歴史読本       学芸員 内田祐治著作集TOPICS


          

迷い子1
 ─ワタリ猫のこと─
NEWS

野良猫ダリの処へやってきたワタリ猫
 
 野良猫ダリは、いつものように南青山の骨董通りの陽だまりにいた。
 お気に入りの場所でくつろぐダリ。眼下の通りには職場へ急ぐ朝の人波があるが、ダリの居る処には人とは別な領域が広がる。
 眼を閉じて伏せるダリ。そのダリが、遠くから何かが近寄る気配を感じ、耳を機敏に動かしはじめる。
 仲間のものではなく、敵意があるわけでもなく、また恐れる様子もない、そんな穏やかな気配が陽だまりへ近づき、脇へきたとき、ダリはやっと眼を開け、それを流し見た。〈ワタリ猫〉である。
 こうしたとき、ほかのグループの猫であれば一応は警戒の姿勢をとるものであるが、〈ワタリ猫〉という特殊な猫に対しては、それが起きない。
 〈ワタリ〉とは、漢字で意味を表わせば〈交渉〉という熟語に用いる〈渉り〉。ものにかかわるというほどの意味をもつ。
 群れを成さず、定住することなく、絶えず何かにかかわりを見出しながら渉り歩く猫のこと。したがって何処のグループでも遠方から情報をもたらすものとして大切にされ、グループ間の争いごととは無関係に暮らす。
 こうした猫には二派あり、一つは〈代々ワタリ〉、いまひとつは〈一代ワタリ〉。
 それらのうち〈代々ワタリ〉は、魂鎮めの能力を極めた血筋で、しかも親が見定めた子の幾匹かに受け継がれるもので、幼くして親から切り放たれ、野山にてその生命の強さを試されて自立する。
 また他方の〈一代ワタリ〉は、例えば飼い猫としてありながら、その飼い主や家族、あるいは家や場所からの影響を受け、突如として野生の精神が呼び覚まされて放浪生活へ出るもののことである。
 野良猫とはいっても、闇族の首領のダリのもとへ今朝やってきたのは、その〈一代ワタリ〉と称される猫。それが何のためらいもみせずにダリの脇へ寄って伏せ並ぶ。
 人間から見れば、猫の夫婦が仲良く陽だまりで寝ているような光景。だが、このようなとき〈ワタリ〉は、魂鎮めの能力を発揮してイマージュによる語らいを成し遂げているのである。
 ダリは〈一代ワタリ〉となったその白猫へ、自らの意識を入り込ませていた。
 
 その茶毛のワタリ猫、生まれてしばらくしてから台東区の浅草寺東方、花川戸あたりの商売家へもらわれて来たらしい。
 そこで飼われて一年を過ぎたころから、もとよりそうした時期が成長とともに魂鎮めの能力が現れるころでもあるが、それはともかくも家人が寝静まった夜の店先に、なにやら強い陰気を感じ出したと云う。
 当初はそれに反応するだけであったものの、成長を遂げたころには、立ち現れる陰気の中へ実際に入り込めるようになったらしい。そしてダリはいま、こうして〈一代ワタリ〉となった白猫の意識の淵へ、自らの意識を深く沈めはじめている。





迷い子2─嘉永元年(1848)八月浅草へ─


流浪の民となり浅草へ向う親子

 ワタリの意識が成長したからであろうが、その夜は、店先の陰気が、わずかばかりの紫紺の色を放っているように思える。
 昔ながらの屋号を入れた一枚ガラスの引き戸。その並び立つ前には白いカーテンが引かれているが、それを背にして、ある種の音をともなう陽炎のように揺れ動く紫紺の陰気が立ち現れている。
 音は、耳鳴りのようなもの。
 畳を箒で掃くザザッっという音を、低く、小さく、諧調を変えずに引き延べたような音。その引き込まれるような音に眠気が差しはじめることで、ワタリは陰気への意識の入り込みを感じ取っている。
 後で分ったらしいが、立ち上る紫紺の陽炎の遥かな源泉にあったものは、いまより百六十年前、嘉永元年(1848)八月の浅草。ダリのイマージュに流れ込むワタリの記憶量が増し、もはやワタリの見たままの世界がダリの意識へ投影されている。
 
 ちらほら人通りの見られる早朝の大通り。
 向かいの大店の店先に、夜遅くまで算盤を弾いていたのであろうか、番頭風の身なりの男が拳を握った両の腕を空へ突き上げて伸びをしている。その傍らでは一足先に起きた丁稚が、忙しそうに紺地に屋号を白抜きした日除けの大布を斜めに張り出している。遠くからは荷積みに向う馬蹄の軽やかな音も聞こえてくる。
 そんな通りへ、風呂敷包みを背負った三十五、六の女が下駄の音も勇ましく現れる。
 その音がしばらくして弱まり、遅くもなったから、何か起きたかと女の顔をうかがうと、その見やる先に、背丈からすると十四、五にはなるであろう小娘が、店と店の狭間の路地にしゃがみ込んでいるのが見えてくる。
 店の使用人でないことはすぐに分る。大人の着るような青梅縞、その古着を子どものためにと仕立て直して着させているのであろう。すくませる肩には継が当たり、子守仕事が相当きついのであろう、その継ぎとてほころびが遠目にも分るほど。
 その中年女、それを気に掛けながらも、足を止めずに通り過ぎていく。
 この人、墨田川を三キロほど下った両国橋の横山同朋(どうぼう)町にある忠次郎店の煙草切職人兼吉の女房。根が世話好き。近くの馬喰町や小伝馬町には、地方の者が領主への報告や呼び出し、また訴願に江戸へ出向いたときに宿泊する郷宿(公事宿)があるから、そこより噂が聞こえてくれば、あっちこっちへ広めるし、尋ね人あれば、どこからか所在を突き止めてきたりもする。そうしたことだから、この界隈では誰一人知らぬ者はない。
 その世話好き女房が、この朝いかにも訳ありげにしゃがみ込む小娘を目にしたものだから、気がかりでならない。とはいうものの、急ぐ納め物もあることとて、その子が泣いているでなし、のたれて倒れているわけでもなければ、まずはさほどの心配は無きものと思い返し、一旦弱めた下駄音を届け先の河原崎座へと掻き鳴らす。
 さて一方のその娘。
 一夜明け、切なさの涙も枯れ果てて、母を乞うる心を噛み締め、離れ離れとなった時刻になれば、昨日と同じに母が現れ、きっと逢えると耐え忍んでいた。
 十四の娘。それは通りの人並みの輪中で、もはやなりふり構わず泣くことはできぬ年齢。着飾った大店の娘が芝居見物に通るこの道で、擦り切れた青梅縞に草履のわが身の姿は、「あっちへ行け」と小突かれることはあろうとも、「お前さん、どうしたね」と優しき声を掛けられることはなかった。
 もとより、真に貧困のうちに育った者であるならば、それはそれなりの強き心も養われよう、しかしこの娘はそうではなかった。
 野良猫ダリの意識が、ワタリを介して深くその娘の想いを読み取っていく。
 娘は、この町を知らない。
 母と弟、母が頼る人々とともに、大河を越えて、いくつもの坂を上り下りして、夕暮れどきにこの町へ入ったらしい。娘はその行程を昨夜の果てなくつづく闇の中で、つぶさにたどっている。
 
 河川敷のムシロ掛けの小屋。夜の開け切らぬ間にそこを発っている。
 草のむせ返るような香り、水かさの減った川の中州をたどりたどりして対岸へ出て、人の行き交う広き道を歩きつづける。
 旧暦八月のこととて、朝夕は涼しげな風が吹き渡るとも、日中となれば辛い。街道沿いの木立の影を継ぎ歩くが、草履の紐が指間を容赦なく擦り付け、痛い。
 一行の歩みは中原街道を通り、沼辺(神奈川県川崎市中原区下沼辺)より多摩川を渡り、虎ノ門から芝居小屋の集まる浅草猿若町へ向けられているようだが、その娘にはどうしたことか、自分の旅立った土地も、行く先も、まるきり土地勘が無いよう。
 それを読み取るダリの意識には、ある会話が映し出されてきている。
 それは中原街道の途中で休む記憶のなかに納められていたもので、池のほとり(大田区千束の洗足池)での会話を拾いはじめている。
 母をともなう周りの人々の声。
 「猿若町へ行けば、本当に日銭が稼げるんですかえ」
 「おうよ、浅草弾左衛門様の口利きだからな。何でもたくさんの人手が欲しいらしいな」
 「ほら、お前さんもかなり前に江戸へ流れてきただから知っておろうが、天保のころには水野越前守様の御改革で大変なものじゃったろう。あのころ江戸市中の芝居小屋がみな浅草の猿若町へ集められただが、そのころは華やかなことは御法度。見世物もおおっぴらにはできねえから、さびしいもんよ。近ごろは御上の締め付けも無くなったから、見世物小屋も勢いを盛り返し、猿若町は夜明け前から大変な騒ぎ」
 「おうよ、一丁目の中村座、二丁目の市村座、それに三丁目の河原崎座も大賑わい。ありゃ八年前の春に河原崎座ではじめたんだっけな、ほれあの勧進帳。海老蔵が弁慶で、團十郎が義経、市川九蔵が富樫左衛門。
 河原乞食のわしらの所にもまっつぐ噂が届くくれぇだから大変なものよ。義経がわずかな供を従えて、山伏やら強力に成りすまして安宅の関をぬけようとする。そこへ居たのが関守の富樫左衛門。怪しげなりと不審を抱き、呼び止める。その義経の前に身を投げ出し、問答挑む弁慶の心意気。富樫左衛門、その姿に感じ入り、密かに関を通させる。
 あの弁慶と富樫の対決は、客をその時代の場へ居合わせるほどの思いを抱かせると…」
 「ほれほれ、またまたはじまっただ。見もしねぇくせによ。だどもよ、人の伝え聞いただけでもこうなっちまうだから、本物目の当たりにすりゃあさぞ凄かろうて。おめえも、役者に生まれていればなぁ。
 なんでもな、猿若町じゃ夜明けに芝居はじめる一番太鼓が鳴る。だもんで、早い客はその前の暗い時分から来る。そうした上客は夜道提灯下げた駕籠でおしかけ、まずは芝居茶屋へと入る。そこで年頃の女衆は綺麗なべべに着替えると、茶屋の若衆が現れて白い鼻緒の福草履というものを履かせてくれて、その案内で枡席や桟敷へへえる(入る)そうじゃ。なかにはな、その場を借りて見合いする者も居るそうだから、枡間を勘定して、あの席の娘か、などと探し当て、芝居そっちのけで遠目に見定める若旦那も居るそうじゃ。ハハハハ
 幕が開くと、まず三番叟。それから役者でも下の者が演じる脇狂言などがはじまる。
 それはな、これから売り出す役者が舞い、筋立てもそうした駆け出しの者が書いておるから、お客にとっちゃ眼を掛ける駆け出し者が何年か先に偉くなりゃ至極の喜びとなるわけで、鰹の初物と同じに大店の衆は、競って夜明けから芝居小屋へ入れあげておるわけじゃ。
 幕間となりゃ上客は、茶屋へけえって(戻って)折り詰めやら酒など飲むから豪勢なもの。そこでだ、われらが呼ばれたのはな、その始末というわけ。
 下仕事はいくらでも湧き出るから人手が足りねぇ。幕開け前の掃き掃除。水の汲み運びに、灯明の油運び。何でもござれで、末は下の始末とくりぁ、われらの助けが是非とも欲しいというわけだんべ」
 「おっ、あすこで休み居る他国者も、どうやらかみさんと娘連れて芝居見物と洒落込むらしいな。
 ♪明日は姐さん待ってたホイ、あなたの下も運びます」
 「馬鹿云ってんじゃねぇ、ほら行くぞ」







迷い子3 ─浅草猿若町にて─NEWS

迷い子となった娘のこと 

 夕暮れの猿若町界隈。
 一行は世話人の家へ寄った後、そこからそれぞれの働き場所へ数人ずつ分れて向った。娘たちの案内に立ったのは法被姿の勇ましい男。
 浅草寺の参詣人、芝居の見物人、そうした家路を急ぐ人々の波が、あちこちの角で交錯している。
 男は、後ろを気遣うことも無く、その人並みをひょいひょいと交わしながら突き進んでいく。母は身の回りの物を包んだ風呂敷を肩に掛け、世話人から受け取った書付を無くさぬように左手でしっかりと握り締め、右手で弟の手を携えている。
 その弟が、人並みにさえぎられ、埋もれたままに右へ、左へと振られている。さぞ辛かろうと、弟を覆うようにわずかに斜め前へ出ようとする娘。次の角で急に人並みが途切れ、ゆったりとした空間が開け放たれた。
 町並みがよく見える。
 はじめて眼にするきらびやかな世界。提灯にも早々と火がともり、夕陽にきらめく黒髪の簪。金糸銀糸の華やかな帯。
 「ああっ、おっかさんが居ない」
 突如襲いくる不安。駆け出し、次の角を見通すが、居ない。荷車がすれ違えるほどの道の反対側へ行き、その角を覗き込むが、ここにも居ない。真っ直ぐな道を右左へ駆けわたりながら角々の路地を見ていくが、居ない。
 駆け出す呼吸の荒さ、それに切なさが加わり、強く、小刻みに震える息。視界をゆがませる涙を払い、もしや行き過ぎた後ろの店から顔を出してはいないかと、左の夕陽を右に受け返し、走り出す娘。
 息せき切って元来た角を曲がってみても、そこには途切れぬ人の波。
 今度は必ず居ると信じて曲がる元の角。
 陽は暮れ、先ほどよりも暗さが射しはじめた道。その真中に立ちはだかり、左の家並みの、影を深める店先へ眼を凝らしてみても、母の姿は眼に映し出せない。
 「おっ、あぶねぇな、子守っ子が道の真ん中占領すんじゃねぇ、あっちへ行け!」
 左へ押しやられたままに立ち尽くし、なおも先を見つづける娘。
 「あっ、おっかさん!」
 かなり先の角を曲がり込んでいく人を母と思い、駆け出す娘。追いついてはみたものの、綺麗なべべ着た女の子を連れた女の人。
 そこえ、若い娘が二人歩いてきた。どうしたのだろうと一旦は見たものの、楽しき話のつづきを急ぎ、振り返ることなく笑い声を残す二人。
 その笑い声が、途方に暮れる幼き娘の心を閉ざさせる。
 絶望の淵にたたずむ娘。やがて店間の路地へ入り込む角口へ身を寄せ、女の足さばきが聞こえるたびに顔をちょこんと出しては様子をうかがう。
 切なさが何度も襲い来る。そのたびに強く膝を抱き抱えて耐える娘。それを幾度かくり返すうちに、娘は思った。
 「明日の同じ時刻になれば、きっとこの場所で逢える。おっかさんも弟もわたしを探しているはずだから……」
 夜半、もう人通りが絶えて久しい。
 小さな物音が路地の奥から聞こえてきた。膝間に置いた目を上げて見やると、金色の目が近づいてくる。怖い、怖いから眼を膝間へ置いて強く頭を押し付ける。
 しばらくして、くるぶしの辺りに何かが触れた。びっくりして横目で見ると、猫が座り込み、後ろ足をもたげて毛づくろいしている。先ほどの眼が怖かったから、そのまま動かずにいたが、右のくるぶしの辺りにトントンと猫の暖かな温もりが伝わってくる。
 ずうっとつづいていた、しゃっくりのような悲しみの息遣い、それが遠のく。手を静かに下げ伸ばし、猫の背に這わせる。小さくニャァとないて、そ知らぬ顔で、また毛づくろいをつづける猫。
 そのうち、猫は娘の膝上へ上がり込み、安らぎの態。娘も今日一日の事をたどる余裕もでき、それを追いつつ、いつしか微睡みの淵へ……

 夢から醒めたとき、猫は何処ぞへ消えていた。
 表道には人通りが再来している。膝に眼を置く娘の耳に、勇ましい下駄の音が聞こえてきた。娘はそれを懐かしく聴きながらも
 「おっかさんは草履。下駄はもう何年も前から履いてはいない」
 母の下駄音。その記憶は、娘のもっとも古い記憶から呼び覚まされたものである。
 そして、このとき通りぬけたのが、世話好きで評判な横山同朋町の煙草切職人兼吉の女房、その人である。
 「あら、あんな処に子どもが」
 それはどう見ても店の使用人の子ではない。
 「最近は見世物小屋の下働きにいろいろな人が入り込んでいるから、使いに来たおっかさんでも待っているのかしらね」
 などと思ってはみても、何となく寂しげな様子。立ち止まって声を掛けてみたくもあったが、旦那が夜なべして仕上げた刻みの煙草。早く芝居茶屋へ納めなければ、早いお客が来ているはずと、足止めをはばかる。
 幾つか店を回るから帰りの道は違う道。配達を終え、家へ帰り着いても、どうもそのみすぼらしい身なりの娘が気になるからと、ちんこ切り(煙草葉の刻み)する亭主の耳へ、事のあり様を話し出す。
 「猿若町の店間の路地にね…」
 亭主は見向きもせずに、かまぼこ型の曲面をなす切り台の上へ幾つか煙草葉の巻いたやつを乗せ、それに駒板(押さえ板)を押し付け、蕎麦切りの要領で駒板の小口に包丁を押し当てて刻み仕事をつづけている。
 「サクリ、サクリ、サクリ、サクリ…」
 この煙草の刻み、このときより百年ほど前までは、五分切りと云って荒切りの刻みが好まれたが、それ以後は細かくなり、このころにはさらにそれが進み、こすりと云う糸のように細切りした物が求められていたから神経もいる。亭主、包丁の切れ味が悪くなったとみて、茣蓙横に置いた大砥を入れた桶に身の置き場をかえながら
 「おめぇがそんなに気んなんなら、夕刻の品納めのついでに見ておいでな。まだいるようなら、構わねえからここへ連れて来な、迷子なら郷宿へ話もっていきゃすぐにも分るわな」
 「お前さん…」
─あたしゃ、あんたのそういうとこに惚れたんだよ─
とでも云いたげに、ほころび顔で茶など入れる女房。
 さてさて、いっこうに時が過ぎない。
 「あの子はいまごろどうしているかねぇ」
 「あたしが行って来るかい」
 兼吉の母が女房に声を掛ける。この兼吉、ちんこ切の単調な仕事を日々重ねているから、外へ出ることは滅多にない。その代わりというわけで、女房の見てきた話など想い出しつつ想像し、仕事のすさびとしている。そんなわけで、嫁と姑のこころもそれぞれに見通しているから、口数は少ないが仲を取り持ち、この家はいたって円満。子どもができぬこともあって、女房の世話好きは天下一品。
 「昼間の人通りの中ですからね、わたしが探してきますよ。連れてきたらあたしは夕餉の仕度があるから、すみませんけどおっかさんが郷宿連れてってくれませんかねぇ」
 女房も機転が利く。手分けして頼み合うことが円満の秘訣と心得ている。
 こうして時が過ぎていく。
 待ちかねていたサクリ、サクリの音が途絶えた。
 「おう、できたぞ。後は頼む」
 兼吉が小さな裏庭に出て、煙草に火を点し、一服。部屋内では女房が切葉を整え、風呂敷へ包む。それを結わいたなりに
 「お前さん、じゃ行ってきますよ」
 兼吉、振り返りもせずに庭の朝顔の鉢へ目をやり
 「おう」
 女房の下駄音が、いつにも増して高鳴り、遠ざかっていく。
 さて、一方の娘。
 途方に暮れたままにその場にいた。
 腹が減って動くこともかなわぬ様子。その疲れは眠気を誘っていた。
 と、肩が揺すられる激しい動きで我に帰った。膝間から上げた眼、そこには生気の抜けたうつろさが現れていた。
 「嬢ちゃん、いつからここにいるの、おっかさんは…」
 何も答えない。
 芝居茶屋でもらった菓子の包みを懐から出し
 「ほら、綺麗だろ、ほら食べてごらん」
 色とりどりの小さな粉菓子。ためらう娘の口元へ。
 袷から懐かしき母の、そして菓子を摘む手からは父の好きだった煙草の香りが漂ってきた。甘い、なんと甘い感覚であろう、それが舌に伝わってくる。
 「嬢ちゃん、迷子になっちゃったの…」
 枯れ果てていたはずの涙が、鼻を伝う。懐から手ぬぐいを出し、やさしさを裏返す荒々しさでそれをぬぐってくれるおばちゃん。
 「あんた、今朝からここに居たけど、ひょっとして昨日から居たの」
 うなづく娘。
 「あらら、じゃあね、おばちゃんちにおいで、おっかさん探してくれる人知ってるからね、頼んでるから、ねっ」
 うなづく娘。
 昨日と同じ時刻になれば母に逢えるという想いは、もはや逢えなければという思いを呼び起こし、このおばちゃんの優しさにすがる気持ちが満ちる。
 引かれる手、その腕越しに垣間見た一夜を過ごした路地には、寄り添ってくれた猫の姿。ニャァの声が娘の心に染み渡った。ワタリ猫が感じた紫紺の色を放つ陰気、それは娘の母を想ってとどまった、この場の残気にほかならない。



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