掘り出された聖文 13
─縄文時代中期遺跡発掘調査の記録─





目次詳細
 第六章 野塩前原東遺跡第三次発掘調査の記録

  ・[1号住居跡から]     

     埋没土から現れた土器

     床に埋設された土器

     炉

     住居構造の解明

  ・[2号住居跡から]

     炉体土器に秘められていたもの

     住居構造

  ・[3号住居跡から]

     検出された土器の意味

     住居構造

  ・土器を埋設した二つのピット

  ・[4号住居跡から]

     二つの床に残されたもの

  ・重なる土坑墓の謎

  ・赤と黒のトリック            

  ・最後の土坑

  ・破壊された住居跡の炉

  ・大形住居の痕跡

  ・別れのとき

  ・無意識への幻視

1号住居跡から]

埋没土から現れた土器

四月七日〜二十九日

 調査も半ばを迎えたこの時期、14号住居跡を主体に、周囲に点在する土坑、集石跡の調査が次々と開始された。

 ここからは全体の調査進行の記述では煩雑になるため、遺構ごとに調査を完了するまでの状況をまとめて見ていくことにする。

 1号住居跡は、三月二十六日から掘り下げに入り、五月十日までの調査期間を要した。

 一基の住居跡の調査としては、かなり長期間にわたっているが、それにはいくつかの理由があった。

 確認調査で明らかとなった調査区域の状況から、保存状態のよい住居跡は、この1号と3号のみであることが予測されていた。

 そのため、墓域に併存する住居跡の性格を理解するためには、大量の作業員を投入して一気に掘り上げることを避け、少人数で状態観察を細密に行いながら掘り進み、できる限り映像記録を残すというプログラムを策定したのである。

 したがって、作業員に申し渡したのはピット一つにしても、

「最終確認はこちらでやるので、掘り残すように。絶対

掘りすぎないこと!」

という指示を皮切りに、調査がはじめられた。残存しているのは床上三十センチに満たない。しかし、そこに神経を集中させなければならない。

【上層】 

 東西に入る牛蒡溝の攪乱土(上図中・層)を取り去ると、ローム粒を含む暗褐色土(上図中・層)の広がりが確認される。よく見ると、わずかながら焼土と炭化物の微細な粒子も含まれている。

 この埋土は、住居跡の東側へ水平に近い状態で堆積しており、構築当初からさほど深く掘られた住居でなかったことを表している。

 遺物は土器、石器、被熱礫が出土しているが、北側に大形土器片とともに若干の遺物のまとまりが認められるほかは、ほぼ均等に拡散している。

 掘りながら土器の文様を注視していくと、それらのほとんどは、線で縁取りした内側の縄文を磨り消す手法をもつ加曽利E・〜・式である。

 上層を掘り終えた段階で考えてみるが、ここまでの遺物出土状態は通常の住居跡の場合とさして変わりはない。

 足場の上から遺物出土状態の写真撮影を行い、それらの図化標高計測取り上げ、と作業は進行し、下層の掘り下げに入る。

       上層           確認面

       床面           下層

【下層】

 壁ぎわにローム質土(前頁図中・層)が形成されているが、まずその上部に堆積するローム質土を混合する暗褐色土(前頁図中・層)の掘り下げを行う。

 そこでの遺物出土は、南西側に細かな土器片のまとまりが見られるほか、十センチ四方の大形な土器片も何片かは検出されているが、特筆すべき状態は見られない。

 下層の上部を終え、壁ぎわのローム質土(前頁図中・層)の掘り出しにとりかかる。この土層は住居廃絶直後に堆積した壁崩壊を主体とするもので、中央部にも薄く流れ込んでおり、これを取り除けば踏みしめられて硬化したロームの床面が現れるはずである。

 他所の作業で中座している間に、中山君が、底部を欠損するものの原形を保ち横倒れた加曽利E・式土器を掘り出していた(上段右土器実測図)

「ローム質土に入ったから、もう何も出ないと思っていたが、たまげたねぇ」

 ところが、この土器にはさまざまな謎が込められていた。まず、情況を整理しておくことにする。

……土器は、第一次埋没土であるローム質土中から横倒れた状態で出土。

……底部のみを欠損。

……割れの状態に均一性が認められる。

……削痕は認められないが、内面の口縁部と底部に灰白色の灰汁状のものが付着。

 この土器にかんしては、以上の四点が情況証拠として挙げられる。

 問題となるのは、他の多くの事例のように破損品の廃棄なのか、あるいは某かの目的をもって設置されているのか、ということである。

 結果を先取りすれば、判断することはできなかったといわざるをえない。しかし、重要なのは問題を解析していく過程にある。ここでは、どうしてわからなかったのか、ということを見ていかなければならない。 

 一から判断されるのは、住居廃絶後のさほど隔たらない時期に土器が置かれていること。また、第一次埋没土中(下層)からの遺物出土がほとんど認められないことから、単独で処理されていることが知られる。

 付近の埋没土中には土坑状の掘込みは認められないものの、二の底部を欠くことと、四の付着物の存在から伏甕として使われていたことも想定される。

 この底部の破損箇所をつぶさに観察すると、接合面から剥がれており、炭化物が入り込んでいることから、後に述べる被熱によるひび割れの生じていたことは確かなのだが、それだけが底を欠損した理由ではないらしい。

 上右写真下矢印で記した部分に、横方向からの打撃が、また縁に割れにより生じた鋭利な部分の掻き落としと思われる状態が観察される。

 つまり、二は偶発的な理由ではなく、ひび割れた部分の底を意識的に調整している可能性が指摘できるのである。

 一方、器面に残されたひび割れの状況は、横倒れた土器の土圧破損とは異なり、被熱により引き起こされているようなのである。

 底部から口縁部へかけて直線的に入るひび割れ。その線は、円周に対してほぼ等間隔に四本認められるが、この状態は野塩外山遺跡で述べた、高熱で焼き締められた土器が急冷し、粘土の収縮がともなわずに均等割れした、冷割れの典型的な状態なのである。

 野塩外山の事例は焼成温度が高くないので製作時の破損としたが、この場合は器面の硬度や色調などから八百度を超える火中にあったものと思われ、製作時の焼かれた温度を遙かに超える高温下で使用されたことによる、二次的な焼き締まりにともなう冷め割れ、ということも考えられる。

 このひび割れの起きたのが、製作時か、使用時かは判断できない。しかし、上段左写真で明らかなように、出土した状態が原形を保って出土していることから、埋没中の土圧による破損でないことは明らかである。

 出土位置周辺の土層にローム質土の焼土化が見られないことからすれば、他所で被熱し、ひび割れた状態のこの土器を、意識的に底だけを抜いて持ち込んでいることが想定される。

 ここで問題となってくるのが、四の白灰色の付着物である。

 これは口縁部の内面に全体的に認められ、底部にも薄く残されている。高熱による融着したものと仮定すれば、藁灰釉的に変成したものの付着とも思われるが、それは以下の理由により否定される。

 内面はきれいな酸化炎の状態で焼成されているため、内容物があったとしても、最終的な被熱段階では燃え尽き、充足するものはなかったように思われ、また煤はねの状態を超す温度が出されていたと判断されることから、冷却時の吸着も想定しがたい。

 そう考えてくると、焼成後の付着という線が強まってくる。肉眼的な観察では、伏甕に認められる付着物と同種のように見え、そのように存在していたとすれば、付着位置も説明しやすいのであるが、それは考証の域を超えた想像に他ならない。

 だが、現象を判読していくためには、考えられるだけのあらゆる仮想を張り巡らし、消去法によってそれを絞り込んでいかなければならない。何も考えなければ、現象すら見落としてしまうことがあるからである。

 ここに現れてきたものは、廃絶住居自体を土坑墓に見立てることはないのか、という仮想である。

床に埋設された土器

 埋没土の最下層から検出された土器については、依然として謎に包まれたまま、床面の掘り出し作業がつづけられていた。

 この段階で、北西側で確認されていた柄鏡形住居跡の張り出し部ではないかと思われていた部分が、住居跡埋没後に掘られた単独の土坑であることが判明し、また床面に二本の周溝が検出されたことから二基重なる住居跡であることもわかってきた。

 作業は十字に掘り残した土層観察用のベルト部分へ移行。土層図の作成からベルトの除去の段階へ入っている。

 東端で床面の検出作業をつづけていると、丸味をもつ小さな土器が現れた(次頁写真)、竹ベラで丁寧に掘り出していくと、それがベンガラによる彩色の残存する土器の突起部であることがすぐにわかった。

 さらに慎重に掘り出していくと、突起はなだらかに下りながら水平な縁へ連なり、それが弧を描きはじめ、やがて直径三十センチを超える土器の口が現れた。

「埋甕だ!」

 この埋甕は、住居跡の調査を完了した段階で半面を広く掘り下げ、横から観察することにした。

 それにより、明らかとなったことは、次のような状況であった。

 埋設されていた土器は鉢形で加曽利E・式。それより二回りほど大きい荒く掘られた穴に、床から七、八センチ縁を出した状態で、傾斜して埋まり込んでいることが確認された。

 土器内の土は、ローム粒を含まぬ暗褐色土が底に沿うように凹状に堆積し、その上にローム粒を多量に含む土が埋め尽くしている。

 これらのことから想像されてくるのは蓋の存在で、埋設初期の段階では雨水を媒介にしたような均質な泥水がすきまから進入乾燥。そのくり返しで器壁に泥の張り付く現象が起き、その窪みへ蓋などの覆いの崩壊とともに一気に上部の土が崩落、という過程である。

 そして土器自体の傾斜にかんしては、何かに包まれたか、あるいは敷いた状態で埋められたことで、それが腐るか何かして傾斜したことが想定された。

 さて、この土器は全面にベンガラによる赤彩が施されているのであるが、整理段階での実測作業中に思わぬ事実を知ることとなった。

 以前から、外面に炭化物の付着していることには気がついていたのであるが、いざ実測しようとすると下半の櫛引きの縦に入る条を炭化物が覆っている部分があり、それがよく観察できない。

 なんとか見ようとするのであるが、炭化物を取り去ることもできず、見入っていた。そうしたなかで、ぼやっと炭化物が先か、赤色顔料が先か、ということが意識に上ってきた。

「この炭化物は土器の使用によって付いているのだから、後だ。当然のことだ」

 だがこの当然と思ったことが、製作時の焼成段階で付いたものである可能性が全くないわけではない。

 これを考えていくための条件は、土器の焼成。炭化物の付着。赤色顔料の塗装。埋設。この四つの事象が、思考の中で一応の時系列を組み上げた。

土器の焼成

   

赤色顔料の塗装

   

炭化物の付着

   

埋 設

 この、もっとも一般的と思われる序列が本当に正しいのか、炭化物の付着する一部分を虫ピンで落としてみることにした。

 確かに下から赤い顔料が顔をのぞかせ。

「間違いはない、赤が先だ」

 一番目から二番目への移行は、この土器が当初から儀器として作られていた可能性を強く表している。その器の最終的な操作が、住居内への埋設として完結しているとすれば、その間に存在している炭化物の付着は……

 そう、このことが火を用いた儀式の介在を指向していたのである。

 その儀式の場はどこか? 

 出土位置でのロームの焼土化が認められないことから、埋設場から分離された場で行われていることは確かであるが、この住居の炉か、他所かは判断できない。

 器面に確認される炭化物の付着の状態にはむらがあり、何度も火にかけられたものではない。

 儀器として作られたものが、少なくも火に関しては一過性の使用目的を通過し、埋めるという終局の行為におよんでいることが、現象の連鎖から解析された。

 火を使う儀式の存在。それは先の埋没土から出土した、被熱破損した土器にも連なる事象なのであろうか?

 住居構造を解き明かす前に、炉について見ていくことにする。

 1号住居跡が二基の住居跡の重なりであることは先に述べたが、そのあり方は拡張をともなう継続する建て替えで、炉も新旧二つが重なって検出されている。

 この炉には二つの特異点が見られる。一つは炉の設定が住居のほぼ中央に設定されていること。もう一つは新旧の炉に焼土が残されていることである。

 まず、前者から見ていくことにする。

 これまでの周辺遺跡の調査では、多くの場合入口に面する空間を広く取るため、炉位置はその反対方向へ寄せて設定されているのであるが、今回の調査で明らかにされた七基のうち、大形な5号住居跡を除く六基がすべて中央あるいは、前例とは逆の入口方向へ寄せる傾向が見られるのである。

 次頁上表は、入口部から炉芯を通る主軸方向の径を定率化し、下端の入口部壁面を基準に、そこからの割合で炉位置を表したものである。

 今回の調査区域を除くと、二十四例中四例を除き、入口部からほぼ60%から70%の位置に設定されている。

 このうち野塩前原遺跡の42期と3期は1期からの炉を残しながら建て替えるという特殊事情が存在しているため除外すると野塩外山遺跡7b号と野塩前原遺跡7号住居跡の二例についてのみ、当初からの設定がかかわっていると見なされる。

 ここで一つの問題が派生してくる。野塩外山遺跡7b号は三メートル五十五センチと小形な住居であることから、そうした住居に起こる現象なのかも知れず、今回の3次調査区域から検出された住居跡も5号を除き、すべて四メートル以下。

 しかし、それはどうも違うらしいのである。

 3次調査以外の遺跡でも、三メートル代の小形住居は野塩外山遺跡の7b号・8号・10号、野塩前原遺跡の4(1)A(1)の五例見られ、それらでは先の7b号以外はほぼ60%代の位置に設定されていて、しかもこの7b号は継続する建て替えがなされた7a号において、通常の範囲の65%の位置へもどされているのである。

 ところが、ここで問題にしている3次調査の1号住居跡では、拡張をともなう建て替えがなされ、また炉位置が変更されているにもかかわらず、51%(1期旧)→51%(2期新)へと入口側の壁からの距離が保たれている。

 これらのことから判断されるのは、3次調査区域の住居においては入口部に広い空間を設定していない、という特異性である。

 通常、炉を寄せる現象は、作業空間として入口部を広く取るためとされているが、それが事実とすれば日常的な作業空間は必要なかったと言わざるをえない。

 そのことはまた、簡易な小形住居が多いことと考え合わせ、普通集落とは一線を画す墓域に展開する住居の特性として、居住者や生活状態に何らかの違いが生じているのであろうか?

 話が飛躍してきたが、ここからは炉構造を見ていくことにする。

 炉は二基重なる。特徴的なのは、焼土が双方に残されていることである。

 規模の小さな東側の炉が古い時期のもので、炉内にはローム質土を主体にローム粒を含む暗褐色土が部分堆積しており、炉の移設で埋め戻されているように思える。

 炉底は、ロームの焼土化でカリカリとした煉瓦状に変質しており、焼き縮みでいたるところにしわ状の亀裂が入っている。

 その面をきれいに掃き出すと、三箇所に径三センチほどの穴が現れ、そのうちの中央の穴は東側に傾斜している。いずれも何かを突き刺したものであることは明らかである。

 この状態を見れば、誰もが串刺しにした何かをあぶる炉辺の光景を思い起こすであろうが、二つの穴はこのようにして解決されることになるが、中央の穴は何であろう。これではぼうぼうと串が燃えてしまう。簡単には解けぬ謎ばかりが残される。

 さて、この古い炉に対して新しく設定された炉は、二回り大きく、掘込みも深くしっかりしている。

 炉には石組みが構築されているが、古い炉からの移設であることも考えられる。

 こうした炉組みの石は、通常床にはめ込むていどのものであるが、ここでは炉縁に立て掛けられ、かなり強固につくられている。

 これらの石組みには、内側が一様に被熱赤変した部分が認められ、北側に強い火色が観察される。これは南側の入口部から進入する風により、炎が北側へあおられる状態の起きていたことを連想させる。

 この炉内からは多量の焼土が検出されたことで、使用時の姿を留めていることが判明したが、今までの他遺跡の調査ではそれを一切見ることはできなかった。

 焼土は顔料等に使用されたためか、活用の度合いが高く、通常は住居の廃絶とともに掻き取られているが、この3次調査区域では本号を含め、5号、6号などにもそれが認められ、特異なあり方を見せている。

 さて最後になったが、ロームが煉瓦状に変成した炉底中央から、またしても、棒状のものを立てた穴が現れた。食物をあぶるための、単なる串刺しの痕跡とは思えないのだが。

住居構造の解明

 1号住居跡は、床面の精査により現れた二重に回る周溝と炉の重なりから、二基の住居跡の重なりであることが知られていた。

 そのことは作業が進むなかで、炉の切り合いを検証し、また炉西側から検出された二つの主柱穴の一方に埋められた痕跡を確認するにおよび、拡張をともなう建て替えであることが判明した。

 ここでは、古い段階の住居跡を1期、新しい段階を2期として、その構造の変遷をたどることにする。

 1期主柱穴の割り出しにかんしては、南側で一例しか確認されていない上図中の1が基準となった。

 これに組み合う西側の柱穴は、炉の西側に検出されていたAと2のどちらかであるが、2が住居中央寄りに位置していること、また上部にロームで塞いだ形跡が認められ、古い段階の柱穴であることが理解され、さらにこの12間の距離を東側へ求めることにより、埋甕脇の3が探し出せることになる。

 北側の主柱穴にかんしては、2期構造との比較が欠かせなくなるが、結果を先取りすると4が該当することになる。

 ところが、これらの深さは1―41cm、2―39cm、3―39cm、4―61cmであるが、北西側にはそれに見合う柱穴が探し出せないのである。

 そこでもう一度この四本の柱穴を観察すると、今までに調査してきた住居跡では60cm以上は掘られているのに、どれも浅く、径も小さい。

 4はかなり深いが、上位のほぼ22cm以下はローム質土で占められていて、細い柱材がめり込んで深みを増した状態にある。2の柱は、太さはあるていどありそうだが、寸は短かかったはず。

 それらから考えられるのは、柱材のばらつき。しかも、標準以下のものばかりである。この状況では床に直置きされた柱も想定しなければならないが、そうした眼で北側を見直していくと、周溝の内側に底幅16cmほどの帯状の浅い溝の存在に気付く(下写真内の矢印部分)

 五本目の柱は、この場所に直置きされていたらしく、それが動くことで帯状の溝がつくりだされたと判断される。

 最後に残されたのは入口。これは、南端の周溝に、梯子状の三つ組みを基本とする小ピット群が検出されていることから、その位置に入口部が設定されていたことは間違いない。

 それらを整理すると、1期の基本構造は、柱配置が南南西に山形部をつくり出す五本柱で、短い棟をもつ上屋構造とみなされ、入口部の庇が、南南東の梁の西側に片寄せされた状態で掛け出されていたことになる。

 当然のこととして、この住居にも構造の劣化が起きている。

 検出された支柱のうち、この期の構造との対比から割り出されたものは主柱5東脇に三本、4脇に一本、34間の中間点を通る垂木上方に位置する一本である。

 主柱5東脇の三本は、径35cm、深さ616cmで、いずれも60゜前後の角度をもって45間の中間に通る垂木へ向けられている。

 これらに対し後二者の垂木は、主柱4の落ち込みに起因する、梁と垂木への押さえとして機能していたらしい。

 この二つの現象から復元されるのは、主柱4の倒れ込みにともなう埋没と、そのことにより北側の上屋が左回転でねじれながら倒れ込む姿である。

 直置きの主柱5の床に認められた、帯状の溝の正体。それは、このねじれにともなう柱位置のズレにより引き起こされたものと見て、間違いはなかろう。

 この段階では、傾いだ細身の主柱4の折れる可能性は強まり、もしその事態に事実直面したとするならば、一気に北側の上屋は倒壊していたはずである。

 2期私のなかでは、建て替えは北側の倒壊が現実に起きたことによる、という考えに傾いている。

 それは、新設された周溝が南東側を除いて外側へ広げられていることによる。この変更された幅のなかには、屋根の骨格をなす垂木列が地面に埋まり込む部分が含まれている。

 上屋が倒壊したとすれば垂木下部の跳ね上がりが生じ、多大な壁面の損傷が起きていたことであろう。そして、そのことが拡張の主原因であった、という見方を強めているのである。

 さて、いままで単に「建て替え」という用語を使ってきたが、正確には一部を残したままの改築であったことが考えられてきている。

 変更されていない部分は、主柱1と3、入口部の梯子状の押さえ、それに南東側の周溝と壁。つまり、注視しなければならないのは南東側に位置するものには何ら変更が加えられていないという事実である。

 このことからさかのぼって類推すれば、倒壊は、入口部の存在により構造の強化されていた南南東の13間を除く部分、具体的には北側のねじれが限界に達し、主柱4の損傷から中央への伏せ倒れ、として現れたのではないかと思われてくるのである。

 ここからは改築後の2期構造に入る。

 入口付近の構造を継承したため、改築後の基本構造も依然の形態が踏襲されている。柱配置に変更の見られないのは1、3であることは述べたが、他の柱は2A、4B、5Cと、それぞれ外側へ設定位置が変更されている。

 この状態で1期の構造材を転用するとすれば、主柱32間の梁と柱および主柱5は、該当箇所でそのまま使われたと思われ、また43間の梁をAC間へ移設。さらに、4がBの直置きの柱へ変更されていることから転用材を用いた可能性があり、もしそうだとするなら34間の梁を転用した可能性が出てくる。

 このことから、新材の調達を最小限にとどめたと仮定すれば梁間の延びた3C間の二本の梁に限定することができる。

 こうして組み上がった2期の家ではあるが、北側に

二本の直置き柱を従えていることから決して強化された構造とはなっていない。この二基の継続する住居は、最初から最後まで簡易な構造のままに維持されている。

 2期の構造劣化は、主柱Cからはじまったらしい。

 柱の南脇に 60゜の角度で出された根元押さえの斜交いが、また西側の30cmほど離れた位置からも43゜でそれが出されている。しかも、主柱の沈み込みを防ぐための添え柱も検出されている。

 この状態は直置きではあるが、主柱Cに根腐れが生じていたことを意味し、根元がぐらつくと同時に沈み込みの起きていたことを物語る。そのため前後はあるであろうが、AC間の中間点の梁下へ沈下を防ぐ支柱が立てられてもいる。

 このことにより、上屋の右回転のねじれの起きていたことが想定され、AC間とCB間それぞれの中間点の梁と垂木の交わる結束箇所へ、ねじれを防ぐための斜交いが入れられている。

 さらに特筆される支柱が、B3間の中間点の梁下に存在している。この支柱穴は50cmを超える深さをもち、本住居跡では主柱の規模を有している。

 主柱二本を直置きとしながら、後付の補修としてこれだけの材を調達していることには、それだけの意味が潜んでいるはずである。

 考えられるのは直置きのBに加え、1期から存続させてきた3、両主柱の劣化。

 すでに梁下へ、強固な支えを入れなければならないほどに、2期住居もまた、倒壊の危機にさらされていたことになる。

 

2号住居跡から]

炉体土器に秘められていたもの

 1号住居跡に併行して、東へ三メートルほど離れた2号住居跡でも調査が進められていた。

「壁の立ち上がりがわからない」

と嘆きながら田村君が移植ゴテを振るっている。

 この住居跡は、もとから浅い住居ではあったらしいが、上部の大半が耕作で破壊され、残っているのは床上の十数センチ。しかも住居跡の縁に、基盤のローム層が再堆積しているので壁の検出がむずかしくなっている。

 田村君は、壁に直行する小さな溝を入れ、断面から土層を観察しながら壁の検出に努めているのである。

 その部分を除き、あらかた掘り出された床には、埋没中の遺物が掘り出されている。

 それらは土器、打製石斧、被熱礫であるが、最下層ということもあって量は少なく、ぱらぱらと散在していて出土状態を特筆すべきものは見あたらない。

 多少目を引くものといえば、南東側の壁ぎわの大きな角礫と、故意に穴を開けたらしい底部穿孔土器の大形破片が、底を上にして床上七、八センチの位置から出土しているくらい(上写真中13)

 壁の確認が済んでから、土層図の作成柱穴の掘り下げ平面図・断面図の作成と、作業は急ピッチで進み、炉体土器の取り上げの段階を迎えている。

 土器は、口縁部に渦を連結させた文様を描く加曽利E・式。胴部には割れは認められない。

 そのままの状態で取り上げるため、炉壁との間隙を掘り進むと、北東側半周に土器片が多量に埋め込まれていることがわかった(下中央写真)

 このことは、炉体土器設置後のぐらつきを押さえるためとも思えたが、それなら土で事足りるはず。

 わからぬままに作業は進み、炉体土器を取り外すと、

西端の土器片にずり下がりが観察され、その底には落ちた状態で直立している破片も見られる。これらの土器片は、炉壁との間に空間があるとき、つまり炉体土器設置直後に押し込まれていることが判明した。

 作業は土器の実測を終え、炉本体の掘り出しへ入っている。

 土器を外した段階で、底に焼土ブロックが顔を見せていたのであるが、掘り進むにしたがい、焼土とともにカリカリと煉瓦状に被熱硬化した炉底が現れた。

 底は凸凹しているのであるが、南側に大きな二箇所の不定形の穴が存在している(上写真左端)

 炉体土器をもとの位置に戻すとすれば、穴の半分ほどは土器の外へ出てしまう状態にある。

 使用中に、炉底を斜めにほじくったのであれば道理は通るのだが、埋設以前に何かを入れていた可能性も否定できない。

 結局、何もわからぬままに時は過ぎていった。ところが整理段階の終盤を迎えたある日、とんでもない事実を手にすることになった。

 すでに、一人きりの整理作業となって久しく、大方の図版を組み終えた時期でもあったが、この日は発掘報告書へ載せる2号住居跡の遺物説明を書くため、該当する図版を見渡していた。その中で若干の間隔を置いて版組していた土器No1(上写真右端内の1)No2(上写真中央内の2)が、どうも似ていて気になってきた。

 整理箱の中からNo2の土器を取り出し、テーブルに置いたNo1の横に添え、地の縄文を見比べる。

「よく似てるなぁ」

 まだ気が付いてはいなかった。

「生地も似てる」

 次の瞬間、逆さまに置いてあったNo1の上にNo2がぴたりと吸い付くようにはまった。

「田村!」 

 天才の権威が失墜したときである。

「住居間で接合する土器をあれだけ発見しておきながら、何でわからなかったんだ?」

 もはや、この部屋にはいないのであるから、自分でたどってみることにしたが、原因はすぐにわかった。それは〈先入観〉である。

 炉体土器は、住居の構築とともに設置されるのであるから、底の割り取りと、その丈に見合う炉本体の掘り下げは同時になされている。したがって、住居構築当初に打ち割られた破片が、そのまま住居廃絶まで残されていることなど通常では考えられはしないのである。

 接合する破片があったとしても、それは後の耕作の影響などで破損したものが接合するていどのことで、再利用するために割られた破片が同一住居の、それも炉縁に入れ込まれていようなどとは、誰も思わないであろう。

 しかもこの場合、両者に状態の違いが生じている。No1は炉に使われたことにより橙色に被熱変成しており、一方のNo2はそれが防がれ、暗褐色の旧態依然とした状態を保持していたのである。

 かようにして、田村君が見抜けなかったことには〈先入観〉という恐るべき考証上の敵が立ちはだかっていたことになる。

 だが、これだけが現象のすべてではなかった。

No13

 住居跡南東側から出土していたNo13(上写真と拓本)の底は、ひび割れていたが、原形をとどめて出土していたことで、人為的に底の割わられた底部穿孔土器であることに疑はいない。

 その底片に、北側二箇所で接合関係をもつNo11(上拓本)が接合し、さらにそれが炉体土器(上実測図1)と同一個体であることが判明したのである。

 ここで、状況を整理すると以下のようになる。

……炉体土器No1の胴部中段は、破片化して炉壁に押し込まれていた(No2)

……炉体土器No1の胴部下段以下は、破片化して住居跡東側の埋没土中に飛散(No11No13)

……そのうちの底部大形片は、底が打ち抜かれている(No13)

……炉体土器No1の内面には、小動物がかじりついたような激しい削痕が認められるが、十五センチほど北東側から離れた位置から接合している口縁部破片No(1)にはそれが見られない。 

……No11 には、痕削が認められる。

……炉底に不定形の穴が存在し、炉上の埋没土には古い時期の攪乱が生じている。

 土器自体に関しては、三から墓坑にともなう伏甕という線が強まる。

 それを裏付けるのが四、五に見られる土器内面の削痕であるが、ここで問題となるのが離れた位置からNo1へ接合しているNo(1)に、それが認められないことである。

 このことは、炉体土器を仕立てる段階で分離されたNo11に認められることから、当初からあるていど削痕の付けられていたことは想定されるが、激しさを増したのは炉体土器以後ということになる。

 さらに突き詰めると、こうした削痕は、今までに検出されている総計十四例の炉体土器(昭和五十四年調査の野塩前原遺跡一例、野塩外山遺跡八例、野塩前原遺跡五例)には、まったく認められない現象なのである。

 そのことから削痕が被熱とは無縁の世界で起きていることが知られ、この事例にも炉が機能していた後に削痕のつく状態が起きていると判断される。

 したがって、この2号住居跡の炉体土器にかんしては、削痕の生じる状態が炉の使用期間を挟み、その前後で断続して起きているのである。

 以上のことから、可能な限り情況復元を試みる。

土坑墓に伏甕として埋設されていた、内面に削痕をもつ底部穿孔土器が、2号住居跡の炉縁に使用する目的をもって掘り出され、住居へ運び込まれる。

  

胴部下半が割り取られる。

(炉体土器に使用されない破片は、住居東壁上の空間に置かれているのか?)

  

土器の上半部を掘込みのなされた炉に仮設置。高さを確認した後、調節のために床から出過ぎた分だけ下端が欠き割られる。

  

土器を本設置し、割り出された不要な破片が土器と炉縁の隙間に入れ込まれる。

  

住居廃絶後の第一次埋没土が堆積するなかで、炉体土器の口縁部大形片が破損し北東側へ飛散。

(東側壁上に置かれていた下半の土器片群が第一次埋没土とともに住居内へ進入)

同じころ、炉体土器への小動物の入り込みにより、内側の器面に激しい削痕が付けられる。(そのさい小動物により炉底に穴が開けられる)

 幾重ものトリックを張り巡らせたような現象列。だが、洞察の方向は一点に絞り込まれた。そして、これがすべての情況証拠に対し、道理を生み出せる考え方なのである。

 なお、詳細は後に譲るが、三次調査においては他の二基(3号・4b)の住居跡から検出されている炉体土器においても、内面に著しい削痕が観察され、そのうちの一基(4b)については、炉縁に敷かれた土器が炉体土器と同一個体という現象が観察されている。

 これらも、2号住居跡の炉体土器に準ずる性格を有していることが想定され、そのことが墓域に展開する住居跡の特異性として受け止められてくるのである。

 このとき私の思考の奥には、死者にともなわせた伏せ甕を掘り出し、炉縁として用いることにより死界の火を作り出し、黄泉戸喫的な死者との共食をする世界がイメージされてきていた。

 
住居構造

 2号住居跡は、竪穴部の掘込みの浅い住居跡で、周溝をもつ五本柱の上屋構造であったと思われる。

 床面から検出された柱穴のうち、最も深いものは上図中の1─51cmで、を超えるものは4─41cm と5─43cm を加えた三本のみである。

 これらは主柱を構成する柱穴と考えられ、それに組み合うものを探すと、他に2─30cm と3─26cm が抽出される。

 このことから、主柱配置は、西側に山形をもつ五本柱であったことが知られ、45間の中間地点東側に梯子状の押さえと考えられる三つ組みのピットが検出されたことから、この東の方向に入口部が設定されていたとみて間違いはない。

 それを裏付けるように、主柱4、5には対応する位置に入口部の庇を受けた支柱、6─14cm 、7─18cmが存在している。なお、この67間には渡し木がなされていたものと思われる。

 この配置から類推される屋根構造は、短い棟をもつように判断したが、垂木頂部が一点に結束するテント形の可能性も否定はできない。

 こうした場合、次に述べる補助柱の設定位置から究明していくのであるが、ここの場合はそれを考慮しても判断は微妙である。

 この基本構造に対し、他住居同様に構造の劣化が起きている。

 主柱を除く九ないし十ヶ所に浅いピットが検出されている。これらのうち、主柱脇に位置し、それとの関係で劣化を指摘できそうな主柱を挙げると、1、2、3、4である。

 これらに対し支柱位置を概観すると、すべて主柱北側に存在し、南側には一切認められないという限定要因の働いていることに気づく。そのことは、また上屋の北側への傾斜を意味する現象に他ならない。

 こうして見てくると、支柱をともなわないこと、また保存状態が良好なことで、主柱5の存在を際立たせていることになる。

 文頭で述べたように五本の主柱のうち、深く掘られ、主体をなす柱は1、4、5。このうちの5だけに強固に残りえた形跡が観察されるのであるから、梁に連動する北側への上屋倒れ込みの主因を説明するには、主柱1の劣化を想定しなければならない。

 この状況から類推されるのは、主柱1を支点とする右回転の加わった北への傾斜であるが、このことで、主柱脇の支柱、および南西側の隅に重なる垂木支えの支柱の移設を説明することができる。

 最後に残されたのは、主柱4脇の支柱の解釈である。

 この支柱は、先の動きに連動した主柱4に関係するものとすれば北西側に設定されていなければならない。

 それが東北側に位置しているということは、東側につくり出された入口部庇の支えとして機能していたことが考えられてくるのである。

 以上が構造弱体化の過程であるが、南西側の垂木に入れられた支えの移設角度から、最終段階では上屋が。5ほど北側へねじれる状態が出来していたものと思われる。

 この値は、野塩前原遺跡で述べたように、70cmほどの埋め込みをもつ主柱構造の住居であっても大規模な補修を必要とする段階である。ましてや、簡易な造りの本住居であってみれば、どれほどの倒壊の不安をかかえていたことであろう。

[3号住居跡から]

検出された土器の意味

 3号住居跡は、遺構確認の段階から多量の遺物が検出れていた。

 ここでは耕作溝に埋まり込む攪乱土の除去を終え、本格的な掘り下げを前に、作業員への諸注意が申しわたされている。

「みなさん、発掘する手つきがよくなりましたね。

 さて今までは、畑仕事で壊された土を取り除いてもらっていたので、土器や石器が出てきても取り上げていました。

 しかし、ここからは住居跡を埋めつくした当時の土が残されていて、遺物は数千年前の状態を保って出土してきます。ですから、それらを観察し、図や写真などさまざまな記録をとらなければならないので、遺物をすべて残します。

 掘り下げるときには、出てきた遺物を土柱で残しながら作業を進めてください」

 近くのカゴに手を伸ばし、攪乱から出土した大き目の土器を拾い出し、

「この土器は四千年前の土器ですが、みなさんが暮らしていた三宅島からも、ほぼ同じころの土器が発見されています。

場所は栗本さんと栗原さんがお住まいの伊豆地区の西原」

「ほら、あすこだよ、三宅中学の崖んとこ」

「ここではこんなに浅いところから出ていますが。三宅島の場合は厚い火山灰に覆われていて、地表から六メートル二十センチも下から住居跡が発見されています。

 それが海の浸食で削られた崖から、偶然発見されているのです」

「ずっと前に井口さんのとこへ東京の学生さんが来てたっけが、あれが内田さんかい」

「井口直司君と僕は大学で知り合い、三宅島から土器が出るというので、調査に行ってたんです。

 昭和四十七年の十二月の二十二日」

「あんれぇ、驚いたねぇ」

 と言うわけで、同じ土器をつくり出した縄文人を介して、今度は三宅島の方々が東京の郊外で発掘をしているのである。

 掘り進むにしたがい、たくさんの土器が出土しはじめた。それらは、磨消縄文の手法を用いた加曽利E・〜・式がほとんどで、大形な破片も見られる。

 これらの遺物群は、住居中央部から西側へ広がるように検出されているが、その西側では荒川上流域に産する緑泥片岩の石皿片のほか、花崗岩製の凹石などの石器類も出土している。

 上層の遺物が出そろったところで、実測用の写真撮影出土状態の図化標高の計測取り上げ、と作業が進行し、中層の掘り下げに入る。

 中層の遺物分布は、中央を主体とし、東北東西南西へ紡錘状に広がりを見せており、その土器片の多く出土する範囲に石器と被熱礫も点在している。

 この中層で特異だったのは、上層北東側から、櫛引による縦の条線を下半に引いた破片が集め捨てられた状態で検出されていたが、その破片が中層中央部からも検出されたことであった。

 整理段階で、これらに接合関係が確認されたが、中層の出土位置に幅90cmほどの掘込みのあることがわかり、廃棄当初に中層中央部に存在した土器が、上層東北側へ掻き出されたことが判明した。

 なお、密集する遺物群から離れた西端から、被熱の見られる大形礫が三つ単独出土していたが、そのあり方に意味を見いだすことはできなかった。

 ここまでの出土土器は、上層に同じく加曽利E・〜・式。

 埋没土中の廃棄遺物に、別段変わったところが認められぬまま、調査は下層の掘り下げへ入る。

 ここでは遺物の出土量が一変し、特に土器片が激減。まばらに検出されるものはすべて小片である。

 石器と被熱礫の出土量は、上位の層と同じていどであるが、分布状態に変化が見られ、壁から50cmほど離れた位置を巡るように検出されている。

 この状態は住居内へ立ち入る行為ではなく、明らかに住居跡の縁から遺物を廃棄した状態にある。

 こうした分布景観のなかで、西と南東側の二箇所から、いずれも胴部下半を欠損する土器が原形を保って出土。

 西側の土器は小形で(上写真左)、横倒れて出土しているのに対し、他方は床に伏せた状態(上写真右)であることから、土坑墓にともなう伏甕と同じ状態が埋没土のなかでつくり出されているようにも思え、詳細に観察したが、掘込みを確認することはできなかった。

 そのことは西側の土器についても同様であったが、ただ気になることは、両者の内面に小動物かかじりついたような削痕が残されていることである。

 2号住居跡の炉体土器のように、他所で埋設されていた土器を何かの目的のために掘り出して使用し、その後に廃棄、あるいは保管していたものが住居廃絶後の壁上からの落下、ということも想像されたが、確証はえられなかった。 

 そのことを想像させたのは、西南西と東北東という、対角の壁直下の床上から検出された二個体の土器にあった(上写真)

 前者は、土器の入るだけの穴に埋設されていたもので、底部が不定型に欠損する土器を、正位で口をわずかに床上へ出す状態で埋め込まれていた(上写真中の2)

 ここで不定形の欠損と述べたが、そのあり方には説明を要し、左2の土器写真の矢印以下の接合破片が、検出時には穴の底に敷かれるような状態で検出されていたのである。

 炉体土器であれば、下半部を割り、安定した水平面をつくり出してから埋めるのが一般的だが、この場合は違う。ともづれの破片を底に敷いたか、もしくは穴へ無理矢理押し込んで割れたものか。

 どちらにしても、他の底部破片の多くが失われている以上、ある目的のために破損した土器を使用していることは事実で、この事例では土器の破損という現象が埋設という行為の障害になりえていないことは明らかである。

 その意味を追求するため、さらにこの土器を観察していくと、削痕は見られないものの内面の胴下半と底側面に、高熱による変色箇所を挟む炭化物の吸着帯の形成されていることに気づく。

 外面の色調変化と合わせるならば、この土器に、火にかけられて中で何かの燃える状態のつくり出されていたことが類推され、それを破損の原因と仮定すれば、1号住居跡東側に埋設されていた鉢形土器に類似する、火の使用埋設という過程が想定されてくる。

 この現象に対する選択肢は、二つに分かれる。

・終局的な目的として埋設を位置づけられた土器が、その過程に介在する火の使用で偶発的に破損したまま埋設。

・単純な再使用土器として、過去に煮沸利用した破損土器を埋設。

 こうした炉縁以外に床面へ埋設されている土器の事例は、本住居跡も含め、四例を数える。

野塩前原遺跡    2号住居跡

同         4号住居跡三期

野塩前原東遺跡三次 1号住居跡

同         3号住居跡

 野塩外山遺跡に認められないことから、勝坂式の影響の断たれた時期から出現するように思えるが、前二者は炉体土器と同じ口縁部、ないし胴部が用いられており、いずれも底部が欠損する状態で埋設されている。

 最後に挙げた本住居跡の事例も、破損している土器であることからすれば、それらにちかしい様相をもっていると言えそうだが、1号住居跡の事例はこれらとは明らかに異なる。

 完全な状態で、しかも赤彩という当初から埋設を意識した行為が想定されるのである。

 このことは、床面に埋設する状態をつくり出しながらも、異種の目的によるものとして理解しなければならないのであろうか?

 結局、答えの得られぬ混沌とした世界に踏み込んでしまったが、考えを整理すると、本住居跡の埋設土器の性格については依然としてわからぬままであるが、これらの埋設土器のなかに、炉体土器と同じに破損した土器の利用、もしくは破壊を伴う行為の存在していることが強く印象づけられてきたことになる。

 そうした眼で見ると、東側の床から出土した写真右端の胴部破片も、2号住居跡に残されていた炉体土器底部穿孔部の破片のように、調整のために本体から割り取られた、分割された破片のように思えてくる。

 そして、下層から出土した二個体の原形を保つ胴部上半の土器にも、再利用を前提とする、使用済み土器を保有する意図の働いていたであろうことも想像されてくる。

 はたして、それらも2号住居跡炉体土器とともに、本遺跡を特色づける墓坑からの調達品だったのであろうか……

住居構造

 3号住居跡の調査は、床面での掘込みの検出掘り下げ各種図面の作成を終え、本格的な構造の分析段階へと移っている。

「おかしいな、見直したのに北側に柱穴が検出できない。先に構造分析してから、もう一度確認するか」

 床面に這いつくばり、細かく観察したのであるが、北側からは柱穴らしきものが一切発見できないのである。

 直置きの柱の可能性もあるが、痕跡が見られないものを想定するには、よほど背景固めをしっかりとしておかなければならない。

 この時期、各遺構の実測が増加してきたため辻君が新たに調査へ加わっているが、その辻君と盛口さんが仕上げたばかりの住居平面図と柱穴断面図のコピーを手にし、住居跡の外側に座り込んで考える。

 まず、柱穴断面図から深いものを選び出して赤印を付け、平面図に転記する。

 抽出されたものは、

     1 ─76cm    8西─68cm

     8─70cm    14─72cm

 このうち、8の西と東の柱穴には切り合いが見られ、西()→()の関係にあることが確認されている。

 このことから、重複する二基の住居跡ということも考えられるのであるが、検出された柱数が少なく、また他の柱が単独であることから、8西側の柱の根腐れによるすげ替えと判断される。

 構築当初の主柱で確認できるのは、18西側、14。しかし、この三本で円形の竪穴部をおおう上屋が造り出されていたとは思えない。

 これまでの住居跡のあり方からすれば、主柱は四本、ないし五本。前者とすれば、柱の構成に東側が大きく空く無理が生じるため、五本柱を想定しなければならない。

「この三本の構成からでは、五本柱の山形頂部をなす柱が、東側に一本あるはずだが、17では位置が合わない。ここも直置きか?」

 立ち上がり、実際に東側の床の状態を見に行く。

 想定される山形頂部の位置は、1―14をつなぐラインの中間点から、東南方向へ直角に出るライン上にあるはずである。

 8西側―14間が1.4mなので、その間隔を目安にして14からライン上を探し出すが、柱穴らしきものは検出できない。さらにそれを東南のライン上に追うと、壁ぎわの周溝中に落ち込みのある21に行き当たった。

  14から距離は1.9m 、どうやらここに山形配置の頂部の柱が立てられていたらしい。だがこれではまだ根拠が薄弱である。

 平面図を取り出し、21の位置で梁組を想定してみる。

「もしそうだとすれば、入口部は14―21 21─1 間に造り出されていたはず。1号も2号住居跡も入口は東側だったな」

 と胸の中で思い返しながら、東側の21―1間の壁ぎわの精査に入る。

「あったぞ! 見つけたぞ」

 何を見つけたかというと、それは梯子状の施設を固定するための三つ組みのピット。

 理詰めで想定したところに、まさにそれがあったのであるから、このときの心境は縄文人との意識を共有できた喜びである。

 野塩前原遺跡以来高められてきた検証能力は、もはや構造復元の精度をも逆検証する結果をもたらしたといえる。

 このピットに関しては、穴が小さいために基盤のロームと同種の土が入り込むため、よほど注意しないと検出できないことは以前にも述べたが、それを構造から割り出したのである。それを田村君に告げると、

「内田さん、ゴッドハンドですね」

と、返ってきた。

 だいぶ印象の悪くなった言葉ではあるが、これまでの調査の住居構造解明において、幾たびも縄文人との意識の共有を図ろうとしてきたので、ついにある種の感覚が乗り移ってきたかと、うれしく思った瞬間でもある。

 さて、入口部の位置の特定ができたことにより、庇が割り出され、それらと梁方向の関係から山形頂部の柱位置が21で正しいことが検証された。そして、この構造から、痕跡の残されていない北側の柱が、直置きとしてaの位置に想定されることとなった(上図右中a)

 こうして復元された上屋は東南側に山形を造り出す柱配置に、東側へ入口部の庇を設けた短い棟をもつ構造であったことが判明。

 しかし、この住居にもまた構造の弱体化が起きている。

 その主因は8西側に存在した柱の根腐れと思われ、このことにより柱が西へ倒れ込み、上屋全体が連動する状態が生じていたようである。付近の構造材から西へ15cmほどの一定の距離をおいて存在する支柱471318は、いずれもその傾きを止めるために垂直に入れられた支えの柱で、78西側―a 間に渡された梁下へ、他はそれぞれの垂木へ向けられていたものと推察される。ただし、18 にかんしては 、 1923と関係し、1 ― 14間にも梁組の存在していたことを予測させ、その西への傾きに対して入れられていた支えとして理解されよう。

 こうしたなかで、傾きの原因となる8西側主柱のすげ替えがなされたようである。

 しかし、この新規の柱穴は、古い柱穴に腐った柱が残るためか東側へ重ね掘りされているため、新設されたとはいえ傾きに対する強度は弱かったようで、今度は内側へ傾斜する状態が出来していたようである。

 ほぼ70゜の角度で西側へ出された支柱12 は、この主柱8 東側の傾きに対しての支えとして入れられていたものと判断され、柱と梁との交点へ当てられている。

 この傾きの状況は三つの小ピットからなる19の位置変化から察するところ、徐々に上屋の右回転のねじれとなって現れていたように類推され、最終的には8゜を超えるねじれをきたしていたようである。

 その数値が事実とすれば、もはや大規模な補強を必要とする段階を通りすぎ、倒壊直前の状況が生み出されていたことになる。

 順位が逆転したが、最後に炉構造について説明しておく。

 炉は周溝を基準にすると、わずかだが入口部の方向へ寄せている傾向にある。そのことを考えたとき、炉の南西に形成されている54cm×76cm、深さ10cmほどの楕円形の浅い窪み(11)が気がかりになってくる(上段写真窪み)

 この窪みは掘られたものではなく、頻繁な踏み込みで作り出されたように観察されるが、埋甕と炉の間に位置していることから、埋甕との某かの関係をもっていたことが印象づけられてくる。

 炉位置は、通常広い作業空間を入口部の方向へとるため、反対側へ寄せているが、この場合はその意識が逆に働いており、埋甕窪み炉が一連の関係の上に位置設定されているように思えてならない。

 つまり、土器を寄り添わせて埋設した、28ab号土坑の周囲に検出された窪みと同種の、踏み込み的な痕跡として理解することもできる。

 それが事実とするなら、この住居構造の設定にかんし、当初から埋甕の存在が重視されていたということになる。

 さらにこの埋甕は、底を欠損して埋め込まれていることから貯蔵目的で埋設されていたとは思えず、それが祭祀的な意味をもっていたとすれば、住居設定段階からそれを黙示して造られた住居という可能性が引き出されてくる。

 炉は外周に十二個の川原石を配した円形の石組み炉で、床から22cm掘込まれた中に、口縁部を変則的に欠損する土器が埋設されている。土器の型式は加曽利E・式。なお、割れ口には成形時の粘土の接合をよくするための刻みが残されている。

 各々の石は被熱により赤変しており、炉壁全面にロームの焼土化が認められるが、とくに底と西側の側壁に高熱の生じている状態が観察され、東側入口部から進入する外気で、炉火が日常的に西側へあおられる状態がつくり出されていたことを想像させる。

 埋設された土器の内側には、小動物がかじりついたような著しい削痕が認められ、他住居同様、墓坑にともなう伏甕の二次利用という可能性をはらんでいる。

土器を埋設した二つのピット

 3号住居跡をはさみ西側と北東側から土器を埋設した二つのピットが検出されているが、この節はその調査がテーマとなる。

 この二つの遺構は、耕作による破壊を受けつつも、かろうじて畑の畝に残されたものである。

 前述した大小の埋設土器を重ねた28ab号土坑との類似性から、29号・30号も土坑としたが、これら四例は土器だけの容量を埋設するために掘られたピットで、一次調査区の20号ピットと同種の遺構である。

 ここではまず、3号住居跡西側に検出された29号土坑から見ていくことにする。

 この土坑は径四十八センチの穴に、正位で甕形土器を単独に埋設した遺構である。

 土器は加曽利EV式。無文帯を作り出した「ハ」状に開く口縁は平らで、球形に張り出す胴部上半には縄文地の上に二条の平行する粘土紐が巡り、上の紐には円や逆「C」字形の文様が四箇所に加えられている。なお、内面に削痕は認められない。

 検出状態は、胴上半部以上が下へ押し潰れ、片側胴部が外から圧されて破損し、その破片が土砂とともに内部へ進入する状況にある。

 これは、耕作機械による東からの乗り上げで生じたものと考えられ、当初は原形を保つままに埋設されていたことは確かである。

 上部が破壊されているため、遺構自体の深さは不明だが、埋設されていた土器が三十二センチの高さに復元されたことから、元々の遺構自体の深さも四、五十センチはあったように思える。

 土器の内部からは異個体の土器小片が数点出土しているが、これらはいずれも表土層から流入したもので、本遺構にともなうものは礫に至るまで一切検出されていない。

 次に30号土坑であるが、ここでは次頁上写真に見るごとくに埋設土器の大半の破片が乱れている。

 この状態から察するところ、原因は自動耕耘機のロータリー部分に巻き込まれ、撹拌されたことによるものと思われる。

 横断面の上右側写真矢印で示した土器の出土状態で明らかなように、破片が中央に「V」字形に押し込まれていることからみて、この部分でロータリーの刃部が遺構自体の底を掘り抜いたものと推察され、本来の底は次頁右側写真右脇に添えた白線の位置だったように見受けられる。

 土器の1(次頁左端1)は正位で埋設されており、器種は異なるが、29号土坑と同じ加曽利E・式に属するものである。胴下半部しか残されていないが、それから推定される高さは五十センチ前後を測る。

 ここで問題視されるのが、北側の縁から出土している土器2(上図拓本2)の口縁部破片である。疑問は、本体の土器の蓋の残存ではないかということである。

 この土器は口を下にして出土しているが、出土位置については攪乱後の状態と判断される。それは両土器とも推定される口径が三十九センチ、両者に大小があっても三センチ以内の幅にはおさまることからみて、出土位置があまりにも下過ぎることによる。

 では、なぜ蓋の可能性があるかというと、この土器の器形と文様の特殊性にある。同系の土器と比較した場合、地に縄文を用いていないこと、また上下方向の湾曲率の高いことが指摘できる。

 上図2の拓本断面ではさほど感じ取れないが、実は口縁部に歪みのあることも想定され、その場合は断面の下方が左方向に入り込んでいくことになる。そうするとこの湾曲は土器の内側へ急激に傾斜することとなり、かさの浅い鉢形のフォームが見えてくる。

 線のみを強調した文様も、蓋という特殊性に付随した文様なのであろうか?

 想定される土器自体の類例を待たなければならないが、こうしたことの背景には、28a号土坑埋設土器の内部から検出された、底径の広い蓋様の土器片の存在がかかわっている。

 そのことをさらにイメージしていくと、この時期の土器の多くが、突起をもたない平らな口のつくりになっていることも気がかりになってくる。しかも先の29号土坑から出土した土器の系統は口の無文帯をよほど強調した器種なのである。

 こうした土器が正位で、何かを入れて埋設されていたとすれば、そこには当然として蓋の存在が浮かび上がってくる。1号住居跡の埋設土器に限れば、それは時のなかで消失する革であろうか、28a号土坑では鉢形の土器か、それに重なるb号は石であろうか。

 わからぬままに、本節も通過しなければならない。


[4ab 号住居跡から]

二つの床に残されたもの

    完掘     床面検出段階   確認段階

4a号住居炉 炉底被熱面      検出状態

 4 号は、耕作にともなう溝掘りで上位のほとんどが破壊されていた。

 遺構確認の段階で、溝内の攪乱土をすべて取り除いた状態が上写真右であるが、床が部分的に現れている箇所もあり保存状態は劣悪であった。

 こうした状況のなかから現れたのは、「8」字形に重なる二基の住居跡で、幸いなことに床面にいたる攪乱は寸止めの状態で止められていた。

 南北に連なる二基の住居跡は、南側をa 号、北側をb 号としたが、後者には周溝が併設されており、それが前者の床を切って構築されていることから、南側のa 号が古く、北側のb 号が新しい段階の住居跡であることが判明している。

 わずかに残された埋没土中からの遺物は、両住居跡ともに加曽利Eさん〜・初頭の型式で、遺物からでは年代差を割り出すことは困難なほどに時期が近接している。

 ここからは南側の古い段階のa 号から、住居構造を見ていくことにする。

 この住居跡には、九個の礫を円形に配した石組炉が設置されているが、その位置は3 号住居跡に同じく、入口の存在する東側へ若干寄る特異なあり方を見せている。

 炉は、内部に基盤のロームの焼土化がみられ、次頁上段の炉断面写真のように、底では被熱によるロームの変成が深さ八センチにまで到達しており、恒常的にかなりの火力の出されていたことを知ることができる。

 このことは本住居跡に限られたことではないが、野塩外山遺跡および野塩前原遺跡とは明らかに異なっている。これらの遺跡では住居廃絶にともなう焼土の掻き出しが想定されているが、そのことを考慮しても、本区域内に所在する住居跡の炉状態は、それらを大幅に上回る高温被熱の状態を示している。

 あるいは、このことも墓域に展開する住居の特性としてとらえることができるのであろうか。この問題の先には、日常的な世界とは異なる、火の介在する儀式的なものの存在が見え隠れしているように思えてならない。

 ここからは住居構造に入る。

 床から検出した柱穴のうち、深いものを抽出すると、

   4 66cm     8 68cm

   13 79cm    17 74cm

 配置からも、この四本が主柱であることは明らかで、東壁直下から1(次頁図中1)とした梯子を固定する三つ組みのピットが検出されていることから、4 ―17 間の梁から東へ入口部の庇枠木の出されていたことがわかる。

 ここで注意されるのが18 19 である。二つのピットは

   18 ・径4.5cm 深さ28cm 角度49

   19 ・径5.0cm 深さ28cm 角度49

と、きわめて似ているのである。しかも、ほぼ同じ方位をとり、東へ出されている。

 これをたどっていくと、それぞれ想定される入口庇の枠木左右の先端へ向かう。その位置から割り出される床からの高さは一・六メートルほどに想定されるが、これに伏甕をともなう4b 号住居跡西側に所在する32 号土坑および南東側の29 号土坑、3 号住居跡の残存状況から推測される当時の地表位置を加味すると、庇先端の、言い換えれば間口の高さはおおよそ一メートル三十センチほどは確保されていたことになる。

 この斜めに庇枠木を押さえる構造は、今までになかった手法であるが、近年調査した野塩前原北遺跡の勝坂期の住居跡に確認することができた。

 どういう構造かというと、この斜め材の途中に逆方向からつっかえ棒を入れて固定し、庇枠木を斜めから支える構造をしていたものと考えられる。

 以上が、主柱配置と入口部の構造であるが、このことから類推される屋根組みは、垂木頂部が一点に結束するものである。

 この構造には、屋根縁の平面形に二通りの解釈が必要で、頂部の結束点から放射状に斜行する各々の垂木が、主柱に組み上げられた梁に固定されていたとすれば、隅の丸い方形。また、四本の主柱のみ固定され、他の垂木が梁から浮いた状態であれば、円形を想定することができる。

 そこで注視されるのが、補助的にいれられたと思われる支柱の痕跡である。

 今度は、それらを抽出してみると、その多くが推定される上屋頂部を中心点として、主柱をわずかに超える位置で引いた円の線上に見事に一致していることに気付く(上図波線上の灰色で示した支柱痕群)

 要所要所の垂木に、垂直の支柱が入れられているのであるが(前頁図中3・5・7・11 12 1415 )、この現象は明らかに先の後者、つまり屋根縁を円形に造り出すために浮かせたことで生じた、垂木の反りを補正する目的で設定されていたとみて、まず間違いはなかろう。したがってこの現象から、屋根形は円錐形、という答えが返ってきた。

 これらの支柱群が早い時期に設置されたためか、構造上の致命的な弱体化の痕跡は、この住居跡には確認されない。

 わずかに観察されるのは、主柱4 に劣化が生じ、添え柱が設けられていたらしいこと、また主柱8 にも根腐れが生じていたらしく、8 ―13 間北寄りの梁下へ沈下防止の支えが入れられていることである。

 こうした状態は、通常は主原因に連動した上屋のねじれや傾斜として、複数の補助柱の設置として現れてくるので、この関係から逆類推して主原因を特定していくことができるのであるが、ここでは連動する関係が希薄なために、上屋弱体化の過程を強く打ち出すことができない。

 それは先に見てきた、垂木支えの支柱群の存在によるものと判断される。しかし、まったく手がかりがないわけではない。

 主柱の土層断面を注意深く観察していくと8 以外には上部の側壁側にローム質の土が堆積しており、中央部に黒色土系の土が見られる。この状態は、主柱が少なくも埋設部分においては残された状態で住居が廃絶されていたことを物語っており、柱の掘り抜かれた状態とは明らかな異なりを見せている。

 主柱4 に添え柱の可能性のあるピットが検出されていること、そして、主柱8 南側に梁支え。

 これらから透視されてくる本住居跡の上屋最終段階の様相は、垂木の支柱群により、ねじれや傾きを防がれながらも、各主柱の根腐れの進行した状態ということになる。

 次に4b 号住居跡へ移る。

 この住居跡は4a 号を切っているので、それより新しい時期の住居であることは述べた。保存状態は床面がかろうじて残されるていどで劣悪。埋没土の遺物出土状態にかんしても、わずかに残されている遺物がどこまで攪乱の影響をまぬがれているか不明なため、説明を省く。

 ただ、出土している土器の型式は、加曽利Eさん〜・初頭で、実測の対象となりえるものは上段左下に示した・初頭の口縁部接合片のみである。

 住居跡の構造は、幅広の周溝をともない、南西側の周溝内には012 とした梯子固定の三つ組みのピットが検出されたことから、この方向に入口部の設定されていたことが知られる。

 炉は、ここでも他遺跡と異なる位置設定がなされ、入口方向に近い西側へ寄せられている。

 炉の形態は大形土器を埋設した埋甕炉であるが、2 号住居跡の炉に見られたように、同一個体の胴部下半の破片が南側の炉縁床上に文様を上にして敷き詰めるような状態で検出されている(上写真)

 ここで敷き詰めるように、と表現したのは、取り上げのさいに、この部分の床が土器片のくい込みで雌型のようにくっきりとした痕跡をとどめていたことによる。

 なお、炉縁の台として使用されたことも考えられるが、土器表面に摩耗は観察できなかった。

 埋設された土器には、内面に著しい削痕が認められるが、これは通常の被熱風化とは異なるもので、小動物のかじり付きによるものと思われるが、同一個体の炉縁に敷かれた土器にはそれが認められていない。

 あるいは炉において、埋設土器に獣脂等が含浸する状況がつくり出されていたのであろうか?

 この炉体土器は上段左上に図示したもので、型式は加曽利Eさん式。

 口縁部を欠き、耕作で破壊されたことも考えられるが、接合する破片が一切検出されておらず、3 号住居跡の炉体土器とともに、使用中の破損とみるべきか、すでに破損していた土器を再利用したと考えるべきか推量の分かれるところである。

 住居自体の構造は、検出されたピットが深さ10cm に満たない浅いものばかりで、配置も変則的なため、構造復元にいたる検証精度が著しく低まることを覚悟しなければならない。

 主柱の抽出にさいしては、深さは基準にならない。そのことは一方で、主柱が床に直置きであったことを憶測させるもので、その痕跡が浅いピットとして現れているように考えられてくる。

 このことを考慮して配置に眼を向けていくと、炉西側で013 ―014 ―016 が直角に構成されていることに気付く。 間隔は40cm 以下と短いが、形の構成は図形状のある角を表している可能性が問われてくる。この場合は距離が短いために、主柱と梁支えという関係が指摘できるのであるが、その二辺の方向を延長していくと1.7m 前後の距離をおき、各々011 01 のピットに到達する。

 つまり013 ―014 ―016 は、住居跡範囲における最大距離で、さらに011 ―014 ―01 という構成へ拡大されているのである。

 この関係に妥当性があるのは、想定される北梁011 ―014 の中間点を通る垂木位置に、それを支えたと思われる012 が設定されていることが傍証となる。

 この三本をつなぐ三角の図形を東南側へ折り返すと、014 に対応する頂点に04 が現れてくる。したがって、主柱配置に011 ―014 ―01 ―04 という構成が割り出されてくるが、これにおいても、北東梁の中間点を通る垂木支え06 を見い出すことができる。

 このことから類推される上屋組みは、垂木頂部が炉東端上空で一点に結束するもので、4a 号と同形態を想定することができる。

 ただし入口部は、三つ組みのピットの存在から、南西梁の南隅に設けられている。

 この住居跡にも、今まで述べてきたように、梁や垂木支えの支柱が検出されていることから、当然上屋構造の弱体化は起きている。しかし、主柱自体が床に直置きに近い状態で、柱穴内の土層観察による柱の劣化の想定等ができないために状況把握が充分にできていない。

 炉と、そこに残されていた痕跡からは、住居としての存在感をことのほか強く心象に訴えかけてくるのだが、

想定される住居の構造は、それとはまったく反対の方向を指向している。

 これはどうしたことなのか?

 このアンバランスさの中に、墓域に展開する住居と、そこに設けられた炉の使われ方を解く鍵が潜んでいるように思えてくる。

重なる土坑墓の謎

 遺構確認の段階で、4b 号住居跡の西壁上に二個体の土器が検出されていた。

左土器内面の削痕跡

 攪乱の影響を受け、残存部が浅く、周溝上に築かれているうえに二基が重なりをもつ、という複雑さから確認に手間取っていたが、この二個体の土器は土坑にともなう伏甕であることが確認された。

 その土坑を32a b 号と名付けたが、切り合い関係から、住居埋没後に伏甕をともなう北側のa 号が構築され、さらに時をおいて、これも伏甕をともない南側のb 号が浅い位置に重ねつくられていることが判明した。

 a 号の残存深度は36cm ほどであったが、当初は70cm はあったものと思われ、伏甕はその底から15cm ていど上から出土している。

 土器の型式は加曽利E・式の初頭で、この土器にも内面に小動物がかじりついたような削痕が観察される。

 これに対し、b 号は明らかに重ねる意図をもって構築されており、その底はa 号の底面から25cm ほど浅い位置に設定されている。

 この関係は、大形の土坑はともなっていないものの、その性格において28 号土坑の埋設土器a b の関係に類似し、寄り添わせる意識の働いていたことを想起させる。

 しかもこの土器は、簡略化されてはいるが、28b 号土坑の土器の文様に非常に近い構成を見せているのである。もちろん内面には削痕が残されている。

 こうした情景を目の当たりにするにつけ、あることが気になりだしてくる。それはこれらの土坑が、住居周溝の埋没後に構築されていることは確かだが、この状態の悪い場所になぜ構築しているのかという疑問である。それも二基を重ね合わせ。

 さて、ここに現れてきた問題、このような問題に直面したとき、私がどのように考えていくか、という発想の原点をここに明らかにしておくことにする。

 誰もが、何処かで経験していることだが、壁の塗装の剥がれや天井の浸みなど、何となく見ているうちにある形を連想することがある。幼い子であれば、それは雲の形からの連想に代表されようが、そのようにすべての前触れ的な知識を遮断し、まっさらな状態で見た現象像をつくり上げ、それと行きづまった時点での現象像と二項対立させながら、問題点を際立たせていくのである。

 もちろん前者の現象は、後者のように事実か否かを問のではなく、いわば自分という個の抱く心象の自由な広がりを対局において事象をネガティブに比較していくのである。

 この方法によって、見過ごしていた思わぬ現象を抽出することができ、たとえ本筋の問題が解決されなくとも解析の精度は著しく高まるのである。

 こうして心象側の現象像として浮かび上がってきたのが、二つの土坑が住居に併設されていた可能性はまったくないのかという問題である。

 確かに周溝が埋没してからの構築であるから時期は段階を踏んでいる。しかし、当初からa 号土坑の併設を目的としていたことも想定されてくる。それは、土坑構築当初から埋没する状態はつくりだされていなかった、というわずかな可能性からはじまる。

 説明が複雑になるので、下表を見ながら追ってきていただきたいが、Aケースとしたのがこうした場合の通常の解釈である。

Aケース 住居構築                  住居廃絶 a号土坑構築  b号土坑構築

Bケース 住居構築 a号土坑構築  b号土坑構築  住居廃絶

Cケース 住居構築 a号土坑構築         住居廃絶 b号土坑構築 

 ここで問題視するのはB系の住居存続期間中に土坑が併存していないかということであるが、心象側の現象像の問題であるから、逸脱しない限り、想像たくましく自由に復元していくことにする。

 まず、伏甕をもつことから、この土坑を墓とみることは考古学的には何の支障もない。すべてはここからはじまるが、考えていく方向はB系である。

 この家に墓を重ねていることからすれば、当然住人であったことが類推されてくるが、死した直後の遺体を安置するための土坑を、住居西壁を掘り広げ、床より下げた状態で構築。

 この段階では、古代的な意識においては、遺体に対して「死」は断定されていなかったものと考えられ、土盛りや伏甕はなされていない。

 儀式的なものが介在する、その蘇りを待つ期間を経て遺体の腐敗は進行する。

 彼らの目にするものは恐ろしく変質していく屍。それはまさに古事記、日本書紀にとどめられた、泉津平坂を超えた黄泉の国でイザナギが体験する世界であったはず。ここでしばらくその意識をたどり見ることにする。

黄泉の国の食べ物を食べたイギナミは、すでにイザナギとともに現実世界へ戻れる身ではないことを告げる

 食べることについては、古来より祭りの後におこなわれる直会が知られるが、それは祭りの状態から日常生活へ戻る儀式ではない。古くはナムリアヒと言われ、神と人がともに食しあうことで一体となる儀式自体をさし、その共食する行為が副次的なものではなかった。

 イザナミはすでに黄泉戸喫をしたことにより、死の国の一員となってしまっていたのである。

一目見んと、闇の中でイザナギは爪櫛の端の太い歯を欠き火をともす

 櫛は、逃げ帰るときに投げると筍になるというのであるから、ここでイメージされているのは竹製の櫛でなければならない。

 ところが、古代の櫛に竹製の櫛は見あたらないのである。竹製の櫛が知られているのは、縄文時代の後・晩期まで遡らなければならず、どうもこの箇所の描写には、相当古くから語り継がれてきた物語が下敷きになっていることが考えられるのである。

 こうした竹製の櫛は、漆塗りのものが埼玉県の寿能遺跡や後谷遺跡からも出土している。

灯火にうつし出されたイザナミは、膿が流れ、蛆がわく姿

 まさにこの描写は、死体が腐敗していく情景そのままであるが、この状態を野ざらしの状態とすれば、そこからやがては草や実のなる木も生えてくる。

 これは、死体から栽培植物が生まれたという、世界各地に広がりをもつ死体化生(ハイヌヴェレ)型の起源神話の情景でもある。

 なお、この物語の前段にはイザナミが火の神カグツチを生むために熱に苦しみ、嘔吐金山彦=鉱山の神、小便罔象女=水の神、大便埴山姫=土の神を生むが、『延喜式』の「鎮火祭の祝詞」では火の神との化生順が逆転し、イザナミが火の神の後に水神、匏、川菜、埴山姫を生み、心悪しき子である火の神が暴れたならば、水の神はひしゃくで、埴山姫は水苔をもって鎮めることを教えている。

 女の体内から火が生まれるという神話も、世界各地に分布している。それは子を生むための赤を排出することによるものであろうが、だからこそ、火はアイヌ民族にもみられる炉火のように、女性の系統へ受け継がれることの意味が存在している。

 ここに登場する土の神の埴山姫。それは埴師という古代の職名に込められたように、単なる土ではなく、焼き物という文化神をあらわす。

 それはまさに、火から生まれることにより、火に耐えうる性格をもっていることになるが、その強められた関係において、本住居の炉とともに、かつて野塩外山遺跡のなかで問題にした、石組の中に、なぜ炉縁を二重にしてまでも土器を設置するのか、という疑問も、その指向する方向が見えてきたような気がする。

 火とそれを防ぐ循環を生み出した神イザナミ。それは男性性をも含みもつ太母、言い換えれば地母神としての姿が投影されてくる。

 女性、それは女でありながら異系の男をも生み出すことができる不思議さ。火に象徴される赤を排出し、水も、焼き物と穀物に化生する埴をも生み出すことのできる女性。それは太母そのものの姿でもあり、神との食を分かち合える唯一の存在であったようにも思えてくる。

 埴と穀物の関係は、火の神カクツチがハニヤマヒメと結婚しワクムスビを生むことによるが、このワクムスビの頭から蚕と桑が、また臍から五穀が生まれる。

 それらからイメージされる原初の姿は、この物語の「膿が流れ、蛆がわく」後に生ずる、白骨化した屍からの大地の恵みの情景ではなかったか。

 物語はさらにつづく。

イザナミは蛆のたかるなか、頭には大雷、胸に火の雷、腹に黒雷、陰に拆雷、左の手に若雷、右の手に土雷、左の足に鳴雷、右の足に伏雷、八つの雷神が生じていた

 この描写も、竹の櫛と同じく、かなり古くから地方に伝えられていた死者のイメージではないかと考える。

 縄文時代の土偶には土器の文様に登場するモチーフが取り入れられているが、なかでも渦巻き形の文様には主題となりうる某かの強いイメージが込められていることは、誰も否定はしないであろう。

 この文様は土偶にも頻繁に用いられており、上段の写真に示したものにも認められる。この場合渦巻きは単なる文様構成上のアクセントとして配置されてはいない。

 人間の機能を介して主題的に各部へ配置されており、いかにも先の『古事記』の描写のような配置を見せている。

 そこで、渦巻きにはどのようなイメージが存在しているのかということが問題になってくる。

 漢字の語源的な成り立ちのなかから、古代の人々の生活を解き明かそうとする白川静氏の研究にもとづくと、先の描写に登場する雷の字形は、中国漢の時代の『説文解字』を引用し回転の形に象り、天地引用の気が相触れて、轟音を発するのであるとする。



漢字の源流と平城宮出土隼人楯

  

土偶(群馬県郷原遺跡出土) 

        土偶(岩手県長倉出土)

 さらに電は雨と申とにしたがい、申は電光の走る形。申はこの電光で、天神の現れる姿と考えられていたとし、神の古い字形であるとする。

 まさに、稲光、縄文時代であれば「稲」は適切ではないのでここでは閃光に改めるが、それをともない、大地をとどろかす轟音は神の言葉に他ならなかったことであろう。

 人が発する言葉も、本来神の啓示を伝えるものとして感得されていたことから、神主の唱える「〜申す」という言葉も、神そのものの言葉なのである。

 上段に挙げた古代の楯の文様も、そうしたことから見れば、激しく上下する鋸歯の結界を配した内に神そのものを描き、その偉大なる神威をもって魔を塞がんとする意匠であることを知ることができる。

 これをもって古代中国思想の影響として、すべてを見ることはできない。

 こうした文字の原初の字形が、ものや姿を写し取る象形からはじめられていることは、発音文字としての規制はたわみ、そのもの自体の意味の広がりが問われてくる。類似した環境世界を保有するなかでは、Xbar理論の素材となりうるような普遍文法的な要素をもつことが指摘できる。

 岩手県長倉出土の土偶、ここにも子を宿す位置に陰陽的な絡み合う渦が描かれ、胸や腕にも線引きの渦が認められる。

 黄泉の国に向かい、そこへとどまる者は、蛆たかる変節する姿をとおし、八雷寄りつく神の一員としての形態をなすものか。

 これがわれわれの知ることのできる、もっとも古い段階の死のイメージであるが、いままで見てきたように、そのなかには確実に縄文時代までさかのぼりえる要素が見え隠れしている。

 その死に直面する状況が、この4b 号住居跡と32 号土坑の間に存在していたとするなら、この残された者たちの死のさまよいのなかでは、伏甕も、土盛りも、なされてはいなかったはずである。

 死をしっかりと認識することによる遺体との決別は、蛆を生みだし、遺体が腐乱し、人の骨格が見え隠れする段階。その時点で住居の廃絶をともなう埋葬の状態がつくりだされたとしても、この現象理解に不都合はない。

 先のBとBケースの違いは、住居を、前者が殯屋として継続して使われる場合と、後者がある特定の場合のみ使用されることを想定したものだが、それには次のことが背景にある。

 アイヌ民族には炉火を継承する老女に死が近づくと小さな小屋を建てて移り住み、死んで埋葬されると幾ばくかの家財とともに家を焼く風習があったという。女は家を造ることができないからあの世へ持っていかせるとも、戻れないようにするとも言われるのであるが、これに近い意識があったとするなら、同一住居の構成員のなかで、火や家の継承権を有する者のみが家の廃絶と関係していることも想定されるからである。

 残存状態が悪く何とも言えないが、4a 号住居跡東側および、後に述べる5 号住居跡東側の壁上に並列する二基の土坑様の痕跡、なかでもこの5 号の事例は本住居跡に重なる事例に近似した様相をもち、注意される。

 今までの事例を整理していくと、

  ・伏甕をともなうものと、ともなわない土坑。

  ・単独の土器が、伏せて埋設されるものと、正位の   もの。さらにそれらが、住居内に埋設される場合    と、戸外のもの。

  ・可能性として、住居をともなうものと、そうでな   いもの。

 それらに、単独と添わせるような状態がつくり出され、現象はますます複雑さを極める。

 ただ、今言えるのは、この加曽利Eさん〜・式期に死のあり方に対する複雑な意識が生み出されていたこと。そして、住居内埋設土器以外に何も具体的な現象を見せない前時期にこそ、それへつづく複雑な意識世界が、土器文様として描出されていることである。




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   執筆・編集
       清瀬市郷土博物館
        学芸員 内田祐治

 制作    2005年3月
 
 歴史読本
【幕末編】
多摩の江戸時代の名主が書き残した「日記」や
「御用留」を再構成し、小説の手法をもって時代
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