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迷い子7   ─想い
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再開と人々の想い
 
 士農工商という幕府が定めた身分の階層、さらにその下へ身を置く人々ではあったが、そのやさしき心根により迷い子の消息に一光が射した。
 とはいえ、このとき探す娘はすぐ近くの両国橋南方の横山同朋町に居たのである。探索する者が、そのあたりの馬喰町から小伝馬町界隈に集まる郷宿で聞き込みをすれば、そのことはすぐに分ったはずである。もとより郷宿は、その結びつきをもって幕府と関係を持っているのであるから、尋ね人の情報も多く集まり、また失踪人の探索などにも協力していたのである。
 どうやら、このことが災いしたらしい。
 娘 やす の探索に当たったものは江戸の影に暮らす者たち、よってそうした人々の中には悪しき行状ゆえに村を出奔し、そこへ身を落ち崩した者たちも多い。こうした者たちの眼に映し出されている両国橋南の界隈は、郡代屋敷や郷宿などあるから役人が眼を光らせている処、それに加えて伝馬町には囚獄があるから、恐ろしい処刑人首斬浅右衛門が居る処ということになる。いくら人探しとはいえ、足が向かなかったのである。
 そのころ、うた と春吉は甲州街道を西へ向っていた。
 柴崎村へもどれば亭主の熊吉が居るかも知れない。会いたくは無い
 「会えば やすの身が…」
 なれど、その娘はここに居ない。
 「柴崎村の三右衛門さんがあたしを探しているとすれば、子は柴崎にあっても、亭主により売られてはいないはず」
 草履が切れた。
 春吉を道の傍らに座らせ、そのあたりの藪へ分け入り、丈の長い強そうな枯れ草を採ってきて、草履の紐をよりもどして継ぎなう母。その間にあっても
 「粉屋の番頭の話では亭主の話は一つも出てこやしなかった。あたしが逃れた、その後を追ったものか…。それともそこへ居られずに何処ぞへ去ったか…」
 胸の内に、さまざまな情景が描き出されてくるが、亭主がいまだ柴崎村に居るという思いは薄らいでいく。しかし、こうなってくると気がかりなのは義父孫左衛門のこと。
「柴崎に居れば やす の面倒を見ているだろうから粉屋の話に出てきたはず。それが無いとすれば…」
 腹に巻く、銭を縫い付けた合わせ布、義父の細き腕から手渡されたその布に、着物の外から手を当てて、無事を祈る うた。
 陽が奥多摩の山々を染めはじめるころ、柴崎の村へ入った親子。
 母は口数の滅法少ない春吉を抱き上げ、強く抱きしめ
 「おうおう、よう頑張ったね。もうすぐ姉ちゃんに逢えるからね」
 三右衛門の屋敷へ行く道を逸れ、脇の畑道へ入る。見たかったのである、三年前に暮らしていた小屋を。
 遠くの木陰からのぞき見る。しかしそこには小屋は無かった。
 「やっぱり…」
 義父が気がかりではあったが、その思いは今どうすることもできない。断ち切る思い。
 踵を返し、元来た道をもどり、いざ三右衛門の屋敷へ。
 山に入る夕陽、その残照がすべての景色を高揚させ、遠くから近づいてくる屋敷森を、今まさに黄金色に輝やかせている。
 「やす〜っ」
 叫びたい衝動を抑え、屋敷地の入り口にそびえる欅のもとでほこりを払い、正したとて変わりなきようなその身なりではあるが、袷を整え、ほつれた髪を掻き揚げ、せめて気持ちだけでもと礼を尽くし屋敷の門口へ。そこで声を掛けようとした、その刹那
 「どちら様ですかな、何か御用事で」
 夕暮れの風情を楽しもうと庭へ出ていた三右衛門、その人が一部始終を庭の隅から見ていたものだから仰天。うた 横に向き替え深く頭を下げた後
 「迷い子のことで、江戸の粉屋さんの番頭様からお聞きしまして…」
 「おおっ、やす という子の…」
 双方驚きの表情。
 三右衛門は「迷い子」、他方の うた は「やす」という言葉が胸を刺し、その刺し違いが強く二人を結びつけた。何と云っても双方、年を挟んで数ヶ月も同じ問題を抱えていたのであるから、芝居の大詰めのような気持ち。事の終わりをぐぐっと引き寄せ、解決の間近さをを確信させた。
 「ここではなんだ、平九郎の処へ行きませう」
ということで、そそくさ案内に立つ三右衛門。
 こちらも立派なお屋敷。その門口で
 「平九郎さんは居られますかな」
 その三右衛門の呼び声に応じて、平九郎が奥の座敷から姿を見せた。
 実の父とはいえ、八つのときに代の絶えたこの家へ養子として来ているのであるから、双方血脈は同じゅうしていても、家と家との体面が染み付いている。それは礼節というものによって表わされ、親子のなかではあっても、甘え無きしっかりと自立する個人を築き上げ、それが今年四十三歳を迎える威風に満ちた平九郎の人柄の所以でもあった。
 うた 益々の確信。三光稲荷の霊験の二つ目の光が、今まさに差しはじめる。
 「突然のことで、さすがにわしもびっくりしたのだが、このお方は、それ一月ほど前、お前様が江戸の郷宿秩父屋で会われて来なされた、その迷い子のおっかさんだ」
 隠居の身の三右衛門、平九郎は感じ取っていた、久しぶりの父の精気のみなぎりを。
 「あなたでしたか、あの娘のおっかさんは」
 その身なりから、さまざまな苦労の末にここまで尋ね歩いてきたことが思いやられたが、一方の うた は、すぐに娘を呼び出してはくれぬことに、やす がここに居ないことを悟りはじめていた。
 「ようここまで、尋ねて来られました。残念なことに娘さんはここに居りません」
 案の定、うた の感じはじめたとおりであった。視線を土間のたたきへ落す うた。
 「なれど落胆しては下さるな、居場所はすぐにでも分る。その子はな、迷い子となってより両国橋近くの煙草切職人兼吉とおっしゃるお方の女房どのに見い出されてな、その親切な家族のもとでおっかさんに逢える日を待っていなさったんだよ。それでつい先だって村の者が江戸へ出た折、その後の話を授かってきたのだが、なんでも女房どのの幼馴染が両国あたりの料理屋の女将をしていてな、そこで身が立つようにと居住みで働かせてもらっているということだ。郷宿秩父屋へ話せばすべては分るから、わたしがその旨の書状を書き、すぐにも飛脚で送って差し上げよう。馬喰町三丁目の郷宿秩父屋清助、よろしいかな秩父屋だからな。後で紙に書いて進ぜよう。今日は日も暮れた、そこの板間でよければ泊まって行きなされ。一汁一菜ほどのものじゃが、夕餉も用意させよう」
 翌朝、厚く礼を述べ、うた は春吉を連れ、今度は甲州街道を東にとり、江戸へむかった。足の痛みなど問題ではなかった。
 腰紐から下がる真新しい草履、その大小が心地よく踊り、逢える、逢えるの声なき声に、やす の姿が眼に浮かぶ。普段無口な春吉さえも、姉に逢える気持ちに乗せて、あれやこれやと話し出す。途中走り越す飛脚を見れば、あれは秩父屋へ運び行くものかと思われて、遅れてならじと歩も進む。
 柴崎へ向った昨日より、時が遅く感じられる。それほどに歩みは速く、内藤新宿を過ぎてからの九段の坂もなんのその、神田橋御門の横を通って鎌倉河岸。堀割沿いに右へと曲がり、本石町一丁目でさらに左へ曲がる。後は真っ直ぐ鉄砲町、小伝馬町と来て馬喰町へ入った。一丁目、二丁目、そして三丁目…。
 見えていた、もう幻ではない。豆粒のような やす の姿、それが駆けて来る。別れたときの青梅縞の着物ではない、年相応の綺麗なべべ着て走り来る子。邪険にされてはいなかった。そのべべが大切にされていたことを物語る。通りの真中で抱き合う親子。
 通りの往来人とて、それが分らぬ者など誰一人いようはずもない。立ち止まって見つめる者、また歩きながら見知らぬ人ではあるけれど
 「よござんしたねぇ」
と声を掛ける者。
 この場の光景を眼にした人があるのなら、それは屹度浅草の観世音菩薩の慈悲に包まれたのだと思ったことであろう。それほどに生き馬の目を抜く江戸ではあるけれど、みな心を合わせることが出来た時でもあった。それを観世音菩薩の威徳と考えなければ、何でこれほどに人の心が寄り添うものか。
 さてもさても、人心地付いて三人して歩を進める親子。何度も御辞儀するその先には、煙草切職人兼吉の一家。亭主も仕事の手を休めて来ていた。それに郷宿の衆、両国の料理屋の女将、それに噂を聞きつけて馳せ参じた者ども。娘がこの町に来てから幾月も経っているから、娘の見知りの者も多い。みな、晴れ晴れとした顔、そして顔。
 平九郎が書状をたくした飛脚が、随分と前に秩父屋へもたらされていて、そこから両国の料理屋へ知らされ、同時に煙草切の元にもその報が入っていたから、秩父屋の前は何処ぞの社の縁日のように屋台でも出るのではないかというあり様。今か、今か、と待ちわびていたのであるから、親子の想いが町衆に感染し、見世物ではないけれども、河原崎座や中村座の客とて、これほどの感慨を胸に納める事はなかろう。
 芝居は一日で幕を下ろす幻。ここに起きた現実は、八ヶ月にも及ぶ想いの深さがある。煙草切職人兼吉一家は、一生持ちつづけることのできる豊かな想いを感得したのである。仏道の悟りのごとくに。
 兼吉の家へ招かれた家族。その夜、三光稲荷の白狐が動き出した。三つ目の光を呼び起こすために…
 翌朝。朝餉の頃に両国の女将がやってきた。
 「早くにごめんなさいよ、陽が上がりきっちまうと店が忙しくなるからね。どうだいね、いろいろ思案したんだがね、そこの娘さんね、よく働いてくれるし手放したくないんだよ」
 一瞬ぎょっとする母うた。それを見て
 「ああ、ごめんなさいよ。やす ちゃんだけじゃないんだよ。子は親を映す鏡って云うからね、おっかさんも坊ちゃんも、安心してさ、店手伝ってもらえると思ってね、この際みんなで来てもらいたいんだよ」
 意味が分らぬ春吉だけが、ぽかんとしているその横で、深く頭を下げながら、情けの深さに涙する二人。されど感極まって言葉が出ぬ。木綿縞の片袖取って目頭当てる煙草切の女房。やはりそこからも声は出ない。
 「よかったねぇ」
 言葉にしたのは煙草切の母。少ししゃがれたその声が、いっそう優しく包み込む。
 「おいでなさいな、いままで苦労してきたんだろ。だったらこの先の苦労あたしが買ってあげるよ。それならいいだろ」
 なお、なお下がる頭。膝元へ付くかと思われるほど。
 数日後。
 親子の姿は両国の料理屋にあった。
 〈人別送り〉の件。それは柴崎村の平九郎が母親から在所を聞き出していたから、郷宿より両国に身を置いたとの報を受け、元の在所へ相談をもちかけ、亭主の熊吉とその父の孫左衛門は「欠落」のまま、母子三人のみ人別を再興し、両国の料理屋送りとすることとなった。
 下沼辺の女のもとへ知らせが届いたのは幾月かしてからのこと。川崎の大師様へ行く旅人が文を届けに来たのである。母は忘れてはいなかった。
 その開かれた折紙には、たどたどしい筆跡の大きな平仮名文字で、お礼とその後の消息が書かれていた。そして一朱銀が包まれていた。
 女はその文を握り締め、川面のきらめきを見つめている。母子の笑いあう姿が映し出される。
 一朱銀、それはもはや銭の価値を超越し、それからの女の生きる道しるべとなった。三光稲荷に祈った人々の思い、その思いに発した三つ目の光が、消えかける寸前で今一度強き光を放ち、女を包み込んだ。

 野良猫ダリの意思が、穏やかにワタリ猫から引いた。
 下の路地には会社帰りの人通り。いつものOLが立ち止まってこちらを見ている。それには目もくれず、前足を踏み出して大きく伸びをした黒猫ダリ。茶毛のワタリも同時にしたものだから、そのOL
「きぁっ、なんて可愛いの!」
 周囲の人もみなこちらを見ている。ほころび顔で。
 左から来た中年のご婦人が立ち止まり、見も知らぬそのOLに寄り添い
「ほんとに可愛いわね、恋人同士かしらね」
 おいおい、両方とも牡だよと、そこで隣のワタリが片足もたげて、ニャァと鳴いた。
「どうだ顔の毛縞が歌舞伎役者の隈取だろ、猫様の見えはこう切るんだよ」
 そして、のそり、のそりと悠然とどこかえ消えていった。
 対手のダリも反対側へ歩き出す。その仕草を見てOLどの、傍らのご婦人へ
「ねぇ、ミュージカルのキャッツみたいね、ホホホホホ」
「ほんとねぇ」
 何処の街角にも、人の想いは残されていく。
                             (迷い子・完) 2008年4月18日筆了