日以来の、三宅島における成層圏に達するマグマ水蒸気爆発の噴火で、全島避難となった方々の雇用促進という事情が加わっている。

 そのため、作業員全体のほぼ半数を三宅島の方々にお願いしていたのであるが、それだけにこちら側の細かな調整も必要となっている。

 大学時代、三宅島出身の井口直司君とともに、『三宅島の埋蔵文化財』という書を作成するため、昭和四十七年の冬から三年ほど島へ通い詰めていたことがある。

 三宅の人々はよく働く。その働きを、微細に掘り進む発掘調査で生かすには、こちら側の体制がよほどしっかりしていなければならない。一生懸命さのあまり、掘りすぎてしまうことを一番に恐れた。

「指導者になるような人を二人、先行して入れましょうか?」

「そうしてください。時期は三月一日から」

「ではすぐに手配します」

 間髪を入れずに携帯電話で連絡をとりはじめている。

 さて、ここで三次調査のメンバーを紹介しておく。本来、作業を円滑に進めるため、遺跡内容を熟知する一次、二次のメンバーを入れたかったのであるが、本荘君と望月君は他所の調査のため参加することができず、田村君、中山君、盛口さんのほか、野塩前原遺跡のメンバーであった瀬川さん、田中(典子)さんが加わることとなった。そして、パワーショベルのオペレーターは熟達した技能をもつ花井さん。なお、諸般の事情により、田村君、田中さん以外は各自他所での仕事を終えてからの途中参加となった。

 須田さんとの打ち合わせが終わったころ、田中さんが元気よく入ってきた。

「おはようございます。またよろしくお願いします」

「今度も頑張ってね」

 さあ、パワーショベルとキャリアダンプのエンジンが始動した。現場作業の始まりである。

「花井さん北からお願いします」

 田村君が図面ケースなどの諸用具の調達に現場を離れたため、遺構確認の作業は田中さんと二人である。この田中さんは名が典子、みなが「典姉」と呼ぶので、私もそう呼んでいる。

「典姉、大変だけど頼むな」

「はい、お任せください」

 はっきりとした口調が頼もしい。

 パワーショベルのバケットが、表土層を四、五掻きしたところでストップをかけ、中へ入り込んでジョレンで掻き掘る。

 二十センチほど掘り下げたところで、鮮やかな黄褐色の関東ローム層が現れる。エンジン音のなかで、花井さんに掘り下げるべき深さを合図。

 畳二畳ほども掘り進まぬうち、暗褐色土の広がりを確認。延びている方向は北側。いきなり調査区の拡張である。パワーショベルに駆け寄る。

「いきなり出てきた。土坑だと思うが、北側をぎりぎりまで拡張して」

 土坑の北側の輪郭はすぐに出てきた。腕で「×」サインを作り、南側表土層の剥ぎ取りにかかる。

 しばらくすると、四メートル四方の範囲から五基以上は重なっているであろう、土坑が現れる。

「一次と二次から検出されたものと同じ、群集する土坑。墓域は南側へ何処まで広がっているのだ」

 そう思っているうちに、典姉が埋没している伏甕の一部を発見。もう土坑墓であることに間違いはない。

「箕(土を入れる道具)を持ってきて被せておいて」

 典姉に頼んで作業をつづけていると、土坑のすぐ南側から、幅六メートルほどの南西から北東へ走る大溝が現れた。埋没土は近代以降のもの。一次、二次調査でも確認されていた大溝へ連なるものである。

「壁ぎわは手で掘り出すから、中央の埋没土を掘り出して」

 花井さんに指示し、バケットから若干の距離をおいて壁面の掘り出しにかかる。

 こうしたとき、土を残すと大変な労力がかかるので、パワーショベルの動きに合わせるように迅速に攪乱土を掻き出していかなければならない。

 花井さんと私は、かつてパワーショベルと人力の一対一の作業を何度か経験してきているので、互いの息はぴったり合い、その荒掘りの後ろから、典姉が丁寧に壁面を掘り出してくる。

 体力勝負の作業は疲れるが、絶妙のコンビネーションに支えられて気分は壮快。

 昼をはさみ、遺構確認は大溝の南側へと入った。

 表土中からの遺物の出土量は依然として多く、それだけに遺構の存在を予見させてもいる。

 掘り広げるにしたがい、一次調査でも確認された円形の小竪穴状遺構につづき、西側から住居跡と思われる暗褐色土の広がりが確認される。

「典姉、牛蒡を収穫したときの溝が何本も入っているが、溝間に残された部分を追いながら暗褐色土の広がりを確認してくれるかな」

 しばらくして、北西側の確認をしていた典姉から声がかかった。

「石が出てきて、ここだけ飛び出てるみたいですけど、別な遺構が重なってるんですか?」

「確かに重なってるな。溝に入り込む攪乱土を掘り出してみないとわからないが、位置からすれば柄鏡形住居跡の張り出し部かもしれないな」

 これは後に、重ね掘られた時期の異なる円形土坑であることが判明するのであるが、ともかくも、この場に現れた径四メートルの暗褐色土の広がりが、住居跡であることに間違いはなかった。しかも、三メートルほど離れた東側からも住居跡が確認されたのである。

「墓域は、このあたりで止まっているのか、それとも柄鏡形住居などの祭祀的な要素をもつ住居が併存しているのか?」

 謎を残しながら、この日の作業を終えた。

「ふわぁ〜、疲れたぁ〜」

 作業中、全くそんな素振りを見せなかった典姉が、大きな溜息をついた。

「ほんとうに、ご苦労さんでした」

 田村君は、事務所入口の雨よけの庇づくりに奔走していた。一日中男顔負けの肉体労働をしてきた典姉の一喝。

「田村君たらっ、もぉ!」

それもまた、大切な仕事ではあった。

「ハハハハハ……


遺構の全貌

二月二十七日

 今日からは瀬川さんが調査に加わり、遺構確認の作業も三人となる。

 途中になっていた二基目の住居跡から開始するが、この住居跡は径三メートル強と小さく、また確認面での埋没土がローム質であるために浅いことが予想された。

 住居跡南側に耕作にともなう溝跡が東西方向に入っていることを確認したため、パワーショベルはそれを一区画とし、向きを変えて東側へ掘り進んでいる。

 やがて二基目に検出された住居跡の北側でピット群が検出されはじめる。

「あっ、ストップ」

 同時に腕で×サインを花井さんへ送る。

 黒褐色の耕作土の下方から、バーミリオンの鮮やかな焼土をわずかに見取ったのである。

 移植ゴテで周囲を掻いていく、かなり広い範囲に広がっている様子。耕作土にも焼土が混入しているため、無理に掘り下げずに確認をつづけていくと、焼土が切れかかった北側で移植ゴテが土器をかすめる。

 竹ベラに持ちかえ、攪乱土を取り去っていくと球体をした土器の肌が現れた。形は一次調査20号ピットから検出された伏甕と同系だが、型式は一段階古い加曽利E・式。一部分ではあるが、それが倒立した状態で埋没していることを直感した。

「伏甕だ! 焼土とその横から検出された伏甕。なんだ、何があるんだ」

 このミステリアスな取り合わせに、脳裏には否応なく埋葬にかかわる儀式が浮かび上がってきた。

 だが、この状態には二次的なトリックが潜んでいたのである。そしてそのことに気付くには、まだ一ヶ月有余を待たなければならない。

 この土器に気を取られている間にパワーショベルのエンジン音が制止モードの単調な低い音域に変わった。振り返ると花井さんが運転席から飛び降りバケットに走り寄る姿が見える。

「先生、土器がまとまって出てきました」

 この伏甕と思われた土器から南東側へ一メートル五十センチ足らずの所である。

 近づいて確認すると、縦に櫛引きした条線をもつ加曽利E・式の鉢形土器が、耕作による攪乱を受けて散り、その下に原形をとどめる土器があるらしい。

「花井さん寸止めだね、すごいね」

「そりゃぁ遺跡で十年も食べてるんですから」

 照れ笑いしながら言うが、確かにこうしたときには経験で鍛えた五感の上に、動物的な第六感目の感覚が働いているらしい。

 それからというもの、東側では攪乱土中の遺物出土量が激減していた。さぁ、もうすぐ南側へ移動だと思っていた矢先、溝で仕切られた最後の区域に土坑状の暗褐色土の広がりを確認。

 三人で四方から輪郭の検出に取りかかっていると、急に瀬川さんがしゃがみ込み、竹ベラに持ちかえている、

「ここに大きな土器が埋まっています」

 耕作で上を破壊されてはいるが、直立した状態で姿を現した土器。その円周の曲がり具合でかなり大きな土器と判断され、しっかりと土にくい込んだ様子からは、下半部が完全に残りえていることを予感させた。しかも、西側に接し、もう一つの小形土器も埋設されているらしい(28号土坑)

「典姉、箕を持ってきて被せて」

 箕を被せなければならないものは、これで四例となった。

「墓域は住居跡を抱き込みながら、まだ南へ延びている」

 胸の思いが口からこぼれ出る。

 パワーショベルは溝跡をまたぎ、西側へ移動。この区域にも、東西方向に畑の畝間の溝が幾筋も入っている。

「これでは溝の攪乱土の掘り出しだけでも、容易な仕事量じゃないぞ」

 しばらくして、ジョレンで掻き出すローム層の状態が変化した。遺構埋没土のような暗褐色土の広がりを検出したのであるが、ロームブロックを大量に含んでいるのである。しかし、ジョレンから伝わる感触がどうもおかしい。

 移植ゴテに持ちかえ、這いつくばって観察すると、若干カリカリとした質感で、通常のロームブロックとは異なっている。

「範囲はおよそ二×二・二メートル。大形な土坑には間違いなさそうだが、この状態は何なんだ。被熱しているのに、なぜ焼土がない?」

 この状況観察からの二項対立的な疑問。そこには、あるトリックが生み出されていたのであるが、詳細については後節へ譲ることとする。

 パワーショベルを追いながら、典姉も瀬川さんも、そして私も、腰を伸ばす回数が増えてきた。疲労が腰に溜まってきたのである。だが、誰も「疲れた」とは声に出さない。出してしまえば気持ちが萎えてしまうに決まっている。

 小休止後、わずかに和らいだ腰を支点に、再びジョレンがけが開始された。耕作による攪乱は激しさを増すが、そのあたりから遺物の出土量が格段に増え、暗褐色土の広がりも確認されはじめる。

 範囲は長い方で六メートル五十センチほどもあるが、東西の輪郭の中央でヒョウタンのような内側への入り込みが検出され、二基重複する住居跡であることが判明。

 北西側の攪乱土中からは、口と側面に破壊を受けながらも、横倒れた状態で残りえた加曽利E・式土器が出土。また、南側に集石跡の存在していることを確認。

 それ以後、この区域の東側から別の住居跡が検出され、他に重複する土坑、土器を埋設したピット、土器の集中箇所(後に破壊された住居跡であることが判明)の存在も明らかになった。しかしこれを最後に、遺構と遺物の密集は見られなくなり、南側へは、かなり離れた位置で小規模な集石跡を、また調査区南端で残存状態のきわめて悪い土坑が発見されたに過ぎない。

 こうして二千八百平方メートルにおよぶ、野塩前原東遺跡第三次調査の遺構確認作業は終了した。

 三人の腰の痛みと引き換えに現れた遺構の全貌は、加曽利E・式期からE・式にわたる墓坑群と住居跡。

 一次、二次の調査結果を含め、この野塩前原東遺跡の三次調査区域が、勝坂・式期にはじまる野塩外山遺跡と野塩前原遺跡に継続する時期の遺跡として、墓坑と住居跡が共存する特異なあり方を見せていることが明らかとなった。

 そして、以後の本格的な調査は、その各遺構内容の解明へと向けられていく。

 

土坑群

三月五日〜十六日

 五日からは、本格的な調査段階へ入る。

「おはようございます」

 事務所をのぞき込みながらの、頼りなげなご婦人の挨拶。

「三宅島の方ですね。道、間違いませんでしたか?」

「あぁよかった。隣の工事の人に教えてもらったんですよ。よろしくお願いします」

 慣れない東京暮らしのため、三人地図を頼りに連れだって来たらしい。

 三宅島の方は総勢七名、島の南側の阿古出身者が高松、窪寺、小山、伊藤、佐久間さん、北側の伊豆出身者が栗原、栗本さんである。なお、一日からは中山君も加わっている。

 着替えを終えた人々が外へ出て、現場を見やりながら、あれやこれや話している。

 自然豊かな三宅島を離れ、江東区、江戸川区などに住んでいるのであるから、土の香りと広々とした畑地の景観に、心躍る気持ちでいっぱいに違いない。

 朝礼がはじまる。

 現場での諸注意につづき、遺跡についての説明がなされた後、いよいよ作業開始。

 田村君らを呼び止め、

「三宅島の方は発掘がはじめてだから、最初に耕作による溝の掘り出しをしながら作業に慣れてもらう。

 当分の間、田村君と瀬川さんがついて、土の見分け方や掘り方を教えてもらいたい。頼むよ」

 この日の作業は、攪乱土の除去に終始した。

 翌日、表土層の除去が完了したことで、私と中山君と典姉の三人は、北端に検出された土坑群の調査へ入っている。

 そこでは、複雑に重なり合う土坑を無闇に掘ることはできない。

 最も重要なのは、土層断面での切り合い関係から、構築順位を把握することであるが、それにはまず確認面での平面的な観察を充分におこない、個々の土坑の位置と形状が割り出されていなければならない。

 そのことで、重なりをもつ土坑間の、どの位置に土層観察用のベルトを設定するかが定まるのであるが、もしそれを見誤れば、狭い土坑の中での掘り下げをともなうだけに、切り合いを確定することのできる土層面を失い、問題を調査者の手で迷宮入りさせてしまうことにもなりかねない。

 北側から確認をつづけるが、牛蒡の収穫にともなう溝が幾筋も入り込み、作業を妨げる。先にこの溝に入り込む攪乱土を除去するが、その後には凸凹な状態が出来する。こうしたなかでの確認作業は、平坦な面での数倍の労力を必要とする。

 全体を深く掻き下げて確認すれば、はっきりするのであるが、なるべく遺構を壊したくはない。気持ちが焦れても、為す術はただ一つ、丁寧に土面を薄掻きしながら、注意深く観察しつづけること。

「北側には一メートル三十センチほどの円形に暗褐色土が広がっている。溝部分の深い位置で確認される埋没土を手がかりにすると、下位の土質はローム粒子を多量にまじえる暗褐色土。

 その南側には、幅五十センチ、長さ一メートル四十センチの長方形の土坑が斜めに重なるが、その埋没土にはロームブロックが混じり合い、北側の土坑へ切り込んでいる。

 どうやら、南側の土坑の方が新しいらしいが、確証を得るためにここに断面から土層を観察するベルトを設定しておこう。

 この土坑の南東端に、幅八十五センチ、長さ一メートル六十センチの伏甕をともなう土坑が重なるが、縁を接しているていどなので、詳しい切り合いは分からない。ここにもベルトが必要だ。

 そしてこの土坑には、二箇所に輪郭の変則的な部分が見られるが、壁の崩れであろうか。ここは埋没土を垂直に切り落としながら、重複かどうか確認していかなければならないな」

などと、ぶつぶつ言いながら、手術を前にした医者のような気持ちで、二日もかけ、慎重に各部の状態観察と切除する位置の割り出しをおこなっていたのである。

 最終的に絞り込まれた土層観察箇所は六面、その他適所で部分確認をおこなうこととした。

 やがて所定の位置にピンポールを立て、その間に水糸が張られる。土坑の総称名は25号、北端に位置するfから掘り下げ開始。

 確認面で検出されていた胴部の土器片を境に、北側を掘り下げるが、土層断面で、この土器が攪乱層に包まれていることを確認。土器サイズも小形であることから、耕作にともなう流れ込みであることが判明。

 埋没土は下位にいくほどロームブロックを多量に混入しており、一次、二次で確認された土坑墓と同じく、掘り出した土を短期間に埋めもどした状態にある。

 fとd土坑の関係についてはGGラインの土層面に、dの埋没土がfに切り込む状態が観察されたため、fの方が古い段階の構築であることが確定。

 dとcは土層が相互に混ざり合っているため、切り合い関係は明瞭には把握できない。しかし、掘り下げで現れたd土坑の壁面に対し、cにともなう伏甕が明らかに入り込んでいる。そのことから、d埋没後にcを構築していることが判明。

 さらにcとaは、わずかに残された土層面で、aが切り込んでいることを確認。aの方が新しい段階のものであることが知られた。なお、b、eにかんしてはc土坑の壁面崩壊と判断された。

 こうして、faという四基の土坑の構築順位が明らかになり、それは南へと掘り継がれる様相をていしていた。

 ここまでの調査で二つのことが目についた。その一つはc土坑の伏甕の出土状態で、これもまた一次、二次調査で検出されたものと同じ傾斜を見せていた。

 土坑の片端からの出土、しかも床から十五センチほど上の位置で土坑中央へ向けて若干の傾斜をもって検出されているのである。ただ他と異なる点は、小動物がかじりついたような削痕は、この土器については認められなかった。

 もう一つは、c土坑の伏甕と反対の隅に、径三十センチほどのピットが存在していることである。cの埋没土を切っているので後から掘られたようにも思えるのだが、埋没時に標柱状のものを立て置いて埋めた、と考えることもできる。

 この事例は上段に挙げた一次調査の21号・22号土坑にも見られ、他に小竪穴状の遺構ではあるが、一次の24号土坑と二次の14号土坑にも認められる(後に三次調査区域から31号土坑を検出)。

 こうしたピットの存在は、墓標的なものの痕跡なのであろうか、それとも、まったくの偶然なのであろうか?

 さて、これらの連なる土坑群に囲まれるように、もう一つの土坑群が検出されている。

 g、h、iがそれで、先のd土坑からの距離はわずか十数センチ。重複面積が広く、確認面から床まで五十センチも残存していることから、当初の掘込みは七、八十センチに達していたものと思われ、深い。

 この土坑間の特徴的な違いは埋没土の性質にあった。遺構確認の段階においても、それは現れていたのであるが、igという構築順位に沿い、黒色味の強い土へ変化していたのである。

 この状態は、度重なる埋没土の掘り返しで生じたものと思われ、以下の過程が想定される。

 つまり、一番はじめのi土坑の掘削にさいしては、基盤のローム層を掘り上げているわけであるが、埋め戻しには少なからず表土層の黒褐色土との混合が起きていたはずである。

 二番目のh土坑は、その埋没土の多くを掘り返して構築しているため、その埋め戻しには、さらなる黒褐色土(表土層)との混じり合いが生じる。こうして三番目の土坑でもそれがくり返され、結果的に初期に掘り出されたロームへ、順次黒褐色土(表土層)の混合割合が高まったことが考えられてくる。

 以上が、25号土坑の調査で判明した事柄であるが、一次と二次に同じく、ここにおいても、周囲に単独構築できる土地がありながらも重ね造られていくという、この種の遺構の特異なあり方が確認されたことになる。

 この現象に対しては、近しい関係にある者を寄せ合う意識が働いているのではないか、とする想定が益々強まってくる。

スリップ技法の発見

三月十五日〜四月六日

 北端での土坑群は各種図面類の作成を残し、終了。残りの作業を田村君たちに任せ、十五日からは近代の大溝南側へ遺構の調査が移った。

 この区域には、小竪穴状をした26号土坑と、その周囲にピット群が検出されている。

「中山君、26号は東西にベルトを設定して、その北側から掘るから」

 26号の埋没土は、明らかに暗褐色をした縄文時代の土層であったが、上部に熱を受け、破砕した礫の群集が形成されおり、一次、二次調査で確認された同種の遺構との違いを見せていた。

「礫はここで被熱したのではないな。礫の焼けた面が一定していないし、床のロームや暗褐色土中に混入しているローム粒にも焼土化が見られない」

「土器片も混じっていますから、何処かの野外炉で使われた礫と、そこで破損した土器片を集めて、一緒に運び込んでいるのでしょうか?」

「こうした状態を見ると、小竪穴状の遺構は土坑墓と違い、何か別の目的で造られているのかもしれないな。

 ただ、ピットの存在している意味が分からないんだ。

 埋没後に掘られているから違うと言えばそれまでなんだが、あまりに共通しているので気になる。ここでも遺構確認の段階で南側にピットが確認されている。

 小竪穴状の遺構は、簡易な作業小屋と考えられているから、ピットは片屋根の支えとも思えるが、埋没後に掘られているから、それは否定される。

 だが、ここも含めて三例全部に南側にピットが重ね掘られている。単なる偶然とは思えない。

 埋めることと、柱を入れるようなピットが連動して構築されているとすれば、一次の21号と22号、それに先週調査した25c号の三つの土坑墓にともなうピットとの関連も問われてくるのだが……

 疑問は膨らむのであるが、解決の糸口となる現象をとらえることができないままに、土層図の作成を終了し、残り半面の掘り出しにかかる。

 埋没土中に形成されている礫の全容が徐々に明らかになる。それは北西側に集中しているが、その一画に、茶色で彩色された五センチほどの土器片が顔を出しているのに気づく。

「あれ、絵が描かれてる」

 三角形をした小さな破片だが、実は大きな意味をもっていたのである。

 話は整理段階へ飛ぶ。

26号のこの土器、拓本が取れないので断面の実測だけでいいですか?」

「この土器ね。焼け礫と出てきたやつだ。顔料で絵を描いているから、表面を傷めないようにお願いします」

「はい、わかりました」

「瀬川さん、ちょっと待って、もう一度見せて」

 拓本は無理なので、文様を実測にするか、写真にするか、もう一度確認したかったのであるが、顔料の定着の仕方があまりにきれいすぎる。

 こうした彩色土器には、生漆に赤色顔料や煤を混ぜた、朱色や黒色の漆を使う場合が多いのであるが、どうもそれらとは違う。

 唐突に頭を過ぎったのは、江戸時代中期に大量生産された笠原鉢。

 それは若いころの、岐阜県多治見市西部に展開する笠原地区の窯跡を野外調査していたおりの、窯跡近くの谷筋に形成されていた「もの原」の情景をともなっていた。

 「もの原」とは、焼き損じの製品を始末した所。そこにはたくさんの匣鉢(窯道具)に混じり、タンパンと言われる銅緑釉をアクセントに、鉄絵具で荒書きの草花文を描く笠原鉢の破片が存在していた。

 想い出されたのは、その生焼けの破片。

「そうだ、漆に混ぜる朱色の原料はベンガラと呼ばれる酸化第二鉄。鉄だ、鉄分だ!」

 このときの謎解きはこうだ。

 面相筆を用いて描いたような、細く、力あふれる茶色の弧線。これは朱漆で引かれていたに違いない。

 それが土器の焼成以前に付けられたものか、以後であるかは判読できない。しかし、絵付けされた状態のまま火を受けたことは確かで、漆に混じる酸化第二鉄が六〜七百度の高温にさらされて茶色に変質し、器面に定着。

 つまり、焼成不良の笠原鉢の、鬼板と呼ばれる褐鉄鉱の絵具を用いた文様部分と同じ状態が出現していたのである。

 だが、その観察の途中で、とんでもない事実を知ったのである。それは「スリップ」、あるいは「エンゴーベ」と言われる技法の存在である。

 この技法は、器面の上を化粧土でコーティングし、表面のざらつきをおさえ、彩色を際立たたせるためのものであるが、この土器の断面観察からその存在を読みとったのである。

 素地は、鉱物粒を含む荒目の粘土で、暗灰色に焼き上がっているが、表面には粘り気の強そうなきめ細かな白色粘土が薄い層をなしているのである。

「スリップだぞ!」

 スリップは、さほど珍しい技法ではない。ここで驚いていたのは使用されていた年代、四千年前の日本の土器に存在していたということである。

 中国では、黄河中流域に展開した仰韶文化(六八00〜五000年前)に認められてはいるが、わが国では北九州の弥生時代中期の須玖式(二000年前)からといわれているので、一気に二千年もさかのぼったのであるから、驚いたのである。

 これは多分、今まで気づかずにいるだけで、多くの遺跡の出土資料に潜んでいることが予想されるが、われわれの手がけた遺跡から発見したのは事実である。



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   執筆・編集
       清瀬市郷土博物館
        学芸員 内田祐治

 制作    2005年3月
 
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