夜語り

─清瀬の年中行事─

学芸員 内田祐治




TOPICS


第三章 春の行事NEW


 
花まつり(四月八日) 音声版へ
 
 いまの五月にあたる旧暦の四月八日は、「花祭り」
 この行事は、お釈迦様の降誕を祝うもの。その像に香水をそそぎかける仏教行事で、本来は「灌仏会」と呼ばれておる。
 その歴史は古く、承和七年(八四〇)に宮廷内の清涼殿で行われていたというから、かれこれ千二百年もの永きにわたるが、そうした古くからの行事がこのあたりの寺々でも催されておる。
 まあ考えようによっちゃ、村に伝わる年中行事は、歴史の宝庫ということじゃな。
 なにせこの国は、どこの山深けぇ村に行ったとて、寺や神社は二つ三つある。
 村人は、そうしたところに関係をもって生きてきたわけじゃから、「花まつり」や「施餓鬼」なぞ通して、和尚様の説法を聞き、古き時代から変わらぬ人の悩みを解く法を授かってきたということ。まさに、生きた歴史の宝庫ということじゃわいハハハハハ
 この「花まつり」と呼ばれる行事、中里ではな、東光院で行われるから、昔は旧暦の四月八日を迎えると
 ─今日はお釈迦様じゃ─
と云って子ども連れて寺へ行く。
 そうすっと、本堂の前に台が置かれ、屋根を色鮮やかなツツジや山吹の花で飾る素通しのちっちゃな家がしつらえてある。
 その中には盥が入れられておってな、真中に黒光りした、これまたちっちゃな天地を指さす立ち姿のお釈迦様の像が置かれとる。
 参詣者はみな、その像へ柄杓で甘茶を注ぎ、お釈迦様の誕生を祝う。
 甘茶とはな、アマチャヅルの葉を蒸して揉み、乾かしていれた甘味のある茶のこと。
 それはな、「甘露」と云って、中国において古来より
   王者がよい政治を行えば、その前に天が瑞祥をあらわし
   甘味なる甘露の雨を降らせる
という故事になぞらえてのこと。
 そうしたことで、仏教を興されたお釈迦様の誕生を祝い、柄杓なりとも「甘露」の雨を降らせるというわけじゃ。
 ちなみに小魚やイナゴを煮た「甘露煮」というものがあるじゃろ、あれもそうした「甘露」から名付けられたもので、酒にも「甘露酒」などある。
 お酒の好きなお方もおられるであろうからついでに話しておくとな、これは精製しない古き酒のことをいう。
 日本酒が精製して濁りなきものとなり、辛口が好まれだしたのが江戸時代となってから。その前までは飴色の濁りがあってな、甘口が主流じゃった。
 その頃の酒作りは寺院と深き関係を結んでおったから、奈良や京都のほか、河内に金剛寺酒、近江には百済寺酒なぞあって、いずれも寺方とのかかわりで酒造りの技が高められてきておった。
 そうしたことで「甘露酒」というものもあった。
 どこぞの和尚様が云われるにはな、中国の漢書に
   酒は天の美禄
なぞという言葉があるそうで、酒は天からの授かり物だそうじゃ。
 大正のころには、まだ飴色の甘口の酒があったが、ありゃ黄金を溶かしたような色にも見え、なんとも綺麗なものじゃった。
 はて…お釈迦様が阿弥陀三尊の御姿を像にとどめんと、「雪山成道」とて修行なされ、悟りを開かれたのが雪山(ヒマラヤ)。
 その北の香酔山の南の無熱池畔の深き森を流れる川の底に閻浮檀金なる至上の黄金が産すると云われ、お釈迦様はその黄金をもって「一光三尊如来」の仏像を御造りなされたとか。
 さすれば、黄金色の「甘露」の酒も雨も、お釈迦様がそこからもたらしてくださったものやら、ハハハ冗談じゃ冗談じゃハハハ
 そんなわけで、昔の農民は、お釈迦様に甘茶を注ぎながら、今年も天の瑞祥が現れ、作物の稔りを豊かにする雨が降りますようにと、願ったわけ。
 さて、この日は子どもが大勢やってくる。
 そうした手には徳利が下がっておってな、一銭出して甘茶を分けてもらって帰ってくる。
 まあ、甘いものなぞめったに口へは入らなんだ時代のこと、少々薬臭くはあったが、なんともうまかった。
 この日、家ではな「ハナクソ団子」作る。
 そりゃ花祭りの団子で「花草団子」、それが訛って「ハナクソ団子」じゃハハハハハ
 大方は子どもらが云うもんで、そうなっちまったのじゃろうハハハ
 これは上新粉(米粉)水で捏ねて、手のひらで握っただけの簡単なもので、茹でたり蒸したりして作った団子。「握り団子」とも呼んでいた。
 わたしの家じゃ、それきな粉付けて食べたもんじゃ。
 この行事、村じゃ「花祭り」なぞと云わずに「お釈迦様」だけで通っておったが、午後は農事を休む日ともなっていた。
 これで「お釈迦様」の行事はおしまい。


 ふせぎ(新暦五月一日)音声版へ
 
 端午の節句でも話すが、いまの六月にあたる旧暦の五月に入ると、暖かくなるのと同時に梅雨にも入るから、いろいろと悪い病気にかかりやすくなる。
 こうしたことを引き起こす悪い物も、昔の人は川上からやってくると考えておったようじゃ。
 そこは、天と地が近づく、峰の連なる向こう側。人の入り込むことを許さぬ神さまの領く(領有する)「隠」なる領域。
 神さまというものは、この国では古くから善悪溶け込むものと考えてきておる。じゃから稲魂などとして作物を成長させる良いものもあれば、あるときは大風を吹かせ病をもたらす人に仇なすものとして、二色の性格を併せ持つような観念がはぐくまれとる。
 まぁそうしたことで、その神さまの領く国から、悪神が川などつたって村の外からやってくると信ずるから、若いものの云い方をすりゃ、この五月一日に下宿なぞでは「塞」という行事をしてバリアをはるわけじゃな。
 ところがそのバリア、みなさんは何によって作り出すとお思いなさるかな。ヒントはバビロニアのハンムラビ法典の時代からある
   目には目、歯に歯
という考え方じゃ。
 これはある学者先生から聞いたのじゃがな、なんでも古代に記録された『常陸風土記』という書物の行方郡のところに、次のようなことが書かれておるそうじゃ。
    継体天皇の御世に、村人が谷を開墾し、
   田を開こうとしたそうじゃ。すると夜刀の
   神が群れをなして邪魔するので打ち殺し、
   境界の堀に標識の杖立てて神と人の土地を
   分けたそうで、後に祟らぬようにと社を造
   り祀っただと。
    それで、この夜刀の神は角ある蛇で、害
   を恐れて逃げるときにそれを見るものあら
   ば、一家一門破滅、子孫を絶つと
 そうした古い時代には、それぞれの土地に神さまが宿ると考え、その地主神の顕現した姿を「蛇」と見ていたわけじゃ。
 つまり、人が神さまの土地入り込んで、その神さま一旦は追い払うが、そのあとで祟られぬように、社という神さまの座を設けて丁重に祭る祀ることで、人に有益な性格を神さまから引き出しておることになる。つまり人々の守護神となってもらおうというわけで
   蛇には蛇を
ということじゃ。
 さて、この「塞」という行事も、そうした土地を守護する神を蛇身とみている。
 じゃから藁で「蛇」を作り出すことで土地の神さま顕現させ、村境に掛けることで、土地に宿る本来の霊気をもって外から侵入しようとする悪神を追い払おうとする行事なのじゃ。
 こうしてみると、この行事ずいぶんと古い時代からの精神が通されているように思えてくる。
 神がなぜ「蛇」で考えられておるのか?
 不思議に思う人はギリシア神話のヘルメス神を思い出していただきたいのじゃが、その杖には「蛇」が表されていて、ゼウスなどオリンポスの神々の伝令として地下界から天上界まであらゆる領域を自由に飛び回る。
 それはな、「蛇」は冬に地下で眠り、春に地上に現れ、七月のはじめごろに脱皮するから、そうしたことが古い時代に生きる人々の意識の上で、地下的な冥界との関係を結ばせ、蘇生の象徴としての意味を現してきたようなのじゃ。
 そうした「蛇神」は、古代ギリシアや日本のことだけではない。
 古代のインドのナガ・アナンダ、朝鮮の玄武、中国の伏羲のほか、オーストラリアやエジプト、メキシコにも見られるから、その国々に暮らしてきた古き民族にとって、世界はどうして出来、自分たちはどこから来たのかを神話で創造するときには、どこの国の者でも「蛇」に神を投影して考えて来とるようじゃ。
 中国や日本の場合にはそれを明瞭に見通すことが出来る。
 驚く無かれ、世界で意味を形で表す表意文字の体系を残しているのは漢字圏。なかでも中国は文化大革命以来漢字を略字体にすることでそれを失いつつあるから、完全に残しているのは日本だけとなるが、いまみなさんが使われている文字からそれをたどることが出来る。
   神─申─S字形
 「神」は、古くは音の「シン」が共有されているように「申」の一字で表されておった。その「申」は「申す」こと。七五三などのおりに、神主さんが祝詞を上げ、その最後に
 ─何々申す〜─
と述べるが、そのときの情景がよく表しているように、人の口から発せられる言葉は、その昔神さまの意志を人が受け取って他へ伝えるものという観念があった。
 じゃから言霊と云われるように神聖視されていたわけで、その「申す」はさらに古く中国の甲骨文字の時代では「S」形で表されておる。それは蛇形を意味し、雷、虹なぞ、神霊の顕現した姿を「蛇」に投影していたと云うわけじゃ。
 いろいろと話してきたがな、じゃから先の謎解きは「目には目、歯に歯」ということで、村の外から入ろうとする悪神は土地を守護すると考える夜刀の神をもって「神=蛇」には「神=蛇」でバリアを築いてきたと云うことになる。
 その「塞」という行事は下宿地域に古くから伝わるもの。
 そこには「舞台」という伝説がある。
    昔、下宿には大蛇の住む大きな沼があっ
   てな、村人が苦しめられておったと。
    そこで村人が集まって相談し、沼のほと
   りに舞台を作って笛や太鼓で祭りをすれば
   大蛇が現れるじゃろうから、それへめがて
   矢を引き放ち、射殺してしまおうと話がま
   とまる。
    そこで、村一番の弓の使い手を潜ませ、
   舞台の上で祭りがはじまる。すると大蛇が
   笛や太鼓の音につられ、その姿を現しただ
   と。
    そこで村一番の弓の使い手、きりりと弓
   を引き絞り、大蛇めがけて矢を引き放った
   と。
    するとその矢の威力はなはだしく、大蛇
   はちぎ飛んだと云われ。首が落ちたところ
   が南永井(所沢市)の井頭(射頭)、矢の落ちたところが城(所沢市)の矢が崎。さらに蛇身が柳瀬川を逃げ下って絶えたところが大和田(新座市大和田字大正)の頭無、また舞台を作ったところが下宿(清瀬市)の舞台と云われ、いずれも土地の字として起源説話を生みだしておる。

            舞台の伝説へ

 さてこの伝説、「塞」の行事を伝える同じ地域に遺されているところをみると、先の『常陸風土記』のように、当地の開墾と無関係ではなく、かなり古い伝承と思えてくる。
 そこで気にかかるのが、この「舞台」の伝説と同じものが、柳瀬川を挟んだ対岸の中世に築城されたといわれる「滝の城」に遺されておることじゃ。
 話の筋の違いは、この「滝の城」に大蛇が棲んでいるといわれてな、戦国時代の戦に際して、その大蛇が攻め手を邪魔したので、城下の下宿に舞台を造って御神楽を上げておびき出し、大蛇を射とめて落城させたというもの。
 そのことから考えると、この伝説、「滝の城」にちなむものであるから、城の落城と考えられておる天正十八年(一五九〇)までさかのぼることになる。
 じゃが、この「滝の城」にまつわる伝説はこればかりでなく、城に詰める城兵自体が悩まされていたとか、霧吹きの井戸から大蛇が現れたとか様々で、話の発端が定まってはおらぬ。
 そうしたことでこの伝説、当地の古き開拓伝説に、後の世、城の事績が人それぞれに重ね合わされたように思える。
 まあ、真実はわからぬが、もしこの伝説が当地の開拓にまつわることを根としておるのであれば、『常陸風土記』のように、大蛇と戦った後
   土地の守り神として祀られた
という一言が、古くは添えられていたように考えられなくもない。
 そうなれば、その伝えを失った語りにこそ、同じ下宿の地に伝承されてきた「塞」の行事が関係していたことになる。
 いまは、「舞台」の伝説と「塞」の行事が切り離され、別々のように思われておる。しかしどうも根は、当地の古き開拓のあり様を伝えるものとしてつながっているように思えてならない。
 全国的にも珍しいとされ、東京都の無形民俗文化財にも指定されておる「塞」の行事。こうしたことがあるから、こんにちまで失われずに下宿の地に伝承されてきたのではなかろうか…
 大蛇を藁で作る行事は、このほかに中清戸においても、七月十四日の獅子舞の前日に日枝神社で行われておる。
 こちらの伝説はつぎのようなもの。
    かつて、日枝神社の前に大蛇の棲む大杉
   があったという。
    毎年獅子舞がはじまると、その獅子笛に
   誘われて大蛇が姿を現していたそうじゃ
   が、いつのころにや、その杉の古木が枯れ、
   大蛇も姿を消した。
    そこで村人は、古木から生まれ変わるよ
   うに生えてきた椿の木へ、藁で大蛇を作り
   掛けるようになった。
と云い伝えられておる。
 下宿の蛇には角は無いが、こちらの蛇には角が二本作り出され、まさに前に話した『常陸風土記』に現れる角ある夜刀の神と同じ姿。
 そして、この角のある蛇の出現をもって獅子舞の祭りの庭が清められると考えられているようじゃ。
 さて、ここからは前にもどって下宿の「塞」の行事について話を進めていく。
 「八十八夜」と呼ばれとるが、立春から数えて八十八日目にあたる新暦五月一日というのは、昔から播種の適期。
 このあたりでは、田の苗代を終わらせる目安としていたことで、この日を「種播き正月」と云い習わされてきておった。
 そうしたことで、この日、村内にある円通寺の長屋門へ大勢の村の衆が藁の大蛇を作るために集まって来なさる。
 そこではな、作り手を分けておる。蛇の頭のあごを編むお方、先を丸めた藁束を半紙でくるみ墨を入れて目を作るお方、また太く長い蛇身を数人がかりで撚りだす方々に分かれて作業する。
 これは神事で作るものじゃから、藁の撚り方は通常と異なる左撚り。
 そうして、長さ十八メートルにも及ぶ藁の大蛇を作っていくわけじゃ。
 できあがった大蛇は、村の入り口にあたる道の両側に立つ大杉に、折り返して中央に頭が来るように掛け渡す。
 その身の下手には俵の蓋の仕法で作られた陰嚢も吊り下げられるから、それが風に揺られ、なんともぶらりぶらりとして、おかしくもある。
 ここには女の方もいなさるから、あまりあからさまには云えぬが、この蛇には雌雄が一体化した意識が持たれていて、それが揺れることで豊作への願いが表されているということじゃ。
 この大蛇のほかに、御幣を付けた輪飾りのようにした小蛇を十四作る。それは村へ入る他の道の角へ飾り置くもので、それらが外から入り込もうとする悪神に対して、地霊の呪力を連鎖させ、清めのバリアを張るという意識を作り出しておるわけじゃ。
 こうすれば村の中に悪いものなど入りようも無いと考えてのこと。
 今の人なりば、そんなことで風邪の一つも防げはしないと思うかも知れぬが、そう思って油断するのが一番の大敵。こうしたことをすることの意味は、時節の到来をしっかりと見つめ、自らの気を引き締めることにこそ、最大の効果が現れるということ。
 今はテレビやラヂオで流行病が起きはじめれば注意をうながすが、そうした情報が伝わりにくかった時代じゃから、こうした行事を通して日常の生活の中で、みな気をつけていたということ。
 時節は不変に巡り来るから、今でもそうした気持ちは大切ではなかろうかな。
 今日はこれでおしまい。
       ふせぎの大蛇作りの動画へ
 

 五月節句(五月五日) 音声版へ

 五月節句は端午の節句とも云われ、本来旧暦の行事。
 したがこのあたりでは、新暦のその月にあたる六月に入ると麦刈りが忙しくなるので、昭和のは初めごろより旧暦の日付をそのままに新暦へ移して行うようになった。
 この行事、男子の節句として誰もが知るところじゃが、調べてみるとなかなかに古い。
 中国から伝わり、宮廷行事から武家、そこから庶民へもたらされてきたものと、古来から庶民が行ってきた行事が入り混じり、今日の形が出来上がっておるらしく、歴史的な流れは極めて複雑なようじゃ。
 そこで当地の行事をお話しする前に、いろいろと今日のあり様にたどり着くまでの流れを話しておこうと思う。
 あちらの中国では、もともと「端」という行事があったそうだ。
 それは字の表すように「はじめ」という意味で、原初は五日に限ったことではないらしい。
 このころ、それは新暦の六月のことじゃから気候も暖かくなり、いろいろと悪気も出てくる。そこで蓬や菖蒲など、その悪気を祓う力を持つと考える香草を野遊びして摘み、それで作った人形なぞを門戸へかかげる風習があったそうじゃ。
 そうしたことが、漢代以後に旧暦五月の五日に定められて「端午・端五」となり、七世紀にはわが国へも伝えられたということらしい。
 それでな、奈良時代にはそうした行事がすっかり宮廷へ定着。邪気祓いに「菖蒲鬘」という菖蒲で作った髪飾りをすることが盛んとなり、平安時代には庶民の間でも蓬や菖蒲で邪気を祓う風習がどこでも見られたという。
 その後、こうした行事の本流から分かれるようにして、呪力をもつと信ずる菖蒲の音が「尚武」をも連想させることから、『続日本後紀』の仁明天皇承和六年(八三九)の条には旧暦五月五日を走馬・騎射を行う日に定める行事の亜流が興ってきておる。
 どうやら武士が台頭してくる平安時代を迎えるころより、邪気を祓う本来の行事のほかに、「菖蒲」の呪力を「尚武」に通有させ、武門の意識を強めた行事の流れが生じたようで、それが時代を過ぎるほどに武家方で盛んとなり、男子の節句という意味合いもそのなかで築かれてきたように見受けられる。
 さて、こうした流れとは別に、米作りがはじまったころよりあったのではないかと思える在来の風習がある。
 それは、いま地方の行事としてわずかに遺されるもので、男子の節句とは正反対に女子を中心とする行事。
 この月は田植え月でもあるから、田植えの祭事には早乙女が神さまと人の間を取り持つわけで、そうした女衆が五月五日の節句の前夜を「女の夜」、あるいは「女の宿」「女の屋根」と称して菖蒲と蓬で屋根を葺く祓い清めた小屋に忌み籠り、一夜だけは女が威張れるという風習もある。
 これは農事に直結しているだけに、古くはかなり盛んであったように思えるのじゃが、多くは時代の変遷のなかで、邪気を祓うという「屋根葺き節句」と云われる端午の節句行事の中に溶け込み、埋没してしまったように思える。
 そうしたことで、五月節句の根にあるのは、中国からわが国の宮廷へ伝わったということだけではなしに、古くより民間で信仰されていた香草を用いる邪気祓い、神事における早乙女の田植え、また草摘みのように草に宿る魂振りをして災いを除いて幸を得ようとすることなどなど、さまざまな要素が溶け合っているように思える。
 菖蒲は稲と同じに水辺に育つ草。
 その時節の沼地の水面をのぞけば、オタマジャクシ、ゲンゴロウ、ヤゴなとさまざまな生き物が動き出しておるから、作物のほか、人にも仇なす悪い虫も生まれてくると思えば、独特の香りを放ち、虫害を避けてすっくと葉を伸ばす菖蒲に、国は違えど気候風土を同じくする古き人々が偉大な呪力を見出すことは奇異なことではない。
 同じ沼地に育てようとする稲においても、そうした気持ちが早乙女の田植え神事を通して表されているように思うから、両者の行事に溶け合いも起こりやすく、今は一部地域に「女の宿」なる行事が残されるのみとなってしまったように受け止められてくる。
 さて、ここまで歴史的な流れを見てきても、この行事に子どもとの関係が現れてこない。
 端午の節句の根あるのは香草をもって行う邪気祓いと、そこから分かれた武門の鍛錬の習俗。
 そうしたことで、その流れからは子どもへの考えが及ばぬから、別に何かあるはずだと、年寄の頑固な思いを巡らせているうちに、ある習俗に行き当たった。
   五月五日に生まるる子
というものじゃが、さて皆さんはこのことをどのように思われるかな。
 わたしも、こういう言葉の残されていることを知り、それはこうした日に生まれる子だから、桃太郎のように邪気を祓う強い子に育つのじゃろうと思った。
 しかし、強いのは強いが正反対。
 五月五日に生まれた子は長じて戸を与えられるようになると、
   父母に不利益
を、まさにもたらすというのじゃ。
 しかもそれは『史記』の嘗孟君伝に記載されているから、中国では紀元前から云い習わされてきていることになる。
 こうなるとそのことは、香草を用いる邪気祓いと切り離すことの出来ぬものとして伝承されてきていたことが考えられて来るわけで、わが国でも中世までそうした俗信が強く残され、五月五日に子が生まれると、密かに遺棄する者もいたと伝えられている。
 端午は陰の極まる悪日。
 それより梅雨に入り、何かと災いが起こりやすき時節。こうしたときに生まれる子は邪気が入りやすく、病気にも遭いやすいと考えてのことであった哉も知れぬ。
 そうしたことだから、父親が数えで四十二の厄年に生まれた子、また歯の生え方に異常を持つ子、病弱な子など、生まれてから形ばかりに一旦捨てて、前もって頼みおく親戚にその捨て子を拾ってきてもらうという今に伝わる風習も、こうした古い時代から行事の裏に隠されたものとして、長くつづいてきたように思われてくる。
 これらは、「子どもが親を食う」などとして忌み嫌われる状態に対して、捨てることで親と縁が切れた形を仕立て、災いなきよう因果を絶って育てようとするもの。
 この五月の節句には、そうした個人が社会へ伏せる部分で、子どもとの強い関係が生み出されていたことが明かされてきたわけじゃ。
 このことは江戸時代の書籍にも
   いにしへより五月五日にうまるゝ子は父母
   を食ふといへり
       (文化五年『松染情史秋七草』)
とあるから、今のように派手やかな行事になる前までは、そうした意識が行事の意味に強く反映されていたように思う。
 しかし、長じて男は父を、女は母を害し、家に祟りなすと云われるごとくに、性別にかかわりは無いから、まだ今のような男子の節句をそこに見るには隔たりがある。
 そこで考えられてくるのが、武家の五月節句に強い影響を与えた「尚武」の思想だ。
 宮中で五月節句の行事が形骸化していくのと裏腹に、武家方では武門を誇るような行事内容へ発展し、弓の稽古や競馬を催すとともに、旗竿を立て、造り物の武器を飾る。
 こうなると伝統を重んずる公家方では、武門の行事のように様変わりしたものを取りいれるわけには行かぬであろうから、宮中の行事が衰退していくことも理解されてくる。
 江戸時代の町家では、奈良時代に菖蒲の髪飾りであったものが、菖蒲冑という武具を思わせるものを子どもに身に付けさせる意識へ様変わりしてきておる。
 それが後に冑人形を購入して飾るようになり、またそのころには、武者や鍾馗の摺り絵、幟、人形などを売り出す店も多く見られるようになり、益々きらびやかな行事となってくる。
 なお、その鍾馗は、唐の時代に、玄宗の夢に現れて邪鬼を祓い病を癒したという「正鬼」である。
 そのいでたちは
   黒冠に長靴。剣を持ち小鬼をつかむ。顔面
   の下半を髯が被い、カッと見開く双眼。ま
   さに中国最強の武神。
となれば、武家方が好まぬはずは無い。
 まあ、そうしたことだから、商売人も繁盛して、江戸時代の後期には、勇ましい武家方の風がきらびやかさをもつて定着し、庶民の間でも、すっかり男子の節句という趣が定着したということじゃろう。
 五月節句は、別に「屋根葺き節句」とも云われる。
 そのことについては、行事のおおもとに香草による邪気祓いを話したが、その香草である菖蒲や蓬を屋根に挿し置くことで家に邪気を入れぬ意味をもつ。
 したがって、今は鍾馗の人形を飾り鯉幟を立てるのとは異なる行事のように思われるかも知れぬが、今までの話から根は同じ意味をもつ行事であることが、皆さんにもご理解いただけるじゃろう。
 ただ、このあたりでは麦刈が繁多になるため、昭和の初めごろより五月節句を新暦で行っていることを述べたが、そのことで菖蒲の時期とかけ離れるため、それを用いなければ意味をなさぬ屋根葺きの行事だけを切り離し、元の旧暦で行う変則的な行事内容となっていることに注意していただきたい。
 ここからは、このあたりの五月節句の話に入る。
 今は鯉幟を立てる家がほとんどじゃが、それは大正時代に入ってから盛んになったこと。
 「鯉」というと、どなたさんも鯉の滝登りを連想するが、それは龍門を遡って龍に化身するという中国の古い云い伝えからきておる。
 黄河の中流域に、山が迫り深い渓谷をなす龍門という秘境があるそうで、鯉はその急流を登り龍になるというのじゃが、その国には虹を龍の顕現する姿とみなしてもいるから、体が変化を起こした色鮮やかな姿に虹をみて、龍への変化を連想したのかも知れぬ。
 まあ、そうした渓谷では、高千穂の渓谷のように虹も起こりやすかったのじゃろうが、そうした想い描く鯉の化身する姿を、社会での立身出世に例えて鯉幟を立てる風が盛んとなったようじゃ。
 鯉幟は節日の一週間か十日ほど前から立てるが、柱とする杉丸太の大きいものは四十尺(約十二メートル)もあるので、近所の人を五、六人も頼まねばならぬから大変じゃった。
 そうしたことだから、麦刈りの繁多な旧暦を避けて新暦でやるようになったわけじゃ。
 しかしな、先にも話したとおり鯉幟は大正時代ごろからで、それ以前は武者や神功皇后、鍾馗などの勇ましい武人の姿を描いた幟を立て並べる家が多かった。
 長さ九尺(約二・七メートル)ほどのものであったが、幅広なものは横三尺(約九十センチ)もあり、それが風になびくと、それはそれは心が晴れ晴れとするようで、美しくも立派に見えたものじゃった。
 これは外飾りで、家内には座敷飾りもある。
 それを「うち幟」と呼び、けや木の台へ鍾馗、神功皇后、日本武尊など描かれた幟を五本立て、矢車に五色の吹流し、それに槍が一本と、大名行列の奴さんが持つような白い毛をもつ毛槍、前には刀が三本ぐらいと太鼓、また昔は鎧より兜を櫃の上へ乗せた飾りが一般的で、床の間にも鍾馗を描いた軸を掛け、初孫あればそうして華やかに飾りつけたもの。それも子どもが大きくなれば軸を掛けるていどのこととなる。
 この日は柏餅を作る。
 したが、昭和にはいり新暦で行うようになってからは柏の葉が使えぬから、草餅を形ばかり柏餅に似せて半月にしたものを作った。
 初節句なら、嫁の親元で吹流しなど揃えてくれるから、そのお返しやら仲人さんのところへ御礼にも行く。
 そうしたときの手土産は、以前はカサゴの干物であったが、手に入りにくくなってからは一対の干し鱈と、柏餅二十五個とか三十個ぐらい、それに熨斗袋に入れた酒代添えて持参するのが通例じゃった。
 また「初節句」から「帯解き」の七つぐらいまでは、嫁さんと婿さんが子どもを連れ、嫁さん方の実家へ泊まりに行くことも多かった。
 こうして、七つの「帯解き」を過ぎるまで子どもの成長を盛大に祝ったわけじゃが、それは今と違い医療施設が近くにあるわけでもないから、幼い子が病気になれば大変なこと。七つの「帯解き」まで無事育てば、親も一安心という気持ちがことのほか強かったということ。
 当地にも見られる「子安地蔵」、「子安観音」なぞの石仏は、妊婦を守護するものとして、生まれ来る子を想う親の心を伝えておるが、そうした信仰に「呑龍様」と云われるものがある。
 このあたりの年寄は、子どもは七つまで「呑龍様」へ預けているという考え方をしておる。
 その「呑龍様」とは、戦国時代の岩槻(埼玉県)に生まれ、後に浄土宗のお坊さんとなり、晩年には太田(群馬県)の大光院を開基なされお方で、付近の捨て子を養育したといわれることから
   子育て呑龍
として親しまれてきておる。
 ここらでは川越(埼玉県)の連馨寺に祀られておるから、体が弱く、ひきつけなど起こす男の子がおれば、うなじの盆の窪のあたりだけ産髪を剃り残し、丈夫に育つようにと「呑龍様」へお願いしたわけで、それが七つともなれば結願を迎えたということで、親御さんたちは喜びに満ちてお礼参りへ出かけたということ。
 それが女の子であれば、雑司ケ谷の「鬼子母神」へ詣でることもあり、五月節句やらこうしたことで、形こそ違え、今と何ほども変わらず、親は子を愛しんでいたということ。
 さて、今まで話してきたのは幟を立てたり兜を飾ったりと、明治に入るころより、いわば武家方より農民へ下げ伝わってきた行事。
 じゃが、これから話すのは、農にかかわる行事として古くから民間で行われていたもので、昭和の初めに新暦の五月に節句の行事が移っても、旧暦のままで行っておった。
 この五月節句を「屋根葺き節句」とも呼ぶが、それはこの日に、香草を屋根に刺し、邪気を祓う呪いをすることに由来する。
 わたしの幼いころには農事が忙しいから、行事の仕度は子どもの仕事となっていた。
 朝、学校へ行く前に婆さまから
 ─学校から帰ったら茅と蓬採ってこ。コガシは
  平らに撒くだぞ─
などと云われたもの。
 勉強終えて家に帰ると、そのまま柳瀬川行って茅と蓬の長いやつを採ってくる。
 そうして納屋から梯子持ち出してきて、トンボ口(玄関口)の屋根へ掛け、茅五本、蓬五本を交互に並べ刺していく。
 家によっては茅二本に蓬一本というところもあり様々じゃが、それを屋敷内の納屋だの外便所へも刺してく。
 刺すのは、ひとつの建物にひと組ずつという家もあるが、わたしのところなぞでは、母屋だけはトンボ口のほか、座敷や下屋にも刺し、土間に機場があったころにはそこへも上げた。
 もっともトタン屋根じゃ茅と蓬は刺せぬから、屋根へ茅と蓬のっけて石置いたり、薪にくくって上げたりたりすることもあった。
 それが終わると、こんどは大麦を焙烙で煎て挽いた麦コガシを婆さまからもらってきて、屋敷のまわりへ平らに撒いてく。家によっては、簡単にふすまや糠でやるところもあった。
 これは蛇や悪い虫が入らぬようにという呪い。
 先に話した「塞」は、村人が共同で藁の蛇を作り、外から村うちへ悪い物が入らぬようにするものじゃが、これは個人個人の家内へ蛇や悪い虫が寄り付かぬようにする行事。
 云わば悪いものが来ぬよう、時期をおいて二重に「塞」のバリアを巡らせていることになるのじゃろうな。
 こうして二つの行事を比べてみると、「蛇」に邪気を防く力があると感じておったり、また反対に病など運んでくるものとして考えていたりと、その神格に善悪二様の映し出されていることがよくわかる。
 これにて五月節句の話はおしまい。
 

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