夜語り

─清瀬の年中行事─

学芸員 内田祐治




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第三章 夏の行事NEW

 門火(六月一日)   音声版へ
 
 新暦では七月はじめ。
 このころになると大麦の収穫を終え、脱穀を済ませておる。
 「門火」というのは家の門口で、その脱穀を終えた大麦のノゲ(実を落とした穂かす)を焚く行事。
 ここで、わたしは「門火」としたが、すでに村内では正式な行事の名や、くわしい謂われなぞ知る者はおらぬようになってしもうた。
 そこでいろいろ調べてみると、この行事「ケツアブリ」という名で埼玉県の中央部の村々に遺されておるらしい。
 「ケツアブリ」とは奇妙な名じゃが、嵐山町には次のような伝えが遺されているという。
    坂上田村麻呂が東征のとき、村人を苦し
   める悪竜がおることを知り、岩殿山の観音
   様に祈願して退治したと。
    そのとき観音様に祈願したれば、雪の降
   らぬ谷に悪竜がおると告げられたそうじゃ
   が、なんと退治に行かれる六月一日に雪が
   降ったそうで、それ目安に悪竜を見つけ出
   して退治。
    その帰り、寒さで兵が苦しんでいるとこ
   ろ、道端で婆さまが麦藁燃やしているとこ
   ろに出くわし、暖をとらしてもらっただ
   と。
    すると兵は火に背を向けて尻をパタパタ
   とたたいていたそうで、それからこの日を
   「ケツッパタキの日」と呼ぶようになり、
   また婆さまが兵に饅頭を御馳走したことか
   ら、饅頭を作る日にもなっただと。
 このほか川越あたりじゃ、新田義貞が疫病神を退治した日と伝えられとるらしい。
 そうしたことから考えるとな、坂上田村麻呂や新田義貞の違いはあるが、どうやらこの行事、おおもとは
   疫病封じの呪い
ということなのじゃろう。つまり、個々の家で行うから、屋敷内へ悪いものが入らぬようにする呪い。
 新暦でいえば、この七月はじめは寒暖の差激しく、天候は不順。さらに梅雨も終わりとなれば、いよいよ雷鳴轟き天地は荒れる。
 よって、人ばかりでなく、稲なぞも多湿低温によりイモチ病にかかることが多い。
 悪い疫病神は、雨降らす毒竜あるいは蛇によってもたらされると、いにしえ人が思ったことに道理はある。
 それを「塞」では
   蛇には蛇を
で防ぐわけじゃが、人の歴史が永く続けば、人が主人公となる英雄の観念も顕われる。
 箱根の芦ノ湖に棲む毒竜を制した萬巻上人、また明日香の毒竜を封じ岡寺を開基した義淵僧正がごとき、英雄譚が興り、語り継がれてくることにもなる。
 まあ、万葉のころより他で偉業を成せば、人の心が、害なすものに対してそうした英雄の顕われを望むわけで、この場合は坂上田村麻呂や新田義貞となって語り継がれてきたということ。
 したが自然の起こすことは、こうすれば封じられるというものではない。雹なれば榛名神社の御札が霊顕ありと聞けば、それを求めようとするのも、また人の心。
 そうした中には、この行事のように意味を失い、形ばかり残る行事もあるということ。
 

 鎌洗い(六月初)   音声版へ
 
この行事は、五月の半ばにはじまる麦刈を終えてから行うもの。
 冬を越えて稔りを迎えた麦の収穫は、大変な作業。それを済ませたことで、道具をきれいに洗い、供養しようというのがこの行事。簡単に云えば、道具を清めて収穫を神さまに感謝するということじゃな。
 この「鎌洗い」をやる日は家々でまちまちで、梅雨がながびいて麦刈りが遅くなれば、順繰りに行事も日延べしたが、大かたは「天王さま」と呼んだ氏神様の祭礼の前までにはすませておった。
 どんなことをするかというとな、八本籠を伏せて、その上に竹箕を置き、鎌を表向きに並べてお酒をかけるほどのこと。まあ、道具も人と一緒にたいそうな働きをしてくれたで、酒をふるまって慰労し、つぎの秋の収穫時期にもよく働いてくだせぇよ、ということだな。ハハハ
 鎌と云えばな、春先に竜巻が起きたり、二百十日ころに台風が来た時なぞ、風を切るまじないとして急いで鎌を裏にして家の前の樫の幹へ結いたものじゃ。何んと云っても大風は怖かったなゃ。
 ついでに一言想い出したことがある。麦と稲で刈り方に違いがある。
 稲は、三株なり四株なり一つかみにして刈っていくが、麦は一つかみではいくらも刈れぬから、脇に抱え込むようにして先の方から一気に刈り込んできて、横へ置く。そうしたことで、鎌の回しに気をつけないと左足の親指を切ってしまうことも多かっただな。
 地力が違うことによるものか、同じ麦でも、田につくった田麦の方がおいしかった。
 陸稲でも、下宿地域の陸稲と清戸の陸稲では味が違い、田の無い清戸の人に、田のある下宿の陸稲を食べさせたら、一口食って「田米はおいしいな」と云って食べたという笑い話もある。同じ陸稲でも地所が違うと味も違っていたのじゃな。
 田は、みな同じではない。高い低いや、水をたくわえる田底の粘土の厚さによっても条件が異なる。 
 粘土が薄ければ、砂利層が田底に顔を出していて、そうした田では年により水が上がらぬこともあるから、田でありながら畑として使い、麦を作ることもある。
 野塩地域には「石田」や「まちだ」という小字があったが、「石田」は田底に砂利が露出していることにちなむ地名で、「まちだ」は水が上がる年を待ち望むような、その年の条件により畑と田を切り替えて耕作していることによる地名。いずれも条件の悪い土地に残された土地の名。しかし、こうしたところは川水の出入りがあるから地力は台地の上の畑地よりは良いから、同じ麦でも味が違うと云うことじゃな。
 畑に利用した田は、土が堅くなっておらぬから、ちょっくらうなえば(少し耕せば)田植えに支障はなかったので、しろ掻きは楽だった。



 天王様(六月十四日・十五日)
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 天王様とは牛頭天王のことで、疫病神・除疫神としての性格をもつ。夏には悪い病気が流行る。そこで、疫病を封じる祭りを行うのが天王祭といわれる行事。江戸の三大祭りといえば、六月十四・十五日の天王祭、それに八月十四・十五日に行われる深川の八幡祭りと、九月十日から十五日の神田祭。そこにも天王祭が入っておるから、士農工商、分け隔てなく誰もが夏のはじめの行事としてこの疫病封じに関心を寄せていたことがわかろう。

 以前、清瀬の「講」のところで(「戸隠講など」) 、大正元年の赤痢流行で上清戸に平心講の祭りの興ったことを語ったが、それなぞもこの天王様をもってする除疫のための春祈祷という性格をもっておる。したが、清瀬に江戸時代からの祭りとしてつづいているのは下清戸の八雲神社の祭礼。これは、いま八月の最終の土日にの祭りとなっておるが、以前は新暦の七月十四・十五日、さらに古くは江戸三大祭りの天王祭りと同じに旧暦の六月十四・十五日に夏祈祷としておこなわれていたようじゃ。
 この行事、江戸時代には各村々で盛大であったようにみうけられるが、昭和のはじめころには中里の氷川神社のように、新暦の七月十四日に子どもらが境内へ掃除しに行く日というような曖昧な行事に変わったところが多い。まあ、それだけ農薬や医薬品が普及し、疫病に対する考え方も変わってきたことで、行事の意味が薄らぎ、内容も変化してきたということ。その中里の氷川神社の天王様では、氏子のなかにコンニャク屋がいたもんで、掃除に来た子らを醤油に漬けたコンニャク用意して慰労したと。そんなもんで、地元の大人のなかには小さい時を想い出し「天王様の日はコンニャク喰う日」と覚えておる者もいたとハハハハハ。


  すもも祭り(府中大國魂神社例祭)
             そうごじまい
(新暦七月二十日・旧暦六月二十日、二十八日)

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 新暦の七月二十日が大国魂神社の「すもも祭り」。多摩地域の夏の風物詩で、このあたりじゃ「桃市」なぞといったが、これは前九年役(1051-62)の帰途、奥州安倍氏を平定した源頼義・義家の親子が府中の大國魂神社へ立ち寄り李子を神前に供えたことにはじまる祭り。このあたりからも多くの人が、東久留米・小平・小金井通って府中まで、四里の道を歩いて行ったものじゃ。四時間ぐらいもかかったろうか。
 神社では烏を描いた名物の団扇や扇子を売っておってな、すもも食べながらその烏団扇であおぐと疫病しょわない(病気にならない)といわれ、そのほか買った団扇の烏絵の目に団扇の骨が当たっておると縁起が良い、なんていうこともいいましたよ。
 この団扇や扇子、神代のころ、神社に祀る大国魂大神が作物につく虫や災難を払う方法として「からす扇を以って扇げ」と教えたという伝えより作られるようになったというが、前に話した天王祭り同様、この「すもも祭り」も疫病除けとして御利益あるものとして昔の人々は信心してきたということじゃ。
 さて、すもも祭りが終わり、二十八日になると、こんどは「そうごじまい」。このあたりじゃ「そうごじめぇ」などと訛るが、これは何か行事する日でなく、いわば農家の休日。薩摩芋や里芋、それに陸稲なども草取りを終え、農作業が一段落したっていうことで、夏場ほねおる (夏場に一生懸命働く) から農家が休む日。
 帯解き前の七歳の長男や長女が居る家では、そのお子を連れて嫁さんを実家へ一晩泊まりにやったもんじゃ。そのときにゃ土産に自分の家で挽いた黒味のあるうどん粉を漆塗りの飯っつぎ(飯櫃)へ入れて持たせたが、嫁の実家じゃそれがわかっておるからあんこ作って待ってて饅頭作る。その饅頭が帰りにゃこんどは嫁の嫁ぎ先への土産となってもどってくる。まあ、夫婦となった各々の実家は離れていても、子を鎹のようにして行き来し、華美な土産は無くとも饅頭作りに心を合わせ、その饅頭を神仏へ供えたうえで共に食して両家の絆を深めていたということじゃな。
 この日、餅を搗く家もあった。これは「土用餅」と呼ばれておって、あんころ餅のこと。「土用餅は、腸の薬になる」なんて、よく云ったものですよ。 ようするに力餅だってことでね。七月の二十八日から八月にかけては、食うことがえらぁ(食べる機会がたくさんあったから)あったから、体を休める間もなく働きとおして大変でしたが、楽しみだったですよ。
  そうごじまいが過ぎると、田のある地域では稲が育ってくるから、毎日毎日水がなくともよくなる。稲の顔色を見て、水が欲しいようなら水を掛けに行くほどのことで、それまでと違い、水の管理もずっと楽になった。


盆供(七月一日)       音声版へ     


 月替わりした旧暦の七月は、一年のうちでもっとも先祖との関係が深まるとき。そのはじまりの行事が七月一日の盆供。この呼び方は正式には「ボンク」じゃが、このあたりではって「ボンコ」といっておる。
 この盆供に限らず、盆にかかわるすべての行事は、仏教の七月十五日を中心に修せられる行事が祖霊供養として広まったものだそうで、その源はなかなかに古いようじゃ。『盂蘭盆経』に目連救母という説話があってな、仏陀の弟子であった目連なる者が、地獄へ落ちた母の苦しみを知りて救う道を仏陀に問うたところ、僧が一室にこもって修行する夏安居の時節に美味・珍味、さまざまなる食物を供えて十方(四方)の衆僧を供養し、その力にすがれと教えたという。そうしたインドの古い民間信仰が仏教と習合して盂蘭盆会となり、わが国では推古十四年(606)に法会をおこなったことが『日本書紀』に記録されておる。そうした古き時代に興った行事が、この盆供へ連なっているのじゃから、母や先祖を思う気持ちはいつの世も変わらずにみなが大切にしてきたということ。
 そうしたことで、村の各家ではご先祖の位牌を菩提寺であずかってもらっておるから、この日に食物を持って寺へ行き、祖先の霊へ供えていただくとともに餓鬼へも施すことで、先祖の冥福を祈り苦しみから救うのがこの行事。そうしたことでな、「先祖が待ちわびておるから菩提寺へ行くのは早いほうがいい」ってね、朝早く行くが、そのときには小麦なれば二升か三升、それに茄子や胡瓜なぞの野菜たずさえ、先祖の供養の塔婆をお願いしてくるが、田のある地域では米であった。そうして七月十五日の施餓鬼のとき、住職に拝んでもらった塔婆を受取り、先祖の墓へ供え立てるわけじゃ。
  塔婆は、大正末ごろには一円から一円五十銭ぐらい。それがこのごろは三千円で、お寺さんの世話人になると五千円。長さに違いがあり、五尺と六尺のものがある。

 いまは見られなくなりましたが、その年に亡くなった人のある新盆を迎えた家では、「(死者がたずさえた)道中の草鞋や草履、蓑や笠なぞも破れたでしょうから、どうぞお取り換えください」って、そうした物も寺へ持って行き、十六日ごろに行う施餓鬼の法会のところの施餓鬼棚へ吊るして供えていました。それで盆が済んだら、お下がりを自分達が使ったわけです。 


七夕(七月七日)
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 この七夕は知らぬものはなかろう。だれも幼い時、夜空の天の川をはさんで輝く彦星と織姫星が年に一度逢う日と教えられ、七夕飾りを作って願い事を書いた短冊を下げた記憶はあろう。
 したがこの行事、その源はめっぽう古く、中国古代の後漢時代と云うから今より千八百年から二千年ほども前に起こり、わが国に伝来したのが奈良時代の貴族社会。当時は、女性が星に歌や書などの上達を願い、また天皇にあっては星合御覧や詩歌管弦の宴のほか、相撲もおこなっていたそうじゃ。そうしたことで、万葉集にも、この棚機女(織姫)を詠んだ和歌がたくさんのこされておる。
 それが時代をへて民間へ広がり、祖霊を迎えて送る盆と結びあい、笹飾りが精霊の依代のように考えられて行事が終われば川や海に流すようになったそうじゃ。
 このあたりではな、六日の午後に新子の竹を切ってきて…。そうそう「新子」とはな、その年に出た新しいもののこと。そうした竹を切り、昔は真竹で大きな飾りを作ったものじゃ。庭に竹を運び入れて飾り付けをするが、縁側へ、硯箱や買い置いていた色紙を出すころには子らが待ち構えていたようにワイワイガヤガヤ姿を現すから、親や祖父母が「手習いしろ」なぞといって短冊に字ぃ書かせたものじゃ。おおかたは「天の川」やら自分や家族の名であるが、百人一首が流行ったときには上の句と下の句を分けて競って書くからまこと手習いのようでたくさんの短冊が並んだものじゃった。そうしたなかには書くのがおっくうに(面倒に)なり、自分の願いを一本の傍線に託す悩みのない小僧もおっただなハハハハ。
 したがな、年寄りになると、楽しきこと、苦しきこと、さまざまに経験しておるから、筆をとって短冊一つ書くにも念が入ったもの。わしがまだ幼いころ、爺さまが朝早く日の出拝みに出たあと踵を返して畑へ行くから、子ども心に何しに行くだと思えば、里芋畑へ入ってく。そこでな、里芋の葉の上で揺れる神々しい清らな朝露授かってきて、それで墨を磨って「家内安全」「五穀豊穣」など書いておった。そうすると字が上手になると爺さまいっておったが、なるほどに墨の香も相和して、清々しきこと、清々しきこと。身が引きしまり、書いた文字にも天恵を得たような御利益現われ整った流れがでてくるから不思議なもの。わしもこの歳になって、先祖のなしてきた、己が身を改める仕法の大切さがようようわかってきた。
 さて、短冊を竹に留めるには半紙の紙縒じゃ大変だから、干した力芝を使うこともあった。短冊のほかには、大きな紙を五・六枚はぎ合わせて切り返し、それをほごして綱のような格好の飾りも作ったな。こうしてできた七夕飾りは、縁側脇や軒下へ杭を打って竹の根元を縛り付けて立てる。
 翌七日の朝には、七夕飾りの前に八本バサミという籠を伏せて台とした上に、箕を乗せ、畑で取れた初物の真桑瓜や茄子・胡瓜なぞ野菜を置いて供えるが、そのほか硯を洗って供えると字が上手になるなんて、よく年寄にゃいわれてたな。その供え物、夕方には、下げとった。この七夕の時の食事は、「朝饅頭に昼うどん、夜はその日の残り物」なぞと村の衆はよく歌文句のようにいっておったわハハハ。
 こうして七夕の行事を終えるが、竹飾りは翌日川へ流したり、また川から離れた地域では畑へ持ってって案山子のように粟や黍を食べにくる雀除けとし、一ヶ月後には黍の収穫を迎えるので茎の始末と一緒に竹飾りを焼いて片づける家もありました。

 わたしのうちの年寄など、七夕には一粒でも、まあ、雨が多少でも降ってくれりゃ、「天の川がおっぴらいちゃって(開いて)悪いもん入ってこねえ」なんてよくいっていましたよ。その時分にゃあ、陸稲に、里芋に、薩摩芋なぞが多かったから、雨がなけりゃ、みんなよれちゃって(枯れちゃって)ねえ。陸稲なんか、実入らないですから、農民は七夕に夜空の天の川見ても、こちらの畑へ雨降らして水もってこいと思っていたのでしょうな。


施餓鬼(七月十六日ごろ)
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 これは先にも述べたように、先祖の霊を苦しみから救うための仏教行事で、清瀬では寺により十七日に行うところもある。
 中清戸の全龍寺では、この日に門前といわれる檀家の衆が盆供に集めた小麦でうどん打ち、施餓鬼に集まった村の衆へ振舞っておったが、そのうどん、桐の葉に盛るものであった。


八朔(八月一日)      音声版へ
 
 
旧暦の八月一日は、立春からかぞえた二百十日ごろにあたり、台風が襲来する時節に入る。そのため、古来よりこの日は、新穀の早稲の豊塾を願うとともに、その稲穂を「田の実」と解せば人の世の「頼み」に通ずることから、武家方においては人生の頼みとなる御仁にたいしても贈り物をする日と考えられてきていた。まあ、いまでいうなら暑中見舞いの贈答へ連なっているのかも知れぬがな。
 この「田の実」は駄洒落のようだが、「豆」を食えば「まめに働ける」などと申してな、案外と昔の人は通じ合う言葉を結び合わせ、良き事が起こるよう己が気持ちを導いてきたものじゃ。
 そうした古くからの慣習があるなか、江戸時代に入ると徳川家康の江戸入りが天正十八年(1590)の八月朔日であったことから、武家方ではこの日に諸大名が正装して総登城し、祝詞言上する祝いの日ともなった。
 このように時代をへて、さまざまな性格がこの八朔の行事に習合してくるが、村人にとっての関心事は農事。したがって、このころからやってくる台風がもたらす風水害に合わぬよう新穀の豊熟をたのむとともに、農事をともにする村人の結束を強めるために仲間同士で酒宴や贈答を行うのが八朔の節句。
 この日は、嫁さんが実家へ帰る日でもあった。昭和のはじめごろからは砂糖や鰹節を持たせてやるのが当たり前になったが、なかには初物のうどん粉を持たせ、「向こうで(嫁の実家)うどん打って持ってきてくんない(持ってきてください)」なぞという家もあった。また、「仲人の草履切らし」とて夫婦の縁結びの仲立ちをしてくれた仲人さんへも、この日をする。これはまあ、最初にできた御子が、七つの帯解きの祝をするころまでじゃがな。

 この八朔の節句は、新暦となって九月一日に行う行事となったが、中里地区では火の花祭り(新暦九月一日)、下清戸地区では八雲神社の祭礼(新暦八月三十一日から九月一日)と重なるため、八朔の行事をしないところもあった。


盂蘭盆 (新暦八月二十四日)
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 明治から大正時代には蚕を飼っていたから、この頃はちょうど蚕が上がる時期。そうしたことで「盂蘭盆までには蚕上げちゃって休みてぇ」なんてね、盂蘭盆をめざして精を出して働いたですよ。
 この日は、午前中に農作業を終えて午後休みとし、家によっては粟の強飯を作って食べるほどのこと。
 粟のは、このあたりでは「あっこぁめし」と訛るので、都会の人が聞いたら何のことかわからぬであろうが、七分の餅米に三分の粟を混ぜた強飯のこと。あったかいうちはうまいんだいね。冷めちゃうとぽろぽろしちゃってだめだったね。


お盆(新暦八月三十一日から九月二日)
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 明治時代に入ると養蚕がはじまったが、このあたりでは春蚕・夏蚕・秋蚕の年三回育てる家が多かった。その関係でお盆の八月十五日には夏蚕の盛りが重なり、先祖の霊を家に迎えて行事をすることもままならなくなった。そこで明治の末ごろ村中で話し合い、八月十三日から十五日に行っていたお盆を夏蚕の作業が終わるまで半月ほど遅らせて八月三十一日から九月二日に行うことにし、それを九月盆と呼ぶようになった。このあたりで養蚕が途絶えたのが昭和十五年くらい。そうしたことで、戦後の二十三・四年ごろに九月盆が見られなくなり、それ以後はもとにもどして八月十五日にお盆を行うようになり、今日へ至っている。
 九月盆になる前は、だいたい八月の十日ごろ墓掃除へ行ったが、一日の盆供に掃除しているので改めてはしない家もあった。
 そして十三日の朝に盆棚の道具出して来て、それを洗ってから御先祖様を迎える棚組みをはじめる。その枠を縛ったり十三仏の掛軸を吊すのに使うのがの縄。この縄は二日前ぐらいに用意しておき、長さはだいたい七ぐらい。それを使ってこの日盆棚を組み上げるが、ところによっては障子を使う家もあり、また養蚕をやっているころには家のなかが畳を上げて蚕棚で占領されておるから、軒下へ盆棚を作る家もみられた。
 組み上げた盆棚の枠には、両脇に青笹をくくり付け、棚上にやら・など吊るす。そうして三方にたくさんの掛け軸を吊るし、を敷いた上へ仏壇から移した仏具を置きますが、それには仏像や位牌・燈明・線香・鉦などあります。こうしてご先祖様を迎える場所が整えられていきますが、結婚しないで死んだ人は無縁仏として別な場所へ祀られます。これらの位牌は棚上へは上がれないということで、茣蓙下の盆棚の底へ移して祀られます。
 茣蓙上には、仏壇にあった仏具のほか、ご先祖様を迎えるものとして里芋の葉の上に水を入れたどんぶりを置き、半紙を巻いて柄を作ったの束や、お箸として使っていただくも置かれます。このうち敷き物として使う里芋の葉は、本来は蓮の葉じゃが、このあたりには蓮の生える沼がないのでそれに代えて畑から採ってきた里芋の葉を使っております。
 このの束は仏様に水を指し上げるための道具で、どんぶりのお水に浸し、里芋の葉に盛った賽の目に切った茄子を用意し、その上をパタパタとはたくのが一般的。しかし、このあたりでは茄子をもちいず、葉の上で直にはたく家も多い。
 こうして盆花になぞを飾り、瓜や野菜を供えて盆棚ができあがりますが、昔は、にわかづくりとて、盆棚を逆さにした酒樽や立臼を台にし、その上に戸棚の戸など利用してこさえる(作る)家も見られました。
 お墓へ、ご先祖様の霊を迎えに行くのが十三日の夜。お風呂へ入ってから明かりともした提灯持って家を出ましたが、家によってはご先祖様が待っているからと二時ごろ畑から上がって来て、明るいうちに迎える家もありました。
 新盆の家では、祖霊が迷わずに家へこられるよう蝋燭を付けた長さ一メートルぐらいの竹を家のからお墓まで道の角々へ立て、火を灯しながら迎えにいくが、そうしたことを三年ぐらいはつづける家が多かった。
 わしのうちなぞでは家族が多かったから、二度にわけてお墓へ行き、線香あげてご先祖様に「家で準備ができましたから、どうぞおいでください」なんていってね。お墓から帰って来る。玄関脇には、御先祖様のために水と手拭が置いてあるから、そこで提灯の火を消し、「どうぞお入りください、ご先祖様」なぞと年寄りがいって縁側から上がり、盆棚の蝋燭へ改めて火を付けて線香あげる。そうすると「早くお茶入れろ」って言われ、まずはご先祖様にお茶を差し上げる。その後、盆棚にご飯を上げ、家人がみな揃ったらご先祖様と一緒に食べる。
 ご先祖様に供えるご飯は朝昼晩と三回新しいものをこさえるが(作る)、料理に使う道具は、そのつどきれいに洗ったもので調理する。このあたりではな、麦の入らぬ白いご飯を食べられたのは、正月とこの盆だけ。ご先祖様に供える料理とはいっても、おかずは茄子と切り昆布を煮たもので、それに茄子の澄まし汁なぞ添えて上げるだけ。そしてご飯下げれば、またお茶を上げましたよ。
 十四日の朝には、ぼた餅つくったり、饅頭つくったり、そのうちによってね。暑いうちなんで茹で饅頭が多かったね。昼はうどんで、夜はご飯。この日は盆棚にも朝お茶や茹で饅頭を供え、昼はそれを下ろしてうどん供える。
 十五日の食べ物は家によって違うが、朝は前の日と同じでは、ということで混ぜご飯つくる家が多かったですが、昼はまたうどんで、 夜はご飯。そのおかずもまた唐茄子(真桑瓜)や茄子と昆布の煮物でしたが、仏様の分だけは特別に精進揚げなど作って上げたりしていました。食事を終えるとお茶を上げますが、亡くなったお爺さんが好きだったからと、お酒上げる家もありました。

 この盆の間の十四日と十五日は、親戚のお墓参りに行ったり来たりもします。そうしたときには砂糖や西瓜を持って行きましたが、その砂糖は貴重品でしたから昭和に入ってからのこと。その昔は、干しうどん十束ぐらい持って行く家が多かったですね。
 
こうして、十五日が送りの日。この日ご先祖様がお帰りなされるから、さまざまな贈り物をつくる。土産に持たせる団子のほか、うどんのショイ縄(背負縄)などつくるが、それを胡瓜や茄子に脚に見立てた麻幹を刺してつくった馬や牛に乗せる。馬がご先祖様の乗り物、牛が土産を運ぶものと考えているわけで、それらをつくってご先祖様の旅支度が整う。
 昔は、「早く迎えて、遅く送る」といって夜中の十二時を待って送りましたが、おおかたは九時か十時ごろ。都会ではお墓まで遠いので門送りとかして、屋敷の門のあたりでご先祖様を見送りますが、このあたりではかならずお寺まで行きます。
 「もう11時だから盆様にお茶上げて送って行くべや」ということで、支度がはじまる。ご先祖様のいらっしゃる盆棚の蝋燭から提灯へ火を移し終えると、「どうもお粗末でございました、みなさん、いまからお送りしますから、どうぞいらして下さい」なぞといって、縁側から出て、その提灯持ってお墓まで送りに行きます。昔は提灯ではなく、「送り火」といって麦殻を縄でぎゅうぎゅう巻いた松明が使われていました。寺へ行くうちには、何度か明りが途絶えそうになる。そこで「なくなったよぉ」というとね、「はぁい」なんて換えの松明抱える者が差し出してくる。そうすると、おばあさんが「さぁご先祖様、どうぞこの明かりと一緒に来て下さい」って、そこで呼び、ご先祖様を導くわけです。
 そうしてお墓に着き、最後に手を合わせる。そのときには「きてもらってお粗末でした。ゆっくり眠ってて下さい」なんていう気持ちを込めましたよ。亡くなった人がそこに居るような気がしましてね。それで帰ってくるときには、松明を消し、後ろを振り返らないで帰ってくる。未練があって、ご先祖様が後ついてきちゃぁいけないってね。
 十六日には、そのうちの主人が盆棚を片付ける。上げたもので食べられるものは、後で御馳走になり、花は二・三日もつから仏壇に飾っとく。 よくうちの年寄りがね、三度、三度仏様お世話するから「彼岸七日より盆三日の方が、仏様が喜ぶ」なんていってましたよ。        
 
この日は、「地獄の子供もせぇ遊ぶくれぇだから、きょうはあにもすんな(何もするな)」っていわれ、朝ご飯を炊いて食べるだけで、晩は小豆飯を食べました。この日に食べる小豆飯は特別に滋養飯とも呼んでいました。


 八雲神社のお祭りと火の花祭り
 (新暦八月三十一日から九月一日)

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 八月三十一日から九月一日が、下清戸地域の八雲神社のお祭り。
 この八雲神社では出雲の須佐之男命を祀っておるが、その神が強い力を発揮すると考えられておるから、除疫神としての性格をもつインドの祇園精舎の守護神である牛頭天王と習合。そうしたことで、村人は八雲神社のことを天王様と呼んだりもしておる。
  昔の年寄はな、「天王様に初物のを上げると、悪魔を払う」なぞとよくいっていましたよ。お祭りには、当番がありましてな、地域で13組に分かれた組みのうち、毎年2組づつかわるがわる担当しておりました。その当番は、神社の掃除にはじまり、しめ飾りに神輿や太鼓出したり、お祭りのこと一切やるんですね。
 神輿やお祭りに使う道具一切は、以前には長源寺の西っ側のすみに格納してありましたが、このごろは旭が通り脇の綿屋さんとこの小屋で保管しています。
  この八雲神社の祭り、昔は盛大でした。志木街道をまたいだ道路の上に、両側に巴をあしらった「八雲神社御祭禮」と大書きした枠木のまわりを直径50cmぐらいの丸提灯七個飾り付け、それに花屋根葺いたマタギというものを造り立てていましたよ。いまと違い、車の通行が無かったですからね、道路に造作して華やかなものでしたね。そのほか、という、民間に伝えられてきた話などを題材にした絵を貼る行灯もありました。これは提灯屋で絵を書いてもらい、それを配って各人の家で紙を張って立てておりました。

 八雲神社本殿のお宮づくりには、みごとな彫り物もありますが、なんでもこの彫り物、一人の彫師さんが、いま祭りの道具の保管小屋のある旭が通り脇の綿屋さんのとこで寝泊まりし、3年とか5年とかかけて刻んだらしいですな。そのときの伝えによると、彫師さんは酒好きで、気が向かねば彫らぬが、気が向きさえすれば酒飲んでおっても仕事したそうで、そこが酒屋でしたので、いくらでも酒はあったそうですよ。その綿屋さんのところの先祖が、小寺文次郎という御仁。この方は日枝神社にある寛文四年(1664)造立の石灯籠に名をしております。
 九月一日には、中里の冨士塚でも火の花祭りが行われております。

 火の花祭りは、富士山を信仰する富士講の祭り。この講は、長谷川角行により開かれたと伝えられ、江戸時代には御府内の町人の間で盛んに信仰されておりました。そうしたなか、江戸中期に身禄派と光清派という派閥争いも起きたそうですが、しだいに身禄派が優勢になるなかで江戸周辺の村々へも富士講が広まり、中里村へは江戸赤坂の善行道山殿より田無町の秀行道栄殿を経て享保十八年(1733) に伝えられ、「丸嘉講武州田無組中里講社」という名で創立しております。
 
そうしたことで、中里に富士山を模した富士塚が築かれ、そのいただきには富士の霊峰に建立されている浅間神社を分社した石の祠が置かれておるが、九月一日の火の花祭りも旧暦の七月二十一日に行われていた吉田の火祭り(山梨県富士吉田市)の行事に習ったもの。
 当地の火の花祭りではな、富士塚下の前庭に収穫を終えた麦ワラの束をもって高さ三メートルほどの円錐形に積み上げ、大松明を造っておく。それ行事の夜、先達さんをはじめとする講員のみなさんが、富士塚のいただきにある浅間神社の祠の前で「御伝え」やら「祝詞」の奏上をすませて塚下りてきて、お焚き上げとて、大松明のいただきに火を放つ。火は闇を切り裂くように火勢を強め、やがて燃え尽きるが、その残り灰をいただいて帰り、畑へけば豊作に、またに播けば厄病を防ぐと古来いわれてきておる。だで、子から大人まで、まだ灰が熱いうちから競って灰を採り合うわけじゃ。


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