夜語り

─清瀬の年中行事─

学芸員 内田祐治




TOPICS


第三章 春の行事NEW

次郎の朔日(二月一日) 音声版へ

 「次郎の朔日」とは、またおもしろい行事の名だとお思いのことじゃろう。何処ぞの百姓の名にちなんだ行事のようにも見えるが、そうではない。
 朔日とは月のはじまる最初の一日のことで、それに冠している次郎とは、人になぞらえれば太郎が一番目で次郎が二番目だから、年替わりの一月が太郎で二月が次郎ということ。
 しかし、この二月一日を、「次郎─」ではなく「太郎の朔日」と呼ぶところも多く、そのほうが古い云い方のようじゃ。
 ではなぜ二月一日を「太郎の朔日」と云い習わしたかというと、暦がまだあまり普及する前というから、かなり古い時代になるが、そのころは月の満ち欠けを重んじ、正月十五日がちょうど満月にあたるから、このときを年の境と考え、大正月より小正月の行事の方を盛大に祝っていたようじゃ。
 農事をするにはこの方がよかったのじゃろうが、それを過ぎて一番先にめぐってくる一日だから、それを称して「太郎の朔日」と云い、特別な日と考えていたらしい。
 「太郎」といって思い出すのは、「坂東太郎」。
 これは坂東随一の大河利根川のこと。誰でも聞いたことがあろうが、他にも、「奈良太郎」といえば東大寺の大仏のことで、次郎が鎌倉の大仏。また「太郎冠者」といえば大名や侍の筆頭、第一番目の召使のこと。
 つまりは昔の人は、河であれ、造り物であれ、何かにつけて一番のものに人を映し出して生き物のように考え、云わば、それに宿る魂を人に見立てて「太郎」を冠したわけで、そんなことだから一月のことも特別に「太郎月」などとも呼んでおった。
 一月十五日の満月からめぐって二月一日が初めてだから「太郎の朔日」。ところが月の満ち欠けへの気持ちが薄らぎ、暦が重んじられてくると年が明けるのは一月一日だから、そちらを太郎の朔日と考える。そんなもんで二月一日を二番目の「次郎の朔日」と云うようになるが、もともと満月から見てきたものじゃから、そうした意味が分からなくなっても一月一日を「太郎の朔日」とは昔から云わねぇこともあり、こちらは名を付けなかったらしいな。
 そんなもんで、新しくなると一月一日を云わずに二月一日ばかり「次郎の朔日」と云うようになったらしいが、ところによっちゃご丁寧に「太郎次郎の朔日」と、二つの名を冠している地域もある。
 まぁそれもこれも、古い月の満ち欠けでやってきた農事が、神社からいただく農事の始末書き入れた暦一辺倒のものとなるに及び、もとの行事の意味が薄まって呼び方が混乱し、形ばかりが今の世に残されたということじゃろうな。
 だもんで、行事の内容も、餅ついて農事休む日、というほどのことになってしまったということ。
 さて、この日は午前中に野良仕事をすませ、午後から半日休む。
 うちあたりでは、餅をついてあんころ餅にして食べたが、家によってはじざい餅であったり、正月の残りの餅で雑煮にしたり、うどん打ったりと、さまざま。
 子どもは
 「何処ぞの家で餅つくからそっちへ行くべぇ」
などと云って餅つく家を回ったもの。
 餅をつくと親類に配ったり、また向こうでついたやつを貰ったりと、昔は、何かと家と家の結びつきを深めていたということ。
  

 
八日節句(二月八日) 音声版へ

 この行事は「事八日」とも呼ばれてな、二月八日と十二月八日の二度同じことを行っておる。
 「次郎の朔日」と同じに、いまは形ばかりのものになっとるが、いろいろ調べてみると意味が深いので、まず実際の行われ方から話していくことにする。
 昔から、この日の晩には、魔物が来ると云い伝えられとる。
 それはただの魔物じゃねぇ、疫病をもたらす一つ目の鬼じゃ。
 年に二度あるこの行事は、それを追い払うためのもので、どんなことをするかというと、草取りに使う、竹を編んだ目籠を長い竹棹にかぶせて玄関の前へおっ立て、葱の皮や、川っぺりによく生えとるガラギッチョ(さいかちの実)などを焚きあげて、その煙といやな臭いで鬼が家内に入ってこないようにする行事。

 目籠のことを、このあたりじゃ「メーケ」とか、「メーカイ」と呼び、竹棹のほかに軒下へつるしたり、木へ縛り付ける家もあった。
 それをなぜ外へかかげたかというと、夜にやって来る疫病神は一つ目の鬼。こうしておけば竹籠の網目を見て、目がたくさんあると恐れて逃げていくとの伝えによる。
 さて、この行事、なにかおかしいとは思わねぇか。
 旧暦の元日前後にめぐってくる立春前日の「節分」で、家の中から鬼を追い出しているのに、それを挟む十二月と二月に今度は外から家内へ入るのを防いどる。
 同じような鬼だったら、節分にもやるんだから八日節句の行事は、たいして効力がないということになるが、どうもこの鬼、節分の鬼とは違うものと考えられてきておるらしい。
 節分の前身となる、宮中の追儺の儀式を書きとめた平安時代の『政事要略』の絵を見ると、鬼は普通の「二つ目」に描かれとる。じゃが八日節句に来る鬼は、何処の地域でもきまって「一つ目」といわれるから、違う鬼と考えれば、さっきの疑問も解けてくることになる。
 じゃ「一つ目」の鬼はどんなものかと調べてみたら、それがどうも山神さまらしい。
 山神さまは、山奥のひときわ高い古木に寄り付くと考えるから、その姿を投影してか一本足の姿をしていると伝えられ、このことは中国の古い時代でも同じらしい。
 それで、日本では片足の童子だと思われとる。しかも片眼。
 「一つ目」はもともと鍛冶が祀る神さまで、ふいごの穴から連想されたようで、その秘術を修めると信じられていたらしいが、そうした集団は燃料に木を大量に使うから山を点々とする。ここに山との関係が現れてくるわけじゃが、それだけではすまない。
 古代の中国では、神に仕えるものは片眼をつぶす。
 そのことで常人とは異なる感覚を得ることができ、神に仕えることができると考えていたようなのじゃが、こうしてみてくると、話はえらく昔のこととなる。
 古代の日本へ渡来した金属器を作り出す鍛冶集団も、はじめは矛や剣など神器を作り出すことを目的としておるし、たとえそれが鎌や鋤などの農具であっても、今と違い、そこに神聖な意味を見出していたであろうから、そうした集団自体を神に従属するものとしてみなしていたことは充分考えられてくる。そこで権力者の下で足かせをはめられ、片眼をつぶされていたのではないかと考える学者さえいる。
 本当にそうしていたかは別にして、山にはこうした鍛冶集団が祀る「一つ目」、また片足の神さまがいると信じられてきていて、それが今日も妖怪伝承となって各地に残されているようなのじゃ。
 八日節句の鬼には
  一つ目の鬼
  一つ目小僧
  一つ眼
  八日目玉
なぞの呼び方があり、このほかにも「ミカワリ婆さん」というところもあり、これについても一つ目だと云い伝えている地域がある。
 こうしたことからすると、昔の人の意識は、年神さまのような本当の神さまじゃなく、その神さまに仕えるものが、半分人間のような鬼や山姥なぞの身なりをして山からやってくるということなのじゃろうな。
 ここで鬼の正体を知る手がかりがもう一つある。それは疫病をもたらすということじゃ。
 八日節句の晩には家人の履物を全部隠しちまうところもある。履物出したままにしておくと鬼が刻印して、それを目印に病気置いていくという。
 疫病神は元来、獣に傷つけられて死んだり、流行り病で死んだり、あるいは旅の途中で野たれ死んだりと、不慮の死をとげた人の霊がこの世へとどまり、人に取り付く憑依霊となって疫病をもたらすと考えられておる。
 鬼は、昔話なぞで伝えられるように、泣いたり、笑ったりと、悪さもするが善いこともするという半分人間のような性格をしているものじゃから、それが来ると、昔の人は、先祖からの憑依霊を呼寄せて病を運んでくると考えていたらしい。
 年に二回ある二月と十二月の八日節句。
 その時節は春の暴風、雪まじりの冷え冷えとした烈風が吹き出すころ。そうしたときだから、十二月八日には「八日吹き」という言葉もある。
 山から吹き降ろしてくる風。それはまぎれもなく疫病をもたらす鬼神の請来を告げることになる。
 じゃが不思議なのは、行事の多くは、こうしたことを防ぐにも神棚へお供えして神さまに楽しんでもらうことで、怒らせねぇで穏やかに引きとってもらうのが常なのに、八日節句は目籠かかげて家に上げねぇでよそへ行ってもらう。
 じゃ何処へ行くんだ。これじゃ、後からもっとおっかねぇもんもってくると考えるのが普通じゃろう。
 そこで気にかかるのが行事の呼び習わし方だ。
 「八日節句」という云い方は、どちらかというと行事全体の中では改まった云い表し方で、「事八日」が一般的。
 なんでそんな言葉が使われているかというと、日本語の発音の「コト」は大陸から伝わった漢字表記に置き換えると「言」「事」「殊・異」。
 万葉のころは今より複雑な発音があって、「コ」も「ト」も二種類あったそうで、それを言語学者は甲乙に分類しているわけじゃが、これらはいずれも乙類ということで、どうやら「事八日」の「コト」には「言」「事」「殊・異」に通有する意味が含まれておるらしい。
 どんなものかというと、一般的でない特殊なことで、そこに具体性を帯びる状況が意識されていたらしい。つまり
  何か不可思議なことが、実体をともなって現れ
  てくること
という意味になろう。
 言葉は、発することによって相手にその状況が具体的に伝わるわけじゃから、その意味にかなっているわけで、古くはどこの民族でも、言葉が個人の意識の現われではなく、示された神の意思、その啓示を人間界に伝える行為とされて神聖視されていたわけじゃ。つまり「言霊」の思想じゃ。
 これらの漢字のうち、「異」は象形で鬼頭のものが手をあげる姿であらわされ、霊異を示すといわれる。
 そうなると、漢字を受け入れた古人の感性からみわたせば、「事八日」は「異八日」として、八日吹きの風にのり、疫病に包まれた憑依霊を従えた鬼神の請来する日として、行事の名に、まことに強い想いのこめられていたことがわかってくる。
 鬼が山から来て、何処へ追い払われるのか、それを話す前に、もう一つ考えておかねばならぬことがある。
 この行事、別に「事始め」「事納め」なぞと呼ばれ、正月を中心に据えて考えれば、十二月を「事始め」、二月を「事納め」。また一年の農事より考えれば、逆に二月が「事始め」十二月が「事納め」となり、いろいろと混同して伝わってきておるよう。
 しかしこの行事、公家や武士階級には見られず、江戸時代に町人などの都市住民が行っていたところから記録に残されるようになったが、もともとは農民の行事としてかなり古くから伝えられてきていたらしく、そこでは二月を「事始め」として重んじておる。
 そう考えてくると、農事を行う農民の側から物事を考えていくことが道理となってくる。
 そこで注意されるのが、この行事を
   山神さまの神送り
と考えている地域があるということ。
 春、山神さまが里へ下り、田の神さまになると云い伝えられる地域は多い。そうすると、農民の間では春の暖気をもたらす風の吹きだす旧暦の二月を「事始め」とし、害虫のもたらす病気を心配しながら稲が実り、やがて収穫を済ませ、もろもろの祭りを終え、雪まじりの風が吹き出す十二月を「事納め」と考えることに、農民の行事としての道理が見通されてくる。
 昔話のなかに、神さまが人の耕す田を手伝う話は多い。
 わたしは、いろいろ調べるうちに十世紀の唐の国で書きとめられた『太平広記』巻四二八「斑子」に、わが国にも共有される農民の根源的名意識を見出すことができた。
 その伝説にはこう記されておる。
    山には、手足の指が三叉、一本足でかか
   とのそりかえった山鬼がいるという。
    毎年里へ下りてきては農民と一緒に田を
   営み、人の田に植えて余った種を持ち帰
   り、地に植え、それが稔ると、再び里へ下
   りて来て人々を呼び集め、等分に収穫物を
   分けてもくれる。
    その性格は素直で、多くを取ろうとはせ
   ず、またそのことは里に暮らす人々も同
   じ。もし多くとる者あれば、天疫の病に遭
   うと伝える。
 風体はおっかねぇ、なれども性質を見通せば危害を加えるどころか実直。なれば偏見を拭い去り、双方が立ち行くようにと収穫物を分かち合い、協力しながら暮らそうとする。
 わたしは、国を違え、時は隔つとも、これが時として過酷な試練をもたらす自然と共生してきた農民の心だと信ずる。
 さまざまな行事、それを通して暮らしてきたわが国の人々も、そこでの神さまとの付き合い方を知れば、こうした気持ちが何も違わねぇことがわかる。
 察するに、この話は作りものとは思われぬ。というのは、これが権力に従属する鍛冶集団とすれば、燃料を確保するために山中で暮らしている。それが年に二度、自給のために必要なものを得るため里へ現れる。
 春には農具を種籾と交換し、持ち帰って山中の焼畑へ植え、秋には収穫した余剰の穀を農具とともにたずさえ、さまざまなものと交換する。
 そうした暮らし向きの中で、「山人」という誇張をもって、そうした話が伝承されてきていたと考えれば、合点がいこう。
 さてもさてもそう考えてくると、これは多摩の地域でも身近な話となってくる。
 それは古代のころ、朝廷の政策により、朝鮮半島から秩父の高麗や清瀬に隣接する新座に進んだ技術を持った渡来人がたくさん住まわされているからじゃ。
 秩父の和銅鉱泉のあたりにはそうした集団が鉄の鉱脈を掘り出し、また荒川沿いにも砂鉄が産する。
 古代の集落跡の発掘調査でも、鍛冶に用いるふいごの口や炉底に溜まる金糞が出土していると聞くから、鍛冶を生業とする者が古くからこのあたりにいたことは確か。さっきの中国の話の意味も、まんざら関係ないとすっぽることはできぬ。
 八日節句。現代まで伝えられているのは、この日の晩に疫病を撒き散らす一つ目の鬼が来るということ。
 しかしそれには、山の神さまが里へ下り、稲を育てる田の神さまとして現れるという意識が付帯し、その根源に、古く農具の生産にかかわる鍛冶集団が、聖性を帯びる農具をたずさえて現れるときが意識されていたの哉も知れぬ。
 行事というものは、たどれば、どれほど古い時代までさかのぼるかわからぬ。なれども、そこには千変万化する自然とともに暮らす人々の、変わらぬ気持ちが映し出されているように思う。まぁ、今夜はそんなとこでおしまい。

  
 寅祭り(二月初寅)  音声版へ

 二月はじめの寅の日の行事で、村の鎮守へ寄り合い、遠方の神社へ豊作を祈願しに行く代表者を決める日。
 昔は電話なぞなかったから、月ごとに連絡など受け持つ「月番」の家というのが定められていて、「寅祭り」の前にゃ、そこから村中へ日取りの触がまわる。
 中里ではこうしたとき、前日にコップ一杯のお酒で人を頼むこともあり
 「寅正月」「榛名正月」
などと触れ歩く人がおった。
 寅祭りの当日は農事は休み。田畑へ出ることをつつしみ、ご馳走など作り家にこもる。
 この行事は、江戸時代中ごろに書かれた『俚言集覧』という書物にも記録されておるから、たいそう古い行事であることがわかる。
 それには寅の月の寅の日、寅の刻に宵から無言のままに一室の隅で行う祭りとあるから、神さまが訪れると考え、外へは出ずに家内に忌籠る日らしいが、どういう性格をもつのかはわからぬ。
   寅─虎
と云えば、大磯(神奈川県)の「虎が石」、曾我物語の曾我十郎の愛人であった遊女虎御前が石に化した伝説を想い出すが、こうした話は全国にあるそうで、「トラ」は石の傍らで修法を行う巫女を云うのではなかろうかと考えておる学者もいるから、あるいはこうした禁を犯して石に化した伝説と忌籠る虎祭りに何らかの関係があるの哉も知れぬ。
 この行事、そうした本当の意味が失われ、遠方の神社への代表者を決めたり、また村内のいろいろなことを相談する日というほどのことになり下がってしまったようじゃ。
 そうしたことで、この日は村の主だった方々が鎮守へ集まり、遠方の神社へ代参に行く人を紙撚のくじ引きで決めることが中心になっておる。

 このあたりでは、青梅の御嶽神社、群馬の榛名神社、それを分祀した埼玉県勝瀬の榛名神社、また埼玉県鶴瀬の諏訪神社などじゃが、昔はもっと多かったろう。
 農作物を作るにも、天候により豊凶が左右される。
 それは、人の働きでどうこうできるものではないから、神さまにお願いしようという気持ちが強く現れてくる。
 しかしな、村人一同揃って行けるほどに豊かではない。そこで御嶽講、榛名講など「講」を組織し、銭を積み立て、くじ引きで何人かを代参に立て、みなの願いをご利益のある神さまへ届けてもらうことになる。
   榛名さまは雹除け
   御嶽さまは鳥畜害虫除け
と、それぞれにご利益が異なる。
 そうした神社では、霊験あらたかなお札を発給しておるから、くじで選ばれた代参者は五穀豊穣を祈願し、そのお札を授かってきて村人へ配布する。雹除けのお札なれば篠竹の先に挟み、畑へ立てておくと榛名さまの神力で害に遭わぬと信じられておるわけじゃ。
 こうした「寅祭り」や「初午」は、父親が付き添い、十五歳を迎えた家を継がせる総領息子、また一年のうちに村内へ輿入れしてきたお嫁さんの御披露目の場でもある。
 そうした家ではお祝いに講中へお酒を振舞うが、それを通して総領息子であれば父親に代わり一人前の男として扱われ、村の寄り合いにも顔を出すことができるようになる。
 今は成人式で大勢の中で二十歳を祝い、大人になったことの自覚をうながす。
 しかし、昔はこうした村内の、いわば小さな寄り合いに出させることで自覚を育んだわけで、幼いときから本人をよく知る大人衆の中での御披露目。それも十五歳のことであるから本人の緊張はひとしお。
 これで村のことを決める一員となるわけじゃから、その分責任も重く求められるわけで、十五歳を過ぎたれば、それぞれに大人の自覚が強く現れてきたということ。
 年中行事は神さまのまつりごと。
 しかしその実は、村内の互助の意識と、次なる時代を担う若衆を育てること。


 初午(二月初午)   音声版へ 

 初午は、二月はじめの午の日に行う稲荷を祀る行事。
 まず、行事のやり方を説明する前に、稲荷信仰というものがどのようなものか話しておく。
 この稲荷信仰を広めたのは、京都市伏見区稲荷山の西麓にある稲荷大社の宗教活動に負うところが大きいらしい。
 ここには相当古い歴史があるそうで、古代の渡来系氏族とされる秦氏の祖が、餅を的に、矢を射掛けたところ、その餅が白鳥と化して稲荷山の三ヶ峯へ飛び去ったのを瑞祥とみて、和銅四年(七一一)に創建されたと云い伝えられておる。
 この伝説を残す伏見稲荷を元とし、古くから五穀をつかさどる倉稲魂神や保食神などの御食津神を祀る稲荷信仰が全国へ広まったといわれておるが、これら「御食津神」が「三狐神」と当て字されたことで狐が稲荷の使いとみなされるようになったといわれる。
 狐の好物は揚げ豆腐。
 稲荷に油揚げを供えるは、その使いの狐に手向けるもので、これにちなんで作られたのが、みなさんもご存知の「稲荷寿司」というわけじゃ。
 稲荷神社は全国に数え切れぬほどあるが、都心の神田三崎町にも古くからの神社がある。
 それは江戸時代に「三崎稲荷」と呼ばれ、その南方の街は稲荷小路と名づけられておったが、この稲荷の社、小田原北条氏綱が下総の葛西城を陥れたのと同じ天文七年(一五三八)に氏綱により造営されたと伝えられるから、戦国時代に江戸へも稲荷信仰の広まっていたことが知られる。
 この信仰、元々は五穀の神さまを祀っておるから、作神として農民に支持されて来たのはたしかじゃが、伏見稲荷大社の宗教活動を通していろいろな風聞を呼び起こしていたようで、それを聞きつけた人々が、ご利益があると信心し、町人も戦国武将もと、古くから民衆の心をとらえて広まったとされる。
 話は変わるがな、関東大震災の直後
 「もうこの際だから」
という言葉が流行り、それまであった三つ豆に、別のおいしいものということで餡をあわせて「餡蜜」が登場した。かように人の気持ちというものは、追い詰められれば、この際だからと、なりふり構わず良いものなれば取り入れようとする。
 こうした気持ちは、厳しい自然の中で生き抜いてきたこの国の人々の、独特にして当たり前の思考方法であったように思う。
 中世のころでも、阿弥陀信仰がご利益があれば、天台宗や真言宗も、民衆の意識におされて阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩からなる阿弥陀三尊を略し、浄土宗のように阿弥陀一尊のみを刻む板碑を数多く残してもいる。
 まあ、ご利益があると聞けば、民衆は、藁をもすがる思いでそれを受け入れようとする。じゃから古来より神も、仏も、路傍の石さえも信仰するという、穏やかに云えば、おおらかな気風がこの国にはぐくまれてきたわけじゃ。
 そうしたことで江戸時代にあっても、出府した名主、また村外へ奉公や商いに出た人々を介し、折々に当地へ稲荷信仰が入ってきていたものと思う。
 それも、ただ信仰するだけでなく、村内に社や祠を建てるほどだから、昔の人にとり、そのご利益のほどは相当なものと考えられていたようで、清瀬市域の旧六ヶ村の稲荷神社の所在と、その創立年代を書き上げてみると面白いことが見通されてくる。
・野塩
  無し 
・中里
  稲荷神社 創立年代不詳
  稲荷神社 創立年代不詳
  稲荷神社 創立年代不詳
・清戸下宿
  稲荷神社 寛永年中(一六二四〜四四)
  稲荷神社 寛永年中(一六二四〜四四)
・下清戸 
  稲荷神社 天正五年(一五七七)三月
  (稲荷神社 文禄十七年(一六0八)三月十日)
  稲荷神社 慶安二年(一六四九)五月二十八日
  稲荷神社 慶安六年(一六五三)二月  
  稲荷神社 寛文五年(一六六五)二月十五日
・中清戸
  稲荷神社 元和三年(一六一七)二月   
  稲荷神社 元和四年(一六一八)二月   
・上清戸
  稲荷神社 慶長二年(一五九七)二月   
  稲荷神社 慶長五年(一六00)二月
 太字は一族でもつ一家稲荷。年号は伝承による創立年代。
 このうち文禄と慶安は、いずれも実際には五年までだが、江戸時代初期の混乱で年号改元の知識に乏しかったことも考えられるから、ここでは伝承の年に見合う西暦を示している。
 また、下清戸の括弧でくくった稲荷神社は、明治三十年に稲荷神社と境塚神社を合併して伊勢神社となっており、創立年代がどちらをとったものか不明。
 さて、これを見る前提として、先にいくつかの事柄を話しておかねばならない。それをまとめて示すと以下のようになる。
 ・中世以来の古村は野塩、中里、清戸下宿。
 ・他の清戸三村は、戦国時代末期の天正七年
  (一五七九)に八王子城主北条氏照家臣中嶋筑
  後守信尚が開き、今の志木街道に面し、下清
  戸→中清戸→上清戸という順に開けたと伝え
  られる。
 ・清戸下宿は、中世までは清戸と呼ばれ、下清
  戸が開かれたころに清戸本村となり、その後
  清戸下宿という村名が定着している。した
  がって下清戸は、戦国時代末から江戸時代初
  期にかけ、清戸下宿南方の雑木林を切り開
  き、村名を分けるような親密な関係にあっ
  たことが想像できる。
 ・下清戸、中清戸、上清戸は、江戸時代のはじ
  めに石灰の継立て場として、「町」の名が付さ
  れるほど賑わっていた。
  それは、徳川家康の江戸入府にともなう町割
  りの整備により、江戸市中で建物の漆喰に用
  いる石灰の需要が高まったことによる。
  これらの町は、青梅の上成木あたりから切り
  出される石灰を、引又河岸(埼玉県志木市)か
  ら新河岸川の舟運で江戸へ運ぶための青梅─
  引又間の陸送の中継地と栄えていた。なお、
  江戸市中の整備が整うとともに石灰の需要が
  急速に衰え、一六八0年代ころからは清戸は
  「町」から「村」へ変貌し、他村と同じに農を
  生業とする村落へ移行している。
 これを聴いて、皆さんはどう思われるかな。
 今度は、わたしの気づいた事をいくつかまとめておく。
 ・下清戸に稲荷神社が多いのに反して、野塩に
  はそれがみられない。
 ・村割りにすると、古い順に下清戸→上清戸→
  中清戸→清戸下宿と流れがみられる。
 ・創立月が二月に集中している。
 中里の稲荷神社の創立年代が伝えられていないので、その分不確実じゃが、一族で持つ一家稲荷の所在、加えて創立年代の古さ、神社数などの傾向から判断すると、どうも当地の稲荷信仰は、下清戸から興り、石灰の継立場である志木街道沿いの村々へ広まり、関係の深い土地柄伝いに拡散していったことが考えられてくる。
 なかでも、下清戸、中清戸、上清戸という三清戸の集落が整ったのが天正七年(一五七九)と伝わるから、このことが事実とするなら、それより二年前、つまりこの地の開発が下清戸からはじめられる当初より、神社を建てるほどに稲荷信仰が盛んであったことが想像されてくる。
 そこで考えられてくるのが、当地の稲荷信仰は志木街道沿いを切り開いて帰農した、北条氏照の家臣たちが広めたものではなかろうかという推量じゃ。
 先にも述べたが、江戸には北条氏綱が天文七年(一五三八)に建立したと伝える三崎稲荷があり、その氏綱は当地を治めた八王子城主北条氏照の祖父にあたる。
 そこから、この地に土着した氏照の家臣が、領国内に広まっておった稲荷信仰を持ち込んだということも、まんざら思いつきとばかりは云っておられんようになってくる。
 ちなみに、徳川の世となり、青梅での石灰の掘り出しには没落した氏照の元家臣団がかかわっていたとされるから、そうなると三清戸へ土着した人々とも縁が深かったことになる。
 あるいはそうした石灰の輸送で結ばれ、北条氏照の元家臣団から分派した人々が、稲荷信仰をたずさえてこの地へ土着したことも推定の範疇にはいってくる。
 稲荷神社が二月に集中して創建されていること、それは間違いなく古くから初午の行事と表裏一体になっていたことを物語っている。
 少々込み入った話になった。しかし、江戸の市中で
   伊勢屋、稲荷に、犬のくそ
と云われるほどに広まった稲荷の信仰ではあるが、江戸から当地へ広まったとするには、いずれも成立年代が古過ぎるということ。
 ここからは行事の内容に入る。
 このあたりでは一家稲荷といって上清戸や下清戸のように、本家とそれから分かれた分家からなる同族で講をつくり、社を設けて稲荷を祀るところと、下宿や中里地区のように、上組、下組など村内の地区ごとに講を組織して社を設け、初午の行事を行ってきたところがある。
 ただ、清瀬市域の中でも、野塩地区だけは個人個人で稲荷さまを祀るだけで、一族や組で祀ることはしていない。
 そうしたわけで、行事のやり方も一様ではないが、ここでは戦前の下宿上宮稲荷の行事を話していくことにする。
 今は行事も簡素化されて一日で終えているが、戦前には三日に及ぶ大掛かりな行事であった。
 二月一日、行事に先立ち世話人の家で寄り合いがもたれる。そこで、さまざまなことを相談するわけじゃが、二十数軒もかかわる祭りであるから経費も相当な額にのぼる。
 そのため、稲荷田や稲荷山と呼ぶ、講員が共有する稲荷持ちの田と雑木林があり、その田からは収穫米を当日の飯糧と酒や肴にかえ、また雑木林の木々も十数年ごとに薪炭として伐採して売り、そのお金で古くから初午の行事をまかなってきていた。
 その日は、全体の寄り合いにつづき、晩からは具体的な準備の打ち合わせにはいる。
 講中は、年毎半分ずつ、「勝手」方と「お客」方へ分かれるが、この晩は「勝手寄合」ということで準備を受け持つ勝手方が集まり、三日間の細かな打ち合わせが行われる。
 そうした寄合を通し、初午の前日を迎える。
 宿に当たる家は、毎年順に移り変わるが、一生のうちに三度巡りあわせれば長命に恵まれた運の良いお人と云われることになる。
 朝はやく、宿へ勝手方の衆が集まってくる。
 その日一日は行事の準備に当てられ、神社へ立てる幟、太鼓のほか、直会の席に用いる軸や神具、膳腕の運び出しと手入れ、またお客への食事の支度がなされる。
 勝手方は忙しい。
 料理のほか、家内の準備がひと段落着いたところで、今度は庭の樫の木から大きな枝を切り落とし、これに御幣をつけ、先頭に幟などをたずさえた者が列なして稲荷神社へ向かう。
 そうして境内を掃き清め、社前に幟を立てるが、その頂にはさっきの御幣をつけた樫の枝が付けられ、神さまの依代とされる。これを「旗上げ」と呼ぶ。

 幟は幾本も上げ、多いところでは六、七本も上がるが、「正一位大明神」とか「奉納稲荷神社御宝前」なぞと書かれ、他所では青、黄、赤、白、黒など五色の紙を使う場合もあるが、ここでは赤に染められた布に黒字で書かれた立派な大幟があるから、それが社前に立ち並ぶ。
 そうしたことだから、幟が風になびくとたいそうきれいで
  ─今年も初午になっただなぁ─
と、これから忙しくなる農事を想い、心が浮き立つ。
 夕方ちかくになると、子どもらが忙しく働き出す。
 何人かずつ集まり、村中を巡り歩いて家々から焚き火に使う粗朶木をもらい集めてくるわけじゃが、それを社前の広いところで焚き、近くに土俵を作って相撲の準備が整う。
 そのうち何人かの子どもらが陣取り、ドンドンドドンと太鼓を打ち鳴らし、相撲がはじまる。
 そのうちには応援の声も一層威勢がよくなり、楽しいこと楽しいこと。しばらくすれば、われもわれもと村の若衆が飛び入り、力自慢を見せつける。
 若衆は冬の間に力が余っとるから、ぶつかり合う時の声もすさまじく、まるで獣のような低い唸り声が薄暗がりに響き、そりゃもう恐ろしいほどの迫力。初午のときは飯が腹いっぱい食えるから、もっとやれ、もっとやれだ。
 初午の当日。
 朝、宿の者が御神酒、お高盛りにした小豆の御飯、料理などのお供え物をもって稲荷さまへ向かう。

 料理は、油揚げやめざしのほか、人参、牛蒡、里芋、いんげんなどの煮物だが、神さまに供えるものだから、別々に味をつけ、人参などは拍子切りにしている。
 社にお灯明をあげてから、これらを供えるわけだが、そのうちには氏子の人たちも、それぞれに供え物を持ってお参りに来る。
 そうした人たちは、南天の葉を小豆御飯の上に置いた重箱などをたずさえて来て、このあたりでは笹の葉をシノッパというが、そのシノッパの上に小豆御飯を一っぱさみ箸で盛り付けてお供えする。もちろんお狐さまに油揚げも一枚供える。
 こうしているうちに、近所から子どもたちが集まってくる。なぜかというと、供物の残りを分けて食べられるからで、なにもなかった時代のことだから、煮物一つも喜び、稲荷の祭神の御食津神さまと分け合い、食べたということだ。
 子どもらは食べるだけで、腹が満ちればあとはお構いなしだが、大人はそうして喜ぶ子どもの姿を見て、きっと神さまも喜んでおることじゃろうと思い、今年の農作物の豊かな稔りが約束された事を感じ取っていたわけ。
 まあ、こうしたときには、いつも悪さをする子どもらではあるが、神さまの使いのような精霊としての役目を担うわけで、子どもの喜ぶ姿は何にも代えがたいもの。
 こうして、いったんは稲荷さまに奉げた御神酒を、今度は残りを授かったとみなし、一同それを下げて宿へもどる。
 ここからは神事を終えた後の直会ということで、講の人々が集う祝宴となり、勝手方がお客方をもてなす。
 本膳は昨日から準備してきたもので、



豆腐の白和え、白豆の甘煮、一枚丸ごとの油揚げの煮付け、きんぴらごぼう、人参・牛蒡・里芋・いんげんの煮物、お吸物、それに小豆の御飯という品々で、一人ひとり箱膳の上に料理が整えられてお客方の前へ出される。
 そこで稲荷さまから授かった酒が振舞われ、宴がはじまるが、昨年から一年のうちに身内のものが亡くなったりと、不祝儀のあった家では、この御神酒をいただくことをしないのが、神さまに対しての礼儀と考えられている。
 中里の稲荷講では、宴が盛り上がってきたところで座敷の真ん中へござが敷かれ、小豆御飯をいっぱいに入れた桶を出し、お高盛りがはじまる。
 これは、その年の農作物の豊穣を前もって祝う予祝の行事ではあるが、お酒が入っているからみなご機嫌で、
 「ほれ、おらほが(俺の方が)一番だぞ」
などと飯椀に小豆御飯を盛りはじめ、しまいにはしゃもじを水に浸しながら横に飯をなすり付けて高さを誇る者も現れ、七合の飯を一椀に盛ったと語り継がれる人もいた。
 初めての人がこうした光景を見れば、その場限りのお遊びのように思うか知れんが、実はこれ、高く盛れば盛るほど豊作になるという古くからの云い伝えがあることから、人目をはばからず競い合っている。
 これだけ盛った飯を一度に食べれば、腹に悪いとお思いの方もいらっしゃるであろうが、そこはよくしたもので満腹の腹をさすりながら
 「稲荷さまの御飯だからよ、腹にあたることはねぇ」
などと、宴席のあちこちから、そうした声が聞こえてくる。

 そのころは初午に二十キロの米を炊き、一同で平らげてしまうのだから、大変なもの。年によっては飢えるときもあるし、豊穣に満たされるときある。すべての想いを今年の豊作にかけ、稔りを先取りして祝うのである。
 こうして、この日だけは、いやというほど腹いっぱいに飯を食べられるわけで、普段のつつましい生活から開放され、この上ない贅沢を体現できた。
 初午からは農事の重労働がはじまる。この想いがあるからこそ、それを糧に収穫の秋を迎えるまで頑張る気持ちが湧き上がってくるというもの。
 三日目は後片付け。
 楽しかった前日の出来事を話しながらの片付け。
 常なる日々の単調な生活にあって、初午の行事は、だれそれさんの踊り、講で諸国の寺社へ詣でた想い出、子どもらの成長のこと等々、たくさんの話題を作り出し、人々の絆を深める。農事の手間借りにみられる村内の互助も、こころよく結ばれていく、ということ。        動画へ
 

 
春の彼岸        音声版へ

 季節といえば、今は一年を春、夏、秋、冬の四季に分かつが、大昔は春と秋が季節を分ける重要な時と考え、二季で分ける考え方が普通だったようだ。
 みなさまも聞き覚えがあろうが、紀元前の中国に「春秋戦国時代」という時代名があるが、その春秋は孔子様が編纂したという「五経」といわれる「易」「書」「詩」「礼」と並ぶ歴史書の「春秋」からとったもので、一年を二分する考え方があらわされているといわれておる。
 その節目が春分と秋分で、このとき昼と夜の時間の長さが同じになり太陽が真東から昇り、真西に沈むから世界中の何処でも季節の基準としてきたわけだ。
 春分からは昼間が長くなり、いろいろと生き物が活発に働き出して食料も得やすくなる。しかし、秋分過ぎともなれば次第に夜が長まり、野枯れ、生き物も隠れひそみ、世界が死に絶えたように思われるから、どこの国の人も一様にその闇の広まりを人間界へ死霊界が入り込んできたものと信じて恐れ、さまざまな行事を執り行うわけだ。ハロウィン祭も十日夜の行事も、そうした意味では同じ性格をもつ。
 民俗学では、この一年を二つに分ける中に、似た行事がくり返されていると云われるが、そうであるなら、秋分過ぎからの行事の性格には、野枯れ行く世界を感じながら、それを司る死霊世界へ向けた
 ─どうぞ静かにお引き取りいただき、来年もたく
  さん食物が育ちますように─
という、前もって翌年の豊作をお願いする予祝の気持ちが表され、また他方の春からの行事には
 ─死霊世界が無事退かれ、稲魂様などの和御魂様
  が現れてくださったお陰で、豊かな稔りを分け
  いただくことができます─
という気持ちが、それぞれの行事に祈り込められていることになろう。
 さて、そうしたことだから、季節の節目の「春分」と「秋分」はことのほか大事で、仏教においてもこのときを重要な日と考えるから、それが伝わってきた六世紀以降の広まりとともに、以前の古い自然観に満ちた行事形態が、どうも意識もろともに人間性を求めて祖先崇拝を重視する仏教へ溶け込み、形をとどめぬほどに塗り替えられてしまったらしい。だから、この期間の行事は仏教一色となる。
 「春分」と「秋分」は、仏教では生死の海に船出した人の魂が、穏やかな理想郷へ到達して悟りの世界へ入ると考え、「彼岸」と云って七日間の法会が営まれる大切な期間。
 この仏教行事、平安時代のはじめには朝廷で行われているから相当古い歴史をもつ。
 この時の暮れ行く陽が真西を指すところから、その西方にあるとする阿弥陀仏の住む極楽浄土へ、死後生まれかわろうという信仰と結びつき、江戸時代にはひろく庶民の年中行事に定着したといわれる。
 これはそういう仏教の行事だから、昔の人はお盆とならんで先祖の霊と交わる大切なときと考え、家人はもとより遠方からもお墓参りに来る。
 この期間は、「春分」と「秋分」の日をなか日として前後七日間にわたり、その節目を「彼岸の入り」「中日」「明け」と呼んでいる。
 農事も忙しいから畑へも出るが、節目は仏様への供え物を作り、先祖のことを偲ぶ。
 彼岸の入りの二、三日前にはお墓へ行き、雑草をとり、掃き清め、墓石なども洗ってきれいにする。
 入りの日は、家人が真っ先に墓参りに行く。遅くなると親戚など来るし、それも十三、四軒で「中日」には多くが来て家を開けられぬほどだから、家人は入りの日に墓参りを済ませて置くことになる。
 そうしたなかでも、入りの夜明けを待つようにして墓参りに来る、とびきり早い人もいて
 「あによ、おらほのだんな様がいるだから、他人様のほうがはよお参りされたんでは御先祖様に申し訳なかんべ」
ということ。なんとやさしげな心遣い。
 昔は花屋なぞ無いから、自分の家に咲く花持っていくが、三月のことだからジンチョウゲやマサキなどのあり合わせのものとなる。
 この日の食事は、変わりものを作る。
 だいたいは亡くなられたお方の好きだった五目飯やら小豆飯。昔のことだから、麦にいくらか米を足したくらいのもの。
 家によっては釜を二つ用意し、一方は神さまの供え物と年寄の食分とする米の飯。他方は家人の食べる麦飯と厳格に分ける家もあり、今では考えられぬほどに年寄に気配りしたものじゃ。
 当たり前に考えれば、年寄は一生懸命働いてきて、自分たちの前の時代を築いてきてくれたわけじゃから、その敬う気持ちを、神さまへの気持ちと同じものとして当たり前にあらわしていただけのこと。
 農作物を授けてくださる神さまへの気持ちが遠のけば、また年寄への敬いも変わる時代が来るということ。
 そうこうしているうちに、「中日」となる。
 このあたりでは
 ─中日ぼた餅、明け団子─
という言葉がある。朝からぼた餅作りがはじまるわけじゃ。
 普段麦飯ばかり食べている連中じゃから、ぼた餅となれば若い者は眼の色を変えて食べるから、六升釜のでかいやつカマドへ掛け。もち米にうるち米を少し入れて炊くわけじゃが、そうしたとき、年寄によく
 ─飯のヤッコイ(やわらかい)、堅いは、誰がやっても自由んなんねぇだから文句は云わぬが、ぼた餅だけは握りだからサッパリ炊け、味がよくなるからな─
と云われたもの。
 それは赤飯の少しばかりやわらかいぐらいの調子だが、これがなかなかに難しい。
 こうして飯を握り、餡に包めばぼた餅の出来上がりとなるが、昔はずいぶんと大きく作ったものじゃ。
 そうして昼はうどん、夜はそれらの残り物を食べるということで、朝に手分けしてうどん打つ家も多かった。
 大正時代のころは、何処の家も親戚の墓参りへ行くに手土産として干しうどんを七把か十把ほども持って行くのが普通じゃったが、昭和に入るころからは和白や黒味のあるざらめの砂糖が出回りはじめてきたので、そうしたものも持っていくことが多くなった。
 何といっても砂糖は貴重品じゃったから喜ばれたわけ。
 こうして親戚の家を回ると、中には話し上手なお方もいて
 「昔っから砂糖なり、煎餅なり、うどんなり、同じものをやったり、もらったり、だからお互いにしらぁよかんべって云うようだけどね(お互い様にしてやめればよいと思うが)。昔っからいい仲(良い親戚付合い)してんかんね。世間話して帰ってくると仏様がね、陰でそれ聴いててね、二でぇ(二代)たっても、三でぇ(三代)たってもいい仲でつづけさせてくれるって」
 彼岸明けの日。
 「中日ぼた餅、明け団子」じゃから、この日は仏様に持ち帰ってもらう土産の団子を作る。
 このあたりは畑ばかりの土地。米の上新粉は買わねばならぬから、陸稲を洗い干し、石臼で挽いてふるいにかけた粉で団子をこしらえたが、それは黒味があって粘りも無かった。
 下清戸には大正時代に団子屋があって、土産団子を籠で売りに来ていたが、そいつは串を刺さない白団子。一つを丸めるのは葬式だからと、二つっつ合わせて転がして丸めていたな。
 当時、四つ一串の普通の団子が二銭で買えたが、土産団子を買いに行けば、いく粒かおまけしてくれた。
 この土産団子、仏様に供え終われば焼いて醤油つけて食べる。焼きはじめれば芳ばしい香りが屋内に立ち込めるから、われ先にと子どもらが囲炉裏端へ集まってきて、焼き手の年寄に早く早くせがんでおったわ。
 まあ、そうしたときの年寄の顔に、仏となった慈悲深い御先祖様たちの顔がそれぞれに映し出されてきていたということ。これで彼岸の話はおしまい。 
 
 戸隠講など       音声版へ

 本格的な農事を前にして、彼岸明けから雛祭りにかけては「講」の活動が活発になるとき。
 信心する神社から祈祷を行うために御師さんが見えたり、また寅祭りで選ばれた人がこれまた信心する神社へ代参に詣でたりと忙しい。
 年中行事のすべてがそうであるように、昔は神さまと農事は切っても切れない関係にあった。
 農薬などないから、害虫が発生しては大変だし、日照りに大雨、強風のほかにも、旧暦の三月から四月、新暦でいえば四月から五月にかけての午後にゃ突如として雹にみまわれることもある。
 また、こうした農事にかかわること以外にも、火難、盗難、病難など、生活上の多くの不安をかかえておるから、神信心に対する気持ちも、今と違い深いものがござった。
 朝お天道様が上がる。それに向かい手を合わせ
 ─昨日も無事に過ごせました。今日も家内みな無事で過ごせますように─
と、陽を拝する気持ちの清々しさは格別なもの。
 説教ではないが、今の人は神信心などどれほどの効能があるものかと思うであろうが、そもそもそうした気持ち自体が昔の人の考えと違う。
 自分自身の気持ちを自分自身で落ち着かせるのは並大抵のことではない。
 雹が降れば、作物が全滅することがある。自分だけの気持ちなれば
 ─何で俺ばかり─
と思いつづけ、立ち直ることすら間々ならぬ。
 じゃがな、神信心を通して、日々自分に問いかけておれば、豊作のときの幸せな気持ちもしっかりと神さま通して胸に備わっておるから、へこたれずにやりなおそうとする気持ちが起きてくるということじゃ。
 事を悔やみ、事後の処理が遅まれば、それだけ深い悩みの底へ入り、抜け出せなくなる。
 あまりくどくどと云う気はないが、年寄のこうした気持ちを馬鹿にしてはならぬ。
 そうしたことを簡潔に云えば、神様という第三者を立てて、常に自分の気持ちを確認すること、そうしたことが、災いがふりかかってきたときの気持ちの備えとなるわけじゃ。
 さらに云い足せばな、神信心でご利益があることとは、神さまが直接にお与えくださるものではない。信心し、それを考えるものに、神さまが内なる精神の備えを自ら気づかせてくれるということに意味があると、わたしは思うのじゃがいかがなものかな。
 まあ、そうした心のことは、みなさんがそれぞれに、その時代の中で考えてゆくこと。
 さて、だいぶ回り道をしたが「講」の話へもどる。
 「講」とは、広い意味では神仏を祭るだけにとどまらず、「屋根葺き講」「頼母子講」のように、屋根替えや金銭の貸し借りなど、村内の相互扶助組織、簡単に云えば目的別の助け合いの組織。
 このあたりでは、明治から大正にかけては養蚕や絣織り、また大正の末からは冬野菜の生産がはじまり、現金収入の道が切り開かれておったから、金融的な性格をもつ「講」はさほど見られなんだ。
 そうしたことじゃから、「講」といえば、農作物の豊穣と家内安全なぞを祈願するため、代参を立てて地方の神社へ詣でる目的で組織されたものが多かった。
 江戸時代後期には「伊勢講」が盛んで、野塩・中里、また下宿、上清戸の衆が、銭を出し合って積み立て、代参をたてて伊勢神宮へ詣でておるが、そうしたなかには旧暦の十二月の半ばから翌年の三月まで、伊勢─熊野─和歌山─奈良─京都─讃岐金比羅─厳島─天の橋立─木曾─善光寺─榛名など、諸国の寺社巡りをする大規模な代参も見られた。
 大正から昭和初めのころに見られた代参を立てる講には、次のようなものがあった。
   平心講(埼玉、大宮市の八枝神社)
   御岳講(東京、青梅市の御岳神社)
   三峰講(埼玉、秩父市の三峰神社)
   聖天講(埼玉、妻沼町の歓喜院)
   大山講(神奈川、秦野市の大山阿夫利神社)
   冨士講(静岡、富士宮市の浅間神社)
   榛名講(群馬、榛名町の榛名神社)
   戸隠講(長野、戸隠村の戸隠神社)
   御嶽講(長野、木曾の御嶽神社)
   塩竃講(東京、東大和市の塩竃神社)
    ※括弧内は講元の神社
 このうち、平心講は大正元年の赤痢流行のさい、病疫退散にご利益があるという埼玉県大宮市平方の八枝神社の「お獅子様」を借り、

上清戸の休心庵に安置したのにはじまる新しい講だが、他は五穀豊穣、家内安全なぞを祈願する江戸時代からつづく講。
 中でも榛名神社は雹除けにご利益があるということで、代参でいただいてきたお札を講員が分け、竹に挟み、それぞれの畑地へ刺し立てておくのが古くからの習わし。
 また、戸隠講は、戸隠神社に九つの頭をもつ龍が祭神として祀られているところから、別に「九頭龍講」とも呼ばれ、それが講員の災いを身代わりすると伝えられておる。
 戸隠神社は遠いので、代参はなかったが、その代わり彼岸過ぎに信州戸隠から御師様がみえ、お日待が行われる。昔は御師様がお灸をすえてくださるので女衆もたくさん集まった。
 このほか塩竃講は、宮城県の塩竃神社を分社した社が東大和の高木にあり、安産にご利益があるというので五、六人の代参を立てて詣でておったが、時節が花見のころでもあるから、帰りには村山貯水池で桜見物なぞしていたようじゃ。
 代参に行く時、また御師様が来たときなぞには、昔のことじゃから麦や粟などを講員から集める。
 そうしたことで、戸隠神社なぞからは正月に、おみくじに添えて作物や天候の吉凶を記す占いが送られてくるのじゃが、その占い、たいそう当たると評判を呼び、雨が多いとなれば早く作づけたりと、占いを信じて農作業を段取りすることも多かった。
 まあ、穏やかな年であれば問題はないが、悪ければ大変なことになる。あるていどは悪い年のことを予想して農作業の段取りをしたほうがよい。何につけても備えの意識は大切なこと。
 「講」の話は、これにてしまい。


 雛祭り(三月三日)  音声版へ

 この三月節供、今でも盛んじゃから、みなさんもなじみがあろう。
 まあ、わたしの若いころも、子どもの成長を願うような行事内容となっておったから、いまとさほど変わるものではない。
 しかしなっ、もともとの意味をたどっていくと、行事に対する意識がずいぶん違っていたようじゃ。
 この「雛祭り」を、「上巳の節供」と聞いたお方もおられよう。
 それは中国古代の魏の時代にあったという、三月はじめの巳の日(上巳)に身を洗い清め、禊をして穢れを祓う行事に由来するらしい。
 節供には正月七日のほか、この三月三日、五月五日、七月七日、九月九日の五つあり、これを称して「五節供」と呼ぶが、それはもともと中国の奇数の重なりを尊ぶ観念から興されたもの。
 わが国では聖徳太子の時代より、その中国からさまざまな制度を見習っているから、そうした行事も抱き合わせに宮中へ数多くもたらされたといわれる。
 平安時代、宮中では三月三日の節供に、杯を流して詩歌を詠じて酒を飲む曲水宴という遊興的な行事があった。そこでは供物に桃花餅、草餅などみえ、またこの日に陰陽師を呼び寄せて、人形で身を撫でて川へ流して穢れを祓う行事もなされていたという。
 まあ、今日のような行事内容は、さまざまなものが集合して出来上がっていると思えるから、人形をもって祓う別な行事をあげると、次のようなものもある。
 それは「天児・這子の贖物」というもので、「天児」は祓いの形代=人形、「這子」は四つんばいの子どものことで、子どもが生まれて五十日とか百日のときに四つんばいの子どもの人形を贈り、三歳になるまでお守りとして持たせる風習のあったことが『源氏物語』に書かれておる。
 旧暦の三月三日の節供は今の四月に当たる。
 そのころには暖かさが増してきて、悪いものが現れると考えるから、祓い清める儀式が、さまざまに集合し、こんにちのような雛人形に桃の花を飾り、菱餅と白酒を供えて女児の成長を祝う行事が出来上がったということじゃろうな。
 そしてそれらが、宮中から武士へ、武士から町人へと下げくだり江戸時代の都市文化を色濃く映し出すようになる。
 しかし地方では、草摘みをする「野遊び」に重要な意味がありそうじゃから、そこでは農事と強く結びつき、女児を精霊のようにみなして農神を招き寄せる意味をもつ。
 そう考えてくると、「流し雛」で穢れを祓う意味は、田や畑という聖地へ入り農神と交わるための身の清めのように思えてくるのじゃが…
 このあたりは東京の郊外であったから、はやくから町場のきらびやかな雛祭りの風俗が入ってきていたようで、わたしの若い時分には「野遊び」や「流し雛」など、あったかもすでに分からぬようになっていた。
 さて、大正から昭和初めのころの「雛祭り」を話すと、ざっと次のようなことになる。
 お雛様というと、いまは親元ですべてを整えてしまうが、昔は一族で祝うという気持ちが強いから、女の子が生まれると、そのお祝いにお内裏様一対と屏風をお嫁さんの実家、あとの女官と五人囃子なぞは一つずつ親類でそろえてくれるのが普通じゃった。
 親類では同じもの買ってきてはけねぇから違えるようにする。まあ、こうしたことで親類同士連絡し合うから、それだけ付き合いも親密じゃったということ。
 当時のお内裏様は一尺五寸(四十五センチ)ほどもある大きなもの。
 五段飾りが多かったが、このあたりでは所沢と志木に二、三件雛飾りを売る店があり、所沢の方が高級なものを取り扱っていた。
 明治のころには、五段飾りなぞは、よっぽどのお大尽の家でなければありはせぬ。
 ほとんどは高砂や神功皇后だったように記憶するが、この高砂は結婚式に「高砂や〜」と謡われるように目出度さをあらわすもので、播州高砂の浦(兵庫県西南部)にあるという、黒松と赤松が同じ根から生えた「相生の松」を、夫婦の深き絆と長生きに喩えた能に由来する人形。
 江戸時代の上清戸や中里・野塩などの衆が、講を組織して伊勢参りに行った折、金比羅から宮島の厳島神社へ参拝した帰りに相生の松を見学したことが道中記に記されているから、古くから高砂の人形は当地にも馴染み深かったように見受けられる。
 また他方の神功皇后は、仲哀天皇の皇后で、天皇とともに熊襲を征伐し、天皇亡き後、新羅を征して帰国後に筑紫(九州北部)で出産したと伝えられるから、この人形にフランスの聖女ジャンヌ ダルクのような強い女性の精神があらわされていることが分かる。
 こうしたことで、雛祭りの人形に託されてきた想いに、女児の伴侶を得た幸せで長命な生涯と、生命力の強さが、そこに映し出されてくるわけじゃ。
 時代を超えても、子どもに対する気持ちは何ほども違わぬということ。
 さて、そうした子どもの成長を祈りこむ雛飾りをいただくわけであるから、その返礼もあるわけで、三日とか四日に、金額に見合う配り物をすることになる。
 その配り物というのは、もち米一升五合ほどで赤白交互に五枚重ねした菱餅二組を作り、五個なり七個なりの季節ものの蛤を添え、それに酒代を合わせ贈る。 高価なものをいただいた家には酒代をはずみ、各々それに見合うお返しとした。
 こうしたものはその家によって違うから、菱餅の大きさも異なり、また四、五日前に作って節供前に返礼を済ませる家もある。
 雛人形の飾りつけは、前の月の二十日過ぎごろ。
 年寄は、十二日飾ればよいなどと云い、座敷に南向きに飾る家が多かった。
 そうすれば縁側からも見通せるから、よその衆がちょいちょい見にやって来る。近所の子どもらも、子守しながら縁側へ腰掛け、あそこのお雛様はこうだった、向こうの家のお雛様はああだったなぞと、いろいろ見比べながら楽しそうに話していたものじゃ。
 さてさて当日の三日が来る。
 この日は、朝の五時ごろにはヨモギ摘みへ出かける。
 川に近い衆は柳瀬川へ行き、採ってきたやつを茹でて臼で搗き、それに米の粉を練って蒸したやつを入れて搗きながら草餅を作る。
 そうしたことだから、このときにはあちこちの家から臼の音が響き、餡を包み込んだり、きな粉まぶしたりと、手伝う子どもの声がして賑やかなもの。
 そうそう、忘れるとこじゃったが、甘酒は酒屋から酒っ粕買ってきて、それに玉砂糖入れて作った。
 せっかくなので、ここで砂糖の話をさせていただく。
 砂糖は貴重品。
 昭和に入ってから出回るようになったが、それでも四、五キロメートルほど離れた所沢や志木に買いに行かねば手に入らなかった。
 したがって必要となれば、おもに子どもが買いに行かされるわけじゃが、所沢には。「オザワ屋」なぞという店があり、幾種類もの砂糖を売ってた。
 何といっても「白砂糖」が最高じゃが、「ザラメ」も高級で、それには白ざらしと黄ざらしの二種あったが、滅多に口にすることはできなんだ。
 それらのほか「赤砂糖(花見砂糖)」や「玉砂糖」というものもあったが、一番当たり前で安かったのが「黒砂糖」で、草餅なぞの餡子を作るさいには包丁で削って入れたものである。
 値段は昭和五、六年(一九三〇、一)で、玉砂糖一貫目(三・七五キログラム)で八十銭か九十銭ほどではなかったかな。まぁ、砂糖についてはそのようなものだ。
 三日の食事は、朝にその砂糖で作った餡入りの草餅を食べ、昼は品代わりでうどん。翌四日は菱餅を作るときに落とした切れっばしを、正月の雑煮のようにして食べるのが普通じゃった。
 この三日の日は、娘を中心に女の衆が雛飾りのある座敷へ集まり、甘酒を飲んだり、あられ食べて楽しむが、そのうちには
 ─明かりをつけましょぼんぼりに〜─
なぞと歌も聞こえてくる。
 こうした歌は尋常小学校で習い覚えてくるらしく、お姉ちゃんが妹や周りの人に教えて歌っているようじゃったな。
 このときばかりは男は入れぬから、お兄ちゃんや弟なぞは縁側からうらめしそうに覗き見し
 ─はやく五月節供来ないかな─
なぞと、その日を待ちこがれているわけ。
 こうして節供を終えるが、お雛様は、三日を過ぎてもあまりのん気に飾っておくと、子どもが娘になったときに嫁へ行くのが遅れるということで、早く片してしまう。
 お雛様は糊付けのものじゃから、天気のよい空気の乾燥した日を選んで片付けるが、大方は子どもが楽しみにするから、学校が休みのとき。あれやこれやと子どもと話しながら一緒に片付けることになる。
 昔は、華やかで綺麗なものを眼にすることも少ないから、子どもは大きくなってもそうしたときのことを昨日のように覚えとる。
 じゃから子どもと一緒に、お雛様の顔など和紙で丁寧に包みながらする母子の会話は、また格別に大切なことのように思えてくる。
 忙しいからと、親の都合でさっさと片付けてしまっては、親が娘に授けられる深き絆をつくる時を失ってしまう。それではあまりにもったいなかろうて。
 ということで、夜もだいぶ更けてきたから、わたしはそろそろ横におっ立って寝ることにする。では今夜はこれにておしまい。
 

 観音祭り(三月五日) 音声版へ

 この行事は、旧暦の三月五日に山王様(中清戸日枝神社)で行われた神事で、「馬祭り」とも呼ばれておった。
 「馬祭り」というくらいじゃから、馬が主役の祭り。 毎年この時期になると、下清戸、中清戸、上清戸から神さまの係りをする方々が出て、馬が飛び出さぬようお宮の周囲に杭を打ち、縄を回して柵を作るほか、馬の休憩所なぞも作る。
 祭りの当日は、清瀬のほか近隣の菅沢、片山、大和田(以上新座市)からも馬で賃稼ぎする人々が大勢集まってくる。
 馬は、それぞれに衣装をつけ、色紙のお面に尾先へ鈴など付け、鞍の左右には五色の布を飾り下げとる。じゃから色味の美しさは云うに及ばず、それに鈴の音やら馬の興奮した息遣いが加わるから、華やかなこと、華やかなこと。
 そのうち、腹帯を締めた上に印半纏をはおり、額にきりりと鉢巻を当てた威勢のいい馬方さんたちが、馬をひきながらお宮の周りをぐるぐると回りはじめる。そのころには周囲は黒山の人だかり。
 この祭り、物売りも二十店ほどは出るから、なかなか賑わったものだ。
 馬祭りは昭和のはじめまで行われていた。
 そのころの清瀬では、馬は全体で二十頭ほとが飼われていたように思う。
 馬は、江戸時代から飼われおったが、そうした家では土間の一角に馬屋を作り、同じ屋根の下に人馬が一緒に暮らし、大切にされてきた。
 大正時代でも、田の用水縁に三尺幅(九十センチ。通常は二尺幅)の馬入りの畔を通して田掻きなどの農耕にも使い、また炭や薩摩芋の輸送にも活躍した。
 炭は、今のお人は山深いところで作っているように思うか知れぬが、このあたりでも雑木林があるから、伐採の権利を買い、冬場に焼き出す家があり、おもに東京へ出荷。
 また、薩摩芋は滝山(東久留米市)の問屋や新宿の淀橋市場へ出荷されたが、このほかに神田竜閑町にあった、鉄砲玉という丸い大きな飴で有名な「サンカメ」という菓子屋から清瀬まで、菓子運びを馬方へ依頼するお方もおった。
 そんなわけで、日枝神社のあたりや志木には「ウマツクリッパ」とか「カナグツヤ」と呼ぶ蹄鉄屋があり、志木街道には馬宿も点々とあった。
 その昔、清瀬と東村山の境に団子屋があったが、それがそうした馬宿のひとつじゃった。
 今、このころを伝えるものは、志木街道のけやき通りと小金井街道の間に建つ「馬頭観音」の石塔のみとなってしもうた。
 馬が活躍した時代、じゃから馬祭りもいろいろなところで催されていて、当時は平林寺(新座市)や保谷(西東京市)のほか所沢(埼玉県所沢市)でも馬祭りが見られた。
 ではなぜ日枝神社で行われるようになったかじゃが、それは「猿」のご縁。
 話は少々長くなるが、それはこの馬祭りの行われる日枝神社で祀る神様のことから紐解かねばならない。
 日枝神社の祭神は大山咋神。
 この神さまは、須佐之男命の子である、稲の稔り神とされる大年神と天知迦流美豆比売の間に生まれた子。別名、山末之大主神とも呼ばれ、山岳を開拓し、地主となられた神。
 その神さまを祀る日枝神社であるから、「山王様」という別称があるわけで、そこには祭神に付き従う眷属も意識されているわけじゃ。
 この「眷属」とはな、神社の参道に置かれた一対の唐獅子のようなもので、悪いものを追い払う門番のような御前立ちのこと。
 稲荷講でも話したが、稲荷様では「狐」、また春日様では「鹿」じゃが、この山王様では山を支配していた「猿」とみなされておる。
 猿と云えば、みさんも学校なぞで訪れたことがあろうが、日光東照宮の「見ざる、云わざる、聞かざる」の三猿が有名じゃが、当地の日枝神社に建つ江戸時代はじめに寄進された石燈籠にも、それが刻まれとることをお知りじゃろうか。
 その意味は
   悪いことは見ません
        云いません
        聞きません
で、その三態を「猿」にとらせることで温厚の印となしたもので、悪事・災難を除き、何事によらず明朗な、という神様の眷属としてのあり方を表しているというわけじゃ。
 その昔は、何処の神社でも御神馬がおってな、もちろんこの日枝神社にも馬がおったそうで、それが次第に廃されて木馬になったりしとる。
 そういえば野塩の八幡神社にも馬に乗る八幡神の石造が伝えられておるが、大昔からの神事を伝える伊勢神宮では、今でも内宮に厩があり、皇室から献上された白馬が飼われておる。
 そうしたことで、神社と馬とはもとから関係が深く、日枝神社では、それに「日吉山王権現」の使いとしての猿との関係も築かれてきているということじゃ

 この馬と猿の関係はな、ただならぬもの。
 不思議な霊験があると信じられ、病馬のそばへ猿が寄ると病が癒えると云われるほど。昔は日枝神社にも何匹も猿が納められていたと聞く。
 厩で、馬をつなぎとめる木を「猿木」と呼ぶのも、その深いつながりを伝えるもの。
 まあ、そうしたことで、日枝神社で馬祭りが行われるようになったということだが、盛大なときにゃ近郷近在から百二十頭もの馬が集まり、神社裏の林の中では氏子の人達が弁当を出したり、馬に飼い葉をくれたりして、たいそう振るわったもの。当時は露店もたくさん出て、見世物も二か所ぐらい出て楽しかったものよ。
 馬祭りについては以上じゃが、語りながら一つ想い出したことがあるので話しておく。
 年寄から聞いたことじゃが、日枝神社には、明治維新の神仏分離以前に正覚寺という調布の深大寺を本寺とする寺院があり、そこから「清戸正覚寺」と版摺りされた御札が出されていたという。
 そのころ、ある馬を持つ家で火事が起きた。
 馬は臆病じゃから恐れて引き出そうにも土間の厩に引きこもり、尻込みしたまま一向に出ようとせぬ。
 そこで神棚から御札をおろして思いを神威に託すると、馬はたちまちに外へ出て難を逃れることができたと。
 それ以後、この正覚寺の御札はご利益があると崇められたということじゃ。
 「馬」と「猿」のように、人にはわからぬ関係がたくさんある。
 したが、馬は一生懸命に馬子の云うこと聞いて働いてくれるから、馬祭りの時には、思い切り着飾らせ、慰労したというわけ。
 馬と馬子は労働をともにする仲間、それだけに気持ちも深い関係にあったということじゃな。
 この馬祭りの行事、神さまを介し、悪事・災難を除いて何事によらず明朗な人と馬の関係を築こうとする気持ちが、豊かに描き出されているとは思わぬかな。おしまい。


 
お花見          音声版へ

 旧暦で話してきた中に 新暦が入ると混乱するかも知れぬが、彼岸や花見は時期が決まっているから、ここでは特別に新暦とするが、花見はその新暦の四月十五日じゃった。
 昔は気候が寒かったと見え、今より一週間以上も遅いが、このあたりでは三里(十二キロメートル)ばかり南へ歩き、「小金井堤」へ桜見物に行く衆が多かった。
 農家の嫁は家を開けられぬから残るが、若い衆や子ども連れの家族で小金井街道はごったがえし、そうした中には女装して蛇の目のぼろ傘を差し、まるで仮装行列のような身なりをする十五、六人で歩くひょうきんな若衆の姿も見られた。
 お目当ての桜は、小金井街道に五日市街道が交差するところにかかる小金井橋付近の玉川上水の堤。

 そこまで来ると、人を押し返せぬほどの混雑振り。小金井堀へ落ちる人やら、川中には捨ててある瓶を拾って生活の足しにするお人までいるありさま。
 近くの農家では、養蚕場の二階を座敷に見立て、花見客に貸し出しているところもある。
 そうした座では、一杯入った良い気持ちで、無礼講だと云いながら、股っこに人参さして剽げる(おどけて)者も出る始末。それで小金井公園には三味線を弾く芸人も現れて、それはそれは華やかなものじゃった。
 こうしたときには、「叺寿司」を作って持って行く。
 これは玉砂糖で煮た油揚げを裂いて御飯つめて干瓢巻いた稲荷寿司のことで、見た目が藁筵の袋に似ているからこのあたりではそう呼んでいたが、御飯をぎゅうぎゅうに入れるから、今の人が見たらびっくりするほどにでかいものじゃった。
 この日は中清戸の日枝神社の祭礼の日でもあったから、帰ってきてから「お神楽」の見物へ出かけ、重ね重ねに楽しかった。
 花見には、お針仲間で吉祥寺の井の頭へ歩いて行く女衆も見られたが、昔からのはこの小金井堀の桜。
 じゃが、大正十四年(一九二五)の八月に村山貯水池が完成し、桜が植えられたことで、昭和に入ってからはそこへ花見に行く衆が多くなり、そのうちには戦争もはじまってそれどころではなくなった。
 今は車で何処へなりとも行けるが、当時は子どもをおぶい弁当持って歩いて行くわけじゃから、花見の想いも忘れられぬ楽しい想い出となったということ。
 まあ、年寄が昔のことをよく覚えておるのは、遊ぶことも大変だったから印象も深く胸に刻まれているということじゃろうな。
 わしなぞも、楽になった新しい時代の方からどんどん忘れていくから、子どもらの記憶も一向に小さいときのままじゃ、まあその方が楽しかろうてハハハハハ


 
梅若さま(三月十五日)音声版へ  

 この行事は、このあたりで「ぶっくるみだんご」という米粉の団子を餡の中へ入れたものを作るほか、変わり物をこさえて食べるだけのこと。
 今までの、神さまを中心にすえる行事とは少し異なり、どうも歴史的な事件に端を発して、この信仰が起きたよう。
 「梅若さま」と云うから、なにやらいわくがありそうじゃが
 ─今日は梅若さまだで、涙雨が降るかしんねぇ─
と云うぐらいで、なんで年寄がそのようなことを云うのか忘れられている。そこで、少々長くはなるが、梅若様の物語を話しておく。
 この物語、墨田区の堤通二丁目にある木母寺に伝えられ、文明年間(一四六九〜八七)には広まっていたというから、かなり古い。

 昔、京の都の北白川に吉田少将惟房という人がいたそうじゃが、お子がなく、日吉の御神へ祈願していたところ、しばらくしてお子を授かった。
 その容姿は、春を待ち望んで咲く一枝の梅花のように可憐で、愛おしく思えたところから「梅若丸」と名づけられたそうで、七つの年に比叡山の月林寺に入り修学するうちに、その才が世に知れるようになった。
 そのころ、東門院というところに、「松若丸」というこれも才にすぐれた稚児がおって、梅若丸と日ごとに競い合うようになっていった。
 なれども松若丸は梅若丸に及ばず、それを口惜しく思う法師たちが争いごとを仕掛けるほどになる。
 やがて難が及びはじめたことで、梅若丸は密かに身を隠し、北白川の家へもどることを決意。しかし、幼児のこととて道に迷い、大津の浦へ至り、そこで途方にくれておった。
 頃は二月二十日の夜。
 そこでめぐり合ったのが陸奥から来た信夫藤太という人買い。
 梅若丸はそれとは知らずに、男のうわべの優しさに付きしたがい、遠き東国へ下り、墨田川河畔に至る。時に貞元元年(九七六)三月十五日。
 旅の途中で病におかされていた梅若丸。この日、この地で倒れ、幼き息を閉じた。
 その場に、出羽国羽黒山の下総坊忠円阿闍梨という貴き聖がめぐり合わせていたが、その聖、哀れむ里人とともに塚を築いて梅若丸の亡骸を葬り、柳の一株を植えて目印にしたという。
 里人は想い出しては献花していたのじゃろう、一年後の弥生(陰暦三月)十五日、梅若丸の悲しみを想い、里人が集い、称名を唱えていた。
 そこへ通りかかるのが、美濃国野上の長者の娘として生まれ、梅若丸を探し求めていた母の花御前。
 梅若丸が行方知れずとなるにおよび、気も狂わんばかりの想いを抱き、人づてにこの東国の隅田川のほとりへさまよい来たのであるが、そこで青柳に集い称名を上げるを、いかなることぞと舟人にたずねる。
 その返す言葉からわが子の塚と知り、花御前は悲嘆の涙にくれ、里人とともに唱和し夜を明かす。
 するとどうしたことか塚のかげより梅若丸の姿がおぼろげに現れる。しかれど、春の夜は明けやすく、曙の霞とともにその姿、はかなく消えうせる。
 夜が明けた後、花御前は忠円阿闍梨を知り、梅若丸のこと、そしてここにいたるいきさつを吐露する。
 梅若丸を想う母のこころ、それはこの地に阿闍梨をして草堂を営ませ、常行念仏の道場として長く梅若丸の亡跡を弔うことをなさせしめた。

 梅若丸の物語は、実際にあった事件にもとづくものであろう。
 その哀れさゆえに永く人々の記憶にとどめられ、時を経て、梅若丸を「山王権現の化身」とも、また「石山観音の化身」ともみなされるようになり、人々の苦しみを除き、願いをかなえてくれるものとして信仰された。
 ある突発の事件。
 そこから誘発された深い悲しみ。
 それは人々の心に哀れみの像を刻み。類似の事件が起きれば、それが幾度も想い起こされ、何がしかの教訓を生み出す。 
 こうしたことで当初の事件そのものの生々しい意味は薄れるが、それと引き換えに普遍性が生じてくる。
 強い悲しみの力、それが反転すると、願いをかなえてくれるものとして昇華してくるわけで、そこから人間の本性にかかわる社会性を帯びた価値基準が生み出されてくる。つまりは
 ─悲しんでいるのはわたしだけではない─
 ─そうしたことに比べれば自分の苦しみなど─
というようなことで、一つの事件、それが身近な類似する事件を引き寄せ、そのなかから人のこころに添う道理をかたちづくるわけじゃが、それを云い換えれば心像から概念が生み出されてくることになる。
 そのことで、この事件、木母寺の縁起となり、そこから能の『隅田川』が作りだされ、後には浄瑠璃、歌舞伎へと進み、草紙の『秋夜長物語』のほか能の『桜川』など類似の作品も数多く残されておる。
 こうしたことじゃから、梅若丸の死は寺の縁起ともなり、何百年たとうが、人の大切なこころをゆるぎなく映し出す忌日として、受け継がれ、広められてきたということじゃろう。
 そのころから農家では本格的な農事がはじまる。その先には日照りも心配になる。
 この日雨が降れば、それは豊作の願いをかなえてくれる梅若丸の涙雨と、昔の年寄は真実それを想っていたのじゃよ。
子どもらに、飢えの苦しみを味あわせることがないようにとな。


 
中里氷川神社祭礼   音声版へ

 この祭りは、苗代に籾まきして田仕事が忙しくなる前、新暦の四月二十八日に行われる。

 そうした時期じゃから、作物がよく稔りますようにとの思いが込められた祭りで、里神楽も舞われる盛大なもので、昔は遠くからも大勢見物客がやってきていた。
 この中里の村には、上組、中組、下組という組があってな、それにより祭りの準備が手分けされる。なにせ七間もある大舞台を丸太組みで作るから、祭礼のかなり前から準備に入る。

 祭りでは、昭和十八年(一九四三)までは竹間沢(埼玉県入間郡三芳町)から神楽師を迎え、盛大なときは十五、六も里神楽を舞いに来ていた。じゃが戦後は舞い手が戦死したりして「神楽」は絶え、明治はじめに門前(東京都東久留米市)の「しょうけい按摩」から習ったといわれる村歌舞伎の「万作」のみとなってしまった。
 戦前は、そうした神楽師を迎える大掛かりなものであったから、下組が竹間沢までリヤカーで道具を取りに行き、神楽師の宿は上組が受け持ち、帰りの道具運びは中組というように、それぞれ役割が決められておった。
 それが昭和十六年(一九四一)に戦争へ入り、二年後の十八年ともなれば物資が不足していたから、神楽師のもてなしも大変で、宿に当たった家で自家製の豆腐を出し、たいそう喜ばれたなどという話も伝わっとる。
 盛大な時分にゃ寿司屋、餅菓子屋、団子屋、饅頭屋などの商売人が出て賑わったもの。
 夕方の薄暗さが忍び寄るころ、明かりが四方へ灯される。
 まだ電気の通らぬ時代じゃから、今のように人家や街灯の明かりが闇を縮めてはおらぬ。参道の木立に包まれた闇の奥に、社殿と舞台のみがほんのりと浮かび出すわけで、沈み込む闇が増すほどに、それはそれは美しい光景を作り出していた。
 当時の照明は四角いガラス張りの角ランプ。
 専門の人が舞台の前なぞに竿を立てて吊るし、全体で二十個ほども下げられていたように思うが、風が吹くと消えたりするから大変じゃったわ。
 この角ランプ以前には、油を入れた土瓶が使われておった。
 これは、注ぎ口から、ボロ布の灯芯を出して火を点すもの。秋津駅の西の方にあるお不動様の神楽では、そうした土瓶の照明が長く使われておったから、そちらは「土瓶神楽」なぞと呼ばれていた。
 知らぬお人が聞いたら「ぶんぶく茶釜」のような舞を想像するか知れんがなハハハハハ
 さて、こうして「里神楽」がはじまる。
 舞台の前は人波で埋めつくされておるから、楽しげに話す家族のざわめきが一瞬にして途絶え、それが歓声へと変わる。
 出し物は「神代」「天の岩戸」「里見八犬伝」など。

 舞方は先にも話した竹間沢の方で、前田さんという人が座元。
 平素は農業や床屋をなさる方々を束ね、神楽をあちこちで披露していたが、この中里氷川神社の神楽がこのあたりで仕舞い(終わり)の神楽となるから
 ─食い稼ぎに行くだ。帰りに五十銭もらえれば上
  等だ─
などと語っていたという。
 神楽師さんの食事は白米でもてなす。
 当時は酒が貴重じゃったから、食事時には出さず、「三番叟」になぞらえて「三番酒」として一升献じた。
 なぜそんな呼び方をするかというと、「三番叟」とは、能の「翁」を採り入れた式三番のうちの「三番叟」を主にしたもので、舞いはじめに演じられるところから
   物事の始め
と云う意味がある。まぁ平たく云えば、「お神楽」のお祓いということで、それになぞらえ三番酒と呼ぶ御神酒として神楽師さんへ献じたわけ。じゃから、ほかに一番二番があって、それに酒を出すわけではない。
 今となってはそうした意味を知る人もおらんようになったが、お聴きのみな様方はどう思われたかな。言葉一つにも深い意味がるということをご理解いただけたやら。
 祭りには花がつきもの。
 さてさて、この「花」も知らなければ植物の花と思うじゃろうが、それは芸人などに差し上げる祝儀のこと。
 じゃがそれでは祭りを司る神さまが芸人扱いとなって不自然。そうしたことで、ここにも深い意味がある。
 その言葉のおお元は、神仏に捧げる樒などの枝葉を「花」。芸人に対する祝儀も、この言葉を借りて「花」と云ったのであろう。
 じゃがわたしはこう思う。
 芸は元々神仏を喜ばせるところからはじまっておる。
 とくに神さまは幸災どちらにも強い力を発揮なされると考えるから、喜ばせることで災いを避けようとしてきたわけで、古くは芸人の芸にも神が依ると考え、それへ与える祝儀に、おのずから神へ捧げるという意味があらわされていたということじゃろう。
 芸者の揚げ代にも「花代」を使うが、それにもこうした意味が宿されておる。
 「遊び、楽しむもの」には、すべて神さまとの関係が生じているというのが古くからの考え方。じゃから昔より祭りの寄付金を「花」と呼び、その名を半紙へ書いて張り出すことが「花掛け」と云いならわされてきておる。
 この氷川神社の祭礼でも、たくさんの花が掛けられる。
 祭りの経費は、「神楽代」と称して月番の方が家々を回り集金するが、それだけでは賄いきれない。そこで当日の大口の花掛けが大切な収入源となる。
 昭和七年のころで、米一俵七円五十銭から八円。そうした時代に二円とか三円を祝儀袋に包んで差し出す方がいて、それは当時としては大変な金額でござった。
 その返礼は「花返し」といい、普通は手ぬぐい。じゃがこうした高額な寄付をなされたお方は、舞台前の特等席へ案内し、幕間には出店から経木(スギやヒノキを紙のように薄く削ったもの)に包んだ寿司など買い求めて神楽を楽しんでいただく。
 出店では重箱なぞも貸してくれるから、寿司、団子など詰めた重箱を肩にする若衆が何人も現れ
 ─○○○○さんのお席はぁ〜、どちらさんでぇ〜、  ござんしょぉ〜ぉい─
と、派手派手しく花返しの重箱を運んで行く。
 こうした具合で、華やかな祭りではあったが、それも戦争を境に神楽師を迎えることはできなくなった。戦争が村々から、こうした喜びさえも奪い去っていったのじゃ。そうしたことで、前にも話した通り、戦後は神楽が絶え、農村歌舞伎である万作踊りを中心に、こんにちへつづいてきた。
 なれど時代変わり、その万作も絶え、さらには祭り自体も行われなくなってきておる。さみしいことじゃ。
 万作の演目には「白枡粉屋」「日蓮記」「広大寺本堂の場」「広大寺茶屋場」「日高川道行の場」日高川船頭場「細田の奴」「三人奴」などあったが、それも今は跡継ぎがなく絶えた。
 農事に身を粉にする時期を前にして、春祭りは実に楽しいものじゃった。こうした祭りで、豊作を祈願しつつ神さまと楽しく遊ぶから、その気持ちが、それからの辛い農事を乗り越えさせてくれるわけ。
 農事に対する意識が様変わりし、テレビやカラオケなぞ楽しいことが毎日あるこんにちでは、そうした祭りも失われていくのが道理。
 「遊ぶ」ということから神さまの座をはずせば、自分のみ楽しもうという気持ちが起きてくるが、さて毎日「遊ぶ」というのも、果てが無く、かえって辛いようにも思うのじゃが…
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田仕事          音声版へ
 
 昨夜話した「神楽」は中里氷川神社だけでなく、下宿の八幡様でも新暦の四月二十三日に行われているが、そのころになると、田のある柳瀬川沿いの村々では苗代に籾をまく「籾ふり」がはじまる。
 そこで今日は年中行事から離れ、田植え過ぎまでの田仕事をまとめて話しておきます。なお、ここでは月日を新暦で語りますので、お間違いのないよう。
 さて、神楽の前、四月半ばごろまでには、田のうないを済ませている。
 「うない」とは聞きなれぬ言葉じゃろう。それは田畑を「耕す」こと。
 鍬のように使う四本歯の「四本マンガ」という道具で田を掘り起こすわけじゃが、その田土は冬場に水を抜いておるから固い。
 一度荒起こした後、暇をみては何日もかけて土塊を細かく砕いていくが、そのことをこのあたりでは「キッコシ」と呼んどる。
 小さいころより「キッコシ」と呼んできたので、何の不思議も感じなんだが、改めてそれがどういう意味か調べてみたら、どうも
   切転ばす=切って転ばす
ことを云う江戸言葉の訛りらしい。
 弥次さん、喜多さんの『東海道中膝栗毛』に、「山にきつころばした、松の木丸太…」などとして「きっころばす」という言葉があるから、そうした云い方が詰まって「キッコシ」となったように思える。
 まあ、年中行事と同じに、農作業の言葉にも古からのものが残っておるということじゃが、この作業も遅くなると草が立ち、手間がかかるから、その前に済ませておかねばならなかった。
 うないが終わると、その月の二十日ごろには苗代作りをはじめる。
 下宿あたりでは神楽を終えた翌日か翌々日(二十四、五日)に村中総出で堰上げを行う。
 前年の十月ごろ、田には水がいらなくなるから、その時点で堰を壊し閉じとる。じゃから、苗代を作るために堰を作り直し、水を流し溜めて水位を上げ、田へ巡らす用水へ水を引き入れるわけじゃ。
 これは大掛かりな仕事なもんで、堰を作る組と、埋まり込んだ用水をさらう組に別れ、手分けして行う。
 堰では木杭を打ち込み、そこへ竹をからめて水流を塞き止める「シガラ」と呼ぶものを作っていく。
 ちなみにこの「シガラ」も、本来はシガラミのミが欠落して伝えられたもので、漢字で書けば「柵」、人に使う「人間関係の柵」といえば、皆さんにも馴染みがあろう。それもこうした堰に使うような、からめて作るものからきているということじゃ。
 なんだか、農作業を説いているのに言葉の成り立ちのような話になってきたなハハハハ
 さて、こうした「シガラ」だけでは漏れる水もあろうから、俵に泥を詰めた土俵も作り置く。
 他方の用水さらいは、一本の大きな用水を幹にして、そこから小さな用水が枝のように出ておるが、大きな方は共同作業、枝に当たる小さな方は個人持ちなので家ごとの作業となる。
 このあたりの畔は、真四角に区切られたようなものはない。みな、うねうねと曲がり、定まらぬ形をしておるが、それは柳瀬川が作り出した高低ある微細に変化する地形の上に田を築いておるからで、稲丈に合わせ、なるたけ浅く水を溜められるよう土地の水平を読み取りながら一つずつの区画を求めるがゆえに不定形にならざるを得なかったということ。
 そうしたことで、田の区画は、昔から手作業で作られてきたわけじゃから、地形の微細な変化をたくみに利用し、それに田の区画を添わせることが、大小さまざまな形の、見事に連なる田地の景観を生み出してきた理由ということになる。

 余談になるがな、この下宿あたりの田地は一見平らなように見え、実はかなり高低差があり、変化に富んでおる。
 円通寺北側の田は水もちの良い「ドブッ田」で、そこから下の田はどれもよかった。
 ところが、いまの台田団地のあるあたりの田は基盤が砂利で、水もちの悪い田。こうしたところを「カタ田」、まぁ下が固いから固田という意味でそう呼んでおった。
 つまりは水を保つ粘土が豊富だったり、そうでなかったりしとるわけじゃが、なぜそうした違いがあるかというと洪水も一つの要因になっとる。
 柳瀬川では、明治の末にも大洪水があり、野塩などでは田土がえぐり流されて下の砂利層が表に出て、田が出来なくなったところさえある。
 つまり、もともとの地形の出来方のほかに、災害等の影響もあり、このあたりはかなり複雑な地形をしているということ。
 じゃが、「ドブッ田」よりも、水もちの悪い固田の方が良い米が稔ったりするから、まぁ理屈では考えられぬ不思議なこともあるということじゃ。
 ここで話を元へ戻し、苗代の最後の準備となる田掻きに入る。
 この田掻きには手間をかけた。
 昔は人力であったが、戦後しばらくは人手不足から牛や馬を使うようになった。

 このとき、水平が分かるほどに、田へ水を張っている。そこで、前の年の稲の切り株が下の方へ入っていればよいが、浮いているものもある。そうしたやつは、ばらけるまで牛馬で掻き混ぜるが、残されたものがあれば、後戻りしながら人手でそれを下へ突き込む。
 風など吹けば、風下へそうしたごみが寄り集まるから、それも籾をまく前に取り去っておく。
 苗間作りの極意、それはな、水はなるたけ少ない方がよい。だから平らにならすことが大切で、深いところや、水面に土の上がるところがないようにする。
 立派に出来上がればな、端の畔から見渡せば、そこに鏡のように空が映し出されてくる。そんな時想うことがあってな、それは神社の御神体になっておる鏡。わしはあれを想い出す。
 一生懸命やればな、月が田に映し出て、神さまが寄り付いてくれるとなハハハハ
 さて苗代の方はこうしておいて、もう一方の種籾の仕立てじゃが、これは下宿あたりではお神楽を終えた二十四、五日を目安に水へ浸す。
 種籾は乾燥しておるから、そのままにまくと浮いてしまう。
 そこで桶に水を張り、一週間くらいかけてじっくりと水を吸わせる。量は一反(三百坪=九九一・七平方メートル)あたり四升の勘定。
 浸し終えれば笊へ上げ、表面を乾かす。濡れたままでは手についてまけぬからな。
 このあたりでは五月一日が「種まき正月」と云われ、種おろし(籾ふり)の日と定められておる。
 種籾はみな同じに、苗をそろえて育てねばならぬから、まき加減が難しい。慣れぬ人がやれば、均等にまけずに、どさっとなる。
 一旦そうしてしまうと、まき直すわけには行かぬから、育てば丈の高いのやら低いの、また負けて育たぬものなぞ出来る。そうして不ぞろいとなれば、稔りも時期を違え、大変なことになる。
 その家ごとで多少異なるが、まき幅はだいたい四尺(約百二十センチ)。一筋終えれば、苗代に一尺(約三十センチ)の歩き幅をあけながら、次の筋へまいてく。
 この日は、どういうわけかいつも寒い。
 終戦間際にゴム靴も流行ったが、やはり素足の方が動きやすい。
 苗間にごみがあれば、種籾がそれに付いて水面に沈まずに育たない。だから、ただまけばよいというわけではない。種籾が沈むのを確認しながらの作業となるから、波を立てず、水を濁らせず、そっと抜き足ですることが大切。
 だもんで、ゴム靴では、ということで、年寄なぞは寒くても裸足が一番と心得るお方が多かった。
 籾ふりを終えた後は、水の管理が大切になるから、ちょこちょこと田へ足を運び、それを確認しに行く。そうして苗採りの二週間前までに化学肥料をぱらぱらとまき与える。
 そして、いよいよ苗採りが迫るが、そのころには苗間に稲に似た稗も生えてくるので、稗抜きを行う。
 こうした苗が育つ間に、苗代以外の本田では田をやわらかくすめための田掻きがはじまる。
 この作業をはじめる日には、「田掻きのぼた餅」と云って、ぼた餅を作って祝う。これは豊作を祈願するものでもあるから、粟などを混ぜるほかの日のぼた餅とはことなり、米だけで作る。
 それを神さまへお供えし、田掻きを頼む馬方さんのほか、馬へも与えるわけだが、その馬、大口を開けパクッと見事に食べるものだから、見ているものはみなびっくりして笑い出してしまう。
 さて、その田掻きのことじゃが、牛馬で行うところには、用水縁と要所要所に「馬入り」と呼ぶ牛馬を田へ入れるための特別な畔が通っていて、普通は畔幅二尺(約六十センチ)のところ、それは幅広の三尺(約九十センチ)。
 牛はゆっくりと働くからよいが、馬は力が強くて早いから、尻取りに技量がいった。
 あぁ、「尻取り」というのはな、舵取りのこと、牛馬の操縦だな。
 馬牛を持つ家にうないを頼んだりもするわけで、田の高い方の泥を引っ掛けて低い方へ掻き出したりするわけじゃが、馬は、その馬方さんの手綱の引っ張り加減でひっくり返ることもあるほどの力を出すから、なかなかに大変なものじゃった。
 そうしたことだから、馬方さんの技量しだいで、田がよく掻けもするし、悪く掻けもするわけで、その後に行う手仕事で土塊を砕く「キッコシ」の手間取りにも違いが現れてくることになる。
 本田の田掻きの後、田植え前に畔付けの作業が待っている。
 畔の崩れなどを修復し、水を張っても漏らぬよう、丁寧に田土を盛りながら整形していく作業だが、これもなかなか手間がいる。
 先に、五月一日の「種まき正月」から育ててきた苗は、それから五十日過ぎるとしっかり成長し、本田への田植えが出来るようになる。昔の人は縁起を担ぎ
   四十九日が明けねば田植えをしてはならぬ
と思う人も多かったが、ちょうどそのころになれば、充分に成長する時期を迎えたわけ。
 ということで、このあたりではだいたい六月二十日が田植え日となる。
 その、田植えをするための苗採り。
 これには少々コツがいる。何といっても赤子のようにか弱いものじゃからな、折れぬように、根を傷めぬよう、苗は一度にたくさん採らず、二、三本ずつを引っ張らずに一旦軽く押し込むようにして抜き取る。
 そうして根をザブザブと洗い、片手で持てるほどの束となす。それで、まえもって切りそろえておいた藁を一本ずつ抜いてはその束を縛り、どこからでも取りやすいよう並べていく。
 だいたい四十束ぐらいで一畝(三十坪=約九十九平方メートル)じゃが、こうした苗採りのときは根を洗ったりするので苗代には水を多めに張っておく。
 細かな作業がつづくから、こりゃ椅子に腰掛けての作業となる。
 次に田植え。
 先にも話した通り田植えは六月二十日ごろじゃが、苗を、整然と列をなすよう植えていくため、縄を張っての作業となる。
 そのため縄の張り替えを担当する人を付け、その張り縄に沿い、苗を五本つ、後ずさりしながら植えてく。
 目安は足間に一本、開いた足の左右へそれぞれ二本ずつじゃが、綺麗に植えられれば足間の稲が前方へ重なり、一直線をなし、気分がいい。

 苗列の間は一尺(約三十センチ)。
 その間にすべて足が入るから、苗を傷めぬよう、歩く足の踏み込み方に注意せねばならぬ。滅多やたらに足跡をつければ苗を植えられなくなる。
 苗は浅植えと深植えがある。さあて、お聞きの皆様ならばどちらを選ばれるかな。
 たぶん大方の方は深く植えた方が、しっかりと倒れぬような気がして、そちらを選ばれたのではないかな。ところが深く植えると、分葉しにくく、葉も細くなり生育が悪くなる。だから初めて手伝う者には
 ─深植えするな─
と、注意されるわけだが、それには道理があるから、有難く受け取らねばなるまい。
 まあ、見て覚えろという時代だから、子どもなど、意味が分からねば怒りたくもなるじゃろうが、何かにつけて経験が生かされてきた時代じゃから、昔は年寄の云うことには必ず道理があったということ。知識を優先するこれからの時代は知らんがなハハハ
 それで田植えから一週間たたぬうち、根付かぬものが現れてくる。その倒れたものを「浮き苗」と云い、植え直していく。
 物事には、一度やればそれでよいということなぞほとんどなかろう。
 なんにつけても、いわば事後処理というものが付きもの。事が起きても、そのやりようで良くもなるし悪くもなる。手抜きできぬのが育てるということじゃろうな。眼をかけ、手をかけるほどに良く育つ。
 話はまた横道へ入るが、田起こしや田植えなぞ、大掛かりにやる農作業では人手がいる。
 もちろん一斉に用水へ水を入れたりするわけだから、準備に遅れる家があれば、みんなが困る。
 じゃから「手間借り」と云って、大勢の人をよそへ頼み、その代わりに、こんどは頼んだ家へこちらからも手伝いに行き、相互に協力し合うことが当たり前。
 そうしたなかには、「請け合い」といって、金銭と交換に田植えなどを丸抱えで引き受ける人もおった。
 したが、こうした相互協力の関係が築かれてはいても、水の権利だけはどうにもならぬ。
 田植えを過ぎれば、水がひときわ大切になる。そこで水争いが起きることもしばしばあった。
 このあたりの田は高低がひどいから、無理して呼び込まねばならぬ水がある。水量が不足してくれば、用水の本流から枝分かれして、さらに入り込むようなはずれの田じゃ水が回らぬから、水の入りがいい用水路へ石でも置き、ちょっと滞留させて水を高めにして入りを良くする必要が出てくる。
 しかし、こうしたことは万事交渉次第じゃから
 ─止められては俺の方が困っちまう─
ということもあるわけで、いよいよとなれば、人気のない夜に、水を通しに行くことさえあった。
 だいたいは村中で話し合い、今日はこっち、明日はあっち、また昼前はこっちにするから、昼っからはあっちにしようなぞと決めるが、下流の田では切り替えの時間になっても水が入らない田が出たりして争いごとが起こり、農業委員会のお世話になることもあった。
 みなが稔りの多い稲を育てようとしているのだから、天候が不順になれば、そうした条件の悪い田をもつお方の苦しみは大きかったということ。
 さて、田植えから一ヶ月ほどもたてば、稲はしっかりと育ってくる。
 じゃが、そのころになると雑草もまた生えてくる。
 あまり早く田へ入ると、せっかく根付いた稲が動くからよくないが、ころあいを見て、その一番草の除草を行う。
 こうした雑草とともに気を付けねばならぬのが、虫害。なかでも悪かったのが、ズイ虫という幹の芯に入り込む虫。
 さぁて覚えておるかな、以前「節分」で話した、囲炉裏端でやる「やっかがし」の呪文の中にあったじゃろう
 ─稲のズイ虫の口を焼く〜
 粟や稗につくズイ虫の口を焼く〜
 薩摩の切り虫の口を焼く〜
 菜っ葉の…─
 その虫封じの呪文に現れたズイ虫のこと。
 これは昔は稲を枯らす虫としてたいそう恐れられた。
 しかし戦後は、ドイツで開発された有機リン製の殺虫剤「パラチオンが」出回り、それで駆除できるようになったので、害虫に対して昔のような恐ろしさは抱かなくなった。
 ところが知らぬ間に、もっと恐ろしいことが起きていたのじゃ。 
 この「パラチオン」という農薬、毒性が強く、人や家畜にも影響するものじゃった。全面禁止となったのは、ずいぶん遅れて昭和四十六年(一九七一)。
 昭和三十年代に入ると、柳瀬川の水質が極端に悪化。
 昭和三十年代の終わりころまでには、このあたりから田が次々と消えた。
 それまで、薬害を知らずに「パラチオン」を使ってきたわけじゃから、恐ろしいことよ。こうしたことは農家では分からなんだ。
 稲は何千年も前から作りつづけられてきている。その自然な道理を無視して、農事を楽にすることのみを追求すれば、眼に見えぬところでいろいろと恐ろしいことが起きてくるということなのかも知れぬな。
 さて、こうした農薬を使わぬころなれば、雨が降れば田へ行き畔の草取りをし、また天気なら畑へ、というような具合で、田と畑の仕事を手際よく成し遂げにゃならんかった。
 田は水に困らなければ、なるたけ日が照った方が生育は良い。
 しばらくして、「二番ご」の草取りがはじまる。
 「一番ご」はただ草をとるだけじゃったが、「二番ご」ともなれば、植わっている苗の根を切るように土を掻き、つぼんでいる根株を開く神経を使う仕事が加わる。
 これを丹念にしていくことで、根に近い茎の間接から枝分かれする分蘖がよくなり、稲の太いものが出てくる。根を切ってしまうわけじゃから、当初は茎がフラフラして弱くなったように感じるが、それが後にしっかりとした根を生やしてくるから不思議なもの。子育ても同じことかも知れぬな。
 愛おしく見守り、ここぞと思うとき叱ってやれば、親からすればふくれっ面をしてフラフラしているようでも、そのうちにはしっかりとしてくる。
 まぁ、こうしたことは何事につけても、すぐには結果が出るわけではないから、まずは先を思ってしっかりと育ててやることが肝心。そうすりゃ、いずれは為したことの意味が少しは分かるときが来て、自分でもよく育とうという気持ちが現れてくるということじゃろうなハハハ
 さてさて、この後の稲刈りの話は、また秋のころの行事にかけて話そう。そうしたことで、今日はここまで。

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