夜語り

─清瀬の年中行事─

学芸員 内田祐治




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第一章 暮れの行事NEW

 わたしの幼いころ、それは明治も終わりのころじゃが、一年のうちには数多くの行事がおこなわれておった。
 その一つひとつの行事というものは、天の災いに遭わず、作物がよく育ち、飢えることが無きよう。また、病におかされることなく、火難にあわず、盗難にもあわず、そして何より家内が安全で息災延命であるようにとの願いをあらわす大切な時じゃった。
 なかでも、年のあらたまる正月は、なおのこと家族がその結びつきを深め、新年を迎えようとする。

 



 煤払い        音声版へ

 一年の節目は、家中の塵を祓い清める煤払いからはじまる。
 その日は旧暦十二月の十三日ごろ。いまの暦では一月にあたる。
 昔の農家の間取りは、畳を敷く座敷が二部屋に、囲炉裏と座り流しを設けた板間、それに衣類や身近に使う調度品をしまっておく納戸からなっておってな、それに炊事のためのカマドを設けた広い土間が設けられておった。
 座敷と奥座敷以外に天井は無く、梁はむき出し。
 朝な夕なにカマドや囲炉裏から立ち上る煙で梁は煤だらけ。燃やすものも松が多いから油煙がすごい。
 畳も、今のように掃除機で吸うのではなく箒でゴミを掃き出すほどなれば、一年のうちには畳目は埃まみれ。そんなわけで、煤払いは一日かけての大仕事じゃった。
 陽の出前、あたりが白々してくる時分に起き、土間へ下りて玄関の引き戸を開け、庭先の井戸で顔を洗う。そこへ陽が上がってくる。
 いつもと同じ光景じゃが、煤払いの朝は普段とは違い、心持ちが幾分改まったような新鮮さが起きておる。
 さっぱりとした気持ちで拍手を打ち、陽を拝むが、今日は煤払いの大仕事がひかえていることとて、家人に怪我の無きようお願いもする。
 その後、家うちへもどり、大神宮さま、荒神さまにお参りし、最後に家内の仏壇の前でご先祖さまに手を合わせる。
 そうして仏壇の前で御経を唱えていると、日々に両の親とおじいさんおばあさんの居ったころ、それはまだわたしが幼い時分だか、そうしたころへ一時もどれたような気がして、心根が改まるものじゃ。
 それより竹やぶへ煤払いの竹を切りに行く。
 これは、梁や天井裏など高いところの煤を払うための箒を用意するためで、長い竹棹の先へ笹葉を二本づつ束ねてくくり付けたものを二組ほど作り、カマドの荒神さまのとこへ飾り立てておく。
 この日の朝には「煤取りだんご」といって、上新粉を水で練り、片手で握っただけの団子を作る。
 団子は白いから、煤がきれいに落ちるようにということじゃが、こうしたことは正月にも一年まめに(健康で労をいとわず)暮らせるようにと豆を食べたりすることと同じ。
 今のお方から見なされば、色や言葉にかけた洒落のように思うか知れんが、言葉には言霊が宿り、神妙な力が顕われると昔のお人は考えているから、気持ちを改めるには良いこと。
 こうして作った団子は、組入れという神仏へのお供えを置く四角い木の盆へ二個っつ盛り、その盆を大神宮さまへは三つ、恵比寿さまと大黒さま、荒神さま、それに仏壇のご先祖さまへは一つづつお上げする。もちろん家人の朝飯もこの団子で、云うなれば、神さまとご先祖さまと家人が一緒になって食を共にするわけ。
 朝飯を終えると大変だ。この時期はもうすっかり日が短くなっておるから、大急ぎで仕事にかかりゃなならん。
 納戸から箪笥、台所から鼠入らず(食器棚)など、動かせるものは庭先へ広げた蓆の上へ運び出し、座敷からも障子や襖などの建具をはずして運び出す。
 もちろん畳も外へ出すが、そこへは棒を持ったはたき手をつけて畳を横立てでパタパタはたく。そうすると畳目から恐ろしいほど埃が舞い立ち、手ぬぐいで鼻と口を覆わねば息がつけぬほど。
 土間方では煤取り竹を持って梁や桁についた煤を落とす者がいるが、なにせ上からそれが舞い落ちてくるから、顔はもとより身のうち全部へ煤をあび、真っ黒黒助の有り様。
 しかし子どもたちは案外と素直に親の云うことを聴いて楽しくやっていることが多い。
 なぜかというと
 「障子をまた破いた」
などと年中怒られていたものが、この日ばかりは張り替えのために思いきり破けるのであるから、まるで日ごろの敵をとるような勢いで気持ちよさげに手伝っているからじゃ。
 しかし大方はそこまで。ご飯の残りで作った糊で障子紙を張る段になると、しわが寄らぬように神経がいる仕事となるから、小さい子などはほかの面白そうな仕事へとわたり歩く。
 そうこうしているうち、忘れていた一年中の失せ物が、箪笥の裏やあちこちから出てくる。そうすると
 「一銭玉あった」
と喜び、また夢中に道具運びなぞ手伝いだす。
 だがそのうち雑誌のようなものも出てくるから、子どもは座り込んで見はじめ、
「ほら、どかねぇか」
なぞと怒られるのが子どもの仕事に変わる。
 こうしたあんばいで昼飯となるが、このときは忙しいから朝の団子の残りですませ、早々に残り仕事へ取りかかる。
 この日、一年のあいだ神棚へ上げて置いた御札も下げるが、神棚の掃除やお札を取り替えるのは年男の仕事。ほかの者は触れてはならぬのが仕来(ならわし)。

 神棚から下ろした古い御札は、このあたりではそれを束ねて屋根裏へ納めたり、また板作りの札張りを神棚横や入り口に設け、そこへ重ね張りするのが常で、そうすることで火難除けになると云い伝えられ、俵で二俵ぐらいも上がっている家もあった。それで昔の年寄は
 「千枚張ると火難にあわねぇから、けっして粗末にするでねぇぞ」
などと云ったもんじゃ。
 日が傾きはじめるころ、こんどは庭先へ出した畳みやら、家具の運び込みとなるが、それを終えたあたりで女衆は夕飯のしたくにとりかかる。
 外が薄暗くなるころ、片付けのめどが立つが、そうすると、だいたいはその家の主人だが、年男が他の者に後をまかせて早々に風呂へ入る。
 ふだんは年寄が先だが、この日は年男が神さまへ灯明を上げる大切な役目がある。そこで一番に風呂へ入り、身を清めるわけ。
 このあたりなれば、風呂場は古い時分には無かった。
 明治にはいり、お茶や養蚕・機織などでお金が稼げるようになってからも、しばらくは無かった。
 風呂が、どの家でもあたり前に見られるようになったは、養蚕や機織が近代的な工場生産へと移り代わり、農家から消えはじめた大正の終りから。
 そのころ土間に設けた機場を使わなくなったことで、改造して風呂場にする者が多くなり、当時出回っていた檜の小判型の桶風呂をすえつけるようになった。
 まだ電灯がともる前のことじゃから、風呂の焚口の火明かりをたよりとするような暗さの中での入浴であったが、丸一日煤まみれじゃから、このときは生き返ったような気分で、唄の一つもでる。
 まあこの本のお題が「夜語り」ということで、急いで話すことも無いであろうから、わたしの若い時分の唄を一節聴いていただこう。
 
 一つとや〜、一夜が〜明けたら〜にぎやかだ〜
 にぎやかだ〜、 お飾り〜下げたら〜松飾り〜松 飾り〜 
 二つとや〜、双葉の〜松の〜色のよさ〜色のよ
 さ〜、お色は〜黄色で〜上総山〜上総山〜 
 三つとや〜、みなさん〜子供衆は〜楽遊び〜楽
 遊び〜、お楽に〜遊んで〜羽根を突く〜羽根を
 突くぅー 
 四つとや〜、吉原〜女郎衆は〜手鞠突く〜手鞠
 突く〜、お手間の〜拍子で〜おもしろや〜おも
 しろや〜
 五つとや〜、いつも〜変わらぬ〜年男〜年男
 〜、お年も〜とらぬに〜嫁をとる〜、嫁をとる
 〜 
 六つとや〜、むりに〜結んだ〜玉だすき〜玉だ
 すき〜、雨風〜吹いても〜まだ解けぬ〜まだ解
 けぬ〜
 七つとや〜、○○の〜蓋開けば〜よい酒よ〜よ
 い酒よ〜、も一つ〜重ねて〜祝いましょう〜祝
 いましょう〜 
 八つとや〜、やわら〜目出度い〜この春は〜こ
 の春は〜、銭蔵〜金蔵〜建て並べ〜、建て並べ
 〜
 九つとや〜、ここへ〜御座れよ〜姉さんよ〜姉
 さんよ〜、足袋や〜雪駄に〜じゃらじゃらと〜
 じゃらじゃらと〜
 十とや〜、年神〜さまの〜お飾りは〜お飾りは
 〜、橙〜勝栗〜本俵〜本俵〜      

 ざっとこんなものじゃが、歳をとったせいか少し忘れたところもある。

 これは数え唄。棒打ち(脱穀)のときなぞ、作業が辛ければ辛いほどに唄ったもの。みなで同じ作業しながらの唄じゃから、単調な作業に付きものの嫌気が晴れる。
 こうした唄はたくさんあったが、いまのように節をあれこれ変えるものはない。労働歌だから一本調子なものが多く、またそうでないと作業に体の動きを合わせられずに疲れちまう。
 だから、江差追分なぞの民謡も、浜の衆と山の衆で謡い方が多少違っていて、浜方では網をたぐる呼吸に調子が合っていると聴いたことがある。それで数え唄などには即興を入れるお方も居られるから、体には辛い仕事ではあったが、心は楽しかったものじゃ。
 いまカラオケというものがあるか知れんが、わたしらの時代もずいぶんと歌ったものだ。いまはその孫や曾孫の時代じゃから、そうしたことを受け継ぎ、みな歌が好きで上手だということじゃな、ハハハハ
 そういえば、一つ話しておかにゃならんことがある。掃除して出た煤と煤取りの箒の始末のこと。
 これはよく年寄から云われたもので、
 「神さまのとこから出た煤もあるから粗末に扱うでねぇ」
と。
 煤払いで出たゴミは、いろいろと混ざり物があるから一度ふるい、上に残ったものを燃して灰にするが、それを家人が通るところへは捨てずに、わたしの家では柚子の根元へ始末した。
 また、ふるって下へ落ちた煤は、火に強いということで、昔から作物が日照りに強くなるようにと叺という藁蓆の袋へ取り置き、それを摘み桶へ移して陸稲の元肥として蒔いたものじゃ。
 そうしたことで、煤取り竹も神さまのところのものが付いていると考え、七夕の笹飾りと同じに川へ流したり、また生け垣へさしたたままにしておくのがこのあたりの習いであったが、家によっては細かく切り、風呂の焚口へくべる人もおった。
 さて、身を清めて風呂から上がる。
 もうその時分にゃ暗くなっとるから、まずそれぞれの神さまに「お灯明」を上げる。
 このあたりじゃ「オトウミ」と云うが、それは灯明皿(トウマイザラ)へ種油を垂らし、火付けのために山吹の茎から白い髄を抜いたものを掛け入れる。
 これは「トウシビ」と云い、子ども遊びの山吹鉄砲の弾にもしたが、今で云えば梱包材の発砲スチロールの細長いようなやつで、それを灯明皿へ入れて油を吸わせ、皿のはじへ出したところへ火を点す。
 所変われば品かわるで、川沿いの土地では湿地に生えるイグサの髄を使う場合が多い。
 お灯明というのは、よほどに神聖なものじゃから、そのころはマッチがあっても使わない。三角形の鋼鉄でできた火打金を、石と打ち合わせ、その火花で点すのがならい。
 お灯明とともに、この日は神さまにお清めのお酒も供えるが、これを「御神酒」といった。
 こうして最後に座敷の仏壇の前へ居住まいを正して座り、手を合わせ、ご先祖さまに一年の煤払いを無事に終えたことを報告して感謝申し上げた後、台所の板間へ移り、家族揃っての食事となる。 
 大正のころは麦飯じゃったが、この日は田方(下宿、中里、野塩地域)では白米の飯、畑方(下清戸、中清戸、上清戸)ではうどんを打つ家が多かった。
 米の飯といっても、膳は香香(漬物)に味噌汁ほどのこと。米は元来売り物。滅多に口にはさせてもらえぬから、幼心にも大そううれしいものじゃった。炊きたての湯気立つ真白き飯の香り。口元へ運べば、その食感の滑らかさ。かみしめるごとに広がる芳しい甘味。
 煤払いの夜、ランプの明かりに頼る食卓。貧しき食を通した日々だからこそ、そこに一年の疲れも吹き飛ぶほどの想いがあった。


 餅つき     音声版へ

 今日は、餅つきと暮の市の話。
 一晩寝ていろいろと想い出したこともあるので、それをお聞かせしよう。
 
 清めの煤払いが終ると、いよいよ本格的な正月の準備にはいる。そのはじめが餅つき。
 暮の三十一日は「一夜飾り」や「一夜餅」といって、神さまのものをにわか仕事で仕度することは失礼にあたると考えて嫌い、また二十九日も「九んち餅」といって「九」が「苦」に通ずるから餅つきは避けた。
 そうしたことで、二十日ころから二十八日の間、遅くとも三十日に餅つきをやる家がほとんどじゃった。
 このようなことは
 「万事、神さまに失礼があってはならぬ」
という昔からの考えに基づくもの。それを怠っては、翌年に日照りがくるか、大風が吹くか、心配しながら暮らさにゃならん。
 もっとも、いまの科学ですら防ぐことはできないのじゃから、よほどに昔の人はそういうことを気にかけて神さまをお迎えしたわけで、さっきの「九」が「苦」に通ずると思えば、誰だって人にそれを押し付けて気持ちいいわけは無かろう。まあ、そうしたところに昔の人の道理があるということ。
 餅も、いまの人は正月を過ぎればあまり口にすることは無かろうが、昔の農家では正月だけのものではない。
 翌年からはじまる農作業の合間のおやつとして、また忙しくなるころには食事を仕度する余裕も無くなるから、餅で昼飯をすませたりと、正月からお盆ころまで、半年くらいも餅にはお世話になる。
 そうしたものであったから、餅をつく量も半端ではない。一石(約百四十三 )や二石もつくので、もち米の精米には中里や下宿などの水車の動力を借り、大甕に保存していた家もある。
 餅をつく日は、朝三時ころには準備に取り掛かる。
 臼は欅の大きな立臼。
 木肌が埃を吸っておるから、前の晩から水を張り準備しているが、そいつを洗い流してから、庭先の地べたの上へ蓆や叺を敷いてすえる。
 杵は昔は竪杵だったようだ。このあたりでもまだ幾軒かは残しているようじゃが、わたしらのころにはみな横杵になっていた。
 土間じゃカマドに火がおこされ、もち米を蒸す準備を整えるが、今と違い、昔は米だけの餅は貴重なのでわずかなもの。ほとんどは粟や黍、モロコシの餅。そうしたことで、嫁なぞは
 「四角四面の粟餅よりも、切れっ端でも米がよい」
などと云いながら餅を焼いていた。
 粟や黍の餅は米一升に三升の割合。モロコシは粘りが少ないから米の方を一升五合ほどに増やすが、里芋を三個ほどすりおろして入れるといつまでも堅くならずにすむ。
 これらは、前の日に桶の中へ入れ、×字の下を板止めした二本組み合わせた棒の道具で、芋を洗う要領で幾度も水をとりかえて研ぎ、一昼夜水につけおいたもので、それをカマドで蒸す。
 しばらくすると、もち米の、なんとも云えぬ甘露で柔らぐ香りが立ちこめてくる。
 そのころにはつき手も、いまか、いまかと待っておる。なんといっても一年ぶりの餅つき、一年の農作業も終り、若い衆は力が余っとる。
 つき手は家族構成にもよるが、「手間借り」と云って、だいたいは近所や親戚の人に手伝ってもらうが、人手の無いときは商売にする人を頼むこともあり、そうした駄賃稼ぎに出るお方は、午前零時ごろ起き、今日は何処の家、明日は何処の家と、家々をぐるぐると回り歩いていた。
 さて、蒸かした米と粟が臼へ入ると、朦朦の湯気が立ち上り、芳しい香りが広がる。
 臼を囲むつき手は、一瞬顔を和らげるが、そこはすぐに口元を一文字に結びなおし、腰元に横杵の柄を当てがうようにして蒸し米をならし練る。
 そうしておいて、数人でコトコトと小さくつく「千本づき」となる。
 まだ蒸し米は粒々だが、粘りは一段と強まる。
 こうしたときにはみなの気持ちが通い合う。誰も何も云わぬのに自然に「三てこ」や「四てこ」がはじまる。
 それは、「はい」とか「そら」とか、三人や四人で声を掛け合い、それを拍子に時間差で杵を振り上げて餅をつき回すもの。その家に娘さんなぞおれば、若衆はつき上げた杵を曲芸のようにくるりと回し見せたりと、威勢のいいこと、威勢のいいこと。
 それで、いつもは腰をひん曲げた年寄も、足幅広げて背筋伸ばし、腹へ力入れて餅つき唄を唸り出す。

 
 ハァー、声さえた〜てば唄いま〜す〜、わしの 声〜春 日の山のか〜ど越え〜、春日の山のか 〜ど越え〜 
 ハァー、 声もよ〜し音もよ〜し〜、 山のひ〜び きで〜
 あぁ大山さきから〜雲が出〜る〜
 あの雲が〜掛かれば〜雨かあ〜らし(嵐)か〜 と 
 (う〜っ、向こうの鬼ども丸めて持って来いっと)

 こんな調子で合いの手も入り、華やかさが増してくる。
 そのうち一人づきとなるが、これは若衆にとっては力の見せどころ。杵が餅を突き抜けて臼底へ達し、木も割れんばかりのコーンコーンという音が響きわたる。
 そのわずかな合間をぬい、水を浸した手ですばやくおこなう餅の返し手は、つき手と呼吸を合わせ
 「ほら、さっと、ほら、よっと」
などと掛け声かけて、見ている方もことのほか気持ちがよい。
 米の餅をつくときは粘りがあっていいが、粟餅というと粘りが弱くてそうはいかず、冷めればなおさらぼろぼろになる。そこで臼に運び入れる母親から
 「ほれ、ガジ(カジカ=川魚)の卵だ、つけねぇから一生懸命やれ」
なぞと云われたものだ。
 こうして餅がつきあがるが、多い家では八俵もついたという。
 このあたりでは、伸餅とお供え用の丸餅のほか、茶菓子や農繁期のおやつにする胡麻や塩・のりを混ぜたナマコ餅などもあったが、豆餅は作らなかった。
 お供えは大小二つ重ねで七すわりぐらい作るのが普通じゃが、多い家では十二すわりもつくる。
 七すわりなら大小取り混ぜて十四個、十二すわりなら二十四個と、全部の個数が偶数になるので、それを嫌って奇数になるよう、供え物とはしないがもう一個余分に作るのがこのあたりのならわし。
 それを大神宮さま、荒神さま(釜神さま)、恵比寿さま、仏さま、井戸神さま、御稲荷さま(屋敷神さま)へ上げるが、木綿を藍染する紺屋さんなぞでは藍の神さまの愛染さま(愛染明王さま)祀っておるから、そこへも上げる。
 その場で食べる分はジザイ餅にし、手伝いに来た家へも七つなり八つなり重箱へ入れて配ったものじゃ。
 伸餅やなまこ餅は量が多いから、三、四日もかけて切るほどに大変じゃったが、伸餅の切りくずはあられにすることが多かった。
 切った餅はカビがはえぬよう、座敷へ出して陰干で充分乾燥させるが、餅もすっかり乾燥すると長期間保存でき、ある家では二十年も前の餅があるほどだ。
 そうしたなかで、モロコシや黍の餅は五月末の茶摘のお菓子にも当てる。そのときには二十人も三十人も手伝いに来るから、そうした餅を焙烙で煎って食べたわけ。
 そのほか、水餅として保存するものも多い。これは昔っから
 「寒水でないと腐る」
と云われ、寒中の時期の水を汲んで使ったが、やはり五月の末ころには臭いがつくから、水を取り換えた。だが、このようにしても夏には臭くなる。
 これが昔の餅つきだったが。いくつかそのときの唄を思い出したのでお聞かせしよう。

●一つとや〜、一夜が明けたらにぎやかだ〜
 二つとや〜、双葉の松の色のよさ〜
 三つとや〜、みなさん子ども衆は楽遊び〜

●一つとせ〜、一夜が明けたらにぎやかだ〜、に ぎやかだ〜、おかざり下げたり松飾り〜、松飾
 り〜
 二つとせ〜、双葉の松の色のよさ〜、三蓋松の
 春日 山〜春日山〜
 三つとせ〜、みなさん子ども衆は楽遊び〜、楽
 遊び〜、お楽に遊んで手鞠つく〜、手鞠つく〜
 四つとせ〜、吉原女郎衆は手鞠つく〜、手鞠つ
 く〜

●本町二っ丁目の糸屋の娘〜、姉が二十一妹が二 十〜、妹欲しさに○○かけて〜、伊勢へ七度熊 野へ三度、愛宕さんにはな〜往き参り
 憎い憎いは可愛の裏よ〜、いやじゃ、いやじゃ
 はそのまった〜裏よ〜、泣いて脅すはその裏
 のっ裏〜、
 心ごろとはおしゃりな〜がら、情けぇ掛けるは
 主ばか〜り〜

●五葉はな〜よ〜、五葉はめぜたの〜若松さ〜ま
 よ〜 
 枝もな〜よ〜、枝も盛りて〜やれっさ葉も繁〜
 る〜 
 めぜたな〜よ〜、めぜためぜた〜が三つ重なれ
 ば〜
 庭にゃ〜よ〜、庭にゃ鶴〜亀〜やれっさ五葉〜
 の松〜
 またのな〜よ〜、またのくどい〜が〜やれっさ
 五葉〜の松〜
 ここのよ〜お〜、ここの館〜は〜で〜かい館〜
 奥じゃな〜よ〜、奥じゃ三味弾く〜中〜の間
 じゃ語る〜、お台な〜よ〜、お台所で〜は〜 餅
 をついて騒ぐ〜
 ここのよ〜お〜、ここのおかみさんはい〜つ来
 てみても〜紅のな〜よ〜、紅のたすき〜で〜や
 れさ札は〜かる〜 
 遠州な〜よ〜、 遠州の母の○○在〜、広いよで
 〜狭〜い〜、横でな〜よ〜、横で廓が〜やれ〜
 二町建たる〜             

●めでたよ〜めでたが〜三つ重なれば〜
 庭にぁよ〜、庭にぁ鶴〜亀〜何でもかんでも〜
 五葉の松〜
 (ハァコリャコリャ) 
 奥のよ〜、奥のお座敷じゃ〜 若松様が〜朝の
 よ〜、朝 のはよから酒を飲んで騒ぐ〜
 (ハァヤレヤレ、ヤレソレ) 
 お台よ〜、お台所じゃ〜若者達が〜餅をついて
 騒ぐ〜
 (ハァヤレヤレ、ヤレソレ)
 
 これもまた少し忘れたとこがあるが、そのころの唄は、いまのように歌詞の違いを許されねぇようなものではなかった。云うなれば、古の歌垣のように、男女が歌を詠み交す即興があるわけで。それがなんとも面白く辛い農作業を和ませる。
 こうした唄は古くから聞き覚えで広まり、伝えられてきているから、最後の二つの唄のように、村や唄う方々により、節回しも、唄いあげる言葉も違ってくることになる。
 これで餅つきの話はおしまい。次は暮れの市の話。


 暮れの市       音声版へ 

 さっきの「餅つき」の話で想い出されるのが、ちょうどその時分に行われていた「街道市」と呼ばれた暮れの市。
 いまの志木街道に立った市じゃが、これには二つあった。一つは下清戸で二十日に行われた「ハゲタク市」、

もう一つは中清戸で二十五日に行われた「太郎兵衛市」。
 「ハゲタク市」はうんと店数が少なかったが、「太郎兵衛市」の方は、暮れもおしつまってやるから店数も多く、いまの中清戸三丁目と四丁目の境あたりからバス停へ向け、店が二十や三十軒も出て、品物もしまいの方にはかなり安売りするのでにぎわっていた。
 これを聞いてらっしゃるお方は、当時の「太郎兵衛市」を見たくはないか?
 じゃ今は市が絶えてしまっておるから、、夢ん中という事で、大正ごろの「太郎兵衛市」へ案内してしんぜよう。
 当時は村内には店は少なかった。そうしたことで様々な品物の並び立つ市は、一年の間に使うものを買う大切な時でもあった。
 暮だから買う物はたくさんあるし、また娘っ子も周囲の村々から集まってくるから晴れやかじゃ。
 わたしも若い時分じゃから、このときばかりは木綿の真っさらな(真っ白な)股引出してきて、軍隊柄のシャツの上へ銭なくさぬよう腹掛けして、ワラジはいてカゴ背負い、そんな身なりで薄暗いなかを「太郎兵衛市」へ出かけたもんじゃ。
 股引きの白いのが暗がりの中でも目だち、なにやら心が浮き立つようであったわ,ハハハ。
 畑中の小道から街道へ出る。
 いつもこの時分には人通りが絶えているものが、今日は大勢の人が街道の土道に行きかっている。
 ここらあたりの街道は、道幅が下清戸と上清戸の二間半より広くて三間あり、そこへ店が連なる。
 市は宵の暗さが迫るころからじゃから、そのうちには出店にカーバイトの明りが点りはじめる。
 大正のころの下清戸には、付け木屋、桶屋、建具屋、御神酒の口を作る店、餅屋、菓子屋なぞあったが、市には日常近在では手に入りにくい物が並ぶ。
 人だかりのしているところに分け入ると、そこでは威勢のいいあんちゃんが「数の子」を枡へ入れ、それを客の方へ差し出すようにして安売りしている。
 その隣は新巻鮭を売る店。さっき通り過ぎた店では貝のひれなぞも並んでいた。
 正月のために市で買うものは、数の子、イカ、ゴマメ、メザシ、チクワ、コブ、それからタコ。これは長持ちさせるため酢ダコにしている。
 話は変わるが、魚は、竹籠売りとおなじに、普段売りに来る行商もあった。
 中里あたりでは、所沢の旧市街地南側の「井登喜」のほか、「手品屋」なんていう屋号の行商が、月に三、四度は来ていた。
 そのいでたちはというと、うしろに棚を設けた荷車引いた自転やら天秤棒をかつぐもの。
 そうした行商は、所沢のほか、志木(埼玉県志木市)から来ることもあった。
 昔のことだから、生魚は時期の秋刀魚ぐらいで、他は干し物。
 頭と尾を取り、裂いて干した身欠鰊。それに鰹を半干ししたナマリ。イカの煮付け。塩鮭というのが定番で、鰊一把というと百本。お茶摘みのころで八十銭か九十銭。塩鮭は蓆を袋に編んだ叺で二、三袋も買い置き、味噌蔵へ保存しておいたものだ。
 農繁期にゃ飯作る暇もなくなるから、それを食べたが、毎日コウコ(漬物)とそれじゃじゃあきるから、塩鮭は、水にもどして塩気を抜いて砂糖で煮て食べることもあった。
 そのほか、川魚の鯉もあったが、これは農家で「鯉屋」というのが宗岡(埼玉県志木市)にあり、天秤棒をかついで鯉売りに来ていた。
 こうした鯉は、味噌煮で食べることが多く、妊婦には乳がよく出るようにと、別に買い与えてもいた。
 なかでも新巻鮭は、お歳暮に五本も六本も貰うことがある。
 そうしたときは梁へ釘を打ち、あご吊るしにしたまま五月の農事が忙しくなるころから一本ずつ食べることがおおかった。
 もっとも、そのころには乾燥もいい加減進み、カチカチ。包丁で切ることもできないから、水にもどして切り分けて焼いて食べた。
 梁に下げられた塩かぶった幾本もの鮭。それは、このあたりの農家の正月飾りでもあったということ。
 暮れの市へ話をもどし、人波に沿うように進む。
 あすこに娘っ子がたかっている店がある、案の定そこでは羽子板やら弓破魔を安売りしている様子。 
 小さな女の子が一番前で一生懸命商品の並ぶ棚上を見上げとるが、歳の離れた姉さんであろうか、そちらの品定めが忙しいから、抱かれて見ることも叶わず、ぐずりはじめとる。
 その隣の店、そこには御神酒徳利が並ぶ。
 すっと伸びた口、膨らんだ胴には唐草の文様が染付けられ、口丈の短い肩の張る藍色の形もある。藍染のようできれいなものだ。
 あっちには人の切れた隙間から掛け軸が見えとる。 正月の床の間に、あんなのを掛けときゃお目出度さも一入。
 せめぎ合う店の連なりをぬけ、このあたりまで来ると、人波が落ち着き出している。
 市では正月用品ばかりではない。衣類や下駄などの履物のほか、日用品や農作業で使う品々も売られている。
 そうしたなか、なんといっても竹細工を売る店は品数も多く、繁盛している様子。農家廻りして売り歩く人もいるから、顔なじみも多い。
 そこの笊や籠を売るお年寄は、柳瀬川を越えた所沢側の安松の方。あちらの店の人はその先の牛沼から来ていなさる。そうそう、この背負ってきた籠も、以前にあのお年寄が家に来たとき買ったもんだ。
 おっ、あすこに茅の縄売りが出とる。
 茅は、清瀬駅周辺の雑木林に昔はたくさん自生しておった。姿が穂の育つ前の稲のような草だが…もっともイネ科というから似ているのも道理だが、それでずいぶん縄をこしらえたもんだ。
 芝宿(上清戸の異名)あたりのお方は、夜なべしてたくさん撚り出し、そいつをクズハキといって、堆肥作るに落ち葉入れる大きなボロッカゴへびっしり入れて売り歩いていた。
 田方の藁の縄よりノメッコイ、あぁノメッコイでわかりなさるか。ノメッコイは柔らかくしなやかなようなことじゃが、だもんで山方の村なぞでは屋根の瓦の代わりに使う檜や杉皮を束ねるに、しっかりと縛れて重宝されたもの。
 この縄は二十が一つの単位で、それが一ボ。その一ボが二十で一把と云った。
 野塩の、あるお方の話では、その芝宿のおじいさんが市があるのを楽しみにしていて、それが近づくと
 「じゃぁ団子買ったんべぇからこぇ、えめぇもやびぇ、やばないか」
といわれたそうだ。
 わたしも、これを聴く貴方様方に通ずるよう、あらたまった言葉づかいで話しておるが、昔の言葉で話せば、この芝宿のお年寄のような云い回しになる。これじゃわからねぇだろうから通ずるように云えば
 「じゃぁ団子買ってやるから来い、お前も来い、来ないか」
というほどのことになるが、あんまり言葉が日本中同じになると、言葉のほどよい按配がなくなるようで、年寄には寂しいものよ、ハハハ。
 まあ、市の話はこんなもんじゃが、昔は肉など口にしないし、刺身なども食べられなかった。
 しゃからその分暮れの市で買う新巻鮭の味が何ともうれしく、食後に、骨を茶碗へ入れてお茶代わりに飲む、そのお湯の、わずかばかりの身の味を含んだ塩気が、いまだに忘れられぬものとなったということ。


 正月飾りの準備   音声版へ

 餅つきを済ませ、街道市も終る。そうして、こんどは二十八日ごろから三十日までの間に正月飾りを作る。
 前にも話したが、三十一日は「一夜飾り」と称して、やっつけ仕事では神さまに失礼になると考えるから、それまでに門松やらしめ縄、年神さまの棚など、正月飾りを作り終えねばならない。

 餅つきで荒れた庭を掃き清め、そこで作りはじめるが、このあたりでは門松は松だけの飾りで、竹や輪飾りはしなかった。
 門松は、お大尽の家では五階松の立派なものじゃが、普通の農家では三階松。それも、縁起物じゃから
 「うちの山(雑木林)から採って来ちゃなんねぇ。よその山から採ってこぉ(来い)」
と年寄から云われ、門松と一月十五日の繭玉飾りに使うコナラの木は、このあたりではよそんちの雑木林から採ってくるのがならい。
 なんちゅっても(何といっても)、言葉が悪いが、他所からかっぱらってくるのであるから、今の人から見れば悪いことだと思うか知れん。
 しかしなっ、考えてみれば門松やら繭玉飾りは、神さまが、それに招き寄せられて乗り移られる憑代のこと。本来なら川上の奥の奥に御座します聖地(隠)から神さまをお迎えせねばならぬところを、昔の人は、こうして他所の木を使うことで彼の地から来なされたように心積るわけじゃ。
 神さまは農作物を育ててくださる。
 じゃから大切にお迎えせねば日照りや大風を引き起こし、人々の心がけの悪さを戒める。
 農家にとりては、天候は大切なこと。それは人の力じゃどうすることもできぬことゆえ、神さまにお願いして祈る。そうすりゃ、もし日照りとなり、作物が枯れ絶え、吾想いが悲嘆にくれようとも、どこかに一分の救いの気持ちが現れる。
 ─しょんねぇな、神さまのことだから─
 そう思えば、誰に当り散らすこともねぇ、自分をしっかりと見つめ直し、どうしたら凌げるか気持ちを変えて考えることができるというもの。平常から神さま考えることで、災いへの心構えが自然にできてきたのが、昔からの考え方。
 なんといっても、神社の御神体は鏡。
 鏡だから、そこには良いにつけ、悪いにつけ、みなわたしらの生活が映し出されておる。じゃから、野良仕事を怠けたり、いい加減な気持ちを持たず一生懸命やらんといけねぇと、おじいさんやわたしも想ってきた。
 さて、いまのお人は、そうしたことをどうお思いなさるかな。
 そういえば話はそれるが、野塩には、聞きなれぬ小字がある。
 江戸時代の検地帳、たぶん元禄十年ころ(十七世紀末)であろうが、それに「かみおくり」なぞという土地の名が載せられておる。
 いまは忘れ去られておるが、たぶん収穫を終えた後の神さまが、依り場を求め、柳瀬川の川奥の聖地へお帰りになるのを村の衆が祝って送り出した処に遺された、古い古い時代からの名じゃねえかと思っておる。
 神さまは、折々に里へおいでなさる。
 まあ、そのことは、里人がいろいろな行事を通して作物をよりよく稔らせるために神さまを招く、ということじゃが。
 そうすると、時によっては畑仕事に出ちゃならねぇとか、団子作ったり、神祭りのための制約が出てくる。 だもんで、始終神さまに居られては困るから、日を決めて飾り物片付けて神送りして喜んで帰っていただくわけじゃ。
 所によっては、その飾り物を村はずれの塞の神さま(邪霊の侵入を防ぐ神)のところで年明けの十五日にトンド焼きして送り出すところもあるから、さっきの小字はそんな所に付いた名じゃねぇかとも思う。
 いまじゃ行事がいろいろ重なるから送る方の行事の意味が薄れたきているようにも思え、トンド焼きもこのあたりじゃ見られんが、うんと昔にゃそういうもんがあったか知んねぇ。
 だいぶ寄り道が長くなったが、そうした神さまへの気持ちを村の衆の誰もがもつから、よその家の山(雑木林)から木を切ってきても怒る者はいない。なにせみんなよそん家から採ってくるだから。
 こうして、うちでも三階松を芝山(松山・竹丘・梅園方面)からいただいてきて錠口(玄関)へ飾った。
 つぎは正月飾りには欠かせぬしめ縄。
 しめ縄は、神聖な領域に不浄なものが入らぬようにするための印。
 稲藁でなうが、水田のない土地では二年に一度ぐらい田場所から買い置いているので、それを出して用いていた。
 しめ縄は左撚りが定め。
 だからいつもとは違い、稲束を右の手の平をすり上げるようにしてなうため、ちょっくら難しいのでその分気持ちを入れねばしっかりとしたしめ縄はできない。
 もっとも右による家もあるが、神さまのものは普通の縄と同じ撚り方では失礼なので、左撚りが正式。
 それで「八丁〆」といって、藁束から撚らぬ茎を二本ずつ四箇所で出し、都合八本垂れ下げる。
 しめ縄はトンボ口(入り口)と荒神さま、また、家によっては土間から座敷の上がりに向けて大黒柱から二間ほど張った。
 そうしたしめ縄のなかでも、荒神さまのものは太く、紙垂という半紙を稲妻のように切り折りしたものを撚り留めて垂らし、太い方を向かって右に来るように張る。
 しめ縄に付けた紙垂は、神主さんの御祓など、神さまに祈るときに使う幣束にも付けられておる。
 正月の幣束を飾ることをこのあたりでは「かまじめ」というが、神さまの数だけ日枝神社の宮司さんに紙を切ってもらい、その幣束をいただいて来る。

 うちなんかじゃ大神宮さまに一旦上げさせてもらっといて、三十日に飾りつける。なかでも荒神さまへは「三本荒神」といって三本供えるのが通例じゃが、家によっては五本にするとこもある。
 こうした紙垂は、古き歴史上では木綿という楮の皮の繊維からとった糸が使われていたそうで、なんでも万葉集にも出てくるそうだから、そうした神さまへの心遣いは、世の中が変わろうとも、幾世代もあまり変わらぬままに農家の正月へ伝えられてきたということじゃな。
 さて、このほかに三十日には年神さまと水神さまの棚もお作りする。

 このごろは竹を使う家もあるが、昔は木を二十センチくらい長さで細割りし、その端を直角に重ね縛って四角な枠を作り、そこへ木を渡して等間隔に縛り付けたあと、四隅から縄を付け出して吊るせるようにした。

 年神さまの分は大神宮さまの脇へ吊るし、神主さんに切っていただいた御幣(幣束)のうち一番小さなものをそこへ差し置く。
 このほか、藁で鳥居を作り、それぞれの神さまへ上げる家もある。
 また囲炉裏を作るとき、子どもを火傷などから守ってくれるようにと、おじいさんの座る上横座の壁に荒神さまの横穴を設けておにぎりを供えることもあり、大晦日に灰を掻き出し、ひからびた古いおにぎりととっかえて、新しい年のもの五つ供える家もある。
 まあ、こんな具合で三十日までに正月飾りを整えるわけじゃ。
 さて、こうして大晦日迎える。翌日には新しい年となり、新神様迎えての、いわば先の世の中をきずいていく心構えを養う日であるから、御先祖様には一時退いていただき、仏壇はこの大晦日に新しいお花や果物、それに五つほどのおむすびを供えたうえで四日まで鄭重に扉を閉めさせていただく。
 そうして、神棚に組み入れに乗せた御飯とお灯明をあげた後、その明りがあるうちに年の大きい順に「晦日払い」の御幣で頭から足まで全身撫でて清める。この御幣は暮れのうちに日枝神社から授かってきたもので、このときまで大神宮様へあずけ置いていたもの。それを次の家人へ渡すときには、なぜか手渡しを忌む習慣があって、足元へ投げることをしている。一家全員の悪いものを払い終えると、その御幣は囲炉裏の荒神様から下げたカリカリになったおむすびなどと一緒に焚くか、あるいは入口の垣根の外に差しておいたものじゃ。
一年を締めくくるこの大晦日の夜の食事は、うどん。このあたりでは麦が多いから、蕎麦のかわりにうどんを食べて年越としていた。
 これで家族一同うち揃いまして、心待ちにして、新神様を迎える支度万端整うのでござりますが、、どうしたわけかこの大晦日に一夜飾りはしてはならぬとされているのに、そのならいを破り、わざわざ飾りつける家もありました。
 行事というものは、長い歴史のなかで、その家固有の特殊な事情も加わるであろうから、意味が途絶えれば形ばかりが残り、何とも不思議なものとなりまする。
 こうして一夜あければ、すべてが改まったような気配の中で、お天道様のめでたい光が射し昇ってきます。ということで暮れの行事はこれにてしまい。

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